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     知らなくても良いことと
     知らなければ良かったことは
     同じようでいて違うのです
     たとえその結果は同じだったとしても
          ――ユーリ・カルナ・ジャニュア




     第三楽章 月の小夜曲




「サライ、なあサライ。何だかさっきから変だな。どうかしたのか?」
 ルーイが訝しげに顔を覗き込んできたので、サライもさすがに言葉を濁しつづけるわけにはいかなくなってしまった。それで、だいぶ口ごもりながら正直なところを告白したのであった。
「いや……あの、さっきの喫茶店の中に、……アインがいたような気がしたんだ」
「本当にそれだけ? それならそんなに怒った顔をしなくたっていいじゃないか。この時間なら喫茶にいたって何もおかしくないんだし」
 尤もなことをルーイは言った。
「……そんなに判るかい?」
「うん。目が怖いからね」
 いつかのアインデッドと同じようなことを、ルーイは言った。何に対してそんなに苛立っているのか、それを説明するのはサライにとって、今さっきの告白よりも気恥ずかしかった。
「……彼がまた、どこかの女の子をひっかけてたみたいだったから……。アインときたら、女性でトラブルを起こすのを日課にしてるんじゃないかと思うくらいなんだ。だからまた、何かあったらどうするんだろうと思って。それもこんな慣れない街で」
「ふうん?」
 ルーイは判ったような、判らないような声を出した。それからくすくすと笑った。
「君って、よっぽど心配性なのかそれとも世話焼きなんだな」
「ルーイ、君はアインを知らないからそんなことを言うんだよ。彼ときたら、行く先々で何か面倒事を起こして、しかもそれを自慢にしてるくらいなんだ。一度彼に迷惑をかけられてごらんよ。私が心配するのも当然だと思えるようになるから」
 傍から見れば、どう見てもなんとかルーイを納得させようと一生懸命になっていたのだが、しかし彼自身は自分がそんなに懸命になっているとは気付いていなかった。それがまた、ルーイには可笑しくてならないようだった。
「ははっ。まるで悪戯っ子に手を焼くお母さんだね、サライ」
「ルーイッ」
 何を言うのかと、サライは声をあげた。しかし言われてみれば、たしかにそんなところが無きにしも非ずといったところだった。
(私は世話焼きなんだろうか……。お節介だとかはよく言われるけれど)
 今まで自覚が無かったというのが不思議なことだったのだが、サライは少し考え込んでしまった。
「それよりほら、これがユーリースの神殿だよ」
 言われて、サライは顔をルーイの指差す方向に向けた。そして、メルヌ市民がこの神殿をいただくことを誇りにしている気持ちを理解した。
 メルヌのユーリース神殿は桃色のようにも見える赤みがかった砂岩で作られた建造物であった。春と花の女神にふさわしく、破風のレリーフは春の花々をまるで幾何学模様のように図案化した精緻なものであった。天井を支える、林立する柱の一本一本にも同じように彫刻が成されている。神殿の周りには花売りたちが女神に捧げる花を売っており、美しく手入れされた花壇には今が盛りの花が咲き乱れていた。
 神殿に入る前に、ルーイとサライは女神への献花を買った。ユーリースは生贄を喜ばない。自らのために血が流されることを何よりも憂える心優しい女神のために、人々は美しい花を捧げるのだ。
「ここの百八本の柱は全て、少しずつ彫刻が違うんだよ」
 参拝者用の通路を歩きながら、ルーイが説明をした。朝早くの仕事始めなどに自分の守護神に祈る風習はどこも同じだが、昼過ぎの今はそれほど人は多くない。サライはゆっくりとその彫刻や飾られた像などを鑑賞しながら歩いていった。
 その時、後ろのほうから小さなざわめきが波のように湧き起こった。何かと思い振り向くと、ルーイが慌てたようにさっと跪き、騎士の礼を取った。まばらにいた人々もさっと二つに分かれて通路を空けると、同じように跪いたり、地に額をつけたりした。
 何が起こったのかと呆然としているサライに、ルーイが押し殺した声でわめいた。
「サライ、礼、礼だよ」
「え?」
「早く!」
「あ、うん」
 何が何だか判らないままに片膝をつき、サライは頭を下げた。ざわめきはやがておさまり、軽い靴音が入り口のほうから近づいてきた。
(王族か、貴族が参拝に来たというところなのかな……?)
