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     夜のとばりが覆いはじめる
     フォアメッリの野の死者たちの上に
     勇敢に 巧みに剣をあやつり
     戦った忠義の男たちよ
     今は嘆こうともそれは長くは続かぬ
     かつてより止まぬ雨 明けぬ夜はなく
     終わらぬ戦も無いのだ
              ――《武勲の歌》より




     第二楽章 グレインズの戦い(二)




 しばらくどちらからもこれといった動きの無い膠着状態が続いた。その均衡を破ったのはペルジア側だった。全くといっていいほど動かなかった数十人ほどの一群が突然、のろのろとした動きで前進を始めた。
 しかし全員剣を抜いたり、矢をつがえたりしているわけではなく、ただこちらに用があるのだ、というように進んでくる。戦闘態勢のようではないので、あるいは投降兵ということも考えられる。それでなくとも相手の出方が判るまで手出しをしてはならぬと言い渡されているので、メビウス軍はただそれを見守っていた。
「なんだか気味が悪いな……」
 アルドゥインの隣の男が呟いたのも無理は無かった。かれらは何か生気の無い、ぎくしゃくとした機械仕掛けのような動きをしていた。近づいてくるにつれ、彼らの鎧がペルジア正規軍のそれであることが分かった。メビウスの防衛線まであと残すところ二十バールも無い。
 すでに日は落ちかけ、両軍の陣ではかがり火が焚かれはじめている。不気味な一団の姿も闇にまぎれかけている。このまま夜いくさとなれば、月は新月に近くて明かりとしてほとんど役に立たぬ時期であること、敵も味方も判然としなくなってしまうだろう。
 一団の先頭に立っていた兵士がぴたりと停まって腰の剣を抜いた。それに続いて、後続も次々にみずからの剣を抜く。攻撃を告げる鬨の声もなく、彼らは歩き出したときと同じように前触れも無く前線に向かって走り出した。
「射撃用意!」
 指揮官の声が響く。さっと矢をつがえた部隊が楯の後列に現れ、指揮官の合図で一斉に射撃を始めた。このような暗がりのさなかであるから、どれが当たってどれが外れたなど正確なことはわからない。鉄製の鎧であるから鏃が刺さらぬこともあるだろうが、彼らは一向にひるむことなく前進を続けた。
「射ち方、止め! ヌンティウス隊、前へ!」
 楯を構えていた一列が動き出す。アルドゥインの隣にいた男もその命令で走り出ていった。自分はどうしたらいいのかと一瞬アルドゥインは戸惑ったが、前線のこの混乱状態を抜けて後列まで戻るのは至難の業と見えた。だからといって飛び出していくのはリュシアンの命令に反する。
(先走った行動はできないな)
 迷ったが、アルドゥインはその場にとどまって、戦況を見定めようと再び眉を寄せるようにして目を凝らした。敵は多く見積もっても五十人か六十人程度。勝負はすぐにつくかと思われた。その中で最初の恐慌がどこから始まったのか、定かではなかった。
 白兵戦ともなれば当然お互いの軍に特有の鼓舞の叫びなどが聞こえてくるものだが、このペルジア軍からは全く聞こえてこなかった。そのためにメビウス軍も気勢をそがれたことは間違いない。
「何だ、こいつら!」
悲鳴のような叫びがどこからか上がった。
「何でまだ生きてるんだよ!」
 その声を皮切りに、あちこちで似たような叫びがあがった。様子がおかしいということが見守っていた方にも遅ればせながら伝わってきた。視界を遮る面頬をはね除けて、ほとんど睨むような顔で戦いを見ていたアルドゥインにも事情がやっと飲み込めた。
「なんてこった……」
 思わず、彼は思ったままを口に出してしまっていた。彼の目に映ったのは、暗がりの中で剣を振っているペルジア兵の姿であった。その姿を異様なものにしてしまっている原因――その兵士の首から上には、あるはずの頭がすでに失われていた。
 同じような姿が恐慌を起こして闇雲に剣を振るっているメビウス兵の合間にいくつも見られた。アルドゥインが最初に見つけた兵士は、頭を切り落とされてもまるで何事も無かったかのように淡々と戦いつづけていた。同じように、腕を切り落とされ、雪の上に倒れても再び立ち上がり、肘から先を失った腕を持ち上げて迫ってくるのだ。
 それは自らが死んだことにも気づかず、永遠に戦い続けているという伝説のギラウトとソラヌスたちが現れたかのような――亡者の軍勢だった。メビウス兵の鼓舞の声はいまや恐怖の叫びにとって代わられていた。逃げ出そうとする者に、もう少しは勇気が残っている者が叱咤する。
