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 約束のルクリーシスの刻よりも少し前に、アインデッドはセシュス伯爵邸の門前に来ていた。夕方の練兵が終わってすぐに駆けつけたのである。遅れたらどうなるか、判ったものではなかった。しかし、そんなところでぼんやりと待ちぼうけをしているのもけっこう人目を引くものであった。ことにアインデッドは目立つ容貌をしていたし、時折出入りする使用人の女性たちに眺められたりもしたのだった。
「アイン、早かったね」
「おう」
 サライはアインデッドの姿を見つけて走ってきた。ちょうどその時、ルクリーシスの刻を告げる鐘が鳴った。
「で、話っつうのは何だよ」
「立ち話も何だし、あまり周囲に聞いてほしくない話なんだ」
「あからさまに怪しいな」
 アインデッドは冗談半分に言ったのだが、サライが笑わなかったので、それが全く冗談にならなかったことを知った。彼が一番苦手にしている睨むような目にはならなかったのが幸いであった。
「俺はまだ飯を食ってねえんだけど、お前は?」
「まだだよ。練兵が終わったばかりで」
「なら一緒じゃねえか。昨日俺がユーリと話をしてた店にでも行くか。飯を食いながらでもいいだろ」
 反対する理由はなかったので、サライは頷いた。
 夕飯時だったので店はけっこう混んでいたが、その分彼らの話に注意を向けるものもいなさそうだった。今回はテラス席ではなく、店の奥の窓際の席だった。アインデッドはメルヌに着てからすっかりお気に入りになった肉のスープとパンを頼み、サライはクリームで煮込んだ野菜を注文した。
 菜食主義とは逆立ちしたって言えないアインデッドは、サライの選択にちょっと眉をひそめた。彼にしてみれば、同年代の男であるサライが野菜ばかり食べているというのはとうてい信じがたいものだったのだ。
「相ッ変わらず、お前って食わねえんだな。そのうち消えて無くなるんじゃねえか?」
「必要なぶんは食べてると思うよ」
「まあいいや。人それぞれってやつだろうからよ。それよりお前の話をしろよ」
 アインデッドはちょっと首を振った。
「その前に、君が彼女とどういう話をしていたのか、差し支えが無ければ教えてくれないか。それに、どうして昨日彼女に会ったのか」
 サライの質問に、アインデッドは素直に答えた。
「会ったのは偶然だ。俺とアルの同僚と四人で昼を食べに行って、アルは二人と城内の見学をすることにしたんだが俺はそういうのが苦手だから一人で市内をぶらぶらしてて。それで、このあたりでユーリに声をかけられたんだ。その時は彼女一人だった」
 サライは、神殿で見たときのユーリも一人であったことを思い出した。
「それで?」
「最初に会ったのがあれだろ? だから、一人で出歩くなんてとんでもねえって、そういう事を言ったんだ。そうしたら泣きそうになっちまってさ。俺はどうもああいうのに弱いもんだからよ。んで、話だけでも聞いてやろうと思って、ここでお茶をおごったんだよ。その話っていうのが……ああ、それはこっち」
 ちょうどその時料理が運ばれてきて、話は一旦途切れた。待ちかねたようにアインデッドはパンを千切り、スープに浸して口に放り込んだ。食べはじめたらしばらく絶対に話を始めないということはサライももう判っていたので同じく食事を始めた。パンの半分を平らげてしまって人心地ついたらしく、アインデッドはまた喋り始めた。
「さっきの続きだけどな、《伯爵》はユーリに結婚を迫っているんだが彼女の母親はまだ結婚のことを考えてないんだと。それで、《伯爵》はユーリに言うことを聞かせようとして付回してるんじゃないかって。これは彼女の憶測だがな。おそらくそれは真実だと思うんだ。だがその後がいけねえ」
「何かあったのか?」
「突っ込んだ話をすると、逃げちまうんだよ。ユーリは」
 またパンをもぐもぐやりながら、アインデッドは言った。そんな彼の行儀にはもうすっかり慣れていたが、それでもサライはため息をつかずにはいられなかった。
「……もう少しお上品にしようよ、アイン」
 逆らうと、いつかまたお説教を喰らうと判っていたのでアインデッドはきちんと飲み込んでから喋った。
「《伯爵》の姓も言わないし、自分がどこの誰かとも言わない。自分の家は裕福で、《伯爵》は財産目当てに近づいてきてるとだけ言って、後のことは何も言わないんだ。言えば俺に迷惑が掛かると思ってんだろうけど、もう充分かけられてるっつうの」
 最後のほうは独り言に近かったが、ちゃんと聞き取ることができた。たしかにアインデッドの言うことはもっともだった。もう話すべきことは話してしまったようだったので、今度はサライが話す番だった。
「ユーリと君がここで話をしているのを見たというのは話したよね」
「ああ」
