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 そんなわけで、勘定を済ませて外に出ると、一行は三人と一人に別れて反対の方向に向かった。アインデッドにはどこに行くあてもなかったし、遊ぶにしては金が足りなかったので、しばらく市内をぶらぶら歩くことにした。さすが歴史ある古い街並みだけあって、ごくわずかな料金で観ることができる私営の小さな美術館や、博物館のようなものは幾らでもあったのだ。
 賭博場の一つでもあれば持ち前のコロ振りの技術で一山当てて、一晩中楽しむ事だってできただろうが、あいにくまだメルヌに不案内であったのでそういったいかがわしげな場所の所在は知らなかった。
 それに、あのどこからどう見ても品行方正で生真面目な騎士であるジャンとトゥイユにそんな事は聞けなかったし、聞いたとしても首を傾げられるか、やっぱり傭兵だと軽蔑されるだけであるのは目に見えていた。
(自分で探すっきゃねえかな。だがあんまり面倒とかかわり合いにはなりたくねえし、やめたほうがいいか……ああいう場所に行けば必ず、何か面倒なトラブルに巻き込まれるのは分りきってるからな)
 長年の経験でそういうことは判っている。それに、他の国ならばともかくここはジャニュアである。気分転換に遊びたいという欲求よりもへたに事件など起こしたくないという理性のほうが先であった。
(俺も結構理性的じゃねえか)
 店先に並べられた首飾りや指輪の装飾品をなんということもなく見ながらアインデッドはひとりごちた。ひとりっ子でいつも孤独であったアインデッドは、そうやって本人も知らぬうちに自分と語り合ったり、自分で自分を叱咤したり、励ましたりする癖ができていた。それでついつい、独り言が多くなってしまうのである。
「もし」
「わっ!」
 ぶつぶつと呟いていたところにいきなり後ろから声をかけられて、アインデッドは飛び上がるほど驚いた。つとめて冷静を装いながら振り返ると、見覚えのある少女がそこにいた。
「またお目に掛かりましたわね」
 ユーリはにっこりと微笑んだ。今日の彼女はさすがに暑かったからかマントを羽織らず、襟ぐりを大きく取り、腰の下で切り替えの入った半袖の白いドレスを着ていた。デザインはシンプルでこざっぱりとしていたが、裾や袖口にはレースがあしらわれており、色白の彼女が着ると花の精みたいによく似合った。髪は上だけ編みこんで結い上げ、白い造花を飾っていた。結っていない髪は無造作に肩にかかって、優美な曲線を描いていた。
 近くを見回してみても連れらしい人はなく、今日は供のものを連れていないようであった。通行人たちは二人のことなど気にするはずもなく通り過ぎていく。もしかしたらユーリはジャニュアの王女ではないかと疑っていただけに、アインデッドはわけもなくどぎまぎして、この年下の少女を見つめた。
「どうかなさいましたの? ええと……」
「アインデッド、です。ユーリさん」
「ごめんなさい。失念していましたわ、アインデッドさま。こんな所でまたお会いできるなんて、まさにヤナスのお導きですわね」
 陽の光の下で彼女を見るのは初めてだった。こうしてみると、ユーリはかなりの美少女であった。薄暗い街灯の下で見ても白いと見えた肌はわずかに日に焼けていたが、それでも一般的な範疇からすれば色白だった。目鼻立ちはきわめて整っており、まなじりの切れ上がったややきつい目をしていて、そこだけが彼女のか弱げな印象を裏切っていた。肌の色のせいもあるだろうが、顔立ちはどこか、やはりジャニュア人離れしていた。
「あなたは何の用でここにいらっしゃったのですか?」
 歩き出すと、ユーリはそれを追いかけて訊ねた。
「それはこっちが聞きたいな。このまえあんなめに遭ってて、よく一人で外出しようなんて気を起こしたもんだね」
 ちょっと意地悪な気になって、アインデッドはつっけんどんに言った。とたんにユーリは花のような顔を曇らせた。
「すみません……夜ではないから、大丈夫だと思って……」
「あ、いや」
 アインデッドは慌てた。女の子を泣かせるのはどんな状況であれ趣味ではなかったし、女の涙というものにめっぽう弱かったから。
「責めてるわけじゃなくて、心配したんだよ。あいつら、本当にやばそうなやつらだったし……あんたもあれが最初ってわけじゃなかっただろう」
