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 覚悟していた追っ手が現れたのは、その日の昼下がりであった。
 長閑な草原と森が広がる風景を切り裂くように、蹄が激しく地を蹴りつける音が追いかけてきた。呼び止める声など聞こえなかったが、背後を確認することもせずにイーヴァインは即座に馬腹を蹴った。驚いた馬は小さな嘶きをあげて速度を上げた。だが、背後に迫る蹄の音は遠ざかることなくほとんど同じ大きさで耳に響く。
 イーヴァインの騎乗する馬よりも追っ手の馬の方が優れていたらしく、やがて馬の激しい息遣いまでもが聞こえてくるほど近づいてきた。そこでやっと、イーヴァインは目だけを動かして斜め後ろを見た。
 予想通り、それはガリバルデであった。顔を蒼白に引きつらせ、目を血走らせた彼からただならぬ殺気が迸るのが見えるようであった。左手に弓を、手綱を絡ませた右手に矢を持ち、今にも放たんばかりにこちらに向けて引き絞っている。
 ガリバルデの弓の腕は知らないが、この距離ならばよほど手元が狂わないかぎり確実に射当てられてしまう。多少の怪我なら負っても逃げられるだけの気力と体力はあると思ったが、さすがにこの近距離で矢を受ければただでは済まないだろう。
(たった三日で追いつかれるとは)
 追っ手の一つもかからず無事に逃げ切れるとは思っていなかったが、あまりの早さにイーヴァインは密かに感心した。オルイフから出ていった者を追うためにハーゲンが全ての街道筋に人をやるにしても、自分の足取りを掴むにはもう少しかかるだろうと彼は思っていたのである。
 或いは最初から、ガリバルデだけは自分を疑っていたのかもしれない。この早さからはそう考えた方が良さそうだった。だとすれば彼の監視の裏をかくことはできたが、完全に油断させるまでには至らなかったということだろう。
(やはり、素人ではそれが限界か……)
 イーヴァインの内心の溜め息を断ち切るように、ガリバルデが蹄の音の合間から鋭く命じた。
「止まれ。馬を下りろ」
「とうとう追いつかれましたね」
 更に拍車をかけても射掛けられる可能性が高いと判断し、命じられるまま馬を止めて下馬したイーヴァインは苦笑するような声で呟いた。ガリバルデはイーヴァインに狙いを定めていた弓矢を下ろし、自らも下馬して剣を抜いた。生け捕りにするように命令されているはずであるし、すぐに彼を殺す気はなかったようだ。
「どうなさいました、ガリバルデ殿? このような所まで追いかけておいでになるとは。何かわたしが忘れたものでもございましたでしょうか」
「白々しい口を利くな」
 ガリバルデは吐き捨てた。イーヴァインは薄く浮かべていた笑みを消した。
「エズマ様が死んだ」
「さようですか。まだお若かったのに残念なことですね」
 驚きもせず、またあえて冷たさを隠さない彼の口調に、ガリバルデの表情は苦痛に苛まれる人のように引き歪んだ。
「お前が、それを言うか――。エズマ様を殺したのは、お前だろう」
 イーヴァインは、言葉では否定も肯定もしなかった。ただ黙って、怒りと絶望に彩られた男の目を見返したばかりであった。それがガリバルデにとっては何よりも雄弁な答えであった。
「エスメリオン――いや、まことの名は何だ、曲者め」
 落ち着いた様子で、イーヴァインはさりげなく腰の剣に手をやった。そして素直に質問に答えた。
「イーヴァイン・レユニと申します」
「何のために! なぜ、姫を殺した! 姫がお前に何をしたというのだ!」
 ガリバルデの詰問は悲鳴に近かった。イーヴァインはゆっくりと首を横に振った。