 アインデッドが相づちを打つのを待って、サライは続けた。
「私はルーイに市内の案内をしてもらっている最中だったから、そのままユーリースの神殿に行ったんだ。そうしたら、王女がたまたま詣でに来たところに出くわした。本当に間近で顔を見て、言葉も交わした」
「それで?」
「それが、ユーリ姫と君と話をしていた女の子がそっくりだったんだ。後ろ姿しか私は見なかったけれど、着ていたドレスや髪の結い方は、全く同じだった。これがどういうことか、判るだろう」
「つまり……」
 彼は、口に出して言ってしまうのを恐れるように少し口ごもった。
「俺の助けたユーリというのは、王女だったって事か……」
「たぶん、間違いないだろう」
 人々のざわめきが、一瞬二人の沈黙を取り巻いた。
「それで、アイン。ここからはまた私の推測になってしまうのだけれども」
「ああ、聞くよ。話してくれ」
 アインデッドは水を一口飲んだ。
「私の雇い主――つまり君の上司にもあたるセシュス伯爵は、王女の婚約者候補に名乗りを上げていて、裏工作も含めて色々と活動をしているそうなんだ。まあ他にもそういう貴族はいくらでもいるだろうけれど。もしかしたら、姫を襲った《伯爵》というのは、彼かもしれない」
「名前はソルトワって言うらしいんだが……」
「セシュス伯爵の名前かどうかはわからないな。これに関しては一介の民間人でしかない私たちではどうにもならない話だからね。君には、気をつけろとしか言えないし」
「たしかにな」
 重い気分になって、アインデッドは肩を落とした。
「まあ、ありがとう。おかげでユーリが誰かっていう謎は解けたわけだし」
 食事も終わってしまったので、二人は店を出た。すでにマナ・サーラの刻に近くなっていたが、空は少し青みを残していて、西の空は青から橙、赤へと移る光の帯を作り出していた。アインデッドはセシュス伯爵邸までサライと戻って別れを告げると、宿舎へと足を向けた。
(この話はアルにもしたほうがいいな。絶対。それにもし今度ユーリに会うことがあったら、二度と会っちゃいけねえって、きっぱり言わねえと)
 ユーリが王女そのひとではないかという疑いは前から持っていたのでそれほどの衝撃は無かったが、メルヌに来たときから感じていた嫌な予感はますます強くなっていた。彼は自分の第六感というものを何よりも信じていたし、信用していた。ユーリに会ってはならないというのはそこからも来ているものだった。
 宿舎の手前まで来た時、アインデッドは天蓋付きの立派な馬車が宿舎横の横道に停められているのを見た。隣の霊廟警備隊の宿舎に用があって停めてあるのか、それとも太后宮警備隊に用があるのか、どちらなのか判然としなかった。
(どうかしたかな)
 アインデッドはちょっと首を傾げたが、そのまま前を横切ろうとした。
「そこの君」
 いきなり声をかけられたもので、アインデッドはぎくっとして思わず飛び上がりかけたが、かろうじてそれを押しとどめた。声は馬車のほうからかけられたものだった。小柄な、糸のように細い眼の男が御者席に座っていて、その男が声をかけたらしかった。
「俺に、何か?」
「君は太后宮警備のものか?」
「ええまあ、そうですが」
 変なこともあるものだなと思いながら、アインデッドは答えた。御者はちょっと差し招くような手付きをした。
「こちらにおわすのは太后宮警備隊を束ねるセシュス伯爵だが、少々尋ねたいことがあるとのおおせだ」
 それなら直接宿舎に入るなりして、もっと上の隊長クラスの者に言えばいいのに、ますます変だと思いながら、しかし上司に逆らうわけにもいかず、アインデッドはしぶしぶながら馬車に近づいた。
「何でしょうか」
 アインデッドが馬車の横にまわった瞬間、扉が開いた。
「あっ……」
 驚く間もなく、太い腕がにゅっと突き出され、アインデッドの口許に布を押しつけた。そしてほとんど同時にもう片方の腕がアインデッドの体を馬車の中に引きずり込んだ。通りからは扉のかげになってしまって自分が見えなくなってしまうことに、彼は唐突に気付いた。だが、全てはもう遅かった。
「……!」
 アインデッドは逃れようと足をばたつかせたが、彼を引きずりこんだ腕に首をしっかりと締め上げられ、車内にいたもう一人が彼の体をしっかりと押さえていたのでどうにも身動きが取れなかった。口と鼻に押し当てられた布には薬がしみ込ませてあったらしく、やがてアインデッドの意識は暗闇に落ちていった。
 彼の体を押さえていた手を放し、ソルトワ・セシュスは御者席に声をかけた。
「出せ」
 扉はばたんと閉まり、何事も無かったかのように馬車が動き始めた。


楽曲解説


「追走曲」……フーガ。単一主題が反復される。



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