前へ  次へ


                                        



 十二選帝侯の公邸は、カーティス城からやや離れた場所に点在している。議会が開かれている間しかあるじである選帝侯たちが在住していることはないのだが、それにしては豪華で広い。もちろんそれは各州や県を治める貴族たち全員に言えたことであった。アーバイエ候の公邸は馬でゆっくり行っても十五テルジン程で着いてしまうところにあった。
 バーネットが来るとあらかじめ伝えられていたらしく、大した手間も取らされずに公邸内に入ることができた。馬を馬丁に預けて、バーネットは勝手知ったる様子で玄関をくぐった。
「アルゲーディ卿に、ルデュラン子爵が訪ねてきたとお伝えしてくれ」
 出迎えた使用人に告げて、バーネットはとりあえず玄関で待つことにした。
 玄関といっても、それ自体が一つの小広間のようなものであった。一階から二階までが吹き抜けになっており、高窓になっていたのでとても明るかった。正面の両側から階段が延び、踊り場にはアーバイエの風景画がかけられている。それは壁一面を埋めてしまうほど巨大なものだった。階段のわきに左右の棟に通じる廊下があった。
 頭上には大きな硝子のシャンデリアが下がっていて、バーネットはそれを見るたびに落ちてきはしないかと不安になるのだった。花崗岩の床は磨き抜かれていて、滑らないようにエトルリア産の絹の絨毯が敷かれていた。いつ来てみても飽きないと思いつつ眺めていると、先程の使用人が戻ってきた。
「ルデュラン卿、主人は応接室にてお待ちかねにございます。どうぞこちらへ」
 案内されなくても応接室の場所くらい覚えてしまっているのだが、バーネットはおとなしくついていった。案内された室に入り、使用人が行ってしまうと、彼はため息まじりに肩をすくめた。
「全く、儀礼的なのが嫌だとか何だとか言ってたのは、どこのどいつだ?」
「まさしくアーバイエ候その人さ」
 応接室の中央に置かれたソファに、シェレンは座っていた。またどうぞとも何とも言われないうちからバーネットはさっさと彼の正面に腰を下ろした。しかしシェレンがそれを咎めることは無かった。
「何か飲むか?」
「これで一杯どうだ?」
 バーネットは小さいが洒落た模様の壺を卓の上に置いた。壺が小さいじゃないかというような文句はシェレンの口から出てこなかった。それが市価では十デナールは下らない最高級のローレイン・アーフェルだということがすぐに判ったのと、彼の大好物の一つがそれだったからだ。そんな高級品をみやげにぽんと出せてしまうところ、やはりバーネットも貴族の子息であった。
「お前にしては気が利くじゃないか。おい」
 シェレンは呼び鈴で使用人を呼びつけて、冷たい水とグラスを持ってくるように言いつけた。自分好みの濃さ甘さのアーフェル水を使用人に作らせるよりは自分で好きなように好きなだけ作るというのが、彼とバーネットに共通した考えであった。言いつけたものが運ばれてくると、シェレンはさっさと人払いを命じた。
「で、話をしてもらおうじゃないか」
 言いながら、アーフェル蜜を溶かすかき混ぜ棒の動きは止まらない。
「議会での新帝擁立案のことだな」
 小さなスプーンで味見をして、シェレンは一人でうなずいた。ローレイン・アーフェルは酸味が弱く甘味が強い。なおかつアーフェル特有の喉に引っかかる渋みもないので、アーフェル水に関しては甘党を自認する彼も砂糖を加える必要はない。
「その議案が出てきたのはエレミルの二日か三日か、そんなくらいだ。前も話したが内容が内容だったから、ワルター殿は全ての議案を審議し終わってから改めてその議題にかかると決定した」
「否決されなかったのか」
 シェレンは頷いた。
「さすがにかちかちのドヴュリア公とか、クラディウス殿は渋い顔をしてたから、否決に票を入れたんだろうけど」
「だろうな」
 ドヴュリア公は齢七十を数える最年長の議員だし、エセル候クラディウスも同じくらいの年である。シェレンやバーネットくらいの若い貴族とは違って、聖帝を神のように思っていると言っても過言ではない。
「それで、何対何くらいだったんだ」
「六対四ってところか」
「シェレン、お前が出した議案ってわけじゃないよな」
