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     第六楽章 黄昏と闇




 その日の夜遅くなってから私室に戻ってきたジークフリートは、いつになく感情の浮き沈みを外に出しているように思われた。イーヴァインはずっと彼が戻るのを待っていたので、その間の城内の動きを把握できていたわけではないが、慌ただしくなった城内とジークフリートの様子から、全てが動き出したのだと察した。
「お帰りなさいませ。冷めておりますし、簡単なものでございますが、夕食をお召し上がりになりますか?」
 仕事に熱中するといつもそうであったし、リエテ伯との謁見から今まで、恐らく食事の時間も惜しんで計画のために働いていただろうと思っていたので、イーヴァインは冷めても味の落ちない食事をいくらか用意させて待っていた。
「ああ、食べよう。お前は?」
 イーヴァインが引いた椅子に座り、ジークフリートは尋ねた。イーヴァインは答えながら、皿に被せてあった銀の蓋を取り除け、伏せたり布を掛けたりしてあったグラスやナイフ、フォークなどを彼の目の前に並べた。
「失礼して、先に済ませました」
「そうか。ならば良い」
 魚のすり身を卵白で固めたものと、付け合せの野菜料理は冷製のように冷えていたが、薄切りのパンは暖炉の火で軽く炙られた上で供された。
「イーヴァイン」
 彼に目を向けることなく、ジークフリートは言った。
「私がどれほど、お前と同じ感じ方をするのかはわからないが……殺すのは、殺されるよりも嫌なものかもしれないな」
 ぽつりと呟くような口調だった。突然放たれた意外な言葉に、イーヴァインはわずかに首を傾げた。
「いかがなさいましたか、ジークフリート様」
「ジェルジを殺した。私がこの手で」
 淡々と打ち明けた声には何の感情もこもっていなかった。イーヴァインは今度こそ驚きを露わにしてジークフリートを見下ろした。その視線を感じたように、ジークフリートは彼を見上げた。声と同じように感情を示さない表情の中、その瞳だけは感情が無いというよりも、自分のしたことの意味を理解できぬ子供のようだった。
「あの方は、ジークフリート様に仕えていたのではなかったからですね」
 イーヴァインは全てを納得したように確かめた。
「そうだ。これからの行動を円滑に行うには、障害は取り除けるうちにできるだけ取り除いた方が良い。内通者を飼っておくなど愚の骨頂だと思われたのでな」
「他には、誰か?」
「いや。血の報いを受けさせるべきはあれだけであったし、見せしめは一人で充分だ。誰が主人なのか、これからは誰が命じるのかを思い知らせれば、逆らうことはないだろう」
 ややあってから、ジークフリートはそっと訊ねた。
「これからは戦になる。私は指揮官ゆえ直接戦闘に出ることはなかろうから、お前が戦わねばならぬことにはならないだろうが、私の名のもとに多くの血が流れ、多くの命を奪うことになるだろう。或いはこの後再び、お前の手を汚させるかもしれない。それでも、ついてきてくれるか?」
「むろんのこと――。お誓いしたとおりです」
 同じように囁くような声で、しかしはっきりとした口調でイーヴァインは答えた。それ以上の言葉は互いに必要なかった。
 三日後、ヴァーレン城に新たな訪問者があった。武装した一軍がヴァーレンに現れ、指揮官が目通りを願っていると聞いた時、挙兵にあたって最も信頼のおける者を補佐に送ると予めアランヴァルドから知らされていたので、ジークフリートはそのことには全く驚かなかった。
 案内の者と共に応接用の広間に入ってきた男は、ジークフリートの前で片足を引いて胸を手に当て、一礼した。跪きはしなかったものの、それに準じる丁寧な礼であった。自分は当主ではあるが君主ではないのだから当然であるし、当主への礼としてはこれが一番ふさわしいだろうとジークフリートは内心で納得した。
「お初にお目にかかる、閣下」
「リエテ伯から話は聞いている。そなたがラバント候だな」
「はい。私はアクィリウス・エ・ミリーサと申します。一族の末席ながらアルマンドの名を名乗らせていただいております」
