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 いつも花と色彩が溢れている双子宮に、魔道師の黒いマントは奇妙なほど浮いて見えた。クラインは魔道の国であり、この宮殿の女主人である皇女からして魔道師の資格を有していたので、魔道師のいでたちというのは女官たちにとってそれほど物珍しいものではなかったのだが、しかしあまり似合う光景ではなかった。本人もそれを自覚していたのか、シャルラの足取りは早かった。
「レウカディア様、お客様にございます」
「どなた?」
「宮廷魔道士、シャルラ・ラーダ様にございます」
「お通しして。それとアーフェル水とおもてなしを何かね」
 女官が伺いを立てに来る前に、遠話でこれから訪れることを告げられていたので、レウカディアは滅多にない彼女の来訪に驚いた様子も見せなかった。女官が出て行くと、すぐにシャルラが入って来、ドレスの裾をちょっとつまんで略式の礼をした。
「先触れもなく尊き御前を汚し奉ります無礼をお許しください」
「変な口上はよして頂戴よ。先触れはあったじゃないの」
 レウカディアはくすくすと笑った。今日の彼女はあざやかな薄緑のしゅすのドレスの上に、白いレースのガウンを重ねていた。髪には金の紐が編みこまれ、黒と金とで美しい対照をなしていた。何の公務もないこともあり、着飾ってはいなかったが、間違いなく彼女は世界で最も美しい女性の一人だった。
 しかしシャルラは彼女自身も認めているように地味であった。白地に濃青で細かい蔓草と花の模様を織り込んだドレスは、今の流行に合わせて襟ぐりを大きくとり、肩をあけるデザインであったけれどもマントで全く見えなかったし、身に付けている装身具はといえば祈り紐の束に、神聖古代文字を刻んだイヤリングときていた。彼女は身を飾るということに全く執着しない女性だったのである。
「今日は何のご用事? ギルドの事、それとも宮廷のこと?」
「どちらとも、といえます」
 シャルラはすすめられた席に着いた。アーフェル水を運んできた女官は、まるで自分は給仕をする機械だとでもいわんばかりの顔をしていたが、訪れたのがバーネットではないことに内心がっかりしていた。シャルラがレウカディアを訪れたというのも、それはそれで面白い話題ではあったが。
 女官が退出したのを見届けてから、シャルラは口を開いた。
「殿下が個人的に魔道師をジャニュアに派遣なさったことにギルドは気づいております。現在はまだ何の反応も出していませんが、今一度の派遣はお考えください」
「ギルドが……」
 レウカディアは神妙な顔をした。十二ヶ条に違反はしていないが、個人的な部下をギルドの承諾なしに使ったことをギルドへの造反行為とみなされてしまわないとも限らない。もちろん彼女とてその程度の予測はしていたが、こうしてシャルラから現実のものとして聞かされると、急に不安になった。
「もし私に何らかの処分が下るにしても、部下を個人的に持つことを禁じられるか、謹慎処分を受けるか、その程度だとは思うけれども、父上に知られては厄介だわ」
 むしろその事が最も気掛かりである。バーネットとのダンスを押し切ったことが予想外にも宮廷中の噂になり、この三日間彼が訊ねてくることも手紙なりがくることも無いという結果になってしまったことで、軽はずみがいかに危険であるかをやっとレウカディアは理解し始めていた。彼女がバーネットと急接近したことと、サライの国外追放を結びつけることはさほど困難ではない。少し調べればレウカディアが親書を送ったこと、魔道師を送ったことなどすぐ明らかになってしまう。
 いまさらになって深刻な面持ちになったレウカディアに、「だからおやめになったほうがいいと申し上げたのですよ」と言いたかったが、シャルラは口を閉ざしたままでいた。レウカディアもこれでよく思い知ったろうと考えたのだ。
「ただ、ウェルギリウス大導師は、私が各国に皇女の親書を送ったことを良くご存知よ。大導師の護符を貸していただいたから。それを父上に奏上していないということ、いま少しの猶予を与えてくれているのではないかと思うわ」
「私もそのように愚考いたします」
 シャルラが同意したので、レウカディアはたちまち元気になった。
「早いうちにギルドに正式に釈明して、謝罪が必要ならそうするわ。魔道師の塔と政治がかかわりを持たずにいるというのはこういう時に役立つのね。……ねえシャルラ、それで大丈夫だと思う?」
「おそらくは」
 断言はしなかったが、レウカディアは自分で出したこの結論に満足したようだった。
「他には何かあるの? シャルラ」
「殿下のお耳を煩わすほどの事は特にはございませんが、私が個人的に少々お尋ねしたいことがございます」
