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                                 *



 かくして――。
 新大陸歴一五四三年ナカーリアの月青の四日の昼には、アレクサンデル四世アレクサンデル・アル・クラインは第百二十二代クライン聖帝の位を書類上は退き、第二皇女レウカディアがその後を襲うこととなった。
 帝位継承権者がまだ成人式を済ませておらぬときは通常、成人式前の即位を以て成人したとみなすのであるが、このような形での即位は例を見ないこと、そのため何の準備もされていないことを考え合わせ、正式な即位式はヤナスの月、成人式の変わりに行い、戴冠式は翌年のユーリースの月と定められた、各国への正式通知もその時となる。二ヶ月少しあれば、何とか準備が間に合うだろうというわけである。
 その間は仮戴冠のみで済ませ、前帝アレクサンデルと内閣の補佐を受けつつ政治をとることになった。ヤナスの塔から急遽ソマール大神官が召しだされ、アレクサンデルが退位とレウカディアへの譲位の旨を記した書類に署名をした後に、レウカディアに仮の戴冠を行った。謁見の間で諸侯らが見守る中、アレクサンデルの額からレウカディアの額へと、略式冠が移されたのであった。
「我が陛下にとこなしえに神のみ恵みがあらんことを」
 ソマール大神官の祝福の言葉とともに、聖帝の冠と紫のマント、王笏がアレクサンデルからレウカディアに渡された。それらは男のものであったので、レウカディアには少々大きすぎるきらいがあった。
 略式のものであるとはいえ、聖帝の象徴である王冠をその額に戴いた時、レウカディアはかけられた期待の大きさを感じ、そのほっそりと優美な、ダイアモンドを散りばめた王冠を倍以上もの重さに感じた。冠を戴き、彼女は立ち上がって諸侯を見渡した。彼らの目に、レウカディアはまだあまりにも若く頼りなげではあったが、その若さゆえの力に満ちて美しく映った。
 武官はともかく、文官らまでが彼女の目の前で剣を――たいていそれは飾り物でしかなかったのだが――差し出し、剣の誓いを行った。
(彼らが、私を選んでくれたのだわ)
 差し出される剣に、近い場所の者ならば言葉は省略して応え、遠いところからは全部まとめて返しながら、その誇りが彼女の心中を満たした。そして、彼らの期待に応えてやらなければならないという決意がふつふつと湧き上がってきた。
「来年の戴冠で、そなたは名実共にクライン初の女帝だ。そののち余がどれほどそなたの役に立ってやれるか判らぬが、そなたならば余よりも善くこの国を治めてゆけるやもしれぬ。くれぐれも、余のようにはならぬようにな、レウカディア」
 大権を放棄し、王冠を外したアレクサンデルは、以前よりも急に十歳も老け込んだかのように小さく力なく見えた。だが目は暖かくレウカディアを見つめ、彼女は生まれて初めてといってもよいかもしれない情愛を父親に感じた。
「父上のお言葉をレウカディアは一生忘れませぬ。何とぞ末永く、この未熟なる私に助言賜りますようにお願いいたします」
 レウカディアは心からの笑みを口許に乗せた。
 イスーンのまさに三日天下の終わりと失脚、史上初の貴族から皇帝への退位請求とそれに基づく退位と新帝の即位戴冠と、あまりに多くの出来事が引き続いた慌ただしい午前はこうして過ぎていったのであった。
 一段落がついたころには、既に昼を大きく過ぎていた。もう朝見とは呼べなくなってしまった時間になってからやっと朝の謁見が終わり、貴族たちのある者は自宅へ、ある者は仕事場へと戻っていった。これからの事を色々と考えねばならぬ内閣や閣僚ら、レウカディアにしても、昼食を取る必要があった。
 午後に入ってから、十二選帝侯、大臣らを招集して、まず何をすべきかを討議した。レウカディアは今まで自分が帝位につくとは考えていなかったし、仮に考えていたとしてもこんな形で、これほど早くにそうなるとは思っておらず、帝王学やアルカンド三書もまだ完全には修めていなかった。それを考えると、正式な即位を二ヵ月後に引き伸ばしたのは賢明な判断だったと言えた。
 レウカディア自身も、自分がまだ未熟であることを重々承知していたので、アレクサンデルが目を通すはずだったあれこれの法令やら嘆願やらをどう処理していけばよいのかを逐一彼らに尋ねるのであった。レウカディアが慣れるまではアレクサンデルが引き続き彼女の代わりに実務を執り行うと暫定的にではあるが決まったのでまだしもであった。
 それが一通り済んでからは、各国にアレクサンデル四世の退位の経緯とレウカディアの即位を伝える国書の文面作りであった。式の正確な日取りは、ヤナス神殿が吉日を占って決定するものであったので、まだ未定である。また、国内へ触書などを回さねばならず、やらねばならぬことはそれこそ山積みであった。
