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    支配者たる者は国を愛し、己を愛するがごとくに
    民を愛せよ。人は愛を以て愛に報いるがゆえに。
                        ――アルカンド
                        「為政術」序章




     第一楽章 黒曜石の協奏曲




 レウカディアの二十歳の誕生日を祝うパーティーは波瀾に満ちたまま終わりを告げ、女官や小姓たち、そして貴族たちもいつもどおりの公務に次の日からまた戻っていった。
 レウカディアがダンスのエスコートをローレイン伯爵の子息バーネット・ルデュラン子爵に申し込んだこと、彼がそれを受けたことなどはすでに宮廷じゅうの噂となり、もう三日が経とうとしているのに、宮廷雀たちは行き交う人ごとにその話題を持ち出してはぺちゃくちゃとお喋りをしあうのであった。そういったお喋りは、誹謗中傷となりかねないところまで発展するのが常である。
「レウカディア殿下も何をお考えになって、ルデュラン子爵をお相手に選ばれなさったのだろうね。てっきり私はアーバイエ候がお相手になるものとばかり思っていたよ」
「さすがローレイン伯爵の子息、血は争えないということでしょうかな」
「そういう人物には見えないのだがね……」
「いやいや、こういう番狂わせがあるからこそ、楽しいというもの」
(まだしばらくは言われるのだろうな……)
 バーネット・ルデュランはそんな自分への謂われのない悪意、好奇心に満ちた目を毅然と受け止めるだけの度量のある男だった。ひそひそと交わされている、自分に関しているであろう会話を聞き流して、彼は金獅子宮の一角を足早に通り過ぎていった。
「バーネット子爵」
 ふいに呼び止められて、バーネットは大理石の床を長靴の踵で鳴らしながら振り返った。彼を呼んだのは色白でそばかすの目立つ、それなりに整った顔立ちの女魔道師だった。相変わらず、地味で飾りも模様もない鶯色のドレスの上から、鴉のように真っ黒い、飾りもドレープもない魔道師のマントを羽織っている。ごく親しい間柄、というわけではないが、バーネットの顔はほころんだ。
「シャルラ・ラーダ。……珍しいことですね。あなたにここで会うとは」
 宮廷魔道士であるシャルラが金獅子宮にいることは何ら不思議なことではないが、彼女は非常な人嫌いで、宮廷に参内することもほとんどない宮廷魔道士として知られていたから、こんなところに彼女がいるのは妙と言えば妙であった。
「時には、参内するのも悪いことではないと最近は思うようになりましたので」
「私と姫の噂を聞きに、でしょう」
「お察しの良いこと」
 シャルラは軽く肩をすくめて、それを肯定した。二人が立ち止まったのは練兵場に向かう途中の回廊だったので、行き交う人も少なかった。
「あの節は大変お世話になりました。助け舟を出していただいたおかげで、ほんとうに助かりました」
 バーネットは折り目正しく一礼した。シャルラは少し微笑んで会釈を返した。
「そのお礼なら、イリア様たちにおっしゃったほうがよろしゅうございますわね」
「あいにくと、普段ではお目にかかれないものですから。あなたから伝えて頂けると嬉しいのですが」
「もう少し社交好きになられれば、だれかのお屋敷でお一方くらいにはお会いになることができるでしょうけれど」
 皮肉のようにシャルラは言った。だがバーネットが意に介した様子はなかった。社交嫌いをのことをとやかく言われるのにはもう慣れていたのだ。その代わりに少し弁明するように言った。
「私の社交嫌いはあなたも知っているでしょう。毎日魔物相手に格闘していると、きらびやかなドレスの貴婦人や姫君相手では、かよわすぎて触れただけで壊してしまいそうで怖いんですよ。それに私は父のように風流な趣味は持ち合わせていないし、ダンスだってお世辞にも上手いとは言えませんからね」
「でも皇女殿下とはなかなか見事に踊っていらしたようですわね」
 シャルラの言葉に、バーネットはさあ、というように無言で首を傾げてみせたので、シャルラはもう少し、言葉にとげを含ませた。
「皇女殿下以外の姫君とは、どう踊られるのです?」
「妹にはさんざん言われていますよ」
 その皮肉にひるむことなく、バーネットは諦めたような口調で言った。それから小柄な女魔道師の目を真っ直ぐに見て告げた。
