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                                *



 朝見はいつもどおり、アティアの刻から始まった。アルドゥインにどうしても二人だけで話さなければならない用事ができたとルーイに説明して、サライは宿舎まで急いだ。探すまでもなく、ちょうど当番を終えてトゥイユと歩いているアルドゥインを見つけ、サライは声をかけた。
「アルドゥイン!」
「おはよう、サライ。今日は友達はいないのか」
「それどころじゃないよ。アインが戻ってきてないんだろう」
 肩で息をしながら、サライは言った。トゥイユはびっくりしたように新しい相棒の顔を見た。
「そりゃ本当か」
「ええ、昨日の夜、こいつに会いにいったっきり、戻ってないんです」
 アルドゥインはサライを指して説明した。
「その事でちょっと君に話があって来たんだ」
「わかった。とりあえず宿舎に来い」
 アルドゥインはそれ以上は聞かず、サライの肩を押した。トゥイユも、なんとなくこれは自分が口を挟んではいけないことなのだと察しを付けたらしく、黙って隣を歩いていった。だが二人が部屋までたどり着くことはなかった。受付にいる見慣れない男と警備隊長の二人連れに最初に気づいたのはトゥイユだった。
「あれは憲兵じゃないか。どうかしたのかな」
「さあ……」
 アルドゥインが呟いたのとほぼ同時に、隊長がアルドゥインを指さして憲兵に何事か話しかけた。すると憲兵がつかつかとこちらに近づいてきた。三十を越えたか越えていないか、それくらいの若い男である。
「お前はアスキアのアルドゥインに相違ないな?」
「は? あ、はい」
 アルドゥインは面食らった。憲兵に捕まるようなことは何もしていないはずだが、と一瞬身構えた。憲兵はそんな彼には構わず、次にはサライを見てちょっと目を輝かせた。その目は、何か偶然いいものを見つけた、とでも言わんばかりであった。
「お前は昨日の……」
「はあ……?」
「二人ともついてまいれ!」
 憲兵の一言に、二人は顔を見合わせて、全く訳が判らない、というしぐさをした。だが逆らうわけにはいかず、二人は彼の後をついていくことにした。もちろんその場にいた全員が、二人が何かしたのではないかと疑惑を抱いたのは間違いなかった。
「あの……俺たち二人が何かしたんですか?」
 さっさと歩いていく憲兵に、アルドゥインはためらいがちに尋ねた。すでにメルヌ城内に入ろうというところである。だが答えの代わりに、憲兵はいきなり立ち止まって、そこの扉を開いた。一段高くした上座があるところから、小謁見室のようであった。入るように促され、憲兵もともに入ってきた。
「ここでしばらく待っていてもらう」
 部屋の隅に置かれている椅子に、三人は腰掛けた。出入口に一番近い、つまり扉の横の椅子に憲兵が座り、真ん中あたりの椅子にサライとアルドゥインが座らされた。
「憲兵さん、俺たち何も悪いことはしていないんですが」
「誰がそんな事を言った。私の名はクロタールだ」
 クロタールの一言は冷たかった。態度がそうじゃないか、と言いたいのをアルドゥインはぐっと抑えた。サライは、ここに連れてこられる間中いろいろと考えていたのだが、まとまりかけていた考えを口に出した。
「クロタール殿、それは……セシュス伯爵に関することでしょうか」
 まだこいつの方が話がわかる、と判断したのか、クロタールは頷いた。
「それもある。あらかじめ言っておくが、お前たちをここに呼ぶよう命じられたのはナカル陛下だ。それをしかと心得おくように。また、陛下の質問にはすべて正直に、包み隠さず答えるのだぞ」
「それは、もちろん」
 アルドゥインとサライはおとなしく答えた。だいたいそうではないかと疑ってはいたので、別に今更驚くほどのことでもなかった。しばらくすると、クロタールは廊下に出て、一分もしないうちに戻ってきた。その理由はすぐに判った。アーフェル水の入ったグラスを三つ持って、女官が入ってきたのだ。
 あまり緊張させたり、おどかしてはいけないとクロタールなりに考えたのだろう。もしくはただ単に、暑かったからかもしれないが。断る理由もなかったので、二人はそれを受け取った。朝見が終わるのは早くてもエレミルの刻を過ぎるだろうし、それまでずっとここで待たされるのもかなり退屈だった。
「なあサライ、お前が話したかったことっていうのは、一体なんだよ」
 ひそひそとアルドゥインが話しかけてきた。
「アインのことだよ」
