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 フリアウルの姫が暗殺されたという知らせが、まだ人々の耳には届かぬ頃。
 常のように朝から書類に目を通し、許可状などを書いていたジークフリートはふと顔を上げ、卓上に置かれた青銅の呼び鈴を軽く振った。ただちに、隣の部屋で控えている使用人が入ってきた。
「いかがなさいましたか」
「少し休憩したい。茶の支度を」
 ジークフリートは凝りをほぐすように目頭を指先で押さえながら命じた。
「かしこまりました。何か召し上がりますか?」
 彼の母親ほどの年齢の使用人は、女性らしい気遣いを見せて尋ねた。ジークフリートは数秒考えるふうだったが、やがて頷いた。
「そうだな。時間がかからぬのなら、軽く食べられるものを付けてくれ」
 時折、彼女のように気を利かせて尋ねる使用人もいないではないが、このようにジークフリートがそれに応えるのは滅多にないことだった。
「ではそのようにいたします」
 しかし驚いた様子もなく、使用人は一礼して部屋を退出した。ジークフリートは再び仕事の続きに戻り、書き上げた書類を巻いて、仕事の間は左手の中指に嵌めている印章付きの指輪で封蝋を捺した。それからまた新しく何も書かれていない紙を広げ、そこに文章をしたため始めた。
 それを書き終わらぬうちに、先程の使用人が茶と軽食の支度が整ったことを告げに戻ってきた。
「お待たせいたしました。いつものお部屋に用意してございます」
「ご苦労。すぐに行く」
 言葉どおり、ジークフリートは途中まで書いた綴りを終わらせただけで、文章自体は書き終えないまま席を立った。半ばまで文章が書かれた紙を広げたまま。
 ジークフリートが休憩を終えて執務室に戻ってきたのはそれから半刻ほど経ってからであった。音を出さぬようそっと扉を開けて、ジークフリートはそこにいた人物に冷たく声をかけた。
「何をしている、ジェルジ?」
 家令は驚いたように棒立ちになった。彼が立っていたのはジークフリートの執務机の前であった。ジェルジはぎこちなく笑みを浮かべた。手に何か持っているわけでもなく、本当にただ、そこにいただけのようである。
「ここにおいでにならないので、いかがなさったのかと思っておりました」
「何事もない。少し休憩していただけだ」
 ジークフリートは小さく肩をすくめた。表情こそ動かないが、相手を馬鹿にしたような仕種だった。ジェルジはそれに対してただ頭を下げただけだった。
「さようでございますか」
「お前がわざわざ私の仕事ぶりを確かめに来るとは珍しいことだが……。仕事を投げ出して逃げたとでも思ったか」
 冗談を言う口ぶりでもなく、ジークフリートは椅子にかけながら尋ねた。慌ててジェルジが首を横に振る。
「滅相もございません。まさかそのような」
「私は戻ったのだ。これでお前の用は済んだであろう」
 そこに込められた意味を悟り、ジェルジは即座に部屋を出て行き、閉める前に扉の前でもう一度礼をした。
「失礼致します、公爵閣下」
 ジークフリートは応えなかった。ただ、ちらりと一瞬だけ彼の背に視線を投げた。扉が完全に閉められ、足音が遠ざかるのを聞きながら、彼は机の上を見渡した。書きかけの書簡も、処理済の書類もペンも、何一つ無くなったものはない。加わったものもない。だが彼の目はごく小さな変化を見逃さなかった。
 書きながら巻いていた羊皮紙の、巻きが少しだけずれていた。何行目のどこまで巻いたかジークフリートは記憶していたし、目立たぬ印をつけて部屋を出たのだ。不在の隙に誰かが盗み見て、巻き直したのは明らかだった。
 犯人が誰なのかは探るまでもない。ジークフリートはため息をついて羊皮紙を取り上げ、引き出しから鋏を出した。ためらう様子もなく、彼は鋏を入れた。巻物が細い紐のようになってしまうまで切り刻んで、書き損じた書類が同じようにして放り込まれている箱の中にばらばらと落としていった。
 それから彼はまた新しい用紙を抽斗から取り出し、そこに文章をしたため始めた。
 一方、そそくさと公爵の執務室を離れたジェルジは何やら急ぎ足で自分の私室に戻っていった。彼は部屋に入ると鍵をかけ、窓の外を覗いてそこに誰もいないことを確かめてから机に向かった。
 ジェルジが書いていたのは手紙のようであった。書き終えると彼はまたも急ぎ足で部屋を出て、使用人の一人を呼びつけた。人目をはばかるように物陰に入る。呼ばれた使用人は囁き声で尋ねた。
「何でございましょうか」
「これを至急レギン様のもとへ」
 言いながら、彼はたっぷりとひだを取った上着の合間に隠すようにして、小さく折りたたんで封蝋で留めた紙をその使用人の手に握らせた。
「よいな、一刻の猶予もならんぞ」
「かしこまりました」
 いかにも慣れた様子で使用人は頷き、尋ね返すこともなく背を返した。城の裏手にある通用門から抜け出て、まっしぐらに南へと馬を駆ってゆくその男を、冷ややかに見つめる目があったことには誰も気づかなかった。


 数日後、その男はハーゼルゼット候のもとにいた。取次ぎらしい取次ぎもなく、慌ただしく候の部屋に通された男は、跪いてうやうやしく礼をした。
