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 ユーリは一瞬、その言葉の意味を捉えかねたように瞬きをした。そしてようやく、耳から入った言葉が頭の中で結びついた。
「恋……? これが、恋というものなのですか」
 彼女の独白のような質問には答えず、ネフェリアは問うた。
「ユーリ、その方がどこの誰なのかは判るの?」
「いいえ、名をしか知りません」
「そう……」
 貴族であれば、それがどんな小貴族であれ、王女の相手に相応しい地位を与えてやることかができる。しかし平民であったら、王女の相手とするためだけに貴族にするのは非常に難しい話であった。
「ユーリ、話はそれてしまうけれど、これにはちゃんと答えて頂戴。お前を襲った相手は誰なの?」
 その質問が出た途端、ユーリの顔が曇った。だが、何もかも一度正直に話してみろ、というアインデッドの言葉を思い出し、彼女は覚悟を決めた。
「おそらくセシュス伯爵の手の者です。伯爵自身がその場におりましたから。覆面をしておりましたので顔ははっきりとはいたしませんでしたが、ヤナスにかけて、声は間違いなく伯爵のものでした」
 ヤナスを引き合いに出すのは、それが絶対に間違いではないということを強調するとともに、もし違っていれば死をもって償うというほどの意味を持つ。ネフェリアは先刻のナカルの話を思い出した。
(やはり、セシュス伯爵が……?)
「それで……その男たちからお前を助けてくださった方が、その方なのね」
「はい。お二人で通りかかられ、私を助けてくださいました」
「二人?」
「その方と、もう一人、連れの方が」
「どんな方なの?」
 ネフェリアは極力優しくたたみかけた。厳しい言葉を使ってしまっても全てを問いただしたい気持ちを抑えるのは、娘のナカルが自分で言ったように、たしかに彼女のほうがずっと上手だった。
「もう一人の男性は、沿海州の方のようでした。髪も瞳も、肌も黒かったので。それで、その方は私のような方でした」
「お前のような?」
 ユーリの言う意味が判らず、彼女は尋ね返した。
「髪や瞳はジャニュア人と同じです。けれど、私のような……いえ、私よりももっと、抜けるように白い肌でいらっしゃいます。瞳も、まるでわたくしたち王族が持つ緑玉のような、透き通った色をしていらして」
 最初に会ったときは、暗がりの中であったので、髪や瞳の色まではよく判らなかったのだが、今日会ったときに初めてユーリはそのことに気付いたのだった。しかし二度も会ったということを打ち明けると、またそれはそれで問題になりそうだったので、会ったのは一度きりということで通そうと、ユーリは固く心に決めていた。
「こう申し上げては我が王家に対して不届きにも思いますが、まるで、私にお兄様がいたのならあのような方ではないかと思うほど、雰囲気の似通った方でした」
「それで、お前はどうしたのです」
「すぐにカトレアヌとメリディーヌが参りましたので、お礼だけ申しあげて城に戻ってまいりました。それはあの二人に聞いていただければ確認できます」
 ユーリはよどみなく答えた。ネフェリアは、それと気付かれないほどの小さな嘆息を吐息に紛れ込ませた。
「それで、お前はキュティアに胸を射抜かれたというわけだね」
「私のこの感情がお祖母様の仰るとおりだというのなら、そうなのでしょう」
 持って廻った言い方を、ユーリはした。自分ではっきりと恋だと認めてしまったら、もう取り返しがつかなくなってしまうような気がしたのだ。彼女とて生まれついての王族である。恋愛をする自由など認められてはおらぬことを、充分に承知していた。
 ネフェリアとしても、それをどう孫娘に言い聞かせるのかを考えていたに違いない。
「そんなに美しいとか、男らしいとか、そういう方なの?」
 ユーリは頬を赤らめて頷いた。その様子はまさに恋する乙女のそれであった。
「男らしい、というのとは少し違うように思います。でも、本当にきれいな方です。もうお一方も、見劣りしないくらいの方でしたけれど」
「その方はどこの生まれで――名前は何とおっしゃるのです?」
「ペルジアの方だそうです。育ちは沿海州で、お名前はアインデッド、と」
「アインデッド?」
 不思議そうな声を上げた祖母を、ユーリはいぶかしそうに見上げた。ネフェリアはまだ合点がいかないというように顎にちょっと手をやった。
