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     最高級の緑玉は《マナ・サーラの涙》と呼ば
     れ、エシル山脈の一部でしか産出されない。
     古来より《マナ・サーラの涙》は希少である
     ため珍重され、ジャニュアの王族のしるしと
     して用いられてきた。そのため、その実物を
     見ることはほとんど不可能である。
                     ――プリンキウス
                 「博物誌」・宝石の章より




     第一楽章 女王のアルマンド




「本日の報告でございます」
 憲兵隊長がナカルのもとを訪れたのは、夜のエレミルの刻を少し過ぎた頃だった。メルヌ城の大半はすでに灯が落とされ、廊下の常夜灯と星明りだけが外廊を照らしている。しかし、女王の執務室にはまだ煌々と灯が点いている。それはこの報告を待っていたためでもあった。
 すでに衣装は夜着とはいかないが、昼のそれなりにはでやかなドレスではなく、すっきりとした簡単なものに変わっている。思いついて呼び出したときとは違い、まだ仕事の延長であるという意識もあったので、略式冠はつけたままであった。憲兵隊長はさすがに鎧を身につけてはいなかったが、略装をきちんと着ている。
「始めなさい」
「はい。セシュス伯爵は朝見に出席の後、太后宮警備隊を巡察し、ヤナスの刻ごろ屋敷に戻りました。それからルクリーシスの一点鐘ごろ、馬車にて太后宮警備隊の宿舎近くまで行き、また戻ってまいりました。本日の行動はこれのみにてございます。また、ユーリ殿下におかれましては本日は城内より一歩もお出ましにはなっておられません」
 彼の報告はあまりにも概略であり過ぎて、どういったシチュエーションで、その間に何があったのかも分からなかった。
「エコンヤ、セシュス伯爵は太后宮警備隊の宿舎に、何の用があったのです。それは判りますか」
 彼女の質問に、憲兵隊長エコンヤは首を振った。だがだてに長年憲兵隊をひきいているわけではなかった。彼は廊下に通じる扉を指した。
「わたくしは伝え聞いたのみにてございますれば、本日セシュス伯爵の動向を探っておりましたクロタールをそこに待たせております」
「では彼に尋ねましょう。これへ」
「はっ。クロタール、参れ」
 呼ばれるのを今か今かと待っていたのだろう。年若い憲兵が扉が開くなりさっと敬礼して入ってきた。
 憲兵隊に入るものは、女王に絶対の忠誠を誓う選りすぐりの優秀な兵士ばかりである。その中でも、こうして王家の密命を受けて働く一部隊は、武術のみならず、その仕事がら偵察や尾行なども特に訓練されている。三十にもなっていないような青年だったが、このクロタールも相当に優秀であればこそ、こうして女王の密命を任されるまでになっているのだろう。
「クロタール、詳細を申しなさい」
「かしこまりました」
 ナカルから一バールほど離れたところに膝を突いて、クロタールは伏せていた顔を上げた。毅然とした良い目をしている、とふとナカルは思った。
「まず、朝見後に太后宮警備隊の巡視をしたことでございますが、その際に当番兵を確認なさっておりました」
「それはたしかですか?」
 クロタールは自信を持って頷いた。
「はい。この目でしかと確認いたしました。誰の当番を確かめておられたのかは定かではございませんが」
「そうですか。……では、馬車で出かけたというのは?」
「これも、乗り込まれるところを確認いたしました。黒い布で目隠しをした、天蓋付きの馬車でございます。太后宮警備隊宿舎に向かわれましたが、馬車からお降りにはならず、霊廟警備隊宿舎との間の道に馬車をしばらく留め置かれておりました。その後馬車の前を通り過ぎた者もかなりおりましたが、アティアの刻近くになって通りかかった男を呼びとめ、馬車に乗せ――扉が邪魔をして詳細を確認することはできませんでしたが、おそらく無理やりにでございましょう。そののちに屋敷に戻られました。その後伯爵は屋敷から外出なさっておりません」
 クロタールが淡々と語る事実に、ナカルは目を見張った。彼女は憲兵の証言を信用していた。とすれば、セシュス伯爵は何の目的かは定かではないが、どこかの男を誘拐していたとしか思えない。
「それでは、セシュス伯爵はその男を拉致し、屋敷に監禁していると考えて間違いは無いのですね」
