前へ  次へ







 その日、海岸に先にやってきていたのはハルカトラであった。ジークフリートが階段を下りてくるのを見上げ、彼女は親しい友人に向けるような笑みを浮かべた。
「御機嫌よう、ジークフリート様」
「ああ」
 ジークフリートは言葉少なに答えた。いつものようにハルカトラは隼が持ってきた便りを渡した。そして、文面を追うジークフリートの顔を見つめていた。手紙はいつも短いので、読み返しても一分もかからない。ジークフリートはちらりと目を走らせるなり、大きく瞬きした。
 常は冷たい氷海の色をしている瞳に、突然柔らかな光が宿ったように見えた。ハルカトラは首を傾げた。
「どうなさいました――?」
「やっと、イーヴァインが帰ってくる」
 ジークフリートは顔を上げて真っ直ぐにハルカトラを見た。
「本当でございますか?」
 ハルカトラの表情がぱっと晴れた。
「嬉しいのか、やはり?」
 尋ねられて、ハルカトラは頬をうっすらと染め、はにかんだ笑顔を見せた。弾んだ声で言う。
「それは……ええ、嬉しいです」
 対照的に、ジークフリートの声音は少し沈んだ。
「私も、イーヴァインの戻る日が待ち遠しい。だが――お前と会えぬようになるのは、寂しいようにも思う」
「でしたら、これからもここに参りましょうか」
 ほとんど即座に、ハルカトラは言っていた。だがジークフリートはゆっくりとかぶりを振った。
「その言葉は嬉しいが、そういうわけにはゆかない。――恐らく、これから忙しくなる。こうして外に出ることも、ままならぬようになるだろうから」
「それは――そうでございますね」
 ハルカトラも頷いた。
「それにまた、お前はイーヴァインの恋人なのだろう。それが、用もないのに私などと会っていては要らぬ誤解を受けるかもしれない」
 そう言った声は、自分でも意外なほど悲しげに響いた。そのことにジークフリートは驚いた。声に蔑みや怒り以外の感情らしい響きが表れることなど、今までになかったことだった。
「イーヴは、そのような疑いを向ける人ではありません」
 どことなく気分を害したように、ハルカトラは言った。ジークフリートはわずかに目を伏せた。
「そのことは私も知っている。だが、他の者はそうではない。それに……私は、このままお前と何度も会うのが恐ろしい」
「はい……?」
 唐突な言葉の意味が判らず、ハルカトラは首を傾げた。ジークフリートは目を伏せたままでいた。それだけで、表情は何も変わらなかったのに、そこにふと苦渋の影がさしたように思われた。
「私は……お前がイーヴァインの愛する者であることを忘れそうになる」
 やがてジークフリートは、ためらいながらもはっきりと告げた。ハルカトラは唇を小さく開きかけて、言うべき言葉を失ったようにそのまま動かなかった。低いジークフリートの声だけがそこに流れる。
「お前と出会ったのは、イーヴァインを通じてのたまさかのものでしかないことも、いつまでも続くものではないことも理解している。だが、お前といて感じるものが、他の誰に感じるものとも違うことも判る。それを……それが何なのか、教えてくれたのもイーヴァインだというのに」
「……」
 塩気をはらんだ風が、二人の髪をかすかに揺らした。夕日の赤い光に、金の髪がきらきらと輝いた。その輝きを見つめながら、ジークフリートは続けた。
「お前はイーヴァインを愛しているのだろう」
「はい」
 かすかな声で、ハルカトラは頷いた。
「私もだ。お前とはまた違う形であろうが、イーヴァインを愛している。イーヴァインとお前を誰よりも大切に思っている。どちらも傷つけたくはない。だから……お前とは、もう会えぬ」
 ジークフリートはこれ以上ハルカトラと向かい合っているのが辛くなったかのように、まるで熔けて白熱した金のように輝いている海に目をやった。ハルカトラは足元の砂をじっと見つめて黙っていた。
 しばらく、二人の間には海風と潮騒だけが流れた。永遠のようにも感じられた無言の時間は、それでも一分ほどにも満たなかった。
「どうしてそんなことを仰られたのです? 仰らねば、わたくしも何も申し上げぬままでいられましたのに。今までずっと、自分自身をごまかしてきました。けれども、もう心を偽ることはできません。あなたが仰ったからには」
「ハルカトラ……」
「――あなたを愛しています、ジークフリート様。イーヴと同じほど、あなたを愛しています」
 言ってから、ハルカトラは北の娘の激情に任せてかぶりを振った。
「ああ、どうしてわたくしたちは出会ってしまったのでしょう。誰か一人にでも出会わなければ、こんなことにはならなかったのに」
「選ぶことなどできようか」
 苦い声音でジークフリートは言った。
「私には選べない。イーヴァインもお前も、私に心を与えてくれた。私はお前たち二人を同じ深さで、違う形で愛している」
 ジークフリートが手に触れたとたん、ハルカトラはそこから電流が走りでもしたかのように身を震わせ、顔を上げた。
