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 ジークフリートは、イーヴァインが戻ってからも常と変わらぬ日々を淡々と過ごしていた。状況を知らせる使者を送り続けてはいたものの、命じられたとおり静観を守っていたリエテ伯が痺れを切らしたかのように別の動きをみせたのは、ハーゼルゼット候、フリアウル候、ヴィス伯の三つ巴の戦いが始まって一旬あまりが経った日のことであった。
 知らせを聞いた時、ジークフリートはイーヴァインを相手に遊戯盤で気晴らしのゲームをしていたが、リエテ伯自らがヴァーレンを訪れ、謁見を求めていると告げられても表面上は大して驚かず、さしたる感情を動かしたようでもなかった。
 だが、十七年間誰一人として顧みることがなかった名のみの公爵を一族の者が訪れることは、実権を持つ者ではなく、当主の名を持つ者――叔父たちでも、他の誰でもないジークフリートを一族が求めているということを意味した。
 力が本来あるべき名のもとに求められている時ならば、自ら手を伸ばして取り戻すまでもなく、一族は彼に失われたものを差し出すだろう。ジークフリートが待ち続けていたのはその瞬間であった。今がそうでなければ、何であろうか。
 とうとう、ここまで来たのだ――。そう思うと、ジークフリートの手はいまだ知らぬ期待とも恐怖ともつかぬものでかすかに震えた。
 視線を送ると、イーヴァインは全てを承知しているように頷きかけた。それだけで、ジークフリートは昂っていた精神が平静を取り戻したような気がした。袖の陰で握り締めていた拳の震えは止まっていた。
 これまでどおり、やり遂げてみせる。ジークフリートはそう思った。予想される相手の言葉とその対応、さらにそれへの反応と、対処――。全てをもう一度思い浮かべ、追い直す。必ずやらねばならぬと決めたことへの覚悟は、すでにしている。
「行ってくる、イーヴァイン」
「行ってらっしゃいませ」
 二人の交わした視線は決然としていた。
 待っていた男は、ジークフリートの姿が謁見用の広間に見えるなり壁際の椅子から立ち上がり、中央に進み出て一礼した。
「お初にお目にかかる、アラマンダ公」
「貴殿がリエテ伯か」
 父の従兄の息子だというその男を、ジークフリートは探るように見つめた。名は知っていたが、初めて会う一族の者であった。
「いかにも。私はアランヴァルド・アルマンド・エ・リギア・ラ・リエテと申す」
 近親婚によって他の血がほとんど混じらなかったせいだろう。立ち上がってこちらを見た顔は、叔父たちよりもずっとジークフリートに似たものを持っていた。年の頃は三十半ばと見え、黒髪と淡い茶色の瞳を持っていた。
「アランヴァルド殿。かように突然訊ねて参られた訳を聞かせていただこう」
 上座に置かれた背高椅子にかけながら、ジークフリートはゆったりと尋ねた。
「公はくだくだしい挨拶や、言葉を飾ることを好まれぬと聞いた。ゆえに単刀直入に申し上げる」
「それは有り難い。して?」
「叔父君たちの――フリアウル候とハーゼルゼット候の戦いを収めて頂きたい」
 すると広間の天井の辺りに視線を流していた暗い宵藍の瞳が、無感動にアランヴァルドの上に据えられた。底冷えのするような目だった。
「遠き道のりをわざわざ参られた伯に、このようなことを申し上げるのは私とて本意ではないが、私は何もせぬ。介入も、調停も、何も」
 ジークフリートは冷たく一蹴した。
「だが、公。今のままではフリアウル候とハーゼルゼット候は……」
「相争って、両家とも潰えるやもしれぬな」
 アランヴァルドが濁した言葉を、事も無げにジークフリートは言い切った。世間話のように軽い口調であった。
「ならば……」
「ならば何と? 私に何をせよと申すのだ? 本来ならばこのような事態に陥る前に――表立ったことが起きる前に叔父たちを止められただろう。その機会ならばこれまでに幾らでもあったことくらい、私も理解している。だが、私はしなかった。いや……できなかったと言うべきか。それが何故かは、貴殿にも判っているはずだ」
「……」
 アランヴァルドは言葉に窮した。ジークフリートは立ち上がり、外の景色に目をやりながら窓辺に歩み寄っていった。ずっとこちらを見つめているアランヴァルドには一瞥もくれなかった。
