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                                *



 雪に濡れでもしていたのだろう。ストーブの中で薪が爆ぜた。まめまめしく灰を掻き出しながら、アシュレーは続けた。
「閣下のおっしゃるとおりならば、アルドゥインは稀に見る逸材と申せましょうな。まこと一兵卒のまま置いておくには惜しい」
「騎士団に入団を求めてきた時の試合も見事だった。長く生きてきたが、あやつほどの使い手は初めて見た、と言ってもよいくらいだ」
「私も見てみたかったと思いますよ。そのお話は何度かうかがいましたからね。それで召し抱えることになったのでしょう」
 実際のところ、まだ一月も経っておらぬというのにさんざん聞かされて、彼としてはアルドゥインに関する情報はリュシアンの知っているかぎりのことなら何でも知っているぐらいになっていた。
「あれの頭の良さだけでも、中隊長あたりに取り立ててやってもよいかと思うが、何にせよまだ何の手柄もないものでな。せいぜいが戦死せぬようにわしの傍に置いておくぐらいしかできぬ」
「戦わねばあげられる手柄もあげられませんよ、閣下」
 いかにも心配性の親のようなことを言うリュシアンに、アシュレーは忍び笑いをもらした。自分の矛盾に気づいて、リュシアンもつられて笑った。
「おぬしの申すとおりだ。しかしな、アシュレー。わしは本当のところ、アルドゥインに限らず誰にも死なれたくないのだよ。騎士団のものたちは皆わしの子供のようなものだとわしは思っておる。殊に若い者たちはそうだ。一人一人が大切な部下であり、我が陛下の民だ。それを喜んで死地に送り出す親などおらぬ。まして、喜んで死んでいくものもおらぬだろう」
 話しているうちにリュシアンのおもてから笑みは消え、どこか苦しげで悲哀に満ちた面持ちに代わっていった。そんな将軍を、アシュレーは老いた父親を前にした息子のようないたわしげな眼差しで見つめた。実際のところ、二人のあいだにそれほど歳の差があったわけではなかったのだが。
「喜んで死に向かう兵士など、真実生きているとは申せますまい。狂っています。……このようなことは閣下にはよくご存知のことかもしれませんが、私は――ですからきっと彼らも、誰も死にたくないから、死なせたくないから戦っているのです。それでよし死んだとて、閣下のせいだとは誰も思いますまい。いくさには絶対の正義もないかわり、絶対の悪もございません」
「判っておるよ」
 低く、彼は呟いた。それから自嘲めいたものがそのおもてに浮かぶ。
「歳のせいだな。ついつい愚痴っぽくなってしまう」
「いつも若い者には負けられぬ、わしはまだ若いと仰せになるのに、そういうときばかり年のせいになさるのはよろしくない」
「おぬしは説教ぽいのがよくないぞ」
「閣下のお仕込みでございますよ」
 そう切り返されて、リュシアンは渋面を作った。
「それはそうと――冷えてまいりましたな」
 あまり深刻になりすぎては、とアシュレーは突然話題を変えて、天幕の上に小さく開いた煙出しの隙間を見上げた。彼がそちらに話を持っていったので、リュシアンも何となく気が楽になったようだった。
「うむ。もうひと雪、来るかも知れぬ。全く老骨にはこたえる寒さだ。関節など痛くなってしまう」
「でしたら酒などお持ちいたしましょうか」
 気を利かせて、アシュレーが尋ねた。また老人ぶって、とは言わなかった。実際リュシアンほどの年にもなれば、暑さ寒さが身に堪えるのは普通だったので。
「ああ――いや、書状を書き上げてからにしよう。おぬしも付き合え」
「かしこまりました。――誰かおらぬか」
 アシュレーは手を打ち鳴らして、下がらせていた小姓を呼んだ。
「タクファリナス、紙とペン一式を持ってまいれ。それからこれは後でよいが、酒の熱いのを一瓶ばかり頼む」
「ただいますぐ」
 羊皮紙とペン、インクや封蝋などが運び込まれてくると、リュシアンはさっそく、どう書こうかと考えはじめた。かれがそうして悩み始めるとけっこう長くなるので、アシュレーは少し手持ち無沙汰にしながら書き上がるのを待った。