「これは裏切りです」
 言いながら、ハルカトラは一歩進んだ。
「判っている。これは罪だ」
 ジークフリートも半歩進み、光をその腕に捕らえた。同じ面影を心に想いながら、二人は抱き合っていた。かきたてられた情念が熱く燃えれば燃えるほど、心の奥の冷たく重いものが痛みを与えた。それが罪の意識であると判っていながら、互いを求めずにはいられなかった。
 この愛ゆえに、もう一つの愛を失うかもしれない。いかに二人が互いを愛し、求めたのだとしても、この瞬間が過ぎれば後悔しか残らないだろう。そのことも判っていたけれども。
 世界の終末にも似た燃えるような夕焼けの光の中、闇色の髪の公爵と金の髪の娘は愛を交わした。
「だがたとえイーヴァインが私たちを赦そうとも、お前を妻にはできない」
「判っています。それでも愛しています」
 ハルカトラは苦悩するように目を伏せた。愛ゆえに抱きあっていながら、ジークフリートのおもてにあるものもまた、愛の恍惚とは言いがたいものであった。
「お前の髪は夕焼けの光のようだ」
 燦然と輝く黄金の髪を指に絡めながら、ジークフリートは口づけの合間に囁いた。
「それなら、あなたの髪は影――夜の闇のようです」
 ハルカトラは応えて言った。
 空を金色と茜色とに染め上げていた太陽は海の彼方に沈み、今はほのかな残照があるばかりであった。それでもハルカトラの髪は月と星の明かりのもとで、白金のように光を弾いていた。対するジークフリートの髪は、全ての光を吸い込んで黒々と濡れていた。
「愛とは夕焼けに似ている」
「夕焼け……?」
 ジークフリートは言葉を続けたが、それは独白めいていて、首を傾げたハルカトラに答えるふうではなかった。
「夕焼けのようにはかなく短く、それゆえに眩しい。後には闇と眠りが訪れるからこそ夢中にいとおしい。一度だけのものだから、二度とは繰り返さぬものだから」
 だからこの瞬間を永遠にしてしまいたい。それは叶わぬことだと知りながら、ジークフリートは強くそう願わずにはいられなかった。
 辺りが完全に宵闇に包まれた頃、肌や髪についた細かな砂粒を払い、二人は立ち上がった。
「もう、お会いする事はできません」
 ハルカトラの瞳には、愛と同時に限りない悲哀があった。それはジークフリートも同じであった。
「それでもお前を忘れはしない」
 崖の上からかすかに、ジークフリートを探す従者の声が聞こえた。これ以上この場に留まっていることはできなかった。体を離し、それでも別れがたくて二人は互いに手を差し延べあった。最初は腕に触れ、掌を重ね、そしてゆっくりと指先が離れた時、ジークフリートはようやく背を向け、束の間の光から永遠に別れたのだった。
 崖の上に戻ると、ランタンを掲げて彼を探しに来ていた従者はあからさまにほっとした表情を見せた。
「下の浜辺においででしたか」
「時を過ごしてしまっただろうか? 滞った仕事などあるだろうか」
 先程まで心に渦巻いていた感情の波を完全に消して、今のジークフリートは氷の公爵に戻っていた。従者は彼のやや後ろに従って歩きながら答えた。
「本日分の書類には全て目を通されておられます。ただ、先程リエテより急使が参りました。閣下に至急のご報告があるとのことです」
「リエテ?」
 ジークフリートは問い返すような声を上げた。リエテはアラマンダ公直轄領のエーバースとハーゼルゼット候領の間に位置する伯爵領である。ジークフリートの祖父の弟が爵位と共に与えられた領地であり、リエテ伯爵は一族内ではかなり近しい親類でもある。しかし、今まで一度も使者など送ってきたことはない。何の用事か、と訝しく思ったのは数秒の事であった。
(問題はリエテに起きたのではない。ハーゼルゼット――レギン叔父が動き出したか)
 内心では確信しつつ、ジークフリートは従者に尋ねた。
「用件はまだ申しておらぬのか」
「はい。閣下に直接ご報告申し上げたいとのことで、ただいま謁見室にて閣下をお待ちしております」
「では会おう」
 ジークフリートはわずかに歩調を速めた。果たして城で待っていた急使の報告は、予想していたとおりのものであった。ハーゼルゼット候が軍を率いてリエテを通過する旨を通知し、予告どおり二日前にヴィスの方面へと軍勢が向かっていった、というのである。編成や人数は定かでないが、千は下らぬと見えた軍はレギン本人が率いているらしいとも、急使は付け加えた。
「お役目ご苦労」
 急使の予想に反して若き公爵は全く驚きもせず、ただ一言そう告げただけだった。
「リエテ伯に伝えてくれ。報告を下さったことは有り難く存じると」
 呆気にとられたように彼を見上げている急使に、ジークフリートは首を傾げた。
「何か、他に申すことでも?」
「いえ……その、公爵閣下にはすでに全てご承知のことを重ねて申し上げてしまいましたでしょうか?」
「承知も何も、レギン叔父は止めてお聞き届けくださる方ではないからな」
 返事は曖昧にぼかして、ジークフリートは目を伏せて肩をすくめた。多少の皮肉を込めて続ける。