(聖帝となったら、毎日が大変だわ)
 レウカディアは思ったが、臣下の期待を一身に受けているからには頑張らねばならぬと気を引き締めた。
「初の女帝となるからには、何事も初心に返って見直すべきです。古くからの旧習を全て見直して、改めるべき所があれば改めたいと思うのですが」
 選帝侯らを加えた閣僚会議で、レウカディアは自らの決意を語った。
「大変ごもっともな考えかと」
 ムラート内大臣が頷いた。
「アレクサンデル四世前陛下が、殿下……いいえ、陛下とルクリーシア殿下がお生まれになった際、皇女が帝位を継ぐことができるように継承権法を現在のように改正なさったという前例もございます。この際、時代にそぐわぬ陋習の類はいっさい廃するほどの改革も必要かと」
「ありがとう。そう言ってもらえると心強いわ」
 レウカディアは頬を喜びに火照らせた。ああしたい、こうしたいという具体的な案はまだ彼女の中にも生まれていなかったが、これからきっと出てくるに違いなかった。貴族たちが賛成ムードであるのは、彼女にとっておおいに励みになるところであった。
 それから、はたとレウカディアは重大なことを忘れていた事に気づいた。
 彼女がもっとも案じていたはずのこと――ウェルギリウス大導師とバーネット、アウレロウス、その他多くの、アレクサンデルの機嫌を損ねたために投獄されている者たちの釈放である。
 彼女自身が非常な興奮と緊張のさなかにいたので、今まで意識の上に上ってこなかったのであるが、ようやく落ち着いてきたことでやっと思い出したのである。
「大切なことを忘れていたわ」
 レウカディアがいきなり呟いたので、傍にいたムラート内大臣が驚いて彼女の顔を見つめた。
「何でございましょうか」
「ドヴュリア塔に投獄されている者たちの釈放です」
 ああ、というような納得の声がその場の者たちから漏れた。本来なら投獄させたアレクサンデルが許しを出すところなのだが、その彼も退位勧告などのごたごた続きですっかり忘れていたに違いなかった。レウカディアは急いで侍従を呼んだ。
「父上が投獄なさった者たちの一覧を今すぐここに持ってくるように、ドヴュリア公とベルティア公に伝えて頂戴」
「かしこまりました」
 皇帝らしいものの言い方も何もなく、レウカディアは命じた。それについて何を思ったにしろ、侍従も閣僚も何も言わなかった。
「お呼びでございますか、陛下」
 間もなくして、ドヴュリア公とベルティア公の二人が布の包みを片手に小会議室に入ってきた。ドヴュリア公は年だというのに、ドヴュリア城から金獅子宮のここまでよほど急いで来たのだろう。冬だというのに顔は真っ赤で息を切らせていた。まだ若いベルティア公は、彼ほど疲れている様子はなかった。
「ご苦労です、ヨゼウス殿、ライナス殿。囚人のリストを見せてください」
「只今ここに」
「お受け取りください」
 二人はさっと包みを手渡した。布を開いてみると、現れたのはどちらも革表紙の分厚い本である。ドヴュリア塔が牢獄として使用され始めてから今までの全囚人の情報はすべて記録されている。彼が持ってきた本の古さから見て、これは最近十年ほどの記録であるようだった。
 レウカディアは頁を繰り、囚人らの名前を見ていった。名前の横には投獄の日と罪状、刑期が細かに書かれていたので、誰がアレクサンデルによって投獄された者かはすぐに判った。
 特に、庶民の牢獄であるベルティア塔の方にそれが顕著だったが、もちろん囚人の中には本当の犯罪者もいて、全部を全部釈放するわけにはゆかず、レウカディアは釈放すべき者を小一時間ほどかけて選び出した。
「ベルティア塔に投獄中の今挙げたこの者たちは本日中に無罪放免とします。よろしいですね、ライナス殿」
「仰せのままに。我が陛下」
 ベルティア公は生真面目に答えた。
「それから、ヨゼウス殿」
「は」
「ウェルギリウス大導師を釈放し、聖帝の名において大導師に再任します。バーネット・ルデュラン子爵は傷の具合のいかんによっては引き続き移動可能になるまでドヴュリア塔で療養させます」
「かしこまりました」
 二人が行ってしまうと、レウカディアは肩の荷が下りたような気がしてほっと息をついた。しかしまだ、忘れていることがあった。
「ああ、まだあったわ」
 またレウカディアが顔を上げた時、シェレンにはその理由がすぐに判った。ずっと気にかけて、そのために父親にあらぬ疑いをかけられもしたのだが――色々としてきた彼のことを、忘れているはずがない。
「何でしょうか、レウカディア様」
 フーリエ候イヴァンが尋ねた。
「サライの国外追放よ」