「やばそう……?」
 ユーリは知らない言葉にぶつかったようで首を傾げた。どうやら本当に、筋金入りのお嬢様らしい。
「剣呑そうな奴らだったから」
「はあ……。彼らが実際に行動に出たのは、アインデッドさまに助けていただいたあの時が最初です。いつもは後ろから私と侍女をつけてくるだけでしたのに。あれで本当に、彼が私をかどわかすのも辞さないと判ったものですけれど……」
 ユーリは言葉を濁した。なんだか話が長くなりそうだと見て取って、アインデッドはユーリの肩をたたいて振り向いた彼女にそばの店を指差して示した。街路に布張りの屋根を張り出させたテラスを持った、洒落たカーファ茶の店であった。
「力になれるかもしれないから、よければそのことを詳しく話してくれねえかな。そこの喫茶でさ」
 ユーリはまた、ぱっと明るい顔で笑った。
「ありがとうございます」
 嬉しそうなユーリの顔を見ていると、アインデッドはなんだかおかしな気分になった。自分から面倒を背負い込む真似だと頭では充分判っていたのだが、この少女をどうしても放っておく気にはなれなかったのだ。
(こんなガキはタイプじゃねえんだがな……俺にはそんな趣味もねえはずだし)
 無理やり理由を付けてみるとすれば、ユーリの正体が知りたかったという好奇心と、自分を見つけしだい殺しかねない《伯爵》について詳しいことを聞けるかもしれない、という実際的な理由があっただろう。それと、アインデッド自身はそうとは認めなかっただろうが、ユーリがアインデッドに対してそう考えているように、兄とでもいうか、保護者的な感情を持ちはじめていたのだ。
 ともかくアインデッドはユーリを連れて店に入り、周りに誰もいない席を選んで座った。おごるから、と最初にユーリに断ってから、やってきた給仕にカーファ茶とマノリアの茶を頼んだ。
「で、最初っから筋道たてて話してくれねえかな。あんたを狙ってる《伯爵》ってやつが誰で、何の目的でそんな真似をするのか、判ってるかぎりでいいから」
「はい」
 ユーリは素直にうなずいた。
「私をかどわかそうとしている男はソルトワと申します」
「姓は?」
「判っていますが、お教えすることはできません」
「それじゃあ俺にだってどうしようも……」
 むっとして言い返そうとするのをユーリは手振りで止めた。
「知っているというだけで、あなたがもっと危険な目に遭って、万が一命まで狙われるようなことがあっては私の立つ瀬がありません。こうして相談にのっていただいていることもすでに危ないことですのに」
 だったらこれ以上何を知っても同じことだよ、と言おうと思ったのを、アインデッドは思いとどまった。せっかくユーリが心配しているのだから、ここはおとなしく引き下がっておくことにして、先を促した。
「あなたも彼の呼び名からお察ししているとは思いますが、ソルトワは伯爵です。彼は私を妻にしようと考えていたのですが、私の母は私が幼いゆえもあって、私を嫁がせる気などまだありません。もちろん私にも。そこで彼は私を脅して言うことを聞かせようとしているのです」
 彼女の話は簡単で、しかも明確だった。だがアインデッドはうさんくさそうに眉をひそめた。多分、話の大筋は真実なのだろうが、どうもユーリの言い方には、何かを隠しているような響きがあった。
「だがユーリさん、ソルトワはあんたを嫁にして何か得になるのか? そいつは伯爵――貴族なんだろう。それなら、その結婚相手に望まれるあんたも貴族じゃないのか? そこのところはどうなんだ?」
 いきなり訊ね返されて、ユーリは戸惑ったようだった。わずかに顔を伏せて、躊躇いがちに言った。
「……あなたがお疑いになるのももっともです。ですが私は貴族ではありません。私の家は裕福なものですから、彼はその財産を狙っているのです。本来ならそのようなことを許すはずもないのですが、父は十年ほど前にふとした病がもとで亡くなりました。二人の祖父も六年前と四年前に相次いで亡くなり……。彼は年齢的には母の再婚相手として名乗り出てもおかしくない歳なのですが、どうしたことか私を妻に、と」
「声を聴いたかぎりじゃ俺とそう変わらないように聞こえたが、ユーリさんのお母さんはいくつになるんだい。それに、ユーリさんは」