 バーネットが冗談めかせて問うと、シェレンはむきになった。
「当たり前だ。十二選帝侯の筆頭って言ったって、俺はまだ二十四だ。反逆罪で死刑になってたまるか」
 死刑とまで言うと言い過ぎであったが、近頃の状況から考えるとシェレンのせりふも無理はなかった。さすがに十二選帝侯や大貴族の中にはそういう者はまだでていなかったが、金獅子宮に勤めている女官や小姓、地位の低い小貴族などではちょっとしたことでアレクサンデルの機嫌を損ねてカーティス城から追い出されたり、投獄されたりするものも少なくなかったのである。
 何か言われる前に、というように領地にさっさと戻ってしまう者もいたし、この頃のカーティス城は何だか人が急に減ってしまったように感じられていた。いかにバーネットが金獅子宮に出仕することが少ないとはいえ、この微妙な変化には気づいていた。
「反逆って言っても、議会で何が出たかなんて、陛下には判らないだろう」
「悪魔の噂は悪魔を呼ぶってやつだよ」
 シェレンは苦い顔をした。
「もしかしたら、アリオン殿かもしれないな。サライ殿の国外追放に、選帝侯の中で一番憤慨していたのはあのかただから」
「ああ……後見人だからな」
 ダネイン候アリオン・カイキアスは平民で孤児のサライがクライン軍に入った時の後見人である。亡き皇后ネイミアは彼の妹であるが、サライを息子の一人のように思ってくれていると、サライ自身からバーネットは聞いたことがあった。彼の領地出身の軍人では一番の出世頭だったから、それは当然だったかもしれない。
「それでどこまで話したっけ」
「ダネイン候の話」
「ああそうだ。まあとにかくアリオン殿はずいぶんこの件に関しては腹を立ててるって事だ。あと二、三人、将軍クラスか伯爵クラスで追放になる者があれば、ほとんどの議員が真面目にこの案を検討するかもしれない」
「簡単に言うなよ」
 バーネットは思わずそう言った。表立った行動をしていないシェレンはのんびり構えていても一向にかまわないのだろうが、すでにサライを庇う発言をしているバーネットはそうもいかない。恐らくレウカディアのダンスの相手をしたということも相まって、アレクサンデルの頭にしっかり残ってしまっているだろう。今度アレクサンデルの気に食わないことをしたら、ローレイン伯の息子という立場であろうとも降格くらいは免れないかもしれない。
「しかし、レウカディア殿下を聖帝にっていうのは、思い切った話だな。たしかに今帝位を継げるのは殿下ただ一人だけれども」
 二杯目のアーフェル水を作りながら、バーネットは呟いた。
「陛下というか、今までの皆の考えでは、パリス皇子とルクリーシア殿下の子供が男子だったら、その子を皇子として迎えて――とか、いっその事パリス皇子をクライン王に迎えるとか、そんなので、レウカディア殿下が出てくることはなかったものな」
 シェレンも相槌を打った。
「この話は進展があったらまた話す。それより、お前の話を聞かせてくれないか」
 興味津々といったようすで身を乗り出してきたシェレンに、バーネットは少し困った。何をどこまで話したものかと迷ったのだ。だが親友に隠し事をするのも嫌だった。
「サライ隊長の話だろう?」
「もちろん。殿下との仲については別の機会にじっくり聞かせてもらおう」
「……レウカディア殿下はメビウスと沿海州三国、ファロス、ジャニュアに親書を送って、サライ隊長が見つかったら連絡してほしいと頼まれてる。マナ・サーラの月にセルシャから、サライ隊長がアトと、もう二人の道連れとジャニュアに向かったっていう連絡があった」
 この話は予想外だったらしく、シェレンは少々大仰とも取れる手振りをしてみせた。
「殿下もなかなか行動派なんだなあ! で、二人の道連れっていうのは何者なんだ」
「セルシャからの話では、ティフィリス人とラストニア人の傭兵だってことだ。アティアの月になってから、ジャニュアからもサライ隊長がある貴族の起こした事件に巻き込まれた関係で連絡が来た」
「それって、ユーリ王女を誘拐しようとしたっていうあれだな」
 シェレンが口を挟んだが、バーネットは頷いて返しただけだった。
「その貴族の護衛団にサライ隊長が入っていて、誘拐を阻止して殺されかけたのがティフィリス人なんだそうだ。セルシャでも王妃に関する陰謀を未然に防いだとか」