 レウカディアは軽くつまめるように、美しい硝子の盆に盛られた焼き菓子を一つ口に放り込んだ直後だったので、何とも幼い顔をしてシャルラを見つめた。いつも事務的なシャルラが雑談らしいことをするのは初めてかもしれなかった。
「なに?」
「バーネット・ルデュラン子爵の件です」
 その名が出ると、レウカディアはまたか、といいたげなうんざりしたようすを見せた。これには彼女にも弁解の余地があった。パーティーの後から今日に至るまで、連日来客に彼との関係や、何故踊ったのかとか、あれやこれやと尋ねられて、相当に疲れてもいたのだ。
 彼女のこの反応を目の当たりにして、シャルラには大体の宮廷の反応一般と呼べそうなものがのみこめた。ルデュラン子爵を好きであれ嫌いであれ、ほとんど全ての人にとってこのカップルは意外中の意外だった、ということである。
「シャルラは知っているでしょう。どうして彼が私のエスコートをしたのか、どうして彼だったのかって理由を」
「ええ、もちろん良く存じております」
「だったら何をききたいの?」
 レウカディアはいかにも恋に慣れないうぶな少女、といった感じであったし、まさにそうであった。シャルラのような大人の女性からしてみれば、いくら大人ぶってみせていてもやはり彼女は男女の機微に疎い、子供に他ならなかった。
「ルデュラン子爵にエスコートを依頼なさったのは、その場の座興――いえ、他に適当な殿方が思い当たらなかったからですか?」
「いいえ」
 その答えはきっぱりとしていた。
「最初はそのつもりだったけれど、バーネットの顔を見たら、直感がひらめいたの。ああ、私と踊るのはこの人しかいないのだ――と。もちろん、皆が色々と詮索もすれば横やりを入れてくるだろうことも判っていたけれど、とにかくその直感は確かだったのよ」
(いえいえ、ちっともお分かりになぞなっておりませんわ――!)
 シャルラは心の中でこっそりとつぶやいた。大国クラインの皇女ともあろう者が、その成人を迎えるパーティーで最初に踊る相手ともなれば、それなりの格というものが必要である。その点ではバーネットが最初に断ろうとした理由は尤もだった。たとえ一州を治める伯爵の子息であっても、自身は子爵で、精鋭軍の隊長という身分もそれほど高いわけではない。
 それでもバーネットが彼女のエスコートを引き受けたのは、頑なに断ればレウカディアの誇りや自尊心を大きく傷つけてしまうと判っていたからだ。彼は決して口には出さなかったけれども、その程度の心情は話を聞けばシャルラならずとも読み取れた。
「と仰られますと、殿下は」
 シャルラは恐る恐る尋ねた。
「成人式のパーティーも、バーネット卿と最初にダンスなさるおつもりですか」
「それは、判らないわ」
 ちょっと困ったように首を傾げたレウカディアはとても愛らしかった。その仕種の愛嬌が彼女の最も大きな魅力の一つであった。
「父上からは先日の事に関して何もうかがっていないし、私の結婚相手も全く決まっていないもの。ただ、誕生日のダンスの相手は誰にしろと事前に命じられたのではなかったし、バーネットと踊ったことを咎められたわけでもないから、別段かまわなかったのだと思っているわ。私としては次もバーネットと踊りたいけれど、他の殿方と踊るように――ようするに結婚するように父上に言われたら従うしかないでしょう。だから今何と言っても仕方がないわ。父上が私の意向を肯いてくださればいいんだけど」
 当のアレクサンデルにその気が全くないと言っても過言ではないことをシャルラはつきとめている。彼も一人の父親である。姉姫のルクリーシアはメビウスにかたづいてしまっているが、残るもう一人の娘レウカディアの結婚相手については頭を悩ませていた。誕生日のダンス事件については当事者の父親同士――つまり聖帝と貴族議院長とが極秘に相談した結果、今回ばかりは慣例どおりにはしないこと、つまり誰とレウカディアが踊ろうが婚約などとは全く関係なく、後々吉日を選んで皇帝から婚約者となりうべき青年貴族を発表するか、縁組の申し込みを受けるということに決まっていた。
 しかしこれもなかなか強引な決着方法だった。このような例外は近年では成人前にジャニュアに嫁したアレクサンデルの姉姫クレシェンツィア皇女の例だけである。
 皇女が二十歳になるまでに婚約者なり候補なりをきちんと決めておかなかったという点でアレクサンデルも無責任の謗りを免れなかったろうが、誕生祝いの舞踏会でこれほどの騒ぎが持ち上がったのは恐らく三千年のクライン史上でも珍しいことで、噂好きの宮廷人たちにとってもこれほど面白い事件はアレクサンデルの治世始まって以来であるのはたしかだった。