「貴殿が仰るのはいささかむしの良い話に聞こえるな、アランヴァルド殿」
 彼の沈黙の上から押しかぶせるように、ジークフリートは言った。
「私を名のみの当主に据えておきながら、実を持つ者らが自分たちの手に負えぬ事態を引き起こしたとなれば掌を返して名に縋るとはな。――当主の名だけで事が収まるのならば誰も苦労せぬわ」
 その声は、おのれ自身をもあざ笑うような響きを持っていた。
「それは……」
「今までハーゲン叔父かレギン叔父を実質の当主と立てて従ってきたのであろう。ならば、最後までどちらかに従ってはいかがだ? 二人には任せられぬというなら貴殿自身が叔父たちを倒し、実権を握られるがよい。どちらでも私は構わない。私の立場は今と変わらぬからな。好きになさればよい。どうなろうとも、今までどおり名のみの公爵として、仕事だけはしてさしあげよう」
 ジークフリートは冷たく言い放ち、ようやくアランヴァルドに顔を向けた。それから思いついたように続けた。淡々と語り続ける、いささかも揺るぐことのない氷の美貌にアランヴァルドは慄然とした。
「或いは、せいぜい貴殿らには互いに争いあってもらい、ことが全て終わった後に争いの責任の全ては私にあるとして、私の命を以て皇帝陛下にお詫び申し上げるという手もあるな。その時には、我が一族も一門として立つことはもはやありえぬだろうが、どうせ私には何の愛着も未練もないもの。捨て去るならばいっそ、ド・ラ・アルマンドを名乗る最後の者となるも悪くはない」
「ジークフリート様」
 とうとう、アランヴァルドは崩れるように膝をついた。
「どうか、どうか……我らをお見捨てなきようお願い申し上げる」
 それこそ知ったことかとでも言いたげに、冷ややかな瞳がアランヴァルドを見据えた。その目に怯みかけたが、彼は勇を鼓して真っ直ぐに見返した。
「私だけではなく、一門全ての者の思いは同じ。我らの当主はジークフリート様、あなたをおいて他にござらぬ。言い訳と取られても致し方ないことは百も承知で申し上げる。我らとて、フリアウル候とハーゼルゼット候に公を人質にとられたようなものだったのだ。結果として公を蔑ろにし、候らに唯々諾々と従っていたことはこの先、どのようにしてでもお詫びいたし、償う所存」
 アランヴァルドは床に頭を擦り付けんばかりになって懇願した。
「……」
「このような言葉一つでと仰るやも知れぬが、これまで犯した我らの数々の無礼、非礼は幾重にもお詫び申し上げる。どうかお許しいただきたい」
 ジークフリートはすぐには応えなかった。アランヴァルドもこれ以上言葉を重ねることはむしろ逆効果であると感じていたので、ただ黙って床に片膝をつき、頭を垂れて相手の返答を待った。それは長い時間だった。
 数分の沈黙の後、小さなため息のような吐息が漏れた。
「良かろう」
 ようやくジークフリートは口を開いた。アランヴァルドははっとしたように彼を振り仰いだ。彼を見下ろすジークフリートの目は、その恐ろしさを侮った者の命を容赦なく奪う冷厳な北の氷海を思わせ、これまでにないほど厳しいものだった。それはただのうら若い青年ではなく、帝国で最も古く力ある一族の頂点に立つ者の顔であった。誰よりも誇り高く、何よりも揺るぎない姿がそこにあった。
 この瞬間、彼はアルマンドの一族そのものとしてアランヴァルドの前に立っていた。わずか二十一歳にしか過ぎないはずの当主を軽んずる気持ちは、アランヴァルドの心から完全に消えた。
「貴殿のその言葉を一族の総意であると解してよいのならば、私は貴殿の願いどおり、アルマンドの当主としての務めを果たそう」
「むろん、我が願いは一族の願いとお心得ください」
 貪るようにその姿を見上げ、アランヴァルドは熱を込めた口調で答えた。
「ではフリアウル、ハーゼルゼット両候と彼らに従う一族の者は、全て我らアルマンド一族からの離脱を望み、当主に逆らうものであると考える。これを私も一族とは認めぬ。一族を離れたからにはもはや容赦はせぬ。場合によっては皇帝陛下に裁可を仰ぎ、処分する。それでもよいのだな、リエテ伯?」
「はい。公の判断のままに、我らは動きましょう」