「ジェルジ殿からの使いでございます」
「何だ。どうした」
 レギンはさほど驚くでもなくこの訪問を受けていた。すぐに男が城に迎え入れられたのからも明らかなように、ヴァーレン城の家令ジェルジはもともとレギンの臣下にあたり、今も彼の意を受けて動いているのであった。
「これを」
 男はジェルジからの手紙を差し出した。レギンは礼も言わず受け取り、封蝋を破って文面に目を走らせた。最初の二行を読んだ時点で、彼の眉間には深い縦じわが刻まれた。目も鋭いものを帯びはじめる。
「……生意気な」
 読み終わると、レギンは苦々しげに呟いた。じっと待っていた男に対して一瞥を投げ、軽く顎をしゃくった。
「ご苦労だった。ジェルジには今後も監視の目を怠らぬようにと伝えよ」
「は。かしこまりました」
 男が退出すると、レギンの顔に表れていた不機嫌はさらに顕著なものとなった。先ほどは臣下の手前、抑えていたのだろう。悔しげに下唇を噛み、レギンは苛々と机の前を何度も往復した。
「何が『叔父の干渉から逃れたい』だ。人形に甘んじていればいいものを賢しげなことを考えおって」
 往復する合間に、独り言が漏れる。怒りの矛先はジークフリートだけではなく、別の者にも向けられた。室内に誰もいないからいいものの、怒りのあまり考えがそのまま口から出ているのにも気づいていない様子である。
「いや……問題はヴィシーの奴めだ。我ら一族の者を差し置いて、アルマンド公家の名を狙おうとは、成り上がり風情が生意気な。ハーゲンもともかく、ヴィシー伯爵もどうにかせねば……」
 その時、ノックをするのも慌ただしく、家臣の一人が若い男を従えて、入室を許可する返事も聞かずに飛び込んできた。
「一大事でございます、レギン様!」
「何事だテガン。騒々しい」
 眉間に皺を寄せたまま、レギンは振り返って叱責した。だが血相を変えた家臣の様子を見て、言葉どおりただ事ならぬ事態が起きたらしいことを悟った。テガンは無礼を詫びる言葉を忙しく口にしながら、まろぶようにして膝をついた。
「フリアウル候の息女、エズマ姫が亡くなったそうです」
「何だと」
 レギンは目を瞠った。
「どういうことだ。病弱な娘だったとは聞いていないが。事故か、急な病か? 流行り病の季節でもないのに」
「それが……」
 知らせを受けてすぐに階段を駆け上がってきたらしいテガンは、額の汗を袖で拭った。年齢はレギンとほとんど変わらなかったし、武人というわけでもなかったので、急な激しい運動で相当消耗してしまったようだ。傍らに同じように跪いた若い男の方は、疲れた表情ではあるが彼ほどではない。
 テガンは肘で突付くようにして、若い男に促した。
「お前が申し上げろ」
「はい」
 乗馬向きの身軽な服装から、この知らせをたった今フリアウルから持ってきたと思しい男は、軽く頭を下げてから口を開いた。
「エズマ姫が亡くなったのは、七日前のことでございます。城下には急の病と知らされましたが、わたくしが調べました所によりますと、どうやら姫はその一日前に城から姿を消し、翌日に見つかった時にはすでに亡くなっていたとか。フリアウル候が詳細を伏せたことからも、恐らく何者かに城から連れ出され、殺されたのでございましょう」
 男が語り終わってから数秒の間、レギンは黙っていた。
「……それで、殺されたというのならば犯人は? 捕らえられたのか」
「いいえ」
 男は否定の言葉と共に首を振った。レギンのおもてには、何か深く考え込むような色が浮かんだ。黙って見守っている二人の家臣の前で、彼はしばらくそうしていたが、やがて目を上げた。
「テガン」
「はっ」
 テガンは弾かれたように頭を下げた。
「大至急、街道を封鎖して通行者の検問を行うよう、警備兵たちに通達しろ。それから城内に最近入った者がいれば、その者に怪しいところがないか調べろ。さらに、ギゼラの周囲の警備を強化するように。それが済んだら、アルオヴィストに執務室に来るように伝えろ。内々の相談がある」
「かしこまりましてございます」
 二度も言わせず、テガンはただちにもう一人の家臣を連れて退出した。レギンに指名されたハーゼルゼット騎士団の団長、アルオヴィストが彼の執務室に現れたのは、それから半刻ほどが経ってからだった。
「何のご用でのお召しでございましょうか」
「騎士団の装備を整え、いつなりとも討って出られるようにしておけ。今すぐにではないが、戦いとなるやもしれん」
 レギンは重々しく告げた。
「かしこまりました。全隊に、ということでよろしいでしょうか」
「そうだな。総力戦となることは避けたいが――」
 やや考え込むような口調で、レギンは言った。アルオヴィストは主人の顔を窺うような目をした。
「……フリアウルに斥候を出しておきましょうか」
「いや、まだそれには及ばぬ」
 明確にはなされなかった彼の質問を言外に肯定した形で、レギンは首を振った。
「まずは敵の正体を――それが複数ならば、数までも見極めねばならんからな。その結果しだいで、動きも変わろう」
「では、仰せのままに」
 アルオヴィストは一礼し、レギンの前を辞していった。


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