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     為政者たるものは己の心をも支配
     せねばならない。常に岩の如く
     心を持せよ。
          ――アルカンド「為政術」より




     第二楽章 緑の諧謔曲




 アインデッドのペンダントがナカルの掌から滑り落ち、指にかかった鎖で止まった。アルドゥインの衝撃的な言葉の後、謁見室には恐ろしいほどの沈黙が落ちた。サライは彼がそこまでの洞察力と推理力を見せたことに驚いていた。そして今、アルドゥインはナカルの出方をひたすら待っていた。
(アインデッドの瞳の色もそれなら説明がつく)
 ジャニュアに来たときから何となく、冗談のように考えていたことが、リューン姫の銅像を見、それがあまりにアインデッドに似ていることに気づいてから、彼の中ではほぼ確信になっていた。
(アインデッドは、ジャニュア人の血を引いたティフィリス人……それも、二十四年前に行方不明になったリューン王女の。どうして王女がティフィリスまで流れたのかは俺には判らないし、憶測しかできない。もしかしたらティフィリスの船に助けられて、そこでアインデッドの父親と知り合ったのかもしれない。危機に陥ったときに出会った相手とか、命の恩人には、愛情を感じてしまうというからな……)
 ナカルはきらきらと光を映す緑玉、《マナ・サーラの涙》を見つめた。
(アインデッドはティフィリスの初代国王の名。王族でもないかぎり付けはしない名前。そう、王族でもないかぎり)
 信じたくない、考えたくもない可能性が現実味を帯びて広がってゆく。
(もしもこのアルドゥインの言うことが真実ならば、リューンはジャニュアの王族であると、明かすことはできなかっただろう。それでも王族であることを示すために、ティフィリスの王の名を付けた……そうだとすれば……)
「アルドゥイン」
 わずかに茶色がかった黒い瞳が、まっすぐに彼女を見返した。その恐れを知らない瞳に、ナカルはかすかに震えた。
「そなたの言うとおり、このペンダントの緑玉は《マナ・サーラの涙》。そしてこれは我が従姉リューンのものに相違ない。御覧なさい」
 ナカルは上座から下りて、アルドゥインとサライの前に近づいた。その眼前に、ペンダントを差し出した。受け取ったアルドゥインは、サライにも見えるようにペンダントを手に乗せた。
「台座の中心に、紋章が彫ってあるのが、判りますか」
 言われたとおりによく見てみると、ツタの葉の意匠に、丸がついたような形の紋章が陰刻されていた。二人がそれを確認したと見て取って、ナカルは続けた。
「その紋章はアイミール家のものです。我が父の弟アイミール王子を始祖とし、十年前に我が夫ティイの死を以て断絶した、クライン皇家にも繋がる傍系です。そこで私の推論を聞かせましょう」
 ペンダントを乗せた手のやり場に困って、アルドゥインはそれを握り締めたまま膝に手を置いた。ナカルはまた上座に戻り、椅子にかけた。さっきよりもずっと落ちついた表情で、穏やかとすら言えた。
「我が国では、傍系の王子王女は必ずその名の中に始祖の名を入れることになっています。アイミール王家の場合は、アイミールの名が必ず入ります。ところで、そなたたちはイミルと言う名をジャニュア読みに直すとどうなるか、知っていますか」
「いえ、存じません」
 判ってはいたのだが、二人は異口同音にそう答えた。ナカルはうすく微笑んだ。
「ティフィリス綴りではイミルのままですが、ジャニュア綴りではアイミールとなるのですよ」
 そこでナカルは少し間を置いた。
「そなたたちの友、アインデッドの姓もイミル。それも、ティフィリス綴りではなく、ジャニュア綴りのイミル――つまりアイミール。名前だけではただの間違いであるかもしれない。このペンダントだけだったならば、偶然航海中の船乗りがそれと知らず拾い上げたものかもしれない。ティフィリス人でありながら、瞳の色は緑であっても、他の血が混じっているのかもしれない。だからこそ、私はその素性が知りたかったのです」
「そういえば……」
 サライは、独り言のように呟いた。
「アインデッドの母親の名はしかルネとか……」
 リューン王女とは違うが、と思ったのだがアイミールがイミルになるということを思い出して、変な顔をしてしまった。
「陛下、ルネという名は、ジャニュア読みではどうなるか、ご存知でしょうか」
「それは誰の名です?」
「十九年前に亡くなったアインデッドの母の名です。ルネ・イミルと名乗っていたそうです」
 予想はしていたが、ナカルがますます驚いたような顔をした。
「……リューン」
 とうとうナカルは、推論を事実として受け入れた。かなり信じがたいし、アルドゥインが語った部分は彼の頭の中で組み上げられた推理の積み重ねであるし、リューン本人に聞いてみなければこれは全く判らないことである。リューンが死んだのであれば、彼女の失踪から今までの間は永遠に空白のまま残る。