「戦え! もうこいつらは人間じゃない! 完全に死なせてやるんだ!」
 切っても切っても立ち上がって向かってくるペルジア兵に、やっと一人が解決方法を見つけた。ぞっとするようなことであったが、とにかく立ち上がることができなくなるまで相手を切りつける、それしかなかった。
 切っても死なないペルジア兵――あるいは動き続ける死体との、果てがないかとも思われた戦いは、しかしやがてメビウス側の優勢となった。彼らは、きちんと死なせてやらなければ相手の魂が救われないという思いで恐怖を何とか押しやり、その場に踏みとどまったのである。
 もう、鬨の声をあげる者もいない。再び吹雪になる気配を見せはじめた野に、剣と剣のぶつかり合う鋼の音と、雪の上に体が倒れ伏す音、斬りつけられた肉の音だけが、離れていたにもかかわらずはっきりと聞こえた。
 もともと小勢であったこともあり、半刻が過ぎたころにやっと全てのペルジア兵たちが動かなくなった。新たな戦力が送り込まれてくる気配もなく、退却命令のラッパが吹き鳴らされた。その合図を待っていたかのように、ヌンティウス隊は疲れきった様子で陣に戻ってきた。
 彼らが引き上げてくると、ただちに将軍の幕屋で軍議が招集された。アルドゥインもやっと戻る機会を見つけて、自分の隊に戻れという命令はまだなかったので、一足先にリュシアンのもとに戻った。もしかしたら、戦いの一部始終を見ていたことを咎められるかもしれなかったが、目にしたものの衝撃で、あまり気にならなかった。
「ただいま戻りました、閣下」
 昨日の夜にもそうだったように、リュシアンは難しい顔でストーブの前に座っていた。ちょっと顔を上げてアルドゥインを見たが、別段彼がすぐに戻らなかったことを咎めるようではなかった。
「全て見届けたか」
「はい」
 そうか、と呟いてリュシアンは頷いた。次に何を言うのかとアルドゥインは待っていたが、その前に召集を受けた隊長たちが次々に入ってきた。アルドゥインは小姓たちが彼らのための床几を並べるのを手伝ってから出て行こうとしたが、リュシアンにここにいるようにと言われて彼の後ろに立った。
「全て揃ったな。では始めよう。被害報告を」
 隊長たちを眺め渡し、リュシアンは重々しく告げた。戦いに出たヌンティウスが立ち上がった。ランプで照らされた暗い幕屋の中で、その赤っぽい光を受けて輝くような彼の金髪が印象的だった。
「申し上げます。一番隊ヌンティウス隊、軽傷者五名であります。重傷者、死者ともにありませぬ」
「それは良かった」
 戦いの間に日はすっかり暮れ、夜になってしまっている。その中で、しかも恐慌状態の中にあって誰も死なずに済んだというのは奇跡的なことであった。その報告に、リュシアンも胸を撫で下ろしたようだった。
「では――」
 リュシアンがゆっくりと言うと、はっと全員が身構えた。
「敵の数は」
「後ほど数えましたところ、五十六名でした」
「ペルジア軍の編成は百人単位と聞き及んでいる。五十六では少なすぎるな。本当にペルジア兵だったのか」
「旗印を立ててはおりませんでしたが、いずれもペルジア正規軍の鎧かぶとをまとっており、ペルジア軍籍にあるものとみて間違いないものと思われます」
 ヌンティウスはやや青ざめた面持ちで報告を続けた。
「戦闘態勢もとらず二十バールまで接近してきたため、投降兵ということも考えられ、攻撃は差し控えておりましたところ、剣を抜いて突撃してきたため、矢にて応戦。しかしながら効果は無かったため、白兵戦に持ち込みましたところ……」
 その先こそが、皆が一番興味を引かれていることだった。ヌンティウスの顔はますます青ざめていた。普通の人間が相手ならばいくらでも勇敢になれようが、相手がこの世のものならざるものであればその勇気にも翳りがさすというものだった。
「……相手は、首を飛ばされても一向に倒れる様子はなく、何度切りつけても再び立ち上がり、向かってくるのです。動かぬようになるまで切るよりほかに止める術はございませんでした」
 大抵のものがもうこの恐るべき兵士たちについての情報を何らかの形で聞いたりしていただろうが、それでも当事者としてそれと戦ったヌンティウスの口から報告の形で出たとき、彼らはざわめいた。
「ヌンティウス、そなたはその軍勢を何と見る」
 その中で、リュシアンの声だけが平静だった。
「はい。……あの兵士たちは、最初から死んでいたのだと思います。私が最初に倒した者は、まだ刃も交えぬうちから刀傷を負っておりましたから……。おそらくは一昨日の戦闘での死者ではないかと」
 ざわめきはさらに大きくなった。
