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     見るがいい、人々よ。
     汝らを襲う夜の時代、黒の陥穽を。
     星霜の揺れ動くそのはざまの時を。
     全てが光と闇のもとに生まれ変わる。
     その時世界は大いなる
     産みの苦しみの赤に染まるだろう。
          ――『チャンドラの預言書』より




     第三楽章 黒の陥穽




 何かいい夢を見ていたのにむりやり起こされてしまう人の常で、レウカディアの機嫌はあまり良くなかった。
「ん……なあに? 今朝の予定は入っていないはずでしょう」
 眠い目をこすりながらのんびりと寝台に起き上がったレウカディアとは対照的に、ティアラは慌てていた。
「皇帝陛下が金獅子宮に至急いらっしゃるようにと殿下にお命じになられています。お急ぎください」
「父上が?」
 レウカディアの意識はまだぼんやりしていた。だが父親が至急と言ってきているのを引き伸ばしたりしてもいいことは何もないと判っていたので、女官たちが急かすままに寝台を下り、顔を洗って着替えを始めた。
「いったい、何の御用だというの。こんな朝から。今は何時?」
「ルクリーシスの二点鐘でございます」
「早すぎるわよ。朝見はマナ・サーラの刻じゃない」
 レウカディアはぶつぶつと呟いた。そうしている間に女官たちの手によって彼女の髪はいちばん早くできる髪形に結い上げられ、顔には簡単に粉がはたかれ、とりあえずの準備が整っていく。
「朝ごはんは抜きね、このぶんでは」
「遅れるわけには参りません。戻っていらっしゃる頃を見計らってご用意いたしますから、我慢ください」
 なだめるようにビルビアが言った。レウカディアはちょっと唇を尖らせたが、それ以上何を言うでもなかった。今日着ようと決めていた光沢のある空色のドレスに合う宝石のコーディネイトを考えていたのに、つけている時間も惜しかった。みっともなくない程度の身だしなみをばたばたと整えて、レウカディアが双子宮を出たのはそれから十五分後のことだった。
 金獅子宮の隣に双子宮はあるので、馬車を仕立てたりという手間は取らないで済む。その代わりレウカディアは走る羽目になってしまった。皇女であり、また貴婦人である彼女は滅多にそんなことをしないので、可哀相に、指定された小広間に入ったときにはすっかり息を切らしていた。
「ただいま参りました、父上」
 彼女は一気にそれだけを言うと、ずいぶん無理をしながら深呼吸をした。それでだいぶ呼吸が整ってきた。アレクサンデルはそれに応えるでもなく、手振りで女官や侍従たちに人払いを命じた。父娘二人だけになった室内で、レウカディアは何の用事かも判らぬのでそれ以上近づくでもなく、アレクサンデルの言葉を待っていた。
「レウカディア」
「はい」
「そなたは、何だ」
「と、おっしゃいますと?」
 父が何を言いたいのか判らず、レウカディアは首を傾げた。アレクサンデルはもう一度繰り返した。
「そなたはこのクラインの、何だ」
「第二皇女だと心得ておりますが」
 色々と考えたが、レウカディアは当たり障りのない回答を返した。
「さよう。そなたは余の娘だ。そなたは、クラインの聖帝になりたいか」
「姉上がパリス義兄様とクラインをお治めになるか、それとも私が女帝となるか、それは父上がお決めになることでございましょう?」
 アレクサンデルの真意はまだ見えてこない。レウカディアは首を傾げた。どうやら雲行きが怪しいということくらいはなんとなく知れたが、理由が思い浮かばなかった。
「それで父上、いったい何の御用で私をお召しになられたのですか?」
 アレクサンデルは険しい表情をゆるめぬままだった。彼が手を一、二回打ち鳴らすと、それを合図に玉座の脇から二人の人影が現れた。二人とも魔道師のマントを身にまとっているが、一人は手を後ろに縛られていて、もう一人に突き飛ばされるように玉座の前に転がった。
「この者に見覚えはあるな、レウカディア」