 サライもひそひそと答えた。
「やっぱり。で、お前の持ってる情報っていうのは」
「セシュス伯がアインを屋敷に拉致してきたのを、アトが目撃した。証拠に、彼のペンダントが現場に落ちていた」
「げえっ……」
 小声だったが、アルドゥインは心底嫌だというような顔をした。昨日のあの不気味な想像が戻ってきたからだった。そんなことは全く知らないサライは、怪訝な顔をしただけだった。


 セシュスが朝見に出席するために出て行ってしまってから、アトはサライに命じられた行動を起こすことにした。伯爵邸に勤めはじめてまだ三日目なのだが、ハルマーが西の対すべての部屋の説明を初日にたたき込んでくれたおかげで、大体は判っていた。それで、地上の階にひと一人を監禁しておける部屋はないということも最初から判っていた。
 薬で眠らせていたり、縛っているのならありえることかもしれないが、カヴェドネと母親の部屋以外に鍵のかけられる部屋というものは、物置くらいしかない。だが、そこはハルマーが管理していて、使用人が絶えず出入りしている。それに、いくら細身とはいえ身長のかなりあるアインデッドを閉じ込めておけるほどのスペースはない。
(だとしたら、地下しかない)
 カヴェドネがお気に入りの侍女たちと共に裁縫を始めたのを幸い、アトは一階の部屋を捜索しはじめた。こっそりと良からぬ目的のために使っている部屋なら、人目につかないように行かなければならない。馬車が停められていたのは裏庭であったし、人けの少ない場所から行くのに違いなかった。
 一旦裏庭に出て、アトは昨夜の情景を思い出した。おそらく、裏口から入ってすぐ辺りのところに、地下室に通じる入口があるはずである。そう思って、彼女はドアを開けた。そして、そのまま固まってしまった。
「アト・シザル!」
 ハルマーは屋敷中に響くのではないかと思われるほどの甲高い声で叫んだ。
「何をしているんです、あなたは! 仕事をなさい、仕事を!」
「す……すみません」
 さいさきが悪い、とアトは思った。もしかしたらハルマーは、仕事をしていない者を感知する特別な能力でもあるのではないかとも疑ってみた。それから、監禁場所を探すのが無理なら他のことを探ってみようと考えた。アトはつかつかと歩いていくハルマーを追いかけた。
「あの、ハルマーさん」
「何です」
 気後れしながら、これもサライのためとアトは勇気を出した。
「伯爵の部下の方で、これぐらいの小柄な方と」
 アトは自分の目の下辺りで手を水平に振った。
「これぐらいの大柄な方はいらっしゃいますか」
 今度は頭から二十バルス位のところで同じように手を振った。ハルマーは不思議そうな顔をしてから、何かに思い当たったようだった。
「その二人連れは時々見かけるわね。ソルトワ様の部下かどうかは知らないけれど。それがどうしたの、早く持ち場に戻りなさい」
「はい」
 手掛かりを一つ得たので、アトはおとなしく引き下がった。


「そういうわけで、アトにも調査を頼んでいる。だがこうなってくると、私たちがそこまでする必要もないみたいだ」
「市中警備隊か憲兵が助け出してくれるだろうからな」
 アルドゥインはクロタールをちらっと見て言った。
 その時、扉が急に開き、クロタールが弾かれたように立ち上がって敬礼した。それにつられて二人も立ち上がった。
「アスキアのアルドゥインと、護衛団員、召し連れましてございます。陛下」
 ナカルはクロタールに頷きかけて、上座に昇った。白いドレスに、模様の入った臙脂色の付け袖、同色の帯を身につけ、髪を簡単に結ったナカルは、ジャニュアの女神と呼ばれるだけあって、二人が一瞬見とれてしまうほどの威厳と美しさに溢れていた。
「ご苦労、クロタール。またそこの二人。楽にしなさい。これは尋問ではありませんが、私の質問には正直に答えてください。ではそなたたちの名を確かめますが、アスキアのアルドゥインに、サライ・カリフ。間違いありませんね」
「はい」
「はい」
 謁見室の端と端ではあまりに離れすぎていたので、ナカルは二人を差し招いて、上座の近くに座らせた。クロタールは彼女を守るべく、その前に控えた。
「では訊ねますが、アインデッド・イミルとはどういった関係なのですか」
 開口一番にそれを訊ねられて、サライとアルドゥインは驚いて顔を見合わせた。てっきり二人は、セシュス伯爵のことを訊ねられるものとばかり思っていたのだ。だが質問し返すのは無礼だったので、おとなしく答えた。
「我々の友人でございます、陛下」