「どこにいたって何かしら重大事件に関わるんだな。それがあの人の人徳ってやつなのかもしれないが。ひっそりと隠れて暮らすことができないというのも困りものだな。探す分には楽だけれども」
 感心してシェレンは言った。
「ヤナスがそのみ手に選びたまう人間っていうのは実際、ああいう人のことを言うんだろうさ」
 バーネットは、自らがサライのかなり熱心な崇拝者といっても過言でないということを親友の前では隠しもしなかった。彼のそういう態度は前々からのものだったので、シェレンはやや苦笑めいた表情を浮かべただけだった。同じ大貴族の中でも型破りとされている二人であったが、バーネットに比べたらシェレンの方がもう少し、考え方がかためだったし、サライと個人的に親しいわけでもなかったので、そこまでの肩入れはなかった。
 また、そうした一歩離れた見方ができる故に、彼にはアレクサンデルのとった行動の裏の気持ちが読み取れないでもなかった。
(おそらく、陛下が恐れたのはそれだ――。何だかんだ言ったって生粋の貴族であり、聖帝以外には上に立つものなどないはずの俺たちですら、この人のためならば何をしてもよい、命すら捧げてもよいと思わせてしまう、あの雰囲気――)
 そこにいる人々全ての目を釘付けにし、魅了してやまぬその姿。元来は彼ら貴族には目通りも適わぬような卑しい一平民でしかなかったはずでありながら、彼らの中の誰よりも美しく、気品と教養に溢れる《彼》。
(あの人は、生まれながらの王なのだ。よしや彼がそれを望まず、またそんな事を考え付きもしなかったとしても)
 一年以上も前、遠く離れたメビウスでそれとほとんど同じ言葉をヴェンド公ヘルリが告げたとも知らず、シェレンはなおも考えを巡らせた。
(それを利用しようとする輩がいないとも限らないし、現にバーネットですら彼を崇拝しかねないほど尊敬しているところからすれば、もっと下々の者たちはそれこそ神のように崇めるだろう。陛下の眼前で万歳を唱えたばかものがいたくらいだ。あれがなくてもいずれ何かの理由でああなっていただろう)
「どうした? シェレン。何を考え込んでいるんだ」
「大した事じゃない。ただ少し、サライ殿のことをな。今はジャニュアにいるのか」
 バーネットは頷いた。
「今のところは、だけれども」
(だからこそ――……だからこそだよ、バーネット)
 彼の返事を聞きながら、シェレンはほんの少しだけ憂い気味に眉を曇らせた。それはあまりにかすかだったので、バーネットは気づきもしなかった。
(あのひとは、クラインの平和のためには、戻ってこない方がいいんじゃないかと思うんだ……)
 結局、シェレンのその呟きは声に出されることなく終わってしまったが、彼の声には一抹の陰りのようなものが忍び込んでいた。
「いつか、戻ってこられるようなご時世になるだろう。そのご時世ってやつを作り出しているのは聖帝陛下と俺たちに他ならないが」
「退位させるなんて話は穏やかならないが……しかし陛下はもう昔のような方には戻らないのかな。ネイミア陛下がご存命だった頃は良かったな。それでなくてもルクリーシア殿下が陛下をお諌めくださっていた時は」
 バーネットの嘆息は、このごろ金獅子宮でとみに交わされる会話、人々の心中そのものだった。レウカディアも父の短気やきまぐれを諌めるようにはしていたが、物言いの優しいルクリーシアに対し、レウカディアは下の姫として甘やかされて育ったせいもあってか思ったことは歯に衣着せずずばりと言ってのけるところがあった。それがまた、アレクサンデルを依怙地にさせるのだ。
 しかし、こんな愚痴をシェレン相手に言っていても時は巻き戻せぬし、何かが変わるわけでもないとよく心得ていたバーネットはそれ以上言うのをやめた。シェレンもそれを察したようだった。
「話がずれてばかりだな。俺が聞きたかったのはあの人の消息だったはずなのに。セルシャからジャニュアにいったまでは判ったよ。それで、連れの傭兵二人について、もっと詳しいことは判らないのか? あの人が雇ったのか、それとも――」
「どうやらセルシャで出会って、友人になったらしい。これはギルドと関わりなく皇女殿下が部下をやって調べさせたことなんだが、その者はジャニュアまで行って確認してくるそうだ」
「そこまでやるのか。殿下は」
