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 つい一テルほど前に父と娘のそのようなやりとりがあったと、廷臣たちが夢に知ることもなく、朝見が始まろうとしていた。朝見にはなみいる文官、武官を始めとして、参内を許されている貴族、そして宮廷魔道士とは別個に魔道師の塔から大導師と二人の導師が列席し、学問研究所の所長らも列席することとなっている。
 この所の朝見では、皇帝の前でちょっとでも失態を見せるとすぐさま厳しい処分が待ち構えているため、どの顔も緊張を隠せない。だが、だいぶ数も少なく、また声も小さいながら、皇帝の出座前に人々がちょっとした挨拶や話をするのはまだ変わってはおらぬ。
「おはよう、ワルター殿」
「おお、これはドヴュリア公。おはようございます」
 ワルターに後ろから声をかけたのはドヴュリア公爵だった。すでに宮廷の長老となっている彼は、七十をもうすぐ越えようかという歳であったが、まだまだ壮健で、貴族や皇族を収容する牢獄、カーティス城の北西に位置するドヴュリア塔を管理している。
「ドヴュリア公はよしてくれぬか、ワルター殿。この頃とみにその称号が悲しゅうてならぬのだよ。貴殿とのよしみだ、ヨゼウスと呼んでくれ」
「塔のことですか、ヨゼウス殿」
 ドヴュリア公は深い息を吐きながら肩を落とした。
「あまり大きな声では言えぬがな。わしはもう隠居して、息子にドヴュリア公の名を譲りたくなってきたよ。まるでわしが彼らを楽しみで塔にほうりこんでいるかのように思われるのが辛くてならぬ」
 彼の息子はワルターとそう変わらぬ歳で、これまたバーネットとそう変わらぬ歳の孫がいる。だから彼と話していると、ワルターは亡くなった自分の父親と話しているような気にさせられる。
「それはそうと、ご子息の具合はいかがかな。ずいぶん深手を負ったと聞いたが」
 どうやらドヴュリア公はそれが聞きたくて声をかけたらしい。
「私には良く分からぬのですが、バルバトス医師の見立てでは完全に回復するまで二ヶ月はかかるということです」
「ご子息のことだ、二ヶ月もベッドでおとなしくしてはおられぬだろうな」
 ドヴュリア公は手のかかる悪戯っ子に向けるような笑い方をした。彼の言っていることは父親のワルターにもそう思えることだった。今朝からすでにバーネットは絶対安静のはずの腕を動かそうとして四苦八苦していた。縫合を要したほどの傷が一晩で塞がっているはずもなく、結局それは無駄な骨折りと痛みをしかもたらさなかったのだが。
 その事を話すと、どこまで広がるか、また変な尾ひれがつくものか知れなかったので、ワルターは尋ねられないかぎり極力自分から話すことは控えていた。彼とドヴュリア公との会話ですら、聞き耳を立てている者がいたのである。
「ともあれ、一日も早い本復を祈っておるよ」
「かたじけない」
 二人の会話が終わるころ、アレクサンデルの出座を知らせる銅鑼と金管の音が響いた。同時に触れ係の声がかかる。人々は途端に一斉に話をやめてさっと膝を折って礼をする。まだ銅鑼と金管の余韻が残る中、玉座横の深い紫色の幕が掲げられて、アレクサンデルが広間に入ってきた。反対側からレウカディアが、今度はさっきよりも手の込んだ髪型で、装身具をつけて入り、玉座の脇の席に着く。
「これより朝見を始める。大臣、報告せよ」
 たいていの報告は「特に変わったことはございません」で終わってしまう。財政やらなにやらの決裁書は、年末にまとめて提出されることになっている。それをいちいち皇帝がチェックするわけでもないので、日々の報告もおざなりなものだった。その後には商工ギルドからの嘆願などが続く。これは毎日同じではないので、退屈であることに変わりはないだろうがまだしも聞く価値のあるものだった。
 アレクサンデルの場合、それらの嘆願については全て、「某大臣、よきにはからえ」の一言で済んでしまう。これもこの頃ではアレクサンデルのふとした気まぐれでお目通りかなわずにされてしまったり、却下されてしまったりする者が増えてきている。
 文官からの報告と市内からの嘆願が終わると、それからは武官からの報告になる。左府将軍シサリーと右府将軍アストリアスからの報告は、文官のそれと同じであまり変わり映えがない。
「精鋭軍より報告申し上げます」
 これこそ今日、人々が待ち望んでいた報告だった。報告をするべき第一隊長であるバーネットの代理として、副隊長のリセラが参内している。滅多にあることではないので、リセラは心なしか緊張している様子だった。