「それが本名だというなら、珍しい名前の方もいたものね」
「そうなのですか?」
 ジャニュアの歴史をユーリもすでに習ってはいたが、ティフィリスの歴史、文化などは全く知らないも同然だった。
「アインデッドだなんて、王族でも一人も使っていない名前なのに……」
 ネフェリアはひとり言のように呟いた。
(ペルジア人がそんな名前をつけるものかしら……ティフィリス人がペルジア人と偽って……? けれどもそれなら、瞳が緑であるはずがないわ)
「お祖母様?」
「あ」
 ネフェリアは顔を上げて、苦笑いを浮かべた。
「ユーリ、その方は本当にペルジア人なの?」
 ユーリは困ったように首を傾げた。
「そう仰っていただけですから、私にはそれを信じるしか」
「そう……そうね。ともあれ、セシュス伯爵のことはお前の母上に伝えてもよいかしら? これだけはとても重要なことですからね。お前をそのことで叱ったりしないよう、私もナカルによく言っておきますからね」
「お祖母様のお心のままになさってください」
 ユーリは素直に言った。
「もちろん、お前の好きだという殿方のことは、内緒にしておきますからね」
 安心させるようにネフェリアが言うと、ユーリは軽く首を横に振った。
「それも、お祖母様のお心にお任せします。私から母上に申し上げる勇気はございませんから……。話を聞いてくださって、有り難うございました。少し気が晴れましたわ。私はそろそろ失礼いたします」
「またいつでもいらっしゃい」
 ユーリを見送ってから、ネフェリアは椅子に戻り、先程の疑問をもう一度考えた。
(仮にユーリが恋した男がどこの人間だとしても、それ自体は何ら問題のあることではないわ。身分が同じなら、その出身がどの国でも同じことだから。ただ、アインデッド、という名前だけはどうにも納得できない)
 アインデッド自身が常々公言していたように、「アインデッド」という名は伝説の中で広く知られているものの、実際に今の時代を生きている人間の名としては非常に珍しいものだったのである。
(ティフィリス人以外は決して付けそうにもない名前……王族でもたった一人にしか使われなかった名前――まさか、その男がティフィリスの王族だということは)
 考えてから、ネフェリアは一人で首を横に振った。
(ティフィリス王家にはユーリの言うような若い王族はいなかったわね)
 一国の王族であれば、当然の如く他国の王族、有力貴族の名や関係を知っていなければならない。どこの王族に何人子供がいて、どこに嫁いだとか、誰を娶ったとか、膨大な量にもなるそれらの情報を逐一把握し、さらに最新の情報を常に得なければならないのもなかなかに大変なものであった。ネフェリアはすでに隠居の身であったから、それほど詳しいわけではなかったが、その程度のことはちゃんと知っていた。
 今のティフィリスの王族は三人、病身の王ディートリヒ、そしてフリードリヒとルートヴィヒの二人の王弟がいるが、その誰にも子はいない。それどころか、二人の王弟はすでに壮年に近い年にもなって未だ娶っていない。
(王子がいたとしたら、考えられなくはないでしょうけれど)
 それ以上考えても判らないことであったので、ネフェリアは女官を呼んで、ナカルに伝えたいことがあるという伝言を持たせて王宮へやったのだった。
 その日の公務を終えたナカルが太后宮を訪れたのは、夕方のルクリーシスの刻を少し回ったころだった。
「無理をして急がなくてもよいのですよ、ナカル」
 娘が相当に急いで仕事を切り上げてきたのだということは、ネフェリアにはすぐ判った。ナカルが椅子にかけると、それを合図にしていたのか、二人分の食事が運び込まれてきた。怪訝な顔をしていたナカルに、ネフェリアは微笑みかけた。
「あなたのことだから、夕食も食べずに来たのでしょう?」
「母上には隠し事ができませんわね」
 ナカルは笑った。ネフェリアは穏やかに言った。
「お話は食事を終えてからにしましょう。お前とゆっくり食事をするなんて、久々なのですもの」
 女王の激務に追われるナカルには、ユーリとともに食事をする時間を割くことはおろか、母親と過ごす時間を割くことも普段はままならなかった。それを思い出して、ナカルは頷いたのだった。