 首を傾げていたその時。
「ユーリースの前では誰もが平等です。皆、頭を上げなさい。神殿であなたたちが拝むべきものは女神でありましょう」
 やや幼いが、しっかりとした少女の声が響いた。
(少女……ということはユーリ姫ということかな)
 その声を合図にしたように、また人々が動き出すのが気配で判り、サライは顔をあげた。そして、丁度通りかかったユーリを見上げる形になった。
「あっ」
 思わず上げた声に、ユーリが驚いたようにこちらを見た。不審そうな表情はすぐに消えて、優しい微笑みが代わりにそのおもてをほころばせた。
「どうかしたのですか」
「申し訳ありません。ご尊顔をあまりに間近く拝見できた光栄に、つい声を出してしまいました。どうか平にご容赦を」
 サライは深々と頭を下げた。彼個人としてはあまり嬉しいことではなかったのだが、そういう時の言葉などは考えなくても出てくる。だてに十年近くも宮廷勤めをしていたわけではないのだ。
「そう驚かれずとも、またいつかお目にかかることもあるでしょう」
 ユーリはそのまま歩いていった。神殿に仕える巫女たちがユーリを迎え、やがてその一団は一般の者たちは立ち入ることを許されぬ祭壇の横につながる通路に消えた。それを見送ってからルーイは立ち上がり、サライもそれに続いた。
「こっちがびっくりしたよ。いきなり叫ぶから」
「すまない。目の前にいたものだから」
 サライは苦笑いした。声を上げてしまった本当の理由は、ルーイにはとうてい打ち明けられそうに無かった。
(あのドレスを見間違えるはずがない。確かに、喫茶店でアインと話をしていたのは、ユーリ姫だ。もしこのジャニュアにユーリ姫と寸分違わぬドレスを持っていて、しかも同じ髪の結い方をした女の子がもう一人いて、同じ日に同じかっこうをして、近いところを歩いていないかぎり)
 王女だけがたった一人で供もつれずに神殿まで徒歩で来るような街ならば、どこかでアインデッドに出会っていたという可能性はある。
(まさかメルヌに来た日、アインとアルドゥインが助けた女の子というのが、ユーリ姫というのじゃ……)
「サライ、また何をそんなに難しい顔をしてるの。もう奥は見に行かなくってもいいのかい?」
 ルーイに声をかけられて、サライははっとした。
「いま行くよ」
 どうやらこの思索の続きは宿舎に戻ってからになりそうだった。
 一方、神殿の奥へと歩いていったユーリは神殿長の出迎えを受けていた。
「急なお越しでございますが、いかがなさいましたか、ユーリ様」
 どことなく王太后に似た雰囲気を持つ神殿長に、ユーリは王女らしく、しかしはにかみながら言った。
「一人で静かに祈りたいのです」
「それでは個人礼拝室をお使いになると宜しいでしょう。さ、こちらへ」
 聖職者たちが使う祈りの部屋に、ユーリは通された。ジャニュアの王族は生まれた時間によってそれぞれの十二神のどれかを守護神に持ち、その神官の地位を持つ。例えばナカル女王は火炎神ナカーリアを守護神とし、その名もナカーリアにちなんだものとなっている。ユーリの守護神はユーリースであり、彼女は生まれたときからこの女神の巫女なのだった。
 礼拝室には一人が祈るのにちょうどの大きさの祭壇が置かれ、その前にユーリースの立像が安置されていた。まるで時がそこだけをゆっくりと流れているような空間の中で、ユーリは女神像の前に跪いた。
「ユーリースよ、我が守護神よ、心弱いわたくしにどうか力をお与え下さい。真実を語る勇気をお与え下さい」
 指を組み、ユーリは目を閉じた。しかし瞼の裏に浮かんだのはユーリースの姿ではなく、一人の男の姿だった。はっとして彼女は顔を上げた。そして、祈るというよりは独り言のように呟いた。
「どうしたというのでしょう、わたくしは。あの方のお姿ばかりが思い出されてならないなんて……」
 振り払おうとすればするほど、何もかもが鮮明になる。透き通った緑の瞳、淡い褐色の長い髪、まるで兄のような優しい笑み。自分の名を呼ぶ声までが耳の奥に蘇ってきて、ユーリは成す術も知らず神像を見上げた。