「先月よりテラニア州に派遣しておりました第四部隊が昨日帰還いたしました。また、カーティス市内においてはアルド区ガダー通りに二級悪魔が出現いたしました。市民三名が死亡、十三名が重軽傷を負いました。建物への被害はございませんが、露天商の屋台が七棟倒壊いたしました。また、この戦いにおいて第一部隊隊長バーネット・ルデュラン子爵が負傷。以上、隊長代理としてわたくし、第一部隊副隊長リセラ・ルベルティノが報告いたしました」
「ご苦労」
 アレクサンデルの言葉を受けて、リセラは深々と頭を下げ、さっさと後ろに下がっていった。リセラが何をどう感じたのかは定かではなかったが、人々にとってアレクサンデルの反応は少々意外だった。
(容態など尋ねられてもいいだろうに)
(何といっても精鋭軍は聖帝陛下直属の部隊、一兵卒ならともかくルデュラン子爵はその隊長だ。もう少しおきになさるかと思っていたが……)
(朝見に参られぬほどの重体というのは、見て判ることだというのに、お見舞いの言葉もないのですかな)
(しっ、貴殿は声が大きいですぞ)
 大きな声に出して言うものとてなかったが、アレクサンデルの無関心を皆あまり快く思っていないのは確かだった。静かに広まったざわめきを気にかけた様子もなく、アレクサンデルは次にかかろうとしていた。全ての報告が終わった後、皇帝からの通達や臨時の決定が下されることになっている。
 アレクサンデルは玉座に構えたまま口を開いた。今度は誰が彼の不機嫌の煽りを食らうのかと、皆が緊張する瞬間でもあった。
「まことに由々しき事態が起こった。我が娘、第二皇女レウカディアが余に対し謀叛を企んでいたことが明らかとなった」
 これにはさっきの倍以上のざわめきが起こった。皆一様に顔を見合わせ、眉をひそめたり、何も知らぬというように首を振ったりする。小伯爵以上の身分のものがあらぬ疑いをかけられて処分されるような事は今までなかっただけに、謀叛という言葉よりもむしろ突然皇女の名が出てきたことに人々は驚いた。
「まことならば許せざる大罪であるが、皇女の身分ゆえ罪一等を減じ、双子宮に終生謹慎の身とする」
 終生謹慎は充分に予想していたことだったので、レウカディアはそれほど動揺の色を見せなかった。双子宮ではなくドヴュリア塔に投獄されれば、犯罪者として扱われたこととなり、皇女としてのプライドも大いに傷つくところだった。
 廷臣たちのざわめき――主に非難めいたものだった――をよそに、アレクサンデルがさらに言葉を継ごうとした時だった。
「陛下、これは一体いかなることなのでございましょうか。こう申してはまことに失礼ながら、わたくしには皇女殿下がそのようなたくらみをなさるとは到底思えませぬ。どのようなお疑いを以て謀叛と仰るのかご説明ください」
 たまりかねたようにムラート内大臣が疑問を発した。勇気ある質問に、広間にいたものたちは心中で拍手を送った。アレクサンデルはむっとしたようだったが、さすがにただの質問で怒りをあらわにしていてはますます皆にレウカディアの無罪を確信させるだけだと悟ったのかごく尋常に答えた。
「皇女の名においてメビウス、ジャニュアほか沿海州三国に親書を出した。これは各国とかたらい、クラインを我が物とするための布石であったと思われる」
「その親書は今この場にございますか」
「いずれイェライン皇帝かナカル女王に尋ね、取り戻す予定である」
「では現在ただいまの時点では、親書の内容については陛下の憶測のみということでございますか」
 ムラート大臣はまたアレクサンデルの気に障るような質問をした。文官ながら、この場の勇ましさには戦場で必死に戦う戦士に等しいものがあった。しばらくの沈黙の後、興奮を鎮めるようにアレクサンデルは一度大きく深呼吸した。
「ジャニュアに再三使わされた魔道師を捕らえおいてある。その者への尋問でおいおい判ってくることだろう」
「しかしそればかりで皇女殿下を……」
 とうとうアレクサンデルはかっとなって怒鳴りつけた。
「黙らぬか、ムラート大臣! そなたレウカディアに加担していたのではあるまいな」
「いえ、決してそのような」
「これ以上の質問は余に対する不敬とみなすぞ」
「失礼仕りました」
 まだ納得いかぬようだったが、渋々ムラート大臣は引き下がった。気を取り直して、アレクサンデルは続けた。
「大導師ウェルギリウス並びに導師イスーン、ミーヒャム。前へ」
 三人の魔道師がしずしずと皇帝の御前らに出てきて、膝を突いた。これもまた急に出てきたので、人々は混乱した。
(イスーンのたくらみは、まだあるというの?)