「はい。その男が邸内から出てくるのは確認しておりません。もっとも、わたくしが監視していたアティアの二点鐘まででございますが。しかしながら、ありのままをご報告申し上げるために、黙認せざるをえなかったことを悔やみます」
 その場面を思い出してしまったのだろう、クロタールは少々沈痛な面持ちになった。その気持ちはナカルにも判ったし、そうするように命じたのは彼女自身であったので、彼女もその拉致された男というのにすまなさを感じた。だが、ユーリに対することはともかくも、この報告によってセシュスが王女の婿には不適格な人物であるというのは確実に判ることだった。
「その拉致された男ですが――セシュス伯爵とは何かつながりがあるようでしたか」
 だがナカルはいつでも冷静な女王だった。もしかしたら、拉致ではなく、ただ知り合いを乗せていっただけかもしれない、という可能性も捨て切れなかったので、確かめるように訊ねた。クロタールは記憶を探るようにしばらく眉をひそめて俯いていたが、やがてまた顔を上げた。
「ルクリーシスの刻に、その男がセシュス伯爵邸の門前におりました。十テルジンほど門前をうろついておりましたので、わたくしにも記憶がございます。彼は護衛団の団員の一人と待ち合わせをしていたらしく、邸内から出てきた団員と二人で出かけてゆきました。セシュス伯爵が馬車で出かけられたのは、そのすぐ後です」
「では間違いなく、その男を狙ったのですね。当番表を確かめていたことといい――その男は太后宮警備隊の隊員に違いない。エコンヤ、クロタール、ご苦労でした。引き続き伯爵の動向を監視すること。ユーリに対する護衛も同じく継続してもらいます」
「かしこまりました」
「心得てございます」
 二人は口々に答えて、執務室を退出した。あとに一人残ったナカルは、深くため息をついた。ユーリを誘拐しようとしたことはまだ嫌疑の段階だったが、これで決定的にセシュス伯爵をユーリの婚約者候補にあげることはできなくなった。たとえそこにどんな理由が隠されていようと、王族に対する誘拐未遂と、一般人に対する誘拐の二つがあればそれで理由としては充分すぎるほどであった。
(とはいえ――)
 ナカルは首筋に手をやり、髪を手櫛で梳いた。
(誘拐された男とは、一体何者だろう。クロタールの話から考えると、セシュス伯は彼の当番日を確かめ、待ち伏せをし、そして拉致した。計画的なものだわ。その男によほどの用があるのか、怨恨か、それとも――)
 彼女は力なく首を振った。いくら考えても答えは見つかりそうになかった。明日一番に誘拐についての調査を始めさせることにして、彼女は寝所に戻ろうと腰を上げた。朝の市大門警備からの報告といい、先程の報告といい、衝撃的な内容が多すぎた。いつもよりも疲れているような気すらした。だが、その休息すら、彼女には当分許されぬものであったらしい。
「陛下、傭兵斡旋所所長が至急の用事と参っております」
 小姓の声が彼女を引きとめた。彼女が戸惑ったのは一瞬のことで、すぐに自分が傭兵斡旋所長に調査を命じていたことを思い出して、入室を許可した。所長は今朝の市大門警備隊長のように、書類ばさみを携えてきていた。
「夜分遅く、陛下のご休息を妨げる無礼をお許しください」
 丁寧に言うと、彼は跪いた。
「気にせずともよい。して、結果は」
 書類ばさみを開いて、中にある文書を見ながら彼は話し始めた。
「はい。それをお知らせするため馳せ参じてまいりました。ティフィリスのアインデッドと申す傭兵、たしかに我が斡旋所を訪れておりました。二日前、マナ・サーラの二十日でございます」
 では、自分の読みは外れていなかったのだ。ナカルはちょっとした安堵が胸に広がるのを感じた。
「そのアインデッドはどうなったのです」
「調べましたところ、それがしにも心当たりのある者でございました。武術の試験の際非常に優秀でございましたので、どこに配属すべきかと考えておりましたところ、セシュス伯が彼とその連れを見かけ、ぜひとも自分の隊に入れてほしいとのご要望でございましたので、太后宮警備隊に配属したものであります」
「太后宮警備?」
 先程から何度となく出ているその名を、ナカルは思わずおうむ返しにしていた。所長はその反応を別の意味に――太后は彼女の母であったし、傭兵をその警備に入れるなどとんでもないと考えた――とったらしく、申し訳無さそうな、困ったような顔になった。しかしそれはナカルも許可したはずのことであった。
