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                                *



 朝見が終わった後、少しばかりの私的な時間をナカルは取っている。それはたいてい、ユーリと過ごすために使っているのだが、今日はそうすることはできないようだった。私室に戻ると、市大門の警備隊長が謁見を願っているという報告を女官が携えてきた。
 おそらく、徹夜をしたか、それとも朝一番から女王の命令に応えるべく調査をしたのだろう。あまりの早さにナカルは驚いた。入市者の調査をするように命じてから、まだ半日ほどしか経っていなかったのだ。さっそく女官たちを次の間に下がらせ、警備隊長を呼び入れた。
「早かったですね」
「お褒めに預かり光栄にございます」
 警備隊長はかしこまって一礼した。小脇に抱えていた革の書類ばさみを取り上げ、緊張した面持ちでそれを開いた。
「陛下がかねてお探しのアインデッドと申すペルジア人は、出市者も調査いたしましたがそのような者は見受けられませんでした」
「それは本当ですか」
 ナカルはちょっと顎に手をやり、何か考えるふうだった。
「はい。しかしながら、アインデッドと申すティフィリス国籍の男が入市者に記録されております。アインデッドという名の者は、この男だけでございます。この男とともにラストニア国籍のアルドゥイン、クライン国籍のサライ・カリフ、同じくクライン国籍のアトの三名が市内に入っております」
「サライ?」
 ナカルは不審な顔をした。警備隊長はその理由に思い当たって――というよりは、彼も不審に思ったのだろう――ちょっと困ったように言った。
「クラインの右府将軍の名でございますが、同名かと」
「でしょうね。その他に、何か判ったことは」
「ただいまご報告申し上げたことで全てでございます。ただしこれは未確認の情報でございますが、このアインデッドと申す男、傭兵を稼業にしているとのことでございます」
 警備隊長はうやうやしく書類ばさみをナカルに差し出した。中の文書は入市者の記録を写し取ったものであった。たしかにこの記録からでは、さっき彼が報告した以上の情報を得ることはできなかった。
「そのようですね。ご苦労でした。下がってよろしい」
「はっ」
 最敬礼をして、警備隊長が退出した。ナカルは女官を呼び寄せてカーファ茶を運ばせた。それにしても、探していた男の同行者、男が三人に、女が一人というのは奇妙な取り合わせだった。まさか共通の愛人というわけでもないだろう。
(奇妙な組み合わせではあるわ。サライ将軍……たしか、反逆の疑いをかけられて国外追放になったとレウカディアが親書を送ってきたけれども)
 ナカルとクライン皇家の間には直接の血のつながりは無いが、彼女の夫であるティイはクライン皇女らと歳の離れた従兄である。どちらかというと王女のユーリのほうが年齢的には近く、それもあってナカルは二人の皇女たちにはちょっとした親しみを感じていた。とはいえ二ヶ月ほど前に突然送られてきた親書には驚いたものだった。
(ともかく今はそのことは措いておくとして、問題は「アインデッド」という男だわ。ペルジア人と名乗ったのは、問題を起こさないための嘘に違いない。ティフィリス国籍のアインデッドというのが、ユーリが出会った男とみてまず間違いないはず)
 ますます厄介な相手になってきた、とナカルは思った。もちろんユーリに責任のあることではなかったが、それにしてもここまで心配している自分が過保護なのだろうかと、ちょっと考えたりもした。
 やがて運ばれてきたカーファ茶を一口含んで、ナカルは書類ばさみを開いた。そこに書かれた名を見て、彼女は緑の瞳を見開いた。
「……そんな、馬鹿な」
 見間違いではないかと、もう一度指で文字をたどって読み返したが、それは間違いようがなかった。
「いかがなさいましたか、陛下」
「何でもないわ。大丈夫」
 目に見えて動揺していたらしく、隣に控えた女官が控えめに尋ねた。ナカルは首を横に振り、微笑んでみせた。書類ばさみを閉じて引き出しにしまいこむと、彼女は深いため息をついた。
(警備隊長はたしか、傭兵とか言っていた……もうどこかに雇われているのなら、傭兵を雇い入れている諸侯と隊に調査を入れればどこにいるのかはすぐに掴めるわ。個人の用心棒にでもなっていないかぎりは)
 ちょっとした展望が見えてきたような気がして、ナカルはさっきよりはましな気分になった。ナカルは手を叩いて、女官たちの中でも一番年かさの、彼女よりも年上とみえる女官を呼び寄せた。
「バジーナ」
「はい」
「王宮付傭兵斡旋所の所長をここへ。火急の用だと伝えておくれ」
「かしこまりました」
 バジーナは軽く一礼して室を退出した。そういった呼び出しには慣れていて、何の為にとは尋ねない。ついでに私室に控える女官たちをまた次の間にさがらせ、しばらくして、彼女は所長とともに戻ってきた。
「王宮付傭兵斡旋所所長、ただいまこれに」
「お入り」
 所長が呼び入れられると、バジーナは他の女官たちと同じく次の間へ下がった。この所長も、傭兵のことでたびたび女王に呼び出されることがあったので、今回も傭兵が何か問題を起こしたか、それとも正式に騎士に任じるか否かについてを問われるだけかと考えていた。ただ、どちらとも付かなかったので彼はナカルが話しだすまで黙っていた。
「火急の用とは他でもない。四日前から今日までの間に斡旋所を訪れた傭兵の中に、こういった者がいるかどうかを調べておくれ」
 ナカルは手元にあった紙にさらさらと概要をしたためて、所長に渡した。
「かしこまりました。して、この者がおりましたら、わたくしはいかがすればよろしいのでしょう」
「不採用になったか、それとも採用であったならばどの部隊に配属されたか、それを私に直接報告しなさい」