「やはり自分の考えではないことを書くのは難儀だな」
 リュシアンは苦りきって唸った。
「では、アルドゥインに命じて書かせますか」
 また小姓を呼ぼうとしたアシュレーをリュシアンは慌てて止めた。
「よさぬか。もう帰したものを」
「さようでございますか」
 アシュレーはけろりとしたものだった。彼としては本気ではなく、冗談で言ったつもりだったようだ。そのことにリュシアンも気づいて、苦い顔をしてから渋面とも笑顔ともつかぬ表情を浮かべた。
「ところで閣下、本陣を移してはいかがと存じますが」
「何故だ?」
 尋ねられて、アシュレーは黙ったままもう一度小窓を見上げて、それからリュシアンに視線を戻した。
「天幕で何ヶ月も兵士たちを過ごさせるのはあまり得策ではございません。ことにこの寒さです。外で寝ることができないために何十人と天幕に詰め込むということになっておりますから、遅かれ早かれ苛立ちも出てまいりましょう。どんなに設備を整えても、風邪をひくものも出てまいるでしょう。それに加えて戦が長引くとなれば士気にも関わってまいります」
「それは言われずとも判っておる。だが長期戦の構えとなると兵士たちの不満も出てまいろう。おぬしはどうしようと考えているのだ?」
 アシュレーは頷いた。
「長期戦となることは、陛下から出いくさを禁じられている以上、いたしかたございません。しばらくすればペルジア側の出方が読めてまいりましょう。小さな戦闘だけを繰り返して長引かせるつもりであるようなら、最小限の人数をここに残して近隣の村に宿を借りるか、仮の砦なりを建設し、とりあえず屋根のある場所を確保してはどうかと考えております。何よりメビウスでは一番の敵は雪と寒さでございますから」
「そうだな……」
 リュシアンはしばし考え込むようだった。
「よし、それはそなたに任せる。ただしペルジアの出方次第だということは忘れぬように。決定するまでこの話を漏らすでないぞ」
「かしこまりました」
 アシュレーの答えを待たず、リュシアンは再び書状を書くのに戻った。彼の想念を乱さぬように、アシュレーもそれきり黙って書き上がるのを待った。
 一方兵士たちの天幕でも、それぞれの夜が過ぎていた。
 ほとんどの兵士たちには緘口令が布かれて、死者の襲撃という不気味な事実は隠されてただの奇襲だったということになっていたので、大した混乱も生じなかった。彼らはここ二日ほどで緩みがちだった気持ちを引き締めて歩哨に当たっていた。
 夕方過ぎから雲行きが怪しくなっていたが、サライアの刻を過ぎたあたりからぐっと冷え込んで、ふたたび雪が降り始めた。曇って月が見えぬ夜であったが、雪あかりというのだろう。ほのかな青い明るさがアヴァールの森を包んでいる。
 ここが戦場でさえなければそれはなかなか優に幻想的な光景であったのだろうが、メビウスの者にとって雪景色などは別段珍しがるものでもなく、ましてや鑑賞する対象でもありえなかったのは事実である。どのみち雪掻きをしなければならなくなるのであるから、むしろ降らないでいてくれたほうがありがたかったのだ。
「――まだ降ってるぜ」
 外を覗いた誰がが告げた。しかし天幕の中にいた二十人ほどがそれを聞いても、自分も見に行ったりだとか、驚いたりというような反応を返すことはなかった。メビウスの雪は、特に冬では一旦降りだせば数日は止まないことが多い。
「どれぐらい積もりそうだ?」
 ややあって、声がかけられた。外を覗いた者がもう一度確かめるために頭だけを天幕から出した。
「多分四十バルスは積もるんじゃないかな、このぶんじゃ」
 なかば諦めの入ったような声で、答えが返る。それを受けて、セリュンジェが立ち上がった。
「雪掻きの当番を決めておこうぜ」
 どれだけ積もるかは日によって違っていたので、雪掻きは輪番ではなくその日その日で決められていた。彼はこの天幕の中でのリーダーだったので誰も異議を唱えなかった。思い思いに家族への手紙をしたためたり、或いはゲームに興じていたりしていた兵士たちは一旦手を休めてセリュンジェの方を振り返った。
