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                                *



 頭の中で、鐘ががんがんと鳴り響いているような気がした。入ってくる音の全てが何倍にも増幅されて、頭蓋骨の中で反響しているようにすら感じられ、身体中に伝わる振動がそれに拍車をかけていた。
「……少し、薬が強すぎたのではないか?」
 男の声が頭上から降ってきた。どこかで聞いたことのあるような声だったが、少し心配そうな響きを帯びていた。
「黒蓮の眠り薬を多少多めに用いましたが――これほどのことではどうということもございません。ただ、少々目覚めるのは遅くなるでしょうが」
 声の主が、靴の先で頭を小突いた。何をするんだとわめきたかったが、唇すらぴくりとも動かない。自分の体だが、自分のものではないように感じられた。それに、猛烈な眠気がともすると彼の意識を奪いがちだった。
「それはかまわん」
 最初の男の声が答えた。
 その声が誰のものであるか、記憶が戻ってくると同時に自分の置かれた境遇をアインデッドはやっと思い出した。
(あの御者がセシュス伯爵が用があるとか言って……馬車に近づいたら、引きずり込まれて眠らされたんだ……)
 この振動は馬車に乗せられているせいなのだと合点がいった。セシュス伯爵邸か、もしくは隠れ家のようなところに連れて行かれるのだろう。目も開けられないのが辛かった。突然振動が止み、慣性でアインデッドは床を転がった。扉の開く音が足元でして、誰かが降りた。おそらくセシュスだろう。
「よし、運び出せ」
「はい」
 彼を馬車に引きずり込んだ太い腕がまた彼を抱え上げ、荷物のように肩に担いだ。それはアインデッドにしてみれば屈辱的な扱いだった。
 抱え上げられた弾みで彼の胸元からペンダントがこぼれ落ち、するりと首を抜けて地面に落ちた。だが、それは柔らかな土の上に落ちてかすかな音しか立てなかったので、誰も気づくことはなかった。
「あら、伯爵さま……」
 外に出してあったカヴェドネの植物をサンルームに戻すために庭に出ていたアトは、セシュスの馬車が西の対につけられているのを見つけた。彼が生活しているのは東の対なので、珍しいことであった。
 こんな時間にカヴェドネを見舞うはずもないし、大体カヴェドネは夕食の後にはすぐに眠ってしまっているので別の用事があってのことだろう。邸内から漏れた灯と星明りのおかげで、セシュスが本当に僅かな供回りのものだけを連れているのだと判った。小柄な御者の他には、正反対に大柄な男しかいない。
(なんでこんな時間に、西の対にいらっしゃるのかしら)
 当然の疑問を抱きながら、アトはなんとなくその光景を眺めていた。内容は聞こえなかったが、セシュスが何か命じて、大柄な男が馬車の中から何かを抱え出した。それが人間だということはすぐに見て取れた。どうやら気を失っているらしい。
(一体、どういうこと……)
 見てはならないものを見てしまった、とアトは思い、ますます身動きできなくなった。その時、抱え上げられていた男の首筋から、きらりと光るものが落ちた。セシュスたちは気づいていないようだった。
 彼らが邸内に入ってしまったのを確認して、アトは植木鉢を置いてそっとその現場に近づいていった。場所の見当はつけてあったし、それはきらきらと光っていたので、落ちたものを見つけ出すのにはさほど苦労しなかった。
 持ち上げてみると、金鎖がちゃらっと乾いた音を立てた。落ちたものはペンダントだった。大きめの石がついているが、星明りだけではやはり暗く、もっと明るいところで見てみようと、アトはそれをかくしに仕舞い込んでまた植木鉢を取りに戻った。
 寝部屋に戻って、アトは先程拾ったペンダントを取り出した。
「明かり、明かり……と」
 ランプに火を入れて、ペンダントをかざす。緑玉を金の台座にはめ込んだペンダントである。それにアトは見覚えがあった。
「これ……」
 前に彼が見せてくれて、アトはその形状をしっかりと覚えていた。母親の唯一の形見であり、行方知れずの父親の手掛かりであるという大切なペンダントを、彼が手放すはずがない。
「じゃああれは……アインデッドさん?」
 アトは急に、メルヌに着いた当日にアインデッドアルドゥインが巻き込まれた――というよりは介入した――事件のことを思い出した。《伯爵》と呼ばれていた男の率いる一団に襲われた少女を二人が助けてやり、その礼として少女からもらった腕輪を、アインデッドはアトにくれた。
 もしも《伯爵》に見つかれば、一介の傭兵、平民にすぎないアインデッドは間違いなく復讐を受けるに違いない。それはアルドゥインにも言えたことだったし、二人はそれを一番恐れてもいた。
(まさか《伯爵》っていうのが、セシュス伯だったんじゃ……)
 ペンダントを握りしめて、アトはぶるっと身を震わせた。私物の中においておくわけにもいかないので目立たぬように革紐をつけて首から下げているあの腕輪がもしセシュスに見つかれば、アトもアインデッドとアルドゥインとの関係を疑われるだろう。当然、サライも含めた四人が旅仲間であることなどはすぐに判ってしまうだろうし、そうなったら一体自分たちがどういう目に遭うのか、アトには想像もつかなかった。
 しかしそれよりも、気を失って運ばれていったアインデッドの方が気にかかった。百歩譲って、セシュスが《伯爵》と別人だとしても、丁重に迎えられたとは到底言えない。おそらく、どこかに閉じ込められたのだろう。
(サライ様……サライ様にこの事を知らせなくちゃ。私だけじゃどうしようもないわ)