 アランヴァルドの答えはきっぱりとしていた。ジークフリートは頷いた。
「今よりただちにド・ラ・アルマンドの名において我が一族全ての兵力を召集する。いずれヴィスとも決着をつけねばなるまいが、当座の目標は一族に離反したフリアウル候とハーゼルゼット候の粛清とする。全ての指揮は私が取る。初陣ゆえ、補佐を任されてくれようか?」
「喜んでお引き受けいたします」
「だが書状を書く前に、この城内で片付けねばならぬ仕事が幾つかある。すまぬことだが、この城の者では頼りにならぬゆえ、貴殿の従者を貸していただけぬだろうか、アランヴァルド殿」
「かまいませぬが、一体何をなさる?」
「これから挙げる者を、一人も城から出さぬようにしていただきたい。まずは家令のジェルジ。これは私から用事があると告げて、一室に一人だけで留め置いてほしい」
 続けて淡々と名を挙げていくジークフリートの冷徹な瞳を見たとき、彼の意図していることがアランヴァルドにも読み取れた。全ての名を挙げてから、ジークフリートは少し間を置いた。
「誰ぞある! これへ」
 ジークフリートは扉の向こうに向かって声を張り上げた。即座に使用人が入ってきて、彼の前に膝をついた。
「これより各地の一族に伝令を出す。私が書状を書くまでに、早馬の準備を」
「かしこまりました」
 使用人が走り去ってから、ジークフリートはアランヴァルドに再び目を向けた。
「では、頼んだぞアランヴァルド殿。一テル以内に全て済ませよう」
「お任せください、ジークフリート閣下」
 ジークフリートは最初の言葉どおり、一時間後には全ての親書を書き終え、伝令の早馬がアラマンダの各地に向かって放たれた。自ら一族に向けて何らかの行動を示すのはこれが初めてのことで、全く不安がないというわけではなかったので、アランヴァルドがそれとなく書状の内容や宛先についての助言をくれたことに、ジークフリートは素直に感謝の意を伝えた。もちろん、アランヴァルドは控えめに謙遜したが。
「アランヴァルド殿。最後にもう一つ、貴殿にお願いしたいことがある」
「何でありましょう?」
「これを」
 そう言って、ジークフリートは使者たちに渡さなかった一通の書状を取り出した。一族宛てのものとは違い、その書状にはジークフリート個人を示す印璽と、アラマンダ公爵の正式な紋章を刻んだ印璽で封蝋が二つ捺されていた。使用された羊皮紙も、公式文書に使う上質なものであることが明らかだった。それだけで、アランヴァルドはこの書状が誰に渡されるべきものであるかを理解した。
「承知いたしました。必ず」
 受け取ったアランヴァルドの手は、微かに震えていた。託されたものが単なる書状ではなく、この若き公爵にとって、今日初めて相見え言葉を交わした自分への最大の信頼であり、期待でもあることが悟られていたからである。そしてまた、期待に応えられるか否かはそのまま、一族の未来を左右するであろうことも。
「お任せした」
 しかしジークフリートは淡々と、アランヴァルドに頷きかけただけであった。彼が部屋を後にするのを見送ってから、ジークフリートはようやくジェルジを留め置かせておいた部屋へと向かった。
「待たせたな、ジェルジ」
「いえ、さような事は決して」
 椅子にかけていたジェルジは慌てて立ち上がり、礼をした。
「何の御用でございましょうか?」
「そなたが私の家令になって何年になる、ジェルジ?」
 質問には質問が返ってきた。ジークフリートに視線を投げられ、ジェルジは瞬時目を泳がせた。
「ええ……その、十年ほどになりましょうか」
「九年と五ヶ月一旬と二日だ」
 曖昧な答えに気分を害したでもなく、ジークフリートはすらすらと言った。それが正しいのかどうかジェルジには判らなかったが、何事においても正確無比な記憶を誇るジークフリートの言であったから、恐らく本当のことだったのだろう。
 質問の意図が見えず、不審がるような表情を浮かべるジェルジをよそに、ジークフリートは再び問いを重ねた。
「もう一つ訊きたい。そなたは私に初めてまみえた時、何を申したか憶えているか?」
「は……?」
 あまりにも不可解な問いかけに、とうとうジェルジは首を傾げた。だが黙っているわけにもいかないと考え直して口を開いた。
