前へ  次へ
     かくして獅子の王は
     雪吹きすさぶかの北の国において
     彼の旅の終わりを迎えたのである
           ――アルドゥインのサーガ




     第三楽章 オルテアのアントレ




 中原には、三大帝国と呼ばれる国がある。すなわちクライン、メビウス、ゼーアを総称してそう呼ぶのである。その中で一つゼーア帝国のみは三大公国に分裂し、今や過日の面影はないが、クラインとメビウスは現代に亘って繁栄を続けている。クラインが最古の帝国、ゼーアですらかつて最強の帝国と呼ばれていたのに対し、メビウスは強大な国力を持ちながらもいま一つ地味な向きがあった。
 メビウスは中原で最も北方に位置している。森と氷の国とあだ名されるように、北限は夏の短い時期以外は氷に閉ざされた氷雪地帯に接し、東方にはゼーア国境まで続くアヴァール森林地帯が広がっている。
 クラインと成立年代をほぼ同じくする歴史ある国であり、成立の時から長らく盟国として友好関係を保っている。クラインの祖アルカンドが星から下ってきた時、彼の友となり、彼を助けてクラインを黄金時代の幕開けに導いたとされるメディウス高潔王が開いた国である。
 この両国の親密さは、滅多なことでは他国の血を混ぜず、また外に出すことがないといわれているクライン皇家が、つい最近もルクリーシア皇女をパリス皇子に嫁がせたことからも窺い知ることができる。メビウス皇家は、何度も重ねてきた婚姻によって、クライン皇家に近い血を持ったものであると認められているのである。
 とはいえメビウス皇家はクラインのように純血を後生大事にしていたり、自らの人種に不思議なほどのプライドを持っていたりするわけではなく、何度かゼーアから皇妃を娶ってもいる。
 だいいち血に誇りを持とうにも、民族的には元来ゼーア系に近い人々がいたところに古代クライン人が入り、何度も繰り返された混血によって生まれた民族であるので、本来の《メビウス人》というものは現在のメビウスには存在していない。この国は、ゼーアにも匹敵する多民族国家であった。
 国内でも南でクラインよりのタギナエなどはクライン人の血が濃い所であった。逆にゼーアに近いパアルやハヴェッドは北方ゼーア人の血が混じり、薄い髪色と瞳の色を持っている。
 北方で氷雪地帯に接するヴェンドやヴェルザー、エクァンは北方ということもあって人口流入が少なく、そのため人々は本来のメビウス人に近く、大柄で金髪と薄い色の瞳を持っていた。ヴェンドは領主であるヴェンド公がその血を引くように、セラード人が元来小規模な都市国家を形作っていた地方である。
 国の中央部、首都オルテアや北ハヴェッド、ラガシュなどは元来のメビウス人とクライン人とがすっかり交じり合い、顔立ちなどはクライン人の面差しに似通ったところを持っていたが、髪や瞳の色は様々で、一見したところやはりゼーア系の人々に似ていた。黒髪と黒い瞳を持ち、ほぼ純血を保っているのは皇家や古い貴族のみとなっている。
 それでも標準的メビウス人、というのならば体つきはがっしりとして上背もあり、高い鼻とくっきりした瞼、色素の薄い髪と瞳、そして白い肌を持った人々、というイメージが人々の中にある。
 現在国を治めているのは百二十代目のイェライン皇帝である。メビウスは一種独特の帝位継承を行っていて、六十歳を迎えた皇帝はまだまだ頑健であろうと何であろうと次の皇帝に譲位しなければならない。また、中原の有力国で唯一、元来皇女に帝位継承権を認めている国でもあった。
 イェライン帝には長女のリュアミル皇女と、その弟のパリス皇子がいて、彼は昨年クライン皇女ルクリーシアを妃に迎えた。メビウスの皇太子は第一子のリュアミル皇女であり、十数年の後には彼女がメビウス初の女帝となる予定であった。
 文化の華クラインとは比すべくもないが、メビウスもやはり有数の文明国である。しかし盟国とはいえクラインとは全く趣を異としていた。豪奢洗練を好むクラインとは違って人々は質実剛健の向きがあった。