「セシュス伯の管轄で、空きのある部隊は太后宮警備のみであったためやむを得ず……。申し訳ありません」
 ナカルも、相手をすっかりかわいそうな気分にしてしまったことに気付いた。なぜ許可を得に来たときに気付かなかったのかが悔やまれた。
「いえ、そのことで咎め立てるつもりはありません。ともかく、そのアインデッドは太后宮警備隊に配属になったと、そういうことですね」
「さようでございます」
「よくわかりました。ご苦労」
 軽く労う言葉をかけ、所長を下がらせた。何となく同じところでもつれていた糸が、やっと一本にまとまったような気がした。
(メルヌに入った日に、アインデッドという男はユーリをセシュス伯から救った。おそらくその時にセシュス伯は彼の顔を覚えたのに違いない。そして傭兵斡旋所で彼を見かけ、おのれの管轄下に入れさせたのだわ)
 恐らくそれは、自分の計画を邪魔された復讐をするためだったに違いない。今日、セシュスに拉致された男というのは、アインデッドだったのだろう。これは明日にでも調べさせればすぐに判ることである。警備隊の正員になっているのなら、行方不明になっているものはすぐに判明する。それが太后宮警備というかなり重要な隊であれば、特に手間は取らなくともナカルの耳まで届くはずであった。
(けれども、彼を拉致してセシュス伯は何をするつもりなのだろう。計画を邪魔された腹いせというのならば、他にもやり方はあろうはず――。上司なのだし、圧倒的な身分の差がある。一体、何を――)
 そこからは、得られた情報だけからでは全く予測もつかなかった。別々に調査していた「アインデッド」と「セシュス伯爵」が一つの線でつながったことからして、彼女にしてみれば予想外の展開だったのだ。
 そして、もう一つの疑念はまだ解けていなかった。こればかりは人をやって調べさせるわけにもいかないことだった。しかし本人を呼んで直接問うてみても、確たる証拠が手に入れられることでもなさそうだった。
 ナカルは引き出しを開け、今朝渡された書類ばさみを取り出し、開いた。そこに書かれている名前を、もう一度ゆっくりと眺める。
 この時代の一般庶民が苗字を持っていることは少なく、同名のものとの区別をつけるために大部分のものはその親の名前を便宜的に付けていた。その他には代々の家の職業名であるとか、住んでいる場所、特徴を頭や最後に付けるというやり方があった。
 たとえばアト・シザルはシザルの娘アトという意味である。サライ・カリフのカリフはセラード人の言葉で「人々を束ねるもの」を意味し、彼の家系が代々の村長であることを示している。他の区別を使えばディユのサライというような言い方もできるし、金髪のサライという言い方もできる。
 だから、アインデッド・イミルという名を聞いたとき、ナカルはそれは「イミルの息子のアインデッド」という意味なのだと思っていた。イミルは沿海州神話の中に登場する、原始の巨人の名前である。しかし、文字として書かれたその名前に、ナカルは戦慄さえ感じたのだ。
 ジャニュア読みではイミルはアイミールになる。そしてそれは、彼女の父マレーユの弟の名であり、ジャニュア王家の傍系の名であった。傍系の王子王女たちは、始祖の名をその中に持つ。ナカルの夫はティイ・アイミールであったし、その妹はリューン・アイミールであった。
 最初にアインデッドの名を見たとき、ナカルはイミルがアイミールであることに気づいた。しかも、ティフィリス綴りではなく、ジャニュア綴りでその名は書かれていた。手形に書かれたものをそのまま写しているのだから、手違いがないかぎりアインデッドはその出生時には冷戦中であった国の綴りで書かれた名を持っていることになる。もちろん、この時代には読み書きできないものが当たり前であったから、手形を発行したものがそう書いてしまっただけなのかもしれないが、沿海州でそれはありえないはずだった。
(もしこれが手違いでも何でもなく、彼の名なのだとしたら)
 ナカルは書類ばさみをぱたんと閉じた。
(少なくとも、彼はティフィリス人ではあるけれどもジャニュアと何らかのつながりを持っているということになる)
 夜はすでにしんしんと更けている。細い月の夜空に、星が銀の屑をちりばめたように輝いていた。

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