「なぜ、とはあなたも薄々ご理解しておられるのでは? エズマ様に何の罪もなかったことなど、わたしとて承知しています。ですが主のためにはこうするより他にございませんでした。ええ、姫には殺されるべき理由など何もなかった。フリアウルの姫であったという、それ以外には、何も」
「その言葉、やはりお前はハーゼルゼットの手の者か」
 ガリバルデの灰色の目は瞋恚と憎悪にぎらぎらと光っていた。怒りという名の稲妻の走る嵐の空を思わせるその目を、イーヴァインは平静に受け止めた。まるで彼の主人のように、顔の筋一つ動かさず。
「わたしが誰の意を受けたものであろうと、あなたにはどうでもよいことなのではありませんか、ガリバルデ殿?」
 イーヴァインは静かに告げた。ガリバルデは否定しなかった。切っ先をぴたりとイーヴァインに向けたままでいた。
「その剣を抜け、イーヴァインとやら。俺が引導を渡してくれる」
「ここでわたしを殺すおつもりですか。あなたの使命はわたしを捕らえてオルイフに戻ることではないのですか?」
「ああそうだ」
 ガリバルデは吐き捨てるように言った。
「だが、抵抗されて切ったと言えばそれまでだ。何度殺しても飽きたらんが、誰の手でもなく俺の手で貴様を殺さぬかぎり、俺の魂が癒える日は来ない。貴様はエズマ様を――姫の愛を裏切ったばかりか、お命までも奪った」
 馬の首を軽く叩いて宥めてから、イーヴァインはゆっくりとすり足で横に移動した。ガリバルデも間合いを保ったまま続く。二人は互いの馬から離れ、切り結んでも何かにぶつかることのない開けた場所まで出た。
 最後にもう一度だけ、イーヴァインは尋ねた。
「あなたとて、命じられれば同じことを別の誰かになさったはず。見逃していただくというわけには参りませんか」
「答えは判っているはずだ」
 イーヴァインはガリバルデの灰色の瞳に、愛を失った痛みを見た。ガリバルデがもし、ハーゲンのために戦うならまともに相手をする気はなかった。だが彼がエズマへの愛ゆえに仇である彼と戦うことを望むのであれば、その思いを受け止めて戦ってやらねばならないと、そう思った。ガリバルデのエズマへの想いは本物だった。エズマのエスメリオンに対する想いも。その二つの愛を葬ったのは自分であったから。
 だがイーヴァインのジークフリートへの忠誠と敬愛もまた純粋なものである。どちらが悪でも、正義でもない。これは正と正の対立であった。勝ち負けは正しさではなく、想いの強さを決めるものであった。
 ならば負けられない。
 イーヴァインは左腰に下げていた長剣を抜いた。
「私とて、ここで斃れるわけには参りません」
「ならば受けるのだな」
「――謹んでお相手させていただきます」
 静かで落ち着いた声だった。イーヴァインの声を合図にしたかのように、ガリバルデの剣が稲妻のように閃いて襲い掛かってきた。手首を上にして構える姿勢でイーヴァインはその突進を受け止め、腕ごと手首を内側にひねる動きで相手の剣を巻き込んで跳ね上げ、返し突きを入れた。
 イーヴァインの返し突きをガリバルデは一歩下がってかわした。イーヴァインはそのまま攻勢に出るかと見えたが、何を思ったかその場にとどまり、左足を軽く引いた半身になって剣を構え直した。
 ガリバルデは一見したところは鎧も鎖帷子もつけていないように見えるが、目的を考えれば無防備であるはずがない。事実、彼の襟元からキャンバス地を重ねた布の防具がちらりと覗いていた。イーヴァインの手にしている薄刃の剣では、切りつけたところで刃が滑り、よほどうまく入れるか、突き刺さないかぎり何らかの決定打を与えることはできないだろう。
 対して身軽であることを心がけたイーヴァインは、防具の類は全く身につけていない。一度でも刃を受ければ致命的な結果になる。まして相手は武をこととする生粋の騎士階級なのだ。全く油断はできないし、一つでも読みや動きを間違えれば確実に自分が負けるだろう。