「尋常にご挨拶を申し上げたかと思いますが……」
「そうではない。私は、初めてまみえた時と申したのだ」
 ジークフリートはきっぱりと言った。
「忘れたのか、ジェルジ? 無理もない。十七年も前のことだからな」
 言葉を終えると同時にこちらを見据えた凍てつくような眼差しに、ジェルジの背にぞくりと鳥肌が立った。硬直して絶句するジェルジをよそに、ジークフリートは続けた。
「しかし忘れろと申した当人のそなたが忘れ、言われた私が憶えているとは、皮肉なものだな。或いはそなたには記憶にも値せぬ出来事であったか。私には、忘れろと命じられたとて忘れられることではなかった。あの日のことを一瞬とて忘れた日はなかった。父上を殺した者の顔も、そなたが母上に手をかけたその瞬間も、私に忘れろと、誰にも話すなと命じたことも」
 相手が何に言及しているのか、既にジェルジにも理解できていた。背中に冷たい汗が伝うのを感じた。相変わらず、ジークフリートの表情は動かない。声も平静であった。だが一見静かにこちらを見つめている宵藍の瞳の中には紛れもない感情があった。それは様々な意味合いを含んでいたが、最も近いものは憎悪であった。
 その視線に射すくめられたかのように、もはやジェルジには動くこともできなかった。彼はこの時ようやく悟ったのであった。ジークフリートが何事にも無感動、無表情であったのは、何も感じていないからではなく、心に抱いているたった二つの感情が他の感情が滑りこむ余地もないほど強く、顔に表わすこともできぬほど激しいためであったのだと。それは炎よりも凍てつく憎しみであり、氷よりも燃え盛る怒りであった。そのことに気づいた途端、ジェルジの顔からは感じたこともない恐怖で血の気が引いた。
「私が全てを忘れたと――そなたらを憶えておらぬとでも思っていたか?」
 すっと目を細め、ジークフリートは普段よりも少し低い声で訊ねた。
「そ……それは……」
 目に見えぬ手にでも押されたかのようにジェルジは後ずさろうとし、磨きこまれた床の上で靴の踵が耳障りな摩擦音を出した。だがジークフリートは視線を真っ直ぐに向けたまま、半歩進んで距離を詰めると、後ろで組んでいた手を前に持っていった。そしてまるで親しい友に語りかけるかのように、左手をジェルジの肩に置いた。
「と――昔語りはここまでだ。そなたに申したかったのは、それとは別のことだ。私は我が手に在るべきもの、失ったもの全てを叔父たちから取り戻すことにした。もはや何事も耐えはせぬ」
「閣……」
 ジェルジは何事か言いかけて口を開いたが、それを待たずにジークフリートは続けた。
「そなたは先に行って、主を待つがいい」
 一瞬の事だった。ジークフリートの手元から銀色の光が一条迸ったかと見えた次の瞬間、ジェルジの胸に激痛と衝撃が走った。痛みは刃の形をしていた。虫を殺すほどにも動かぬ表情のまま、ジークフリートは深々と突き刺した短剣を握る手に力を込め、ぐっと持ち上げるように動かした。ジェルジは信じられないものを見るように、おのれの胸に生え出たように刺さる短剣を見つめ、それからジークフリートを見上げた。
「……まさか……そん……な」
 喘ぐように言葉が漏れたが、もはやそれは明確な発音にはなっていなかった。ジークフリートが短剣から手を離すと、全ての力を失ったジェルジの体はどさりと倒れた。ジークフリートは、その亡骸に向けるでもなく呟いた。半眼に伏せられた宵藍の瞳には、得体の知れない翳りが浮かんでいた。
「これで――真実、私も手を汚した事になるな」
「ジークフリート閣下」
 頃合いを見計らったように、アランヴァルドの従者が入ってきた。ジークフリートの足元に倒れたジェルジには一瞬視線を投げただけで、全てを了解していたかのように何の反応も示さなかった。
「他の者には、私に逆らわぬと誓いを立てさせたか?」
「はい。全て済みましてこざいます」
「ご苦労」
 ジークフリートは軽く頷きかけた。
「この始末は任せた」
 それきり彼は、自ら手を下した死体に目をくれる事もしなかった。

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