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 目を開けたのか、閉じたままなのかも判らないような闇が眼前に広がっていた。頭の奥がまだぼんやりとしていて、鈍い痛みが澱のように沈んでいる。黒蓮の眠り薬を一時に大量に嗅がされたせいだろう。
 冷たく、湿り気を帯びた土が直に体に触れていた。空気全体が淀んでいて、かびくさく湿っぽい。体の感覚が戻ってくるにつれて、腕を後ろ手に縛られていること、足までごていねいに縛られていることにアインデッドは気がついた。ついでに叫んだりできないようにさるぐつわまで噛まされていた。
 何はともあれ、真っ暗闇は耐えがたかったので、アインデッドは明かりをつける方法を考えた。
(スペルを使うのはまずいな……燃えるものがあるとおおごとだ。ええと……何だっけ。そうだ、アルハ……ヴェルジュス・ネ、……クォ、ト……ルス)
 体を横向きにして、意識を集中しながら神聖古代語(エロリア)の呪文をアインデッドはどうにか思い出した。それは彼が使える数少ない魔道の一つであった。切れ切れの呪文だったが、効果はちゃんとあった。後ろ手に縛られた彼の指先がぼうっと青白く光りはじめ、やがて熱くもなければ音立てて燃えることもない魔道の炎が現れた。
 それでやっとアインデッドは周りの様子を見ることができた。魔道の明かりだけではいくぶん心もとなかったが、それでも真っ暗であるよりはずっとましだった。しかし手は後ろにあったので、見づらいことに変わりはなかった。
(ルス……クェ……ス・タール・ヌフ)
 心の中でまた呪文を唱えると、炎はアインデッドの手を離れて彼の顔の近くに飛んできた。その明かりで、アインデッドは自分の体をざっと確かめた。どこにも外傷はないようだったので、ほっとした。すぐに眠らされてしまったし、抵抗らしい抵抗はしていないのでそれも当然だったかもしれない。
 横たわっていたのは土の上で、天井も壁も岩盤を掘り抜いたままにしてある。アインデッドが放り込まれているのは天井の低い洞窟みたいな場所で、唯一の出入口には太い鉄棒が狭い間隔で嵌めてあった。明かり取りの窓すらないことから、地下牢なのだと察しをつけた。
(ここは多分、セシュス伯爵の屋敷の中だろうな。今、何時だろう。夜が明けたか、それともまだか……)
 黒蓮の粉のせいで、前後の記憶はかなり曖昧になっていた。
(ソルトワっていうのは、セシュスの名前だったんだ……まあ、今判ったってどうしようもねえけどよ。それより俺がこれからどうなるか、だな。歓迎されてるとは到底言えねえからな……だが、死ぬかもしれないって気はしねえ)
 その時、ずっと遠いところで扉がきしむような音を聞いて、アインデッドは慌てて魔道の明かりを消した。魔道を使えると知られたら、封じるためにどんな事をされたものか、判ったものではなかった。再び真の闇に戻ってしまった牢の中で、アインデッドはじっと息をひそめ、土に耳をつけた。
(足音が……三つだ。多分セシュスのと、あとは……あの御者ともう一人の男か)
 嬉しくもなんともなかったが、その予想は当たった。カンテラを下げた小男を先頭に、セシュスが大男を従えて牢の前に立った。小男は昨夜の御者だった。大男の姿形をアインデッドは確認できなかったから、頭をつるつるに剃り上げた、この筋肉の塊みたいな男が昨日の男なのかどうかは判らなかった。
 歩いてくる途中、火を入れていったのだろう。牢の前の通路も今はぼんやりと明るくなっていた。
「そやつを出せ」
 鉄格子の扉が開かれ、小男が入ってきた。アインデッドの腕を縛っている縄を掴み、ずるずると引きずり出した。それからあの大男がひょいと彼を抱えた。恥辱的な仕打ちだったが、ここで騒いであとあとひどい目に遭ってもかなわなかったので、アインデッドはぐっと唇を噛み締めた。
 暗い通路を運ばれて、たどり着いたのはさっきよりももう少しは明るい部屋だった。壁はきちんと漆喰で塗られていたし、床も石で葺いてあった。だがその部屋に置かれているものといったら、びっしりと棘を植え込んだ椅子だの、手足を挟んで捻じ曲げる道具だのといった恐ろしい道具ばかりであった。それでアインデッドは、相手が自分にやろうとしていることを理解した。
 腕の縄が外されて代わりに鉄鎖につながった枷を両手に嵌められた。鎖は天井の滑車につながっていて、床に爪先が触れるか触れないかのところで吊り下げられる形となった。小男と大男の二人が彼の上着を引き剥がし、そこでやっと、さるぐつわを外された。
「っ……あんた、いつかの夜の《伯爵》だったんだな……」
「覚えていたのかね。これは光栄だな」
 セシュスは笑った。顔立ちは悪くなかったが、酷薄そうなうすいくちびるや、冷たい目がどうも彼に嫌な印象を与えていた。
「あんたこそ、物覚えがいいんだな」
 無性に苛立って、アインデッドは挑発的な言葉を使った。
「あんたがあの日さらおうとしてたのは、ユーリ姫だろう」