「承りました。できうるかぎり速やかにお心に添えるように致します」
「ありがとう。では、下がってよろしい」
「はっ」
 所長が下がり、ナカルはもうすっかり冷えてしまったカーファ茶の残りを流し込み、立ち上がった。王子王女の宮殿というものはメルヌ城にはなく、王宮内の一角に幾部屋かがかれらのために空けられている。今ジャニュアには王女が一人しかいなかったので、どの部屋をユーリが使ってもかまわなかったのだが、大半の部屋は空き部屋となっていた。
 ユーリ付の女官を廊下でつかまえて尋ねると、今日は自室で勉強をしているというので、ナカルはそのまま彼女の居間に向かった。
「ユーリ様、女王陛下のお越しでございます」
 女官が告げたのと同時に、ナカルが入ってきた。ユーリは広げていた書物をそのままにして立ち上がり、略式の礼をした。母子の団欒を壊すまいと、女官たちは自主的に下がっていった。
「今日はもう来てくださらないのかと思っていましたわ」
「何を学んでいたの?」
「歴史です、母上。ゼーア史を読んでおりました」
 ナカルの教育方針は、本人の自由選択に任せるというのを基本概念にしていた。そんなわけで、王女として必要な礼儀作法や帝王学はさておき、ユーリは好きなときに好きなことを学んでいた。彼女が特に好んでいたのは歴史で、教師も付けさせずに書物ばかりを読んでいた。
 母のナカルとしては、次の女王となるべきユーリにはもう少し、政治学などに興味を持ってもらいたいところだったのだが、歴史にも少しはそういった面があると考えて、あえてそれを矯正しようとはしなかった。
「お前は本当に、歴史が好きね」
「はい」
 ユーリは笑った。ディヴァンに腰掛けて、ナカルは一冊の本をユーリに差し出した。表紙や中表紙の具合から、だいぶ古いものだと判るが、それにしては綺麗な本だった。ユーリも反対側のソファにかけた。
「これは何ですか?」
「ユーリ、沿海州史はやりましたか?」
「え? いいえ、専門的には学んでいません」
 突然の質問に戸惑いながら、彼女は首を振った。
「これが沿海州史の本。ここを見て御覧なさい」
 ぱらぱらと本をめくり、ナカルは見開きの頁を指し示してユーリの前の卓に置いた。
「ティフィリス王家の系図ですね」
「そう。二代前までで止まってはいますが、それで充分」
 ティフィリスにはほとんどといっていいほど関心を払わない国なので、国王が代替わりしても書き込んだりすることもなかったのだ。
「最初の王の名前は?」
 ちょっと考え込んでから、自信なさげにユーリは答えた。
「エンディートと読むのですか」
「いいえ、アインデッドですよ」
 その名前がもたらした衝撃は大きかったようで、ユーリはあやうく本を落としかけた。膝の上でなんとかそれを止めて、ユーリは母を見つめた。ナカルはユーリの目を見なかった。自分の膝に置いた手を見つめ、ナカルはつぶやくように言った。
「英雄王アインデッド。お前が知らなかったというのは少し意外だったけれど」
「母上。はっきりと言ってください。わたくしに何を仰りたいのですか」
 ユーリの声は震えていた。
「わたくしはたしかに、お祖母様に、母上に全てを話してくださっても構わないと申しましたわ。ですから、お叱りを受けても仕方の無いこととは思いますけれど、一体どういうことなのですか」
「お前のであったアインデッドという男は、ペルジア人などではありません。ティフィリス人なのですよ。さっき市大門の警備隊長から報告を受けて確かめました。メルヌ市に入ったアインデッドという名の男は、ティフィリス国籍のその男ただ一人だと」
 ユーリの瞳がますます大きく見開かれた。ナカルは淡々と続けた。
「おそらく髪は染めていたのでしょう。瞳は緑だと言ったわね……もしかしたら、ペルジア人の血が半分は流れているのかもしれない。けれども、ティフィリス人以外にアインデッドなどという名前を付けるものなど、ありえようはずもないのですよ。知らないほうが良かったと、思うかもしれないけれど」
 それがおのれの娘にどれほどの衝撃を与えるかを認識しながら、ナカルは言葉をとぎらせることをしなかった。どんな相手を好きになったのか、それをはっきりと判らせることが最も重要なことだった。
「母上、知らなくてもよいことと、知らなければよかったことは、同じようでいて違うのです。たとえその結果は同じだったとしても。ですから……」
 ユーリは俯いた。それはまるで吹けばはかなく散ってしまうマリニアのようすにも似ていた。何をどう言えばいいのかと考えているように、彼女はしばし逡巡していたが、やがてきっぱりと顔を上げた。
「わたくしはあの方が好きです。それは変わりません。たとえあの方が悪魔だとしてもわたくしのこの気持ちは変わらないと思います。いずれ他の殿方と結婚することにはなりましょうが、忘れたくはありません」
 泣き出しそうな目をしていたのに、ユーリの口調は毅然としていた。
「そう言うと思っていました。お前は、私の娘だもの」
 ナカルは哀しそうな笑みを浮かべた。
「でも、それはとても苦しいことですよ」
「判っています。本当は判っていないことも」
 まだ経験もしたことのない、想像も付かないことを、判っているとはいえなかったが、だがどういうものだろうかということは判っていて、ユーリはそんな言い方をした。ナカルは小さなため息を一つついた。
「そこまでの覚悟をしているのならば、私はあえて何も言いませんよ。ただ、市内に出るのは気をつけなさい。できれば供の者を増やして、昼の間になさいね」
「……お叱りにはならないのですか」
 ユーリが意外そうに尋ねた。
「私とて、お前くらいの年の頃があったのですよ」
 ナカルは優しく微笑みかけて、部屋を後にした。

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