 レウカディアは即答した。彼女の一言で、その場の人々は彼のことを思い出した。サライが国外追放にされ、アトとともに人々の前から姿を消してから、既に五ヶ月近くが経っている。
「確か、反逆罪だったわね」
「さようにございます」
 ファウビス法務大臣が頷いた。彼の記憶は正確であった。
「アレクサンデル前陛下の御前で、自らに対し市民に万歳を叫ばせたことが理由とされております」
「それは、父上が判断なさって、聖帝の大権で下されたものですね」
「はい」
 聖帝は大権によって逮捕の権限を持ち、裁判無しでの処分が可能である。その決定は次の聖帝でも取り消すことはできない。もちろんサライのようなケースもあるが、聖帝ごとに罪となるべき事実が変わったりなどしては混乱が生じるためである。
 しばらくレウカディアはどうすればよいのか考えた。解答はすぐに出てきた。
「ならば、即位の大赦としてサライ・カリフを許しましょう」
「承りました」
 ファウビスは軽く頭を下げた。その日のうちにサライを探すための魔道師の隊が組織され、クラインに戻るようにとのレウカディアからの命令を携えて彼が行ったと思われる国へ派遣されていった。
 長かった一日もルクリーシスの刻を少し過ぎたころにようやく終わり、閣僚たちは金獅子宮から解放された。シェレンは公邸に戻る前に、ドヴュリア塔を訪れた。まだバーネットは、医師団から自宅に戻っても良いと許可をもらっていなかったのだ。
「もともとこちらで療養してもらっているようなものだったが、今や名実共にそうだ。好きなだけ話されるといい」
 ドヴュリア公はそう言って、シェレンを迎えた。バーネットの室に入ると、彼は寝台の上に上体を起こして窓の外を見ていた。そうしたところで、もう夕焼けの残照すら残ってはいなかったが。
「気分はどうだ、バーネット」
「悪くない。だた、思ったよりは治りが遅いみたいだ。家には戻れるかと思ったんだが、移動も駄目なんだ」
 傷を負ってから六日しか経っておらぬ、と思えば無理のないところであった。それにバーネットは治りきっておらぬのに何度も動かそうとしたので、せっかく塞がりかけた傷を開いてしまう結果になっていたのだ。いいかげんそれに懲りて、ここ三日ほどはおとなしくしていたようだったが、根っからが軍人の彼は口には出さないものの体を動かせないことに相当参っていた。
「無罪放免の話はもう聞いたか」
 寝台の横に椅子を引きずってきて、シェレンは座った。
「ああ。ドヴュリア公が真っ先に知らせてくださった。レウカディア殿下が女帝に即位されたそうだな」
「陛下はサライ殿に大赦を出された。見つけしだいクラインに呼び戻されるそうだ」
「そうか……」
 バーネットはちょっと微笑んだ。だがどこか影がある微笑みかただった。大喜びするのではないかと思っていただけに、シェレンには意外な反応だった。
「お前もそれを望んでいたんじゃないのか」
「もちろん。嬉しくないわけないじゃないか。ただ……」
 何か奥歯に物が挟まったような言い方を、バーネットはした。親友の常ならぬ様子に、シェレンは首を傾げた。
「ただ、何だよ」
「サライ様をクラインに呼び戻して、それで殿下……いや、陛下はどうするつもりなんだろうな。それに、俺はどうなるのか。さっきまで、それを考えていたんだ」
「バーネット……」
「レウカディア様は、俺を気に入ってくださってる。でもそれで俺は何かの地位が欲しいって訳じゃない。だが否応無しにそういう事が起こりえるんだと思ったら、何だか素直に喜べなくてな」
 自分が以前ふと懸念したことが、同じくバーネットの心も捕らえているのだと知って、シェレンは何とも言えぬ気持ちになった。シェレンとは違い、バーネットは明らかにレウカディアのお気に入りである。そして、サライもまたそうである。
「心配するな。たしかにレウカディア様は若いし、未熟な所もおありになるけれど、まさか父君と正反対の轍を踏むような真似はなさるまいさ」
「だといいんだが」
 バーネットは呟いた。
「ともあれ、喜ぶべきなんだろうな」
「そうさ。喜べよ。――どうせまだ式やら何やらが続くんだろうし、そうなれば俺もまだエクタバースには戻れないんだ。早く治してしまえよ。飲むにしてもお前がいないとつまらないからな」
 シェレンはバーネットの怪我をしていないほうの肩を叩いた。バーネットはそれに応えて笑った。
「お前の酒に付き合うために治すんじゃないぞ」
「理由の一つくらいには入れておいてくれよ」
 二人が話している間にすっかり夜は更けて、窓からうかがえるカーティスの街は蛍が群れたかのような灯に満ちていた。クラインの歴史を変えた一日はしかし、人々の営々たる暮らしを変えることもなく過ぎていったのだった。

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