 失くしては困るのでアインデッドのペンダントを首にかけて、アトは寝棚にもぐりこんだ。明日の朝一番に、サライに会わなければならなかった。
 太后宮警備隊宿舎では、アルドゥインがアインデッドの帰りを待っていた。遅くとも消灯時間であるナカーリアの刻には戻ると告げて出ていったのに、今はとっくにヤナスの刻を過ぎていた。明日に差し支えるのでともかく体を休めるために彼は寝床に横になったのだが、眠る気になれなかった。
(あのバカ、どこをほっつき歩いてるんだ)
 アインデッドのことだから、遊び歩いているのではないかとも思ったのだが、雇われた以上はその規則に従うべきだというルールを守っている彼が、しばらく非番が続くとはいえ、消灯時間を過ぎても戻ってこないというのはあきらかに妙なことだった。
(なんかまた、変な事に首突っ込んでんじゃねえだろうな……)
 アルドゥインは、メルヌ市の路地という路地に、《伯爵》とその仲間たちが若い娘を狙ってひそんでいるという嫌な想像をしてしまった。そしてその想像に我ながら気分が悪くなった。
(まあ待てアル、メルヌ市じゅうに《伯爵》みてえな変態がうろうろしてるなんてことはさすがにねえだろう)
 気を取り直して、アルドゥインは寝返りを打った。
(あり得ることといえば、酒場で酔いつぶれて路地で寝てる、遊郭に泊まってる、賭場で大騒ぎしてる、あと……まあ、それくらいか)
 しかし酒に強い上に、自分の限界を心得ているアインデッドが酔いつぶれるまで飲むはずがないのでその可能性は消える。遊郭はこのメルヌでは禁止されているのでそれも消える。残りの賭場が残るが、太后宮警備兵だと判って格を下げるようなことをしてはまずい、と言っていたアインデッドが、言った早々に反対のことをするとは思えない。しかしこれはかなりアインデッドを買いかぶっていた。
(……《伯爵》に見つかって、今度こそとっつかまったか……)
 その可能性は、アルドゥイン自身が考えたくなかった。もしそうだとしたら、一緒にいた自分も探し当てられてしまうのは時間の問題だった。
(頼むからアイン、明日の朝には帰ってきててくれよ)
 祈るような気持ちで、アルドゥインは目を閉じた。
 しかしアルドゥインの希望は次の日の朝、隣の空っぽのベッドによって裏切られた。
「あいつ……大丈夫か……?」
 そろそろ本格的に心配になってきたのだが、アルドゥインはリナイスの刻から三テルの当番が入っていたので、あまりゆっくりもしていられなかった。
 一方、サライはルーイに叩き起こされていた。
「サライ、起きて! アトさんが来てるよ!」
「……何?」
 眠い目をこすりながら、サライは起き上がった。ふだんそれほど寝ぼけたりするタイプではないのだが、朝は少々鈍くなるのは否めなかった。ルーイは辛抱強く繰り返してやった。彼にしろ起きたばかりで、着替えもしていなかった。
「アトさんが君に話があるって、来てるんだよ」
「え? アトが?」
 その言葉で、サライの眠気は完全に飛んでしまった。あわてて着替えて階下に下りてゆくと、異性が宿舎内に入ることはできないので、アトは入り口の階段に座り込んでサライを待っていた。朝早かったので、周りの目はほとんどなかった。
「どうしたの、アト」
 サライが近づいてきたので、アトは立ち上がった。
「これを見てください、サライ様」
 彼女はサライとともに庭の露台の所まで行くと、喉元からアインデッドのペンダントを取り出した。サライの目の薄紫色が、わずかに金色がかった。しかしアトはそれには気づかなかった。
「どうしたんだい、これは」
「昨日の夜、セシュス伯爵が西の対に馬車を停められて、気を失った男の人を連れてきました。これはその人が落としたものです」
 アトはあえて明言するのを避けた。ただ、サライもセルシャでアインデッドにこのペンダントの謂れを聞かされていて、ちゃんと覚えていた。
「アインデッドが、ここにいるんだね」
「同意の上で来たとは思えません」
 サライに負けないくらいの小声で、アトは囁いた。
「偶然とはいえ、拾ったのが君でよかった。これは私が預かっていよう。君はセシュス伯が西の対に来ることがあったら、できればどこに行くのかを突き止めてほしい。君はカヴェドネ姫付きで忙しいだろうから、無理はしないようにね。あとのことは私に任せておいてくれ」
「判りました」
 ペンダントを渡し、アトは足早に立ち去っていった。ちょっとでも持ち場を離れていたのがハルマーに判って、文句を言われてはたまったものではなかった。何しろハルマーは使用人の娘たち全員に恐れられていたのだ。
 アトが行ってしまってからも、サライはペンダントを握りしめたまま少しのあいだ立ち尽くしていた。アインデッドが拉致されたのは恐らく、サライをここまで送っていった帰りだろう。もしかしたらセシュスはずっとアインデッドをつけていて、人けの少ない時間に一人になる機会を狙っていたのかもしれなかった。だとすれば、その機会を作ってしまったのは自分ということになる。
 その自責の念に、サライはしばし駆られたのだ。それから、もしそうだとすればアインデッドと会っていた自分自身も危険なのではないだろうかという考えに思い至った。
(できるだけ、単独行動は慎むようにしなければ)
「サライ、朝の練兵が始まるよ」
「あ、ああ」
 サライははっと気がついて、駆け出した。そして、時間が合うならアルドゥインに会っておこうと考えた。

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