 倒れ伏した魔道師は彼女の直接の部下であり、昨日彼女に会いに来たアウレロウスだった。それよりも彼女を驚かせたのはもう一人の魔道師だった。思わず、彼女はその名を呟いていた。
「イスーン導師……」
「言え、レウカディア。そなたは何を企んでおった!」
 アレクサンデルの叱咤が飛んだ。レウカディアはそれよりも、憔悴しきった様子のアウレロウスが気にかかった。恐らく彼は彼女のもとを辞してすぐに捕らえられたのだろう。イスーンが彼に何をしたのかは判らないが、良いことはしていないだろうと判った。
「アウレロウスを解放してください。何を申し上げるにしてもそれが先です」
 レウカディアはきっぱりと言った。
「父上、私に何のお疑いを持ったにしても、このように私の部下を拉致して人質を取り、まるで私が父上に対し重大な罪を犯した者であるかのような尋問をなさるなど、あまりに乱暴ではありませんか」
「余はそのようなことは尋ねておらぬ。そなたは何を企んでおるかと尋ねておるのだ。質問に答えよ、レウカディア」
 アレクサンデルも娘に負けず強情だった。
「私は、何も企んでなどおりませぬ」
 父をきっと見据えて、レウカディアは答えた。
「私は皆様方にサライの身の安全を図ってくださるようにお頼み申し上げたのみ。父上がお疑いになっているようなたくらみはございません」
「なに?」
 忘れかけていたような名が出てきて、アレクサンデルは明らかに戸惑ったようだった。そしてそれは彼の嫌な記憶に直結していたので、ますます険しい顔になった。
「導師の申すところによれば、そなたは余の目を盗んでメビウスや沿海州各国に親書を送り、そしてこの男は先日までジャニュアに派遣されていたとか……いったい何の用向きで親書など送るのだ。ジャニュアにこの男を送る必要が、どこにある。導師も申しておるぞ。そなたは余に対する謀叛を企んでおるのだろう! 違うか!」
「父上は、娘である私よりも、イスーンの申すことを信じられるのですか?」
 レウカディアは叫んだ。
「何度も申しますように、レウカディアは父上が追放なさったサライが無事に暮らせるように図っていただきたいと、各国の皆様にお願い申し上げていたのです。ジャニュアにアウレロウスを送ったのは、その後の行く先を調べるためです。それがなぜ、父上に対する謀叛だと仰るのです?」
「そのような言い訳、きくものか」
 アレクサンデルは語気荒くいった。二人とも興奮して、レウカディアの頬は真っ赤に紅潮し、黒曜石の瞳は火を噴くかと思われるほど厳しくイスーンを睨み据えていた。その目に耐えかねたのか、イスーンは顔を伏せた。
「お疑いになるのなら、そこな下郎に調べさせられれば宜しいでしょう。私が清廉潔白だということはすぐに判りましょう。そもそも、くだらぬ理由で有能な臣下を追放するなどという愚かな真似をなさるから、私が動いたのです」
 売り言葉に買い言葉になってしまい、そうなるとレウカディアは手厳しかった。アレクサンデルもかっと頭に血を昇らせたのは言うまでもない。
「もうよいわ、下がれ! 追って沙汰があるまで双子宮から出ることを許さぬ」
「失礼いたしました、陛下」
 レウカディアはさっとドレスの裾をつまんで形ばかりの礼をした。それから、イスーンに相変わらず冷たく厳しい目を向けながら言った。
「アウレロウスを今すぐ釈放しなさい、イスーン導師。そなたの狙いは皇女である私を陥れることでしょう。それが成ったならば、無用の辱めを加えるような真似は止すのですね。そなたの人格に関わります」
 レウカディアの瞳に射られ、イスーンはやや気圧されたようだったが、ふんと鼻先で小さく笑った。レウカディアはそれを見逃さなかった。
「殿下の謀叛のたくらみに、この男がどう関わったのか、それが知れぬままではお言葉には従えませぬな」
「………」
 イスーンの嘲笑うような表情を横目に、レウカディアは小広間を出た。そこで控えていた女官たちに、何でもないのだというように軽く頷きかけ、双子宮へと足を向けた。約束どおりビルビアは朝食を揃えてくれていたが、それもろくろく喉を通らなかった。何よりもアウレロウスの身の上が案じられたし、アレクサンデルがイスーンに何を吹き込まれたのか、それが気にかかっていた。