「アインデッドなる者はティフィリス人ですね」
「……」
 どう答えていいものか、サライは迷った。彼らの名前を把握していることから、本籍がティフィリスであることもすでに判ってしまっていることなのだろう。
「陛下の仰るとおりでございます」
 サライが迷っている間に、アルドゥインが答えた。浅黒い顔をきっと上げて、彼はナカルの瞳を正面から見つめた。
「して、陛下はいかなるご用向きを以て本日この場に我々をお召しになったのでございましょうか?」
 クロタールが何か言おうしたのを手で制して、ナカルは微笑んだ。
「その前に、アスキアのアルドゥイン。そなたには我が娘ユーリを悪辣なる暴漢の手より救い出してくれた礼を申さねばなりませんね。そなたの質問にも答えましょう。私はアインデッド・イミルなるティフィリス人の素性を知りたいのです」
「そのご質問に満足いただける答えを返せる自信はございません。なにゆえに陛下は、ただいまその足元に迫る危険を顧みられず、一介の傭兵などの素性にこだわられるのです? 陛下におかれましては、『悪辣なる暴漢』の正体もご存知なのではございませんか? 我らを召されたのはそのためではございませんか?」
 アルドゥインは厳しい表情を向けていた。その横顔をちらりと見て、サライは内心驚いていた。一国の女王を相手にアルドゥインがこれほど堂々とできるとは全く予想だにしていなかった。アルドゥインはその舌鋒を緩めようともしなかった。
「陛下にお答えいただけないのであれば、私から申し上げるしかございませんね。五日前の夜、ユーリ姫を襲い、昨夜アインデッドを拉致した犯人の名を!」
「アルドゥイン、そなたは結論を急ぎすぎます」
 ナカルはやっと口を開いた。
「たしかに、ユーリを襲ったのはソルトワ・セシュス伯爵だとユーリ自身が言っています。彼が昨夜、誰かを拉致したのはこのクロタールが目撃しています。しかし襲った犯人がセシュス伯爵だという、確たる証拠は無いのですよ。その拉致された男がアインデッドだという証拠も」
「ございます、陛下」
 今度はサライが答えた。そして、首にかけていたペンダントを外した。クロタールがペンダントをサライから受け取り、ナカルに手渡した。
「これは私とともにセシュス伯爵邸に雇われた娘が、邸内にて伯爵がアインデッドを連れ込む現場を目撃し、そこで拾った彼のものです」
 ペンダントを受け取ると、ナカルはそれをちょっと掌の上で眺め、陽に翳した。その顔が、驚きの色に満たされるのをサライとアルドゥインははっきりと見た。
「これは本当に、アインデッドのものなのですか?」
「間違いございません」
 ナカルの声は震えていた。それを怪訝に感じながら、サライは言った。
「アインデッドの母の形見です」
「そんな、馬鹿な……」
 それは本当に小さな声だったので、クロタールにすら聞こえなかった。アルドゥインが少し気遣うような口調で、ナカルに声をかけた。
「陛下、お人払いを願えますか。私の推測と陛下のお考えになっていることが同じであるなら――」
 何かを恐れるような瞳で、ナカルはアルドゥインを見た。その深い緑色は、アインデッドのそれに限りなく近かったが、アインデッドのほうがもっと濃い色をしていた。
「クロタール、少し外していておくれ。重大な話になりそうだから」
 何も尋ねずにクロタールは退出した。扉が閉まると同時に、それを見送っていたナカルはアルドゥインに視線を戻した。
「そなたの推測とやらを聞かせてもらいましょう」
「これは私の誠に勝手な、作り話にも近い想像でありますが……二十四年前にエルボスに嫁がれる船旅で遭難なさったアイミール家の王女は、実は生きておられたのではないでしょうか。そしてどのような変遷を経てか、数年後にティフィリスで亡くなられた。その時王女はティフィリス人と結婚しており、子を成しておられた……」
「……」
 サライもナカルも、一言も聞き逃すまいというように、アルドゥインの言葉に耳を傾けていた。言葉が続いていくにつれ、非常な衝撃か、驚きに打たれている人のようにナカルの顔から目に見えて血の気が失せていった。
 そして、アルドゥインの最後の言葉が室に響いた。
「聞くところによりますと、ジャニュアの王族は一人ずつ、《マナ・サーラの涙》という緑玉を与えられるとか。――恐れながら陛下、そのペンダントの緑玉は、リューン殿下の《マナ・サーラの涙》なのではございませんか?」

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