「アヴァールの森にはゾンビーがいるということか」
 ゾンビーは生ける屍であり、人のあまり通わぬ道や、墓所などに姿を見せる。きちんと埋葬されぬ人間の死体に悪魔が乗り移るのだ、と言われているが、確かなことは誰にも判らなかった。かれらはおのれが死んだことに気づかぬ死体であり、人との交わりを求める穏やかなものから、ただ飢餓という本能だけで行き当たった生き物を殺してまわる凶暴なものまでさまざまである。
「ゾンビーだと」
「今までそんな話は聞いたことがない」
「静まれ。今は軍議の場ぞ」
 リュシアンが低く叱責すると、たちまちその場は静まり返った。紅玉将軍の権威というものもあっただろうが、驚きが去った後に彼らのうちに広がった恐怖も、その一端を担っていた。
 死んだはずの兵士たちが蘇って襲撃してくるのでは、いくら戦ってもきりが無い――むしろ士気を下げ、恐怖を与える点において、生きている兵士よりもたちが悪いのだということに、彼らは気づいたのである。
「相手が何であれ、早急に対策を練らなければならぬ。再び戦闘が始まった後に、同じことが起こらぬとは限らぬ。むしろ繰り返されるとみて間違いは無い」
 彼の言葉と同じ考えは、その場にいた全員の内心に隠れていたものだった。彼らは互いに顔を見合わせ、不安げな眼差しを交し合った。
「ともあれ――」
 リュシアンは重苦しくなった空気に苛立ったように咳払いをした。
「ヌンティウスが申したように、徹底的に倒すことが唯一の対処法なのだとすれば、この次奴らが現れたときにはその旨を全員によく命令すること。倒したのちは火によって清めるか、地中深く葬ってやるしかない。或いは悪魔よけのまじない、サーライナの印も効果があるかも知れぬ」
 しかし軍にはそのようなまじないに精通した魔道師などはいなかったので、具体的にどうしたらよいのかは誰にも判らなかった。ヌンティウス隊の兵士たちが見つけた最初の方法しか、彼らにできることはなかった。
「閣下、宜しいでしょうか」
 そんな中、二番隊の千騎長が手を挙げて発言を求めた。
「申してみよ、スガン」
 一礼してスガンは立ち上がった。
「これはあまり軍議の内容とは関係ないことかもしれませんが、幾つか気になることがございます」
「とは、何だ?」
 興味を惹かれたようにリュシアンは尋ねた。それは発言を続けてもよいということだったので、スガンは続けた。
「一昨日の戦闘での死者が双方ともに少なかったことは事実ですが、あれだけの数の死者が動き出せば、何らかの反応が彼らのうちにもあったはずです。ですが現れる前にも、倒された後にもペルジア軍には何の動きも見られなかった。それが気になります」
「確かに、それはそうだ」
 リュシアンならずとも、隊長たちは彼の指摘に頷いた。
「戦闘を開始するまで彼らが死者であることに気づかなかった我々はともかく、ペルジア軍は彼らが死んでいることを知っていた。それなのにまるで何事もないかのごとくにふるまうとは、解せないな。最初からこの事を見越していたかのようだ」
 思わず呟いただけであったろうが、リュシアンのこの一言に彼らはぎょっとした。メビウス人は概して神や生死に対して敬虔な人々だったし、戦友たちが悪魔と化しても平然としていられるとは、とても信じられなかった。
「もう一つ気になるのはそのことなのです、閣下」
 スガンはたたみかけた。
「ゾンビーが五十以上もいれば相手を威嚇するには充分な数です。ゾンビーどもが我が軍を目指してきたのは恐らく生前の記憶によるものでしょう。もしもペルジア軍が彼らがゾンビーと化したことを利用しようとしたのだとすればそれを前に押したて、我が軍の混乱に乗じて攻め入るということもできたはず」
「しかしそれをしなかった……」
 誰かが引き取るように呟き、スガンは頷いた。
「知らなかったなら騒いだはず、知っていたならば利用したはず。どちらに考えてもペルジア軍の動きはおかしいのです」
 スガンはそこで言葉を切り、言うべきことは終わったようで床几に掛けなおしたが、しばらく誰も口を開こうとはしなかった。
「スガンの申すことは尤もだが、この疑問は捕虜を捕らえるなり、斥候を送るなりして情報を集めなければ判らぬことだ。仕方ない。今宵の軍議はこれで終わろう。今度ゾンビーが現れた時の対処をくれぐれも徹底させることを忘れぬように。よいな」
 これ以上の軍議は堂々巡りになると考えて、リュシアンは解散を命じた。隊長たちは一様に首を傾げたり、スガンに話しかけたりしながら幕屋を出ていった。

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