「それで、ユーリから何をお聞きになったのですか?」
 食後のカーファ茶も終わったころ、待ちかねていたようにナカルは口を開いた。
「あの子を先日襲った相手の名前が判りましたよ」
「誰なのです?」
「セシュス伯爵に間違いない、と」
 一瞬の沈黙が、ナカルとネフェリアの間に落ちた。しかしナカルが眉をひそめて何かを考えるようなしぐさをしたのも一瞬のことで、またすぐに彼女は顔を上げた。
「ユーリや女官の証言だけでは心もとない……。証拠を掴まなければなりませんね。セシュス伯爵の身辺調査をしなければなりませんし。彼を問いただしても仕方のないことでしょうから……臣下を疑うようなまねをするのは、できればしたくなかったのですが」
「ユーリを護るために、しなければならないことを避けてはなりませんよ」
「ええ、そうですわね、母上」
 ナカルは口許に笑みを浮かべて答えた。
「他に、ユーリは何か言いましたか」
「セシュス伯爵に襲われた日に、ユーリを救ってくれた方がいたということを、お前は聞きましたか?」
「ええ、それはユーリの侍女から。たしか二人の傭兵ふうの男であったとか」
「その殿方の一人に、ユーリはどうやら恋をしてしまったようなのです」
 かちゃんと音を立てて、カップが落ちた。斜めになっていたところを急に戻っただけだったので、辛うじて割れることはなかった。
「あの子も、もうそういう年頃でしょうけれど」
 もうカップを触らないように、両手を膝の上で組み、彼女は嘆息した。
「こういうことになると判っていたら、夜の外出をもっと厳しく咎めていたのに」
「それはあの子の為にはなりませんよ、ナカル」
「母上の仰るとおりですわ。でも、いくら容姿がすぐれているからとはいえ、一介の傭兵にすぎない男を初恋の相手に選んでしまうなんて。外国人でもかまわないけれども、もう少し扱いに困らない相手にしてほしかった、と思ってしまいますわ。私には経験のないことですもの」
 肩をすくめて、ナカルは苦笑した。娘の様子を見て、ネフェリアは微笑んだ。ナカル自身が言ったように、恋も何も知らないうちに結婚してしまった彼女は、色恋沙汰で母親を困らせたことがなかったので。
「その方が傭兵であれ何であれ、襲われかけた娘を、多勢に無勢にもかかわらず救ってくれたのだし、悪い人間ではないということは確かでしょう。それよりも私が気になるのは、その方の出自なのですよ」
「とおっしゃいますと」
「ティフィリス人ではないのに、アインデッドなどという名前を持つ殿方がいると、お前は思いますか?」
「そんな馬鹿な」
 ナカルは即座に否定した。彼女にもまた、信じられない話であったので。
「ありえませんわ」
「でも、ユーリの話ではその殿方はペルジア人で、アインデッドと名乗り、髪は褐色で瞳は緑……肌は抜けるように白い、というのですよ。ユーリの言葉を借りれば、ユーリに兄がいたならこんな殿方であったのだろう、というほど、雰囲気が似ていたそうです。私も奇妙なことだと思うのですよ。もちろん髪は染めることができるけれど、瞳の色までは変えられませんからね」
 怪訝そうに、ナカルは眉を寄せた。ネフェリアの表情は相変わらず穏やかであったが、それは彼女の驚きがすでに去ってしまった後だったからだった。やがてナカルはゆっくりと口を開いた。
「セシュス伯爵のこともさておき、その男が何者であるのかも調べてみなければなりませんわね」
「そうね」
「それでは私はそろそろ」
「ええ」
 ネフェリアは軽く頷いた。話すべきことはそれでなくなってしまったので、ナカルは失礼にならないように気をつけながら席を立った。彼女にはまだ片付けなければならない仕事が残っており、ネフェリアもそれを承知していたので、二人の間に無駄な会話は差し挟まれなかった。
「お話してくださって、有り難うございます、母上」
「そのお礼は、私からあなたに告げられることを覚悟して告白した、ユーリの勇気におっしゃいなさい」
「ユーリを叱ったりなどいたしませんわ」
 本来なら見送るために彼女も立ち上がるべきであったのだろうが、ネフェリアの足ではすぐに立ち上がることは不可能であったので、彼女は座ったままだった。ナカルは小さく微笑んで頭を下げた。

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