 ラバント候は一族の間でだけ通じる、簡略化された名を名乗った。一族の者であれば姓などアルマンドの名と領地の名、それを繋ぐのが爵位を表わす冠詞だけだと判りきっていたからである。彼の態度にジークフリートは満足した。
「よろしく、アクィリウス殿。これからよろしく頼む」
 ジークフリートは鷹揚に頷いた。アランヴァルドと同様に彼と曽祖父の代を同じくするアクィリウスは、ジークフリートから見れば祖父の従兄の息子にあたる人物だった。年の頃は四十前後、栗色の髪と鳶色の瞳を持つ温厚そうな男である。だがその瞳の奥にはこちらを見極め、量るかのような油断ならない光があり、年若い当主に敬意は払っているが盲従する気はないらしいことが読み取れた。そのような目で見られれば、人によっては不快になったかもしれないが、ジークフリートはこれにも満足した。
「アクィリウス殿、貴殿が率いてきた軍勢の人数はいかほどか?」
「こちらには身辺警護のため二十騎ほど連れてまいりました。ヴァーレンの手前に六百騎を待機させております。こちらに到着することを優先させましたのでそれらは全て騎兵です。残りの歩兵と糧秣隊は少し遅れておりますが、三百騎」
「九百か。このヴァーレンの騎士団と合わせれば先鋒には充分だな」
 顎先に軽く指を当てながら、ジークフリートは呟いた。この時代の一定規模以上の都市の例に漏れず、自衛の必要があったのでヴァーレン市は有志の市民からなる騎士団を持っていた。これまで、彼自身が武力を手にすることができないように二人の叔父たちは慎重に彼を指揮権から引き離していたが、名目上騎士団の主はジークフリートであり、その二百騎が唯一、彼の一存で動かすことのできる兵であった。
 アランヴァルドが訪れたことで事態が急激に動き出した三日前から、ジークフリートは騎士団の長を務める男を通じてその構成員を全員呼び出し、フリアウル、ハーゼルゼット両侯との戦闘が行われる際には彼に従って現地へ赴き、戦うことを約束させていた。騎士団と名はついていても職業軍人はおらず、市民の義勇軍の域を出ないため全員とはいかなかったが、これに城付きの騎士を加えれば身辺警護に足るだけの数は確保できた。
「ヴァーレンからの距離がございますので更に一日か二日程到着は遅れましょうが、メニエ伯ヴォリス・エ・ソティエとエローラ伯シズランディ・エ・アピアもそれぞれ自軍を率いてこちらに参じている途中です」
「ならば悠長に彼らを待つよりも、既に到着している貴殿の軍を率いてシメイに向かった方がよさそうだな」
 さほど悩んだ様子もなく、ジークフリートは言った。言葉はアクィリウスの意見を求めるようなものであったが、語調はきっぱりとしていて、それが既に彼の中では相手の受諾を待つばかりの決定事項となっていることが読み取れた。レギン、ハーゲンと全面的に対決することを決め、相手にもその旨を布告している以上、反撃の準備をさせず、その機会も与えないためには迅速な行動が不可欠だった。
「仰るとおりかと。ではヴァーレンではなく直接シメイの前線を目指すよう、彼らには伝令を出しましょう」
「それは貴殿に任せた。こちらも発つ準備を早急に整えよう」
 軍議と呼ぶこともできないほど短時間の簡単な会話を切り上げ、ジークフリートは応接間を出た。控えの間で待っていた従僕たちに、ヴァーレン騎士団の召集と、同行を決めた城付き騎士たちへ出立準備を整えるように伝えることを言いつける。
 一人その場に残ったイーヴァインは、溜息のように囁いた。
「とうとう、戦いになるのですね」
「ああ。だがイーヴァイン、お前はここに残れ」
「……何故でございますか?」
 告げられた瞬間、イーヴァインは表情を強張らせた。そこにある不安を感じ取ったジークフリートは、事務的な声音を和らげた。
「お前をフリアウルの者たちに見られたくないのだ。これから向かうシメイにはハーゲン叔父がいる。まさかハーゲン叔父とお前が直接顔を合わせることが二度もあろうとは思えないが、家臣たちに顔を見られる可能性は充分考えられる。ハーゲン叔父は暗殺者がレギン叔父の手の者だと信じているようだが、とはいえお前が《エスメリオン》であると気づかれたら、エズマの死と結び付けて考える者もいないとは限らない」