「……」
 セシュスはちょっと片眉を上げた。
「姫を襲ったって、あんたには何の得にもならないはずだ。むしろ自分の立場を悪くするだけだろう。どうして、そこまでする必要があった」
「キール、少し黙らせろ」
「かしこまりました」
 セシュスは小男に向かってちょっと顎をしゃくった。その言葉を合図に、鞭がアインデッドの背中を打った。
「あうッ」
「へへへ、いい声してるなあ、ぞくぞく来るぜ」
 思わず悲鳴を上げたところに、キールが厭らしい笑みを浮かべた。
「もっと泣きな!」
「くっ……ううっ」
 相手を喜ばせるのは死んでも嫌だったので、唇が破れて血がにじむほど噛んでアインデッドは声をかみ殺した。
「ほら、泣け! 叫べ!」
 喜悦の混じった声で、キールはわめいた。その鞭捌きは容赦なく、正確にアインデッドの体を打ち据えていった。その苦悶の表情を眺めながら、セシュスは置いてあった彼専用と思われる革張りの椅子に座った。そして、ゆっくりと言った。
「お前は襲う、と言ったが、その必要など無いのだよ。ただ少し薬を使って私と結婚したいと願うよう暗示をかけ、戻してやればそれで済むことだ。そのためにはユーリを一旦捕らえておかなければならなかった。……キール、それくらいで止めろ。それからもう少しこいつを下げろ」
 アインデッドの体が床に膝を突くくらいに下がると、セシュスは立ち上がり、力を失ってがくりと垂れたアインデッドの頭を、髪を掴んで仰向かせた。
「それをお前と、お前の仲間が邪魔をした」
「……どう、考えたって……あんたが悪者じゃねえか……」
 セシュスの顔が引きつった。次の瞬間、アインデッドは脇腹をしたたかに蹴られて咳き込んだ。
「オロ、あれを持ってこい」
 大男はオロという名らしかった。今までじっと立っていたオロはのっそりと動き出して、部屋の隅から樽を抱えてきた。それをアインデッドの横に置くと、その衝撃で中身の水が少し溢れた。アインデッドはとっさに息を止めた。予想どおり息を止めるか止めないかといったところで、セシュスの腕が彼の頭を水の中に思い切り沈めていた。
「傭兵ふぜいが、この私に大きい口を叩くな!」
 セシュスの怒声が、水を通してくぐもって聞こえた。もう息が切れる、と感じた頃にやっと頭が引き上げられた。
「う、げっ……げほ……ッ」
「お前はティフィリス人だろう。ええ? よくもぬけぬけとこのジャニュアに来れたものだな。ティフィリスの、傭兵の分際で、きさまはこの私に恥をかかせた」
「………」
 アインデッドは横目で自分の髪を見た。濡れたところは染めた色が流れて、地の赤が見えている。再び、頭が水に沈んだ。今度は息を止めている暇もなかった。鼻と口に水が流れ込み、息が詰まる。必死に頭を上げようとしたが、がっしりとした手がアインデッドの頭を掴んで放さなかった。おそらく、オロの手だろう。
 死ぬのではないかと思ったころ、ようやく水から上げられた。アインデッドは激しく咳き込んで大量に水を吐き出した。セシュスは再び椅子に戻った。
「キール、オロ、このティフィリス人を、赤い髪が似合うようにしてやれ。ただし殺してはならん」
「へえ、かしこまりました」
 二人は殆ど同時に答えて、オロが樽の中の水をアインデッドに浴びせかけた。殴っても肌を破れにくくするために濡らすことがあるというのをアインデッドは知っていたので、これから自分がどんな目に遭わされるのか、予想はすぐについた。
「へへ、またいい声で泣けよ、お嬢ちゃん」
 キールが先程の鞭を取り上げた。樽を放り捨てたオロも、先が二股に分かれて結び目のたくさん付いた縄の鞭を手にアインデッドの目の前に立った。
「その女みたいな顔には傷が付かないようにしてやるからな」
 オロはにやりと笑って、鞭を振り上げた。アインデッドは目を閉じた。ほとんど同時に二つの鞭が空を切った。
 セシュスが二人にやめるように命じたとき、それからどれだけ経ったのかアインデッドには判らなくなっていた。もうどこがどう痛むのかも判然としないほど手ひどく痛めつけられていて、破れた皮膚からひっきりなしに血が流れ落ちていた。枷が外されても、アインデッドは体を支えることができずにそのまま床に倒れた。動くこともままならなくなっていたが、セシュスは丁寧にまた彼を縛り上げさせた。
「お前の血はその髪の赤にはぴったりだな。どうだ――美しいじゃないか」
「まったく、その通りで」
 オロが答えた。
「私は朝見に出なければならん。そやつはまた牢に放り込んでおけ。まだ殺さん。死にたくとも死ねぬようにいたぶってくれるわ。次には仲間の男も一緒にな」
 セシュスはオロとキールに後を任せて部屋を出た。キールが足先でアインデッドの体を転がしたが、抗議する気力も体力も残っていなかった。
「きれいな顔だ……血の海に沈んだら、さぞかし似合うことだろうな」
「キール、それはまだ命じられていない」