「殿下、どうなさったのですか。いったい、聖帝陛下は何を仰られたのです?」
 ルビアが心配して声をかけた。
「私が父上に対して謀叛を起こそうとしている、と讒言したものがいるのよ。それで呼び出されたのだわ。父上は私の言うことなど全く聞いてくださらないし、はなからそう決めてかかってらっしゃる。謹慎は免れないかもしれないわ」
「まあ! なんて事を」
 女官たちは口々に騒ぎはじめた。もちろんそれは、そんな根も葉もないデマを吹き込んだ者に対する怒りと、それを鵜呑みにしてしまう皇帝に対する非難だった。
「おやめ。言っても無駄なことよ」
 レウカディアは呆れ果てた声音で彼女らを制止した。彼女にも色々と思うことがあったのである。
(イスーンは皇女の私が上級魔道士であることを快く思っていなかった。私が個人的に部下を持っていることにも事あるごとに反対し、取り上げようとしていた)
 クライン皇族はその始祖が大魔道師であったと伝えられており、誰もが級は高かれ低かれ、何らかの魔道師資格を有している。だが、順調に級を上げながら修行を続け、魔道学を修めるための学業を続けているレウカディアを快く思わぬ輩もいる。
 一つにはレウカディアが女だということもあったが、皇女が魔道士ギルドで大きな地位を占め、力を得れば、政局と魔道師の塔と関係が深くなり、彼らの不可侵性がおびやかされるという考えも多分にあった。つまりは政治に介入されると色々と不都合のある者らもいた、ということである。
(――アウレロウスをジャニュアに送ったことに関して、ギルドは謝罪は必要ないこと、継続して部下を持つことを認めると回答してくれた、にもかかわらずイスーンが父上にあのようなでっち上げの讒言をしたとなると、これはギルドの決定ではなく、イスーン一人の陰謀に違いないわ)
 シャルラの忠告に従って、彼女がギルドへの釈明を求め、それが受け入れられたのはつい二日前のことである。ギルドの長であり、魔道師の塔の長であるウェルギリウスは全てを不問に伏すと決定した上で、しかし魔道師ならぬ他人の運命に魔道をもって干渉してはならないという十二か条の第四条にふれる危険もあるので気をつけるようにとの訓告をしたのだった。
 ギルドが認めたにもかかわらずイスーンがレウカディアを陥れようとしたからには、レウカディアがこのまま女帝になれば困ることがイスーンにあるか、それともただ単に皇女が魔道学を修めようとしていることが気に食わぬのか、それとも、他にもっと深く暗い理由があるのか――。レウカディアにはまだそれは判らなかった。
(父上も父上だわ。あのような者の言うことを真に受けられるなんて。私が謀叛を起こそうとしている、ですって? 笑い話にもならないわ。たしかに、父上の意思に反してサライを庇ったのは確かだけれど、それが父上に判ったとしても謀叛の証拠などにはならないわ。むしろこんな事で父上が私を処分するようであれば、クライン聖帝の名に傷がつくというもの)
 考えれば考えるだけ腹立たしい。女官たちは彼女を本当に心配してくれているし、あまり落ち込んだ様子は見せたくなかった。ぶつけようのない怒りをもて余しながら、レウカディアは結局結局パンを一切れと茶を一杯飲んだだけで朝食を終えてしまった。今までの事情を知っている女官たちにとっても、皇帝の性急な判断は納得いかぬものだった。
「レウカディア様、何があってもわたくしたちは殿下のお味方ですわ。陛下が何を言われようと、殿下が清廉潔白であるのはわたしくたちだって良く存じておりますもの」
「そうです。その偽り言を申した者を、私許しませんわ」
 皆がそうしてレウカディアを力づける言葉をかける。あまり情愛を感じているでもないにしろ、実の父親が自分を信じてくれなかったということで傷ついていた彼女の心は、それでだいぶ慰められた。

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