 シェレンはびっくりした。いくら肩入れしているからといって、自分の魔道士を使うとはやりすぎであった。アレクサンデルに知られればただではすまない。
「俺も、ご自分から部下を出すのは危険だとお止めしたんだが、さすが血は争えないのかえらく強情でな。金で雇われるような者は信用ならないと仰って」
「だからって……」
 誰を友にしようが個人の自由だし、そこまで干渉するならこっそりと呼び戻して匿えばどうだとシェレンは言いたくなった。臣下に惜しみない愛情を注ぐレウカディアが悪いとは一概に言えないが、しかし魔道士をやって身辺を探らせるまでするとなると、ただの好意や心配というよりもむしろお節介に近い。
 自分の気に入ったものにそうやって目をかけ、大切にしたがるのは良いことなのだが、まかり間違えばそれは贔屓になる。ましてレウカディアは一国の皇女である。彼女が本当の好意から良くしてやっても、それにつけいる輩は必ずいるし、寵臣になれなかった者の妬みや嫉みもついてくるだろう。ふとシェレンは背筋が寒くなるのを感じた。だがそれを振り払うように首を振った。
「まあ、いい。続きを話してくれ」
「あと話すことと言ったら、名前くらいだが。ティフィリス人はアインデッド、ラストニア人はアスキアのアルドゥイン。年はサライ隊長より一つか二つ上だそうだ。腕が立つことは間違いない」
「アインデッドに、アルドゥインか。珍しい名だ」
 シェレンは先程の憂悶のかげりも忘れて楽しそうに繰り返した。
「たしかに。アインデッド英雄王の名は実際の人間につけるものじゃない」
 半分近くティフィリスの血が流れるバーネットは、もっともらしく頷いた。
「アルドゥインはあまり聞かない名だが、そんなに珍しかったか?」
「いや、そんなに――アインデッドほどは珍しくないだろう。英雄とかの名前でもないし。ただその男はアスキアの者なんだろう? 年は二十三、四で」
 バーネットは何がそんなにシェレンの心に引っかかっているのかを理解した。
「お前が言いたいのは《ナトラバ騒動》の話だろう? 俺だってそれは考えたさ」
 ナトラバはラストニアの首都である。《ナトラバ騒動》とは、そのナトラバで六年前に起こった事件の事だった。沿海州とそれほど深い国交があるわけでもないクライン人の彼らがそれを覚えていたのは、ラストニア王国と、クラインが港を借りているファロス大公国とが、血縁関係で結ばれた友国であり、ラストニア王家の者がファロス大公を継ぐ可能性もあったからである。
 現在のファロス大公ドジェには公女スクリボニアがいるのみで、若くして未亡人になった彼女に跡継ぎはいない。ラストニア王ギースもまた子宝に恵まれず、この二つの国は後継者問題に頭を悩ませている。この二王家と縁戚関係を持つのが、アスキアのヴィラモント公爵家という名門貴族である。現当主イシドールの妻クラレはラストニア王の双子の姉で、イシドールの母はファロス大公の従姉妹というように、ヴィラモント家と二王家は代々嫁ぎ嫁がれを繰り返している。そんなわけで、ヴィラモント家の次期当主はラストニアとファロスの王冠に最も近い者なのである。
 もちろんそれを快く思わない者がいるのも当然で、三人いるラストニア王の妹たちが、己の産んだ息子をラストニア王にしたがるのも当然の成り行きである。《 ナトラバ騒動 》とは、ヴィラモント公爵の当時十六歳だった息子が、ナトラバ城内で何者かに斬りつけられ、あわや殺されかけたというまことに芳しからぬ事件であった。
 黒幕は判らずじまいで結局うやむやのうちに終わってしまったが、彼の三人の叔母の誰かであろうともっぱらの噂であった。そして、前々から何度も毒を盛られるなどの暗殺にさらされていた次期当主はそれですっかりこの跡目争いに嫌気がさして、国を出奔してしまったのである。
「あのヴィラモント家の息子というのがたしかアルドゥインという名だった。まさかとは思うが」
「仮にそうだとしても今は一介の傭兵なのだろう。身分を隠しているにしても、犯罪者ではないんだから、心配することじゃないと俺は思うよ、シェレン」
「それは、そうだな」
 シェレンは素直に認めた。ただ、どこまでも「普通の人」になりきれないサライの運命にこっそり同情したのだった。

前へ  次へ
inserted by FC2 system