 あまり相槌になっていない答えを返して、オロはアインデッドの体を袋でも担ぐように持ち上げた。もうほとんど意識を失った彼の体はぐったりとしていた。荷物でも下ろすように牢の床にアインデッドを投げ出すと、扉が閉められ、錠の下りる硬い音が地下に響いた。
 アインデッドは、遠ざかっていく足音を聞きながら、自分がまた一人暗闇の中に取り残されたのを知った。今度は扉が閉まり、かすかに鍵がかかるような音も聞き取ることができた。
(こんなじめじめしたところに寝てたら、傷が腐っちまうかもしれねえ……)
 長年の傭兵としての経験から、どんな傷であれ乾燥させるのが一番いいと知っていた。湿気のある土になど触れると、しっかりと洗わないとそこが腐りだす場合もあるのだ。そうなるともう手の施しようがなく、切り落とすしかなくなるのでアインデッドはなんとかして体を起こした。
「痛ッ……」
 動かそうとするたびに全身に痛みが走り、傷口が開くような気がした。それでも何とか座るような格好に体を起こすことに成功した。それから、アインデッドはまた魔道の炎を起こした。鞭で打たれただけなので、一つ一つの傷自体はあまり深いものではない。しかし、身体中に切り傷や擦り傷が広がっている。アインデッドがほとんど気を失ってしまうまで、これでもかというほどに痛めつけられたのだ。
(体をねじられたり骨を砕かれたりとか、そういう拷問がなかっただけ、ましかもしれないな……)
 そう思うことで、アインデッドは慰めをつけた。彼自身はそういった拷問にいまだ遭ったことも、したこともないのでそれがどれほどの苦痛を伴うものかは判らない。しかし絶対にそんな目には遭いたくないと思うのは事実だった。もしそのようなことになったら、よしんば生き残ることができたにしても体は一生使い物にならなくなってしまうだろう。おのれの体のみを資本にしている傭兵としては、それ以上の損失というものは考えられなかった。
(しかしあいつら、揃いも揃って変態ぞろいときやがった……あのキールとかいう小男、俺に悲鳴を上げさせようと頑張りやがって。オロってやつはまだまともな方かもしれないが、あれも何か、俺のツラがよほど気に入ったみたいだったし……うぇっ、シルベウスの輩だったらどうしよう)
 アインデッドは嫌な想像を追い出そうと、ぶるぶると頭を振った。今のところはそんな想像よりは、どうやってこの場を切り抜けて生き残るかという問題が最重要事項だった。しかし両手両足の自由を奪われ、勝手も判らぬ地下牢に閉じこめられていては、逃げ出すことはできても外にたどり着けるかどうかも判らない。
 もしかしたら地上に通じる扉か上げ蓋か、そんなところでさっきの二人が見張りをしているかもしれないし、地上でも鍵がかかっている部屋に出たりするかもしれない。縄をスペルで焼き切ることくらいはアインデッドの力なら簡単にできることだが、その後の予測不可能性についてはどうともいえなかった。
(こうなると判っていたら、魔道ももっと身を入れてやっておけばよかったな)
 今更ながらの後悔を、アインデッドはした。彼はいつもそういう後悔ばかりはたくさんするが、結局将来にはあまりいかされない。だが反面、後悔していても何の生産性もないということをよく判っていた。
(警備隊の方でも、俺がいなくなったら輪番の予定が狂うからな……捜索してくれるのを待つしかないかな……)
 そう考えて、アインデッドは愕然とするような事実を思い出した。
 その警備隊は、彼をこうして監禁して拷問しているセシュス伯爵の管轄下にあるのだ。傭兵なのでやはりくびにするとでも言ってしまえば、その時点でアインデッドの肩書はなくなり、探そうとするものもいなくなる。
(あとは、サライとアルドゥインだけが頼りってことか……。ソルトワのやつ、アルも捕まえてどうのとか言っていたが……大丈夫だろうか)
 アインデッドはだんだん不安になってきたが、しかし絶望だけはしていなかった。これはうまく切り抜けられるはずだという感覚が、彼にはあったからだ。
(とりあえず、この状況下でソルトワが俺を殺さず、二日か三日生き残ることができればチャンスはある。二人が俺がいないことを知って、そこからソルトワまでたどりつくことができれば)
 ふだんそれほど他人を頼ったりだとか、信頼することはなかったのだが、サライとアルドゥインの二人を、アインデッドは信じていた。どこに根拠があるのかと言われたら答えることはできなかったに違いないがしかし、何か魂の深いところで、彼らならば信じて背中を預けても大丈夫だとアインデッドは感じていたのだ。
(それまでは、体力を温存することだけを考えたほうがいいだろうな……)
 そう結論付けて、アインデッドは魔道の火を消して目を閉じた。傷の痛みと無理な姿勢とで、集中しようとした意識はすぐにばらばらにほどけてしまうが、むりやりに眠ることに決めた。

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