 だがガリバルデは、相手が姑息な手段で若い娘を暗殺することしかできぬような惰弱な男ではなく、騎士階級である彼――怒りにその切っ先をさらに鋭くした彼とも互角に渡り合う技量を持つ熟達した剣士であることを知った。
 数分間、二人は息つく間もない激しい剣戟を繰り広げた。それほどの緊張はいつまでも持つものではなく、どちらからともなく飛び退るようにして間合いを取り、息を整えた。それでも互いの姿を正面から見据え、逃さない。
 再びガリバルデから攻めに出た。今度は上段に振りかぶり、首を狙って斜めに切り下ろす。ほとんど目にも留まらぬ速さで左方向から迫ってきた刃を、肌に触れるぎりぎりのきわどい所で剣の柄近くで受け止める。イーヴァインの体勢が崩れたその隙に、ガリバルデはこの機を逃がさじと素早く剣を引いて第二打を繰り出そうとした。
 だが、それよりも早くイーヴァインは右足から踏み込んで相手の懐に入っていた。長剣の刃どうしが擦れ合い、耳障りな高い金属音が響いた。
 瞬時、二人の青年はぴったりと身を寄せて動かぬように見えた。
「……」
 ガリバルデの目が大きく見開かれた。やがて凍りついたように動きを止めていたガリバルデの手から、その重みに耐えかねたように幅広の長剣が落ちた。イーヴァインは彼の胸板に右肩を当てるようにやや身をかがめた姿勢のまま動かない。
「いつの間に……」
 ガリバルデの唇から、血の泡とともに呻き声が漏れた。その胸、丁度心臓の真下辺りに深々と短剣が突き刺さっていた。懐に飛び込む勢いをつけて斜め下から突き通されたそれは、柄まで埋まっていた。たとえ分厚い布で肌を守っていたとしても、確実に内臓まで達しているだろう。イーヴァインは鍔競り合いの数瞬で、利き手とは反対側のベルトに差した、鎧通しの短剣を抜いていたのである。それは竪琴に隠し、エズマを殺したその短剣であった。
「斃れるわけには参らぬと、申しました」
 名状しがたい様々な感情の渦となっている灰色の瞳に見据えられても、イーヴァインは動じなかった。見返すその瞳は氷の影の冷たい色をしていた。
「許さん……許さんぞ、たとえ死しても……」
 ずるずると崩れ落ちながらガリバルデは呻いた。支えるように地面に横たえてやりながら、イーヴァインはそっと囁いた。
「赦しを請おうなどとは思いません」
 死にゆこうとするガリバルデの目が、信じられないものを見るように見開かれた。そこに浮かんでいた様々な感情が一瞬、驚きに支配された。真っ直ぐに彼の目を見つめながら、イーヴァインは続けた。
「確かにわたしは罪を犯しました。それはどんな理由をつけても許されることではないでしょう。ですがわたしは、エズマ様の命よりも主人のほうが大切だったのです。あの方の笑顔を、全てを取り戻すためならば、わたしはどんな罪でも犯す覚悟がある。その報いをいつか受ける覚悟も。わたしは確かに罰されねばならない。でも、それを今あなたから受けるわけには参らなかったのです」
「そうか……お前は……」
 ガリバルデは切れ切れに呟いた。日に焼けた顔から段々と血の気が失せてゆく。
「……お前は、アルマンド公の……」
 無言でイーヴァインは頷いた。ガリバルデは笑うような表情を浮かべた。ジークフリートから両親と兄を奪ったのだから、ハーゲンが娘を奪われたのは当然の報いと言えなくもない。そこに巻き込まれたエズマやガリバルデこそ不幸であっても。そのような思いがあったものか、苦さを含んだ表情であった。
「天に唾すれば……我が身に還るとは……よく言ったものだな……」
 ガリバルデはため息をついた。そしてそれきり、彼は沈黙した。


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