 厳しい自然の中で培われた精神は強く、人と人のつながりを大切にし、重んじる。労働を厭わないのは、そうすれば必ず自然が豊かな実りを返してくれること、そして敬うことを忘れれば、自然は恐ろしい復讐を人々に返すことを知っているからだ。夏の間は精を出して働き、何もかもが凍てつく冬は夏の労働の成果を親しい人々と共に分かち合って暮らす。そういった心がいまも人々の中には根強い。
 またメビウスは尚武の国としても知られていた。陸軍大元帥が束ねる紅玉騎士団を筆頭とする五つの騎士団は世界的にも有名である。また海軍はティフィリスに最強の名を譲らざるを得なかったとはいえこちらも世界に誇る戦艦《黄金》をはじめ五隻の戦艦を所有している。
 国民は愛国心が強く、それゆえにそのような戦いは今ではほとんど無かったが、国を護るために命を差し出すことにやぶさかではなかった。元来が体格良く頑強な国民である。兵が強いのもある意味では当然と言えただろう。
 首都は国のほぼ中央に位置するオルテア市である。オルテア城は、オルテアの街を見下ろす、市内で最も高い光ヶ丘に建てられている。頂上には全ての政の中心、水晶殿がある。水晶殿を取り巻くように各省庁の入った緑晶殿、紅晶殿、皇族の住まいする紫晶殿が位置し、ふもと近くには種々の催し事が行われる青晶殿がある。全ての宮殿の名は、かつてこの地で水晶が多く産出されていたことに因んでいる。
 現在は水晶鉱脈も廃鉱となり、また首都がこの地に移ったこともあり、庶民に見ることが叶わぬ宮殿のシャンデリアや、見ることができるものならば古い神殿の神像に、かつてこの地で掘り出されたきらびやかな水晶の輝きを偲ぶことができるのみである。
 また、オルテアは丘の街でもあった。宮殿の建つ光ヶ丘は市の西南端、西には虹ヶ丘、北西には紅葉が見事で、秋には燃え上がるかに見えることからその名を与えられた炎ヶ丘。北から東方向にかけてはなだらかな高みが並ぶ(ならび)ヶ丘。東にはその名が示す如く、旭ヶ丘。北東には星ヶ丘。そして南には雅やかな美しヶ丘。この七つの丘が市を囲み、市内に抱かれている。
 オルテアは旅人たちにとって楽しみな街の一つである。通りに並ぶ屋台では温かな煮込み料理や、ラッケと呼ばれる串焼き肉、温めたアーフェル水やはちみつ酒が売られ、暖かな湯気が立ちのぼって前を通る人々をふわっと包んでは消えていく。屋台通りなどを通れば、一日中目も舌も飽きることは無い。
 そのように庶民らしい雑然とした暮らしがあるかと思えば、そのすぐ隣にはクラインにも似て洗練された貴族の館が整然と建っていたりする。メビウスの首都、オルテアとはそんな街であった。
 メビウスの冬は早くに訪れて長い。ヤナスの月ともなれば朝晩などは霜が降りるほど冷え込むのが当たり前となり、天気が悪くなれば必ず雪が降る。そうして降った雪は融けぬまま次の雪が降るので、人々は屋根の雪下ろしに精を出し、道端には退けられた雪が山積みになっている。
 冬の装いといえば、女の場合は幾重にも巻きつけて重ねたスカートに、ぴっちりと首を覆うブラウス、その上にケープ付きのマントかコートというメビウスの民族衣装が一般的だが、若い娘たちはクラインあたりで流行している薄い布を使ったドレスを身にまとい、その上から、美しいブローチで留めた色とりどりのマントを重ねている。
 男たちは木綿のシャツの上に、妻や恋人が編んだ羊毛の上着を着ている。この上着の編み目模様は地方や家でそれぞれ独自の模様を持っていて、代々受け継がれていくものであった。それを着ていなければ、前を紐で合わせて留めるチョッキを着ているかのどちらかである。
 どちらにもせよ誰もが防寒着としてマントかコートを着ているのだが、それをどうにかして個性的にしようとする努力が至る所で見て取れた。特にそれは若い女性の間で顕著であった。やせ我慢をして肌を露出している者もいれば、派手なパッチワークのコートを着ている者、毛玉が歩いているみたいな毛皮のマントなどをまとっている者すらいた。そういった人々の中で特に着膨れている者は、一見して旅行者だと知れる。