 ジークフリートの説明に、一応は納得した表情を見せたイーヴァインだったが、それでもなお、主人と別行動を取らねばならないことには一抹の不安が残るようであった。これからジークフリートが向かうのは戦地であることも、彼が憂いを晴らせない原因の一つだった。
「仰ることはよく判りました。しかし……あなたを守ることもわたしも務めの一つです。総指揮を執られるジークフリート様が前線にお出ましになる可能性はごく低いものであろうことは理解しておりますが、万が一ということもございます。戦の混乱に乗じて御身を害そうとする輩が忍びこまないとも限りません。あなたが危険と隣り合わせにあるその時に、わたし一人が安閑とヴァーレンに留まっているというのは……正直に申し上げて、承服いたしかねる思いがございます」
 そっと秀麗な眉をひそめながら呟くイーヴァインの手を、ジークフリートはいつかのように両手で包み込むように握った。深い氷海の底と同じ色の瞳は、柔らかく暖かな光を宿していた。
「案ずることはない、と言ってもお前は納得しないのであろうな。今、お前が口にした思いとは、お前がフリアウルに行っている間、私が感じていたものと同じなのだろう。……あれは、無事であると知っていてさえ、どうにもできぬものだった。だから私からはこれ以上お前の懸念を軽くすることはできぬ。ただ、耐えてくれとしか言えぬ」
「……承知いたしました」
 ジークフリートの示した最大限の誠意から出た言葉に、イーヴァインは受け入れることで応えた。ヴァーレンにイーヴァインが残ることは既に覆せない決定であることを、決めたジークフリートだけでなくイーヴァインも理解していた以上、そこから生まれる不安はいかに言葉を重ねたところでどうにもできないのだと、二人とも知っていた。
「私の留守はお前に任せる、イーヴァイン」
 ふと落ちた数秒の沈黙を再び破り、ジークフリートは告げた。意外な言葉を聞いたように、イーヴァインはぱっと顔を上げ、握られたままの手にやっていた視線をジークフリートに戻した。驚きと疑問を浮かべている青氷の瞳を、ジークフリートはまっすぐに見つめ返した。
「ジェルジはもうおらぬからな。……いたとしても、あやつに全てを預けることなどする気もないし、できなかったが」
 過去を嗤うような声でジークフリートは付け足した。
 ジークフリートが直轄するヴァーレン市や周辺の領地を管理監督し、城内の一切を取り仕切るのが家令である。ジェルジをジークフリートが誅殺したため、現在のヴァーレン城にその職にある者はいなかった。
 元から、ジェルジはジークフリートを監視するのを仕事にしており、真っ当にその職責を果たしていたとは言えなかった。ジークフリートが自ら家令のやるべき細々とした仕事も行っていたので、彼が死んだからといって支障が出ることは全くなかったが、ジークフリートが不在となれば当然、それらの全てが滞ることになる。確かに、彼の不在の間、城主の代理を務める者は必要だった。
「ジークフリート様、それは……」
 イーヴァインの声は途切れてしまったが、そこにあった問いかけを肯定してジークフリートは頷いた。
「お前をこのヴァーレン城の家令に任ずるということだ。お前はこの三年、常に私の身近にいて、私のなすことを見てきた。今、この城にいる他の誰よりも、お前は私の考えを読み取ることに長けている。私がおらずとも、私が何を為すか、為さねばならぬかお前は判っているだろう。そして、お前はそれを実行できるはずだ」
「私でよろしいのですか」
「お前だからだ、イーヴァイン。お前以外の誰にも任せられない。受けてくれるな?」
 その問いは、質問の形をしてはいたが一種類の答えしか許さぬ響きを持っており、またそれを確信していた。そして返された答えはその確信を裏切らぬものであり、与えられた信頼に対する感謝と喜びに満ちていた。
「はい。謹んで承ります」



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