「私は十四で、母は三十七です。アインデッドさまのお歳は存じませんが、たしか彼は二十八です。九つ違いなら、父と母もそうでしたから、どちらが年上でもそれほど問題ではないでしょう」
 十四歳と二十八歳といえば、二倍も歳が離れている。九つ年上の彼女の母に結婚を申し入れたほうが自然だろうが、やはりソルトワのおもわくでは成熟して自分の考えもしっかりと持った大人の女性である母親よりも、まだ幼く自分の思い通りになるユーリを妻にと望んだほうが有利なのだろう。
 十四歳で妻になることは珍しいことではなかった。王族ならばその位の歳にはすでに婚約者が決まっているもので、二十歳ごろにもなれば子供がいるというのが当たり前であった。
「そいつは最初っから、あんたをかどわかそうとしてたのか、それとも最初はちゃんと結婚を申し込んだのか、どっちだい」
「先程も言いましたけれど、母に私を嫁がせる気は全く無いことを彼も知っています。見込みのない頼みをするよりはと考えたのでしょう。以前から私に何くれとなく贈り物をしたり、ご機嫌取りのようなことをしていましたが、二月ほど前から頻々とあのような男たちが私を狙うようになったのです」
「そのことをお母さんには? 黙ってるのか」
 ユーリは無言でうなずいた。
「余計な心配を掛けさせたくないので……」
「あんたがいきなりその男の妻になるなんて言い出したほうが、よっぽど心配になると思うんだが。一度打ち明けてみたらどうだい? そうはっきり言わなくたっていい。言い寄ってくる男がいて困っている、とかそういうふうに切り出してみればいいんじゃないかな。あ、どうも」
 アインデッドは運ばれてきた茶をユーリの前に置いて勧め、自分もゆっくりとカーファ茶をすすった。ユーリはちょっと頭を下げてからカップを手に取った。
「……母がそれで納得してくれるのなら、いいのですけれど。母はとても勘のいい人ですから。もしかしたら、うすうす気付いているのかも知れません」
「なら、ますます言うべきだよ」
 アインデッドは年上らしく忠告した。
「この事に関して、あんたに落ち度は全くないわけなんだから、なにも気兼ねすることはないだろう」
「アインデッドさま」
 思いつめたような顔で、ユーリがまっすぐにアインデッドを見つめてきた。その視線にぎょっとして、アインデッドも口を閉じた。
「な、何だい」
「その男は私の家にとって重要な人物で、母も信頼を置いているのです。娘とはいえ、私の言葉をすぐに信じるほど母は甘い人ではありませんし。そうなると私が母に黙って市内に出ていることが判ってしまうのが怖いのです」
 今にも泣き出しそうなユーリの瞳に、アインデッドは戸惑った。どう言ったらいいものかと口をぱくぱくさせて、無意識に髪をかきむしった。
「あー、泣かないでくれないか。女の子の涙には弱いんだよ、俺。ユーリさん、他に相談できる相手はいないのか? 俺みたいな通りすがりの傭兵みたいなのじゃなくて、もっと信頼が置けて、親身になって考えてくれるような人は?」
 ユーリの悲しそうな顔をなるべく見ないようにしながら、アインデッドは言った。それは我ながらなかなかうまい逃げ口上になりそうだった。
「祖母なら、母には何も言わずに私の話を聞いてくれるやも知れません」
「だったら、お祖母さんにまず相談してみな。そうしたらお母さんにうまく話してくれるかも知れねえだろ? もしお祖母さんがお母さんに言っちまったら、そりゃしかたねえ、叱られるのを覚悟で洗いざらい喋っちまえばいいんだよ」
 得たりとばかりにアインデッドは一気にまくしたてた。ユーリはなんだか狐につままれたような顔をしたが、すぐにも泣き出しそうなあの表情をやっと引っ込めて、軽くうなずいた。
「ありがとうございます、アインデッドさま。やはりあなたにお話しして正解でした。さっそく今晩にでも祖母に相談してみますわ」
「そうしたほうがいい」
 ユーリは愛らしい顔に満面の笑みを浮かべた。それから、ずっと放っておかれていた茶を飲み干して、二人は店を出た。
「送っていこうか?」
「いいえ、結構です。まだ寄るところもございますから」
 アインデッドの申し出を丁重に断ると、ユーリは足取りも軽く通りの雑踏の中に消えていった。

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