 その、オルテアの郊外。
「やっと到着したな」
「ああ、あれが光ヶ丘――水晶殿だ」
 旅行者風の四人連れが、南からのレント街道が抜ける美しヶ丘からオルテアを見晴らしていた。オルテアの街並みはどこも雪の白に埋もれてしまっていて、家々の煙突から立ちのぼる煙が薄くたなびいているのが見える。
 昨年サライがルクリーシア皇女の護衛としてこの地に入ったときにはまだアティアの月であったし、それ以外にメビウスを訪れたこともなかったので、この厳しい冬に直面したのは全く初めての出来事であった。アトにとってもそれは同じことが言えた。クラインはたいていが温暖な気候であるし、カーティスでは滅多に雨さえ降らない。
 もっと可哀相だったのはアルドゥインだった。彼は南方の沿海州でも最南端のアスキアに生まれ育ったわけで、吐いた息が白くなるほどの気温に接したことも無ければ、雪など見たことも無かったのだ。彼らの中で唯一、メビウスの冬を知っているアインデッドにしろ、平気だとは到底言いがたかった。
 四人が四人ともマントに身を包み、今日は北風が強かったので、しっかりとフードを被っている。彼らの中で一番寒さにやられていたのはアトで、彼女は首に巻きつけた布に鼻先まで埋めていた。
「今日こそはまともな食い物と寝床にありつけるといいんだがな」
 アインデッドは隣のサライを振り返った。彼は言葉少なに応えた。あまり喋ると雪が口の中に入ってきたのだ。
「そうだね」
「どうでもいいから、火に当たりたいよ、俺は」
 たまりかねたように言ったのは、アルドゥインだった。すっかり顔を青ざめさせてしまっていて、しばらく立ち止まっていたために寒さがぶり返してきたらしく、水を被った猫みたいにがたがた震えていた。
「ジャニュアとは様子が逆だな、お前」
 からかうでもなくアインデッドが言った。
「ついてこなけりゃ良かったのに」
「何だよ、俺だけ仲間外れにする気か?」
 アルドゥインは眉を寄せて口をひん曲げた。
「誰も仲間外れになんかしてねえよ。大体、お前だってメビウス行きでもいいって言ったじゃねえか」
 今回のメビウス行きは、誰が言い出したわけでもなかった。アインデッドとアルドゥインはエレミルの月で契約が切れて太后宮警備を辞めた。引き続き勤めるという道もあったのだが、アインデッドはまたトラブルに巻き込まれても嫌なのでジャニュアを出ることにした。アインデッドがそうするのなら、とアルドゥインもついていくことにして、それなら何か稼ぎがてらということで二人が見つけた仕事というのが、メルヌ市内の商人の用心棒、クラインのヴァルストまでの道中警備、という傭兵らしい仕事だった。
 そして傭兵二人に、これまたずっと勤め続けていてもいいものを、サライがそれについていくと言い出し、そうなると当然アトもついていくということになって、結局四人でジャニュアを後にした。
 ヴァルストまで雇い主を無事送り届け、二人の傭兵は首尾よく給料を手に入れ、さてこれから何処に行くかとなった時、サライの事情もあってクラインに入るわけにもいかないだろうと、そのまま何となく北上してきたのである。
「サライ様、この丘を下れば市内ですよ。早く行きましょう」
 まだオルテアを見下ろしていたサライに、アトが声をかけた。
「ああ。すまない」
 サライはすぐに気がついて、彼がついてきていないことに気づかず何バールか進んでしまっていた三人に追いついた。サライがもとクラインの右府将軍であった事、ルクリーシア皇女の婚礼の際に随行員としてこの地を訪れたことはアトはもとより、アインデッドとアルドゥインもすでに聞き知っていたので、その時の事でも思い出して物思いにふけっていたのだろうと、三人は解した。
 また実際にそのとおりであったのだ。

前へ  次へ
inserted by FC2 system