「皇帝陛下がお選びになるのなら恐らくアーバイエ候シェレン卿か右府将軍アストリアス閣下、ラテラン候のご子息アウレリアン様、エセル候の孫息子のセオダール様……ともあれ十二選帝侯のご子息の中から、だと思いますが」
「でしょうね」
 いくぶんしょんぼりしてレウカディアは手元を見つめた。結婚という言葉は、このうら若い皇女の中ではまだ遠い将来の漠然としたものごとでしかなかった。彼女の姉は二十一で嫁いでいったわけだが、彼女と姉とは全く違うと認識していて、まさか彼女自身が世継ぎの皇女になってしまうとは予想だにしていなかったのである。
「でもバーネットは私にとって特別なのよ」
 レウカディアはしんみりと言った。このせりふは丁度アーフェル水のお代わりを捧げ持ってきたアスリアの耳に飛び込んできたもので、彼女がこの決定的なせりふをしっかりと聞き取っていたのはいうまでもない。
(これは殿下に判っていただくとなると、一荒れも二荒れもしそうね。何か一つに思い定めたらてこでも動かないところは聖帝陛下とそっくりでいらっしゃるから)
 いつバーネットが、シャルラに教えた決心をレウカディアに告げるのかは判らないが、現時点で自分の恋は前途多難な上に一番の障害となるだろう父親はおそらく肯じないとレウカディアが理解してなお諦めるつもりがないとなると、彼女の決意は相当にかたいものとみて間違いない。
(まあ、ワルター卿が陛下に奏上したおかげで、これから先ダンスのエスコートをいくら務めても婚約問題に発展することはないけれども。バーネット子爵も、自分がかなりの美男だと自覚していないのがまた困ったところねえ……)
 シャルラの物思いは少々脱線気味になっていた。
「ねえシャルラ」
「はい」
 レウカディアはいつになく屈託のある様子で視線を膝の上に落とし、指を組んだりはずしたりを繰り返してもじもじしていた。彼女が話しだせるようにシャルラは黙って待っていた。
「あ……あのね」
 レウカディアの白い頬がぱっと薔薇色に染まった。
「結婚って、夫となる男性と恋をしていなくてもできるものなのかしら」
「はあ……?」
 思わずシャルラは拍子抜けた声を出した。レウカディアの顔はとうとう耳まで赤くなって、顔を伏せてしまった。
「だから……結婚に恋は必要なの?」
「場合によりけりだと思いますが……」
 シャルラもレウカディアに負けず困って答えた。いきなりこんな所で結婚観を語らせられる羽目になるとは思っていなかったのだ。言葉を濁したシャルラに、レウカディアは切羽詰ったように声を上げた。
「シャルラは結婚してるでしょう? 人生の先輩じゃないの。お願いよ。教えて」
「……私の場合はまあ……恋愛をしたと申せましょうか……。そうですね、相手を好きかどうか、ということは確かに重要だと思います。一生涯をともに過ごすのですから」
「シャルラはナエヴィウス師が好きなの?」
 無邪気なレウカディアの質問に、彼女は困った。
「好き、というより……尊敬しております。一魔道師として、人間として。そういった関係もございます。ですから人それぞれで、『こうでなくてはならない』ということは恋愛にも結婚にもないと思います」
「人それぞれ……」
 レウカディアは繰り返して呟いた。
「シャルラとナエヴィウス師は尊敬しあっているのね」
「というより、私と夫は十二も歳が離れておりますし、元は夫が兄弟子筋に当たる人でしたから……。恐らく、殿下のご想像なさる夫婦とは全く違うものでしょう。たしかに愛してはおりますが」
 シャルラはいつもの彼女らしくなくはにかみながら答えた。クライン宮廷を小さなこうもりのように飛び回る女宮廷魔道士が実は既婚者で二人の子持ちだという事実は意外に知られていない。だからこそバーネットが彼女の発言に驚いたりしていたのである。
「ああ――、いいなあッ」
 突然レウカディアが大きな声を出したので、シャルラはびっくりした。きょとんとしている彼女にレウカディアはうらやむような目を向けた。
「少なくともシャルラには選択の余地があったわけだし、本当にシャルラを愛してくれている人と結婚できたんでしょう。羨ましいったらないわ。私なんて、父上がこの人と結婚しなさいって言われたら答えは『はい』しかないんだもの。皇女でなければよかったなんてわがままは言わないけれど、せめてクライン人じゃなくてもいいってことならよかったのに」
 それも充分わがままだったろうが、彼女の心中を如実に表した一言だった。確かにレウカディアにも、ルクリーシアにも結婚相手を選択する自由は与えられていなかった。それが王族の一般常識であり、政治だった。
 だが運命だとか皇女の義務として悄然と受け入れるには、レウカディアはまだ若く、その心は自由でありすぎたのだった。

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