「そなたや、そなたの主も承知の事であろうが、私はいまだ二十一の若輩にして、レギン叔父とハーゲン叔父のお二方に補佐して頂いている身。そのレギン叔父が決められたことならば私がとやかく口出しできる事ではない。何であれ一族にとり重要なことなのであろうからな」
「では……」
 不安な表情を隠さない急使に向かい、ジークフリートはきっぱりと言い切った。
「ハーゼルゼット候がいずこの誰に戦いを挑もうと、手出しは無用のこと。私に知らせるも知らせぬも自由だが、何が起ころうとも静観するように。これは当主としての命令であると、リエテ伯にそのまま伝えてほしい。私からは以上だ」
 ジークフリートはそれ以上の疑問をはねつけるように、上衣の裾を翻して背を向けた。そして振り返ることなく謁見室を後にした。
 それから三日後、ヴァーレン城にイーヴァインが帰ってきた。彼と同日に休暇を与えられた使用人や従者たちはそのまま辞意を伝えてくるか、故郷に帰ったきりになっていたので、彼一人だけが戻ってきたことに家令も他の使用人も驚いたようだった。当然のようにその知らせを受け、迎えたのはジークフリート一人であった。
 初めて出会った三年前のあの日のように、イーヴァインはジークフリートが書類と向き合っている執務室に入ってきた。昼下がりの陽光が室内を照らし出し、逆光になったジークフリートの顔を翳らせ、イーヴァインの髪を白く輝かせた。
「ただいま帰ってまいりました、ジークフリート様」
「ご苦労だった、イーヴァイン」
 ジークフリートは立ち上がって彼を迎え、静かに告げた。ややあった沈黙の後、イーヴァインは声をひそめた。
「首尾はいかがでしょう?」
「今のところ、全てこちらの狙い通りに動いてくれている。ハーゼルゼットとヴィスの間に戦闘が起きたのが五日ほど前の事になる。その翌日に、ハーゲン叔父がヴィス伯支持を明らかにして援軍を差し向けた。一族の大半は静観しているが、中にはこの戦いに加わる者も出ている。戦いは一進一退といったところで、戦火も広がってはおらぬし、大勢もいまだ明らかではない。ここ数日、リエテ伯が使者を頻繁に寄越してくれるようになったので、随分と状況を探りやすくなっている」
 同様に囁くような声でジークフリートは答えた。
「リエテ伯にはジークフリート様にお味方する心算がある、ということなのでしょうか」
「そこまでは判断しかねるが……わざわざ報告して判断を仰いできたということは、内心ではどうあれ、少なくとも外見上は、私を名のみの当主とだけ考えているわけではないようだ」
 その時、こちらを見るジークフリートの瞳に、悲しみに似たものがあることにイーヴァインは気づいた。
「……いかがなさいました? ジークフリート様。お加減がよろしからぬように見えますが」
 首を傾げ、わずかに顔を覗きこむようにして尋ねてくるイーヴァインに、ジークフリートは目をそらすように睫毛を伏せた。
「大事無い」
 あれほどその輝きと色合いを愛でていたのに、どうしてもイーヴァインの目を以前のように正面から見つめる事ができなかった。その原因が何であるかは理解できたが、自分にそうさせる感情が何なのか、ジークフリートには判らなかった。これまで、どれほど激しい怒りであろうと憎しみであろうと、完璧な無表情の下に隠し通してきたというのに、なぜこの心の揺らぎが態度に表れてしまうのか、それも彼には理解できなかった。
 ジークフリートの反応を見て、それまで心配そうだったイーヴァインの顔にわずかに悲しむような色が浮かんだ。イーヴァインは自分の左手を見下ろした。その仕種が何を意味するものか、ジークフリートはすぐに気づいた。彼がどこで何をしてきたのか、それを知っているのは自分だけであったから。
「……辛いことをさせてしまったな」
「いいえ。何の辛い事もございません」
 イーヴァインは微笑みを浮かべた。だが、そこには今までなかった翳りが入り込んでいるように、ジークフリートには見えた。唐突に彼は気づいた。イーヴァインの笑顔からこの翳りが消える日は恐らく永遠に来ない――それは自分が命じたことのせいなのだと。彼の胸は今まで知らなかった痛みを覚えた。
「すまない、イーヴァイン」
 その言葉は自然に口をついて出た。イーヴァインはとても不思議そうな顔をした。ジークフリートはイーヴァインの左手を両手で押し戴くように取り、眉を微かに寄せて目を伏せた。
「お前の感じていることは、今の私には判らない。どう言えば、どうすれば、お前のその悲しい瞳を和らげることができるのかも判らない。だが、決してお前一人に背負わせたままにはしない。お前だけを苦しませはしない」
「そのお言葉だけで、わたしには充分です」
 イーヴァインは言い、ジークフリートの手に右手を重ねた。だがジークフリートは無言で首を横に振った。彼の青藍の瞳には強い決意があった。


前へ  次へ


inserted by FC2 system