「ああ、ユーリース。わたくしはどうしてしまったのでしょう?」
 祈りの時に他のものに心を奪われるなどということは未知の経験であり、それゆえにユーリは恐れた。しかし、唇を衝いて出た言葉は、祈る言葉とは程遠い言葉だった。
「わたくしを助けてください、アインデッドさま。あなたのことばかり想うのは何故なのか、教えてください」
 礼拝室からユーリが出てきたのは、それから半テルほどが過ぎてからのことであった。宮殿に戻る旨を伝えるために神殿長の所へ向かおうとすると、ちょうど神殿長が数人の女神官を連れてこちらに歩いてくるところだった。
「わたくしはそろそろ宮殿に戻りますゆえ、失礼いたします」
「いつでもお越しくださいませ。ユーリ様はお一人でお越しになったのでございましょう。供の者をお付けいたします」
 神殿長は微笑み、ユーリは一礼をして神殿を出た。女神官が三名、彼女の護衛も兼ねてその前と後ろに付き従った。メルヌ城まではほどなく、門の手前でユーリは神官らを振り返った。
「有り難う。神殿にお戻りください。ここからはわたくし一人でも安全ですから」
「ではユーリ様、失礼をいたします。ユーリースの恵みの有らん事を」
 門まで着けば、もうそこは女王の力が支配する場所である。いかなるものもユーリに害を加えることができないことになっている。それが彼女にとっての常識であった。ユーリはまっすぐに祖母の宮殿に向かった。
「ネフェリア様、ユーリ様のお越しでございます」
 ちょうどネフェリアは自室で揺り椅子にもたれ、くつろいでいる最中であった。
「まあ、まあ。ではここに通しなさい。それとカーファ茶を用意して。あの子の大好きな焼き菓子があったわね。あれも」
「かしこまりました」
 女官が下がると、程なくしてユーリが入ってきた。案内をしてきた女官がまた去っていく。ネフェリアは常のような微笑みを浮かべて孫娘を見た。
「どうしたの、ユーリ。元気が無いようね」
 ユーリは大分迷ったように黙り込んでから、やっと聞き取れる程度の小さな声で恥ずかしそうに言った。
「お祖母様に相談に乗っていただきたくて、参りました」
「まあ、それは」
 ネフェリアはそれを聞くなり小さく笑ったが、ユーリについて母と祖母が話し合いをしていたなどということは彼女が知る由もなかったので、ユーリは自分の何がそんなに祖母を可笑しがらせたのかと首を傾げただけだった。
「いいわ。さあ、そこにおかけなさい。皆、少し外していて頂戴。ああ、カーファ茶はここに置いておいて。それくらい私一人でできますからね」
 女官たちが去ると、二人きりの部屋は奇妙なくらいがらんとしていた。ネフェリアはユーリが自分から話し出すまで、自分からは声をかけなかった。
「お祖母様、わたくし、いったいどうしてしまったのでしょうか」
「なあに、突然そんなことを言い出すなんて」
「ユーリース神殿に先程までおりましたの。でも、前のように純粋な気持ちで祈ることができないのです」
 泣き出しそうな様子でユーリはかき口説いた。いかにも経験を積んだ女性らしく、ネフェリアは優しく促した。
「どうしたのか説明してごらんなさい。大丈夫、お祖母様は誰にも言いませんよ」
 ユーリは涙を一杯に溜めた瞳で祖母を見上げた。
「わたくしがこっそりと街に出ていることは、きっとお母様もお祖母様もご存知でしょう? 先日わたくしが何者かに襲われたことも」
「……」
 ネフェリアは無言でそれを肯定した。
「その時わたくしを助けてくださった方のことが思い出されてならないのです。何をしていても、何を考えていても、いつもその方の面影がどこかにあるのです。その方を思うと胸が苦しくてなりません。お祖母様、これは一体、どういうことなのでしょう。わたくしはどうしたのでしょう」
 ネフェリアはこの告白に心底驚いたが、しかしおもてにはそれを辛うじて出すことはなかった。
「ユーリ、それはね」
 彼女はそっと囁くように言った。
「恋というのですよ」


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