 レウカディアは頭を下げて顔の見えぬイスーンを睨みつけた。
「この謀叛に大導師ウェルギリウスが関与し、レウカディアを手助けしていたということも判明している。これも本来ならば死刑と決まっているところ、これまでの功績に鑑み、大導師の位を剥奪した上でドヴュリア塔に終身禁固とする」
「……!」
 レウカディアは思わず立ち上がりかけた。だがここで何を言ったとしてもそれは抗弁、言い逃れとしてしか受け取られないと気づいてやめてしまった。
「新たな大導師には、この恐るべきたくらみを看破し、余に知らせくれし功を以て、導師イスーン師を任ずる。また、二度とこのような造反を許さぬため、全ての魔道師は大導師に絶対服従することを命ずる」
 その時、レウカディアにはイスーンの本当の狙いが空に書かれた火の文字のようにはっきりと読み取れた。皇女が魔道師であるのが気に入らぬことも一つだっただろうが、大導師の地位を手に入れ、魔道師の塔を我が物とすること。最初からそれがイスーンの目的だったのだ。
(なんと、あざといことを)
 レウカディアは珊瑚色の唇を噛み破れるのではないかと思うほど強く噛み締めた。ウェルギリウスは何の抗弁も求めなかった。彼をドヴュリア塔に連行するために兵が四人でてきたが、齢百年をとうに過ぎたとも伝えられる魔道師の長に縄をかける勇気のある者はいなかった。
「申し訳ありませんが大導師、陛下の命令ですので」
「判っておるよ。行こうか」
 ウェルギリウスも泰然として彼らが丁重に促すまま立ち上がり、広間を出ていった。
「これにて朝見を終了する」
 広間に疑惑とざわめきを残したまま、アレクサンデルはつと立ち上がり、また紫の幕の向こうに消えていった。自分に向けられている疑問と同情のまなざしに気づいていたが、レウカディアは何も言わなかった。
(もしかしたら、彼らと再び会うことはかなわなくなるのかもしれない)
 そう思うと急に、ほとんど気にもかけていなかった者ですらいとおしくなってきた。レウカディアは席を立つと、ドレスをちょっとつまんで礼をし、父とは反対側の幕へと戻っていった。広間に残った廷臣たちも、三々五々抜けていく。
 ドヴュリア公はウェルギリウスを連れていった兵士たちを追いかけるためにいち早く出ていった。ウェルギリウスはクラインの魔道師の間では三大魔道師に次いで最も尊敬される大導師である。ドヴュリア塔に投獄するにしても、普通の罪人とは全く訳が違う。それでなくとも近頃はどうでもいいような罪で囚われる囚人が増えているので、空き部屋を探すのも一苦労なのであった。
 その日の昼を過ぎた頃、皇族が収監される最上の部屋がウェルギリウスのために充てられ、彼の書物やもろもろの薬草、護符などが運び込まれた。アレクサンデルの命令には彼を丁重に扱うなとも扱えともなかったので、ドヴュリア公はできるだけウェルギリウスに便宜を図ることに決めた。
「大導師、何かご不便があれば何なりと申し付けてください。面会人もお通し致すし、できるかぎりの事をいたしますゆえ。これは非常に申し訳ないが鍵をかけさせていただきます。もちろん大導師のお力にはこのようなものは関係ないとは存じますが」
「安心めされい、ヨゼウス殿。わしはどこへも逃げぬよ。それどころか、このように良くしてもらって感謝しておるくらいじゃ。むしろ誰にも邪魔されず研究が進められるというもの」
 ウェルギリウスはからからと笑った。投獄の辱めも、この大導師には何の痛痒も与えてはおらぬかのようだ。
「それよりわしが案じておるのは魔道師の塔のことじゃ」
「あの……イスーン導師のことですか」
「左様」
 ドヴュリア公は眉をしかめた。イスーンにあまりいい印象を持っていなかったのだ。それは誰にも言えたことだったろうが。やがて彼は気を取り直したようにウェルギリウスに視線を戻した。
「何かできることがあればお申し付けください。我々の誰一人として、大導師と皇女殿下が謀叛を企んだなどと信じているものはおりませぬ」
「ありがとう、ヨゼウス殿」
 ウェルギリウスはにっこりと微笑んだ。ドヴュリア公はちょっと頭を下げて、重々しい金属製のドアを閉めた。鍵のかかる澄んだ音が響いて、足音が遠ざかっていった。ドヴュリア公が彼の為に選んだのは、最上階の一室だった。天井が低く、やや手狭ではあるが、寝台を置き、机を置いてもまだまだ広いと感じさせるくらいの大きさがある。石造りの堅牢な塔だが、この部屋は壁布を張り、少しでも明るい雰囲気にしようとしてある。ちょっと洒落たツタ型の格子が嵌められた窓から、ウェルギリウスは外を覗いてみた。
 眼下にドヴュリア公の居城ドヴュリア城があり、さらにその向こうに双子宮、金の獅子を戴いた屋根の角がのぞいているのが金獅子宮。ドヴュリア塔と同じくらいの高さに見える左の塔がヤナスの塔で、正面には帝立学問研究所と魔道師の塔が見えた。
「あの若造めが、いつまで皇帝を騙せるか、じゃな……」
 老魔道師はぽつりと呟いた。

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