 しかし、ルネ・イミル――リューン・アイミールを母とするアインデッド・イミルという人間がそこに存在し、リューンのものだった《マナ・サーラの涙》を母親の形見として持っているかぎり、それは真実であった。
「では、……アインデッド・イミルは、アイミール家の王子ということに……」
 ナカルは自分に言い聞かせるように呟いた。一介のティフィリス人の傭兵よりは、同じ王家の血を引く男のほうがずっといいのはたしかだが、奇妙な気分だった。それを言うなら、アルドゥインやサライのほうがずっと変な気分だった。しかし、感慨に浸っている場合でないことは二人ともよく判っていた。
「でもなぜ、陛下は彼のことをお調べになっていたのです? 先程のお話からでは、セシュス伯爵の動向を探られていただけと見えますが」
「娘の恋の相手を気にする程度には、私も母親なのですよ」
 サライの質問に、ナカルは苦笑いのような表情で答えた。その答えに、二人は一瞬目を丸くした。もし相手がジャニュア女王でなかったら、「えっ?」くらいは言っていたかもしれなかった。
「そういう理由で、セシュス伯爵のこととはまた別に調べていたのです。まさかそれがこんな結果になるとは思ってもみなかったことでしたが――」
 彼女は唐突に、国家機密級の事実を目の前の二人が知ってしまったということに気づいた。それにはサライとアルドゥインも気づいていた。だが、公表してしまえばそれも秘密ではなくなる。
「アルドウィン、サライ、今の話は――アインデッド・イミルがアイミール王家の人間だということは、そなたたちと私の心の裡に止めておくと……口外せぬと誓えますか」
 しかし、ナカルの言葉は二人を驚かせた。クライン同様に傍系を持たないジャニュア王家が、未だ正式な確認が取れず、またその血の半分はどこの血筋とも判らぬとはいえ、最も近い傍系の生き残りをあえてそうと認めないとは、信じられなかったのだ。
「どうなのです」
 答えいかんによっては、彼らは秘密を守るために殺されても仕方が無い。それが政治というものであった。
(けれども……もしアインデッドがアイミール王家を正式に継ぐことになれば、彼は、ジャニュアとティフィリスの関係改善のための道具になってしまうだろう。それを彼が望むとは……思えない)
 サライはぎゅっと眉を寄せ、しばし考え込んだ。
「恐れながら陛下、ユーリ殿下のお相手として、ティフィリスの血を引くアインデッドは相応しくないと、お考えなのですか」
 アルドゥインがまたぎょっとするような発言をしたので、サライは彼の方を振り返った。見事としか言いようのない無表情で、何を考えてそんな事を言ったのか読み取ることはできなかった。ずばりと言いたいことを言ってしまうというところ、彼はアインデッドとよく似ていた。
「……リューン・アイミールは二十四年前に死んだのです。死んだ王女の息子は、存在してはらないのです。たとえ真実がどうあろうと」
 その目を正面から受け止めて、ナカルはきっぱりと言い切った。アルドゥインは何かを思うようにちょっと目を伏せた。
「判りました。我が剣にかけて一生口外せぬことを誓いましょう、陛下」
「私も剣にかけて誓います」
 入室する前にクロタールが二人の剣を預かってしまっていたので、実際には剣を使うことができなかったが、二人はそれぞれ誓いの言葉を口にした。
「……その誓い、とくと忘れぬように。クロタール!」
 室の扉前でずっと待っていたらしく、数秒もかからずにクロタールが入ってきた。彼女は、先程まで時折見せていた柔らかな表情をかなぐり捨て、女王の威厳を感じさせる厳しい表情と声で命じた。
「セシュス伯爵を王女に対する誘拐未遂、および国家反逆罪で逮捕します。拉致された男の身の危険も考え、早急にかかるように」
「はっ、心得ましてございます」
 クロタールはさっと敬礼をして、また出ていった。
「そなたたちも、ご苦労でした。とくにアルドゥイン、そなたの推論は面白かったけれども、二度と語らぬように。私も私自身のこの空想は捨てます。良いですね」
「承知いたしましてございます。陛下」
「それから、サライ」
 ナカルはつと立ち上がった。
「レウカディアは良い皇女です。そなた、セシュス伯爵の護衛団を辞めるならば、彼女が女帝になるまで、我が宮廷に入るつもりはありませんか?」
 こんなところまでレウカディアが親書を送っていたとは思わなかったので、この言葉は意外だった。だが、サライは鷹揚に頭を横に振った。
「申し訳ありません、陛下。その儀はご容赦を」
「そうですか」
 ナカルは少し残念そうだった。二人はもう一度礼を述べ、ナカルの御前を退出した。

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