「四十バルスぐらいってんなら大体五人か六人がとこ出しておけば済むだろうから、この前のくじ引きで決めるぞ」
 セリュンジェは自分の持ち物の中から、先日も同じことで使った、手近な布を細く切って人数分だけ印をつけた即席のくじを探し当てた。引く順番までいちいち決めている暇はなかったのだ、彼の周りから先に引いていく。当たった当たらないで天幕の中はたちまち騒がしくなった。
「お前この前も当たらなかったじゃないか」
「ヤナスの運がついてるんだよ」
「雪掻きぐらいで何言ってやがる」
 ともかくも全員がくじを引き終わり、当たらなかった者は素直に喜び、当たった者は翌日の筋肉痛を思って憂鬱な気分になった。アルドゥインは当たってしまった組で、一つ大きなため息をついた。雪掻き当番が当たらないことがなかったので、それも当然と言えば当然であった。
 くじを再利用のために回収して天幕を回ってきたセリュンジェは、気の毒そうにその背中に声をかけた。
「また当たっちまったのか。くじ運がいいな」
「悪いって言うんだよ、こういうときは」
 アルドゥインはむっつりと答えた。雪掻きの憂鬱も多分にあっただろうが、その時主に彼の心を占めていたのはリュシアンに話した、この戦いの裏には魔道師の存在があるのではという一件のことであった。
 メビウスは魔道の王国クラインの盟国であるにも関わらず、それほど魔道師の存在は大きくないし、一般庶民の生活にとってはほとんど縁のない存在である。またアルドゥインの出身地である沿海州はそれ以上に魔道だとかスペルにも縁のない土地柄であった。今日の一戦だけでそこまで考えが至るものの方が少ないだろう。それだけにアルドゥインは心配だった。
(あれだけ喋らされて、もし間違っていたら大変だな。当たっていたらいたでそれもまた面倒なことになるが)
 彼はもう一度大きなため息をついた。隣にいたアロイスがそのため息を雪掻き当番のせいだと思って慰めの言葉をかけたのだが、彼は気づかなかった。それで皆は、アルドゥインにそれ以上何か言っても多分通じないだろうと諦めてしまった。
 さまざまの小さな出来事を包んで、アヴァールの夜は過ぎていった。
 その日以後はペルジア軍との小競り合いが三日に一度か二度程度あるぐらいの膠着状態が延々と続いた。年が明けての一月四日、メビウス軍は本陣をアヴァールの森の中から、ピウリという寒村に移した。
 アルドゥインの読みどおり和平交渉は決裂し、交渉に赴いた使節はイズラルの大公城に軟禁状態に置かれるという事態に至り、ここで長期戦は必至ということになった。数ヶ月の戦いともなれば砦などの本拠地が必要になる。長期戦の構えを取るため、現在の本陣から程近いピウリ村に白羽の矢が立ったのだった。
 この移動に不満がある者は一人もいなかった。何よりも天幕が雪の重みで潰されるのではないかという心配から解放されたし、屋根のあるところで眠れるというのが大きな喜びであった。前の本陣があったところに残らねばならなかった部隊も、交代はあるのでそれほど不満が出るでもなかった。
 陣を移動させた頃にはペルジア側も占領したグレインズに塀を建て、一応の砦らしき体裁を整えていた。さらにメビウス軍としては膠着状態にあるからという理由以外にそうせざるを得ない理由ができていた。
 ほかならぬ紅玉将軍が体調を崩し、風邪をひいたのである。六十六というリュシアンの年齢もあっただろうが、戦争中であるという気疲れやタギナエ地方では珍しいほどの寒波も影響したらしく、なかなか治らずに寝付いてしまった。
 それでもリュシアンが意気軒昂であったのが騎士団にとっては心の支えであった。援軍要請は受け入れられず、かといって総力戦の命令が出るわけでもない膠着状態は、年が明けても打開されることはなく、どうやら冬が終わるまで続くようであった。

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