「ともかくも、今後は何があっても皇女殿下のエスコートにはまわりませんよ。先日のダンスのお相手も座興であったということで終わりにしていただくつもりです」
 シャルラの焦げ茶色の瞳が大きく見開かれた。
「皇女殿下はそれで納得なさる方ではありませんわ」
「判っています。ですが殿下が私に好意を寄せてくださるのも、サライ様のことでたまたま、私と話す機会が増えたから、他に身近にいて殿下と話をする男性がいなかったからにすぎない。殿下はご自分でそれを恋だと誤解なさっていらっしゃる。そんな思いははしかみたいなもので、二三年経ってしまえばあっさりと消えてなくなります。私と殿下は、サライ様という方によってつながりを持っている、それだけの関係です」
「殿下は、多分本気であなたを……」
「シャルラ・ラーダ」
 バーネットの声に、彼女は言葉をと切らせた。サライに話していて口をつぐまざるをえないときと違って、その声は威圧的でも怒りを隠したふうでもなかった。だが優しい響きを帯びているがゆえに一層、口をつぐまざるをえなかった。
「私の家柄では皇女殿下にはまったく釣り合わないし、殿下と結婚する男はクライン王、もしくはカーティス公になるわけです。私にはまったく合わないし、なる気もない。私には今のまま悪魔相手に全国を飛び回っていたほうがどれだけ似つかわしいことか」
「あなた自身がそうおっしゃるのなら仕方がないことですが、少なくともわたしの目には、あなたはとても魅力的な男性に映りますけれど」
「魔道師の、貴女に?」
 バーネットは驚いたように言った。シャルラはそんなふうに言われるのは心外だと言わんばかりの手振りをしてみせた。
「魔道師だからといって、誰もが聖人のように身を高く持しているというわけではないのですよ、バーネット子爵。たしかに一般人との結婚は禁じられていますし、異性との恋愛にうつつを抜かして修行を怠ることになればそれは問題ですけれど、別段愛し合ったからといって力が無くなるわけでも、半減するわけでもありませんもの。魔道師の中にはそういう堅いひともいるみたいですけど」
 それに、レウカディアだって魔道師の一人には変わりないのだ――というせりふを、シャルラは言いかけて飲み込んだ。とりあえずそれは、シャルラが言うべき言葉ではなかったからだ。
「ともあれ――わたしがあれこれ言うことでもありませんわね。愛とか恋とかいうものは、周りがどう言おうと結局は当事者同士のことですし。……皇女殿下に、先程のお話をなさるの?」
代わりにシャルラはそう言った。
「ええ。近いうちにそうするつもりです。では失礼、ドムナ・シャルラ」
 バーネットは気を悪くしたでもなく、軽く頭を下げて歩き出した。真っ白いマントがふわりと揺れて、回廊の奥に消えていった。たしかに、ひとの恋愛についてとやかく周りが言ったところで何かが変わるということはない。バーネットの出した結論は当然といえば当然であった。
 クライン皇家は万世一系をもってその誇りとしている。
 他国に嫁いだ皇女はその帝位継承権を失って、請求権者に降格する。また、請求権を継承できるのはその孫までと定められている。皇后に迎えられるのはまずほとんどが純系のクライン人であるし、他国よりも格段にその基準が厳しい。滅多なことで高貴なクライン人の血を一段劣る他国の血と混ぜてたまるか、という、その他国から見れば腹立たしいことこの上ない自尊心があるのだ。
 であるから、クライン皇女であり、やがて女帝になるレウカディアの婿になる男もまた純血のクライン人でなければならないだろう。母親がクライン系とはいえ、バーネットはあくまでもティフィリス人である。レウカディアの夫になるには相当な障害があるに違いない。
(それでも、レウカディア殿下がバーネット子爵をお選びになるなら、それはクライン帝国始まって以来のことになるわ。万世一系、純血のクライン皇家に、初めて他国の血が混じる、という……)
 シャルラは深いため息を吐いた。彼女自身がいみじくもいったように、恋というものは当事者同士のことなのだが、レウカディアは一人の娘である前に一国の皇女である。彼女ひとりだけの感情で、何千年もの間続いてきた皇家のしきたりを変えることはできないだろう。
 レウカディアがどう考えているのかは判らないが、誕生日の出来事はけっこう大きな波紋を広げていたのだった。

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