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     第五楽章 復讐の刃




 一方、フリアウルではガリバルデの横死がハーゲンに伝えられていた。
 ガリバルデが追っていたのはエズマを殺した暗殺者であり、独自に考えるところがあって殺された場所まで出ていたのだと誰もが理解したが、彼が疑っていたのがあの吟遊詩人――エスメリオンだったとは誰も知らぬことだった。そもそも城の誰もエスメリオンを疑わず、ハーゲンにも否定されたので、ガリバルデはあれ以来エスメリオンを疑う発言を控えていたのだ。
「何ということだ。ガリバルデ、お前までが……」
 荷車に載せられて無言で戻ったガリバルデを迎え、ハーゲンは目に涙を浮かべた。フリアウルで一、二を争う剣の使い手であり、疑うものもない忠臣であったガリバルデの死はハーゲンに娘の死に次ぐ衝撃を与えた。
 近隣の農民から知らせを受け、死体を回収に向かった騎士も沈痛な面持ちであった。
「傷の様子から考えましても、犯人はエズマ様を殺した者と同一人物と見て間違いございますまい。ガリバルデ殿ほどの使い手を倒せるとなりますと、かなりの手練でございましょうから、引き続いての捜索は何騎かの隊で行わせましょう」
「そうだな」
 ハーゲンはどこか上の空で頷いた。彼の目は軽く握られたガリバルデの手に吸い寄せられていた。彼は手を伸ばし、死後硬直によって木石のようになっている指を苦労して開かせ、そこに握られていたものを取り出した。
「ハーゲン様、それは」
 騎士がはっとしたように主の顔を仰ぎ見る。ハーゲンのおもては蒼白になり、仮面のようであったが、両目は怒りに燃えていた。
「おのれ、レギン。やはり貴様だったか」
 食いしばられた歯の間から搾り出すように、ハーゲンは唸った。ガリバルデの手にあったものに、ハーゲンは見覚えがあった。端が所々砕けた、血のような暗赤褐色の封蝋。斜めに帯が入った楯型紋章の中に刻まれた梟の紋章はハーゼルゼット候のもの。梟の足元を飾るように並ぶ文字はレギン個人を示すものだった。
 しばらく封蝋を睨みつけていたハーゲンは、顔を上げた。怒りを押し殺した低い声で命じる。
「騎士団から十騎を選び、犯人の捜索に向かわせよ。ハーゼルゼットに向かう街道を、脇道に至るまでくまなく探させるのだ」
「はっ」
 騎士はさっと跪いて承った。命令はただちに実行され、十人の騎士たちがフリアウルからハーゼルゼットに向かう街道目掛けて城を飛び出していったのはそれから間もなくのことであった。


 そしてまた――ハーゼルゼットでは別の動きが進んでいた。
「どうだ。何か喋ったか」
 牢が設けられている城内の一角は半地下であることもあってほとんど窓がなく、とても暗くてじめついていた。それだけでなく、汚物や血の臭い、その他様々なものが混じった説明のつかない異臭が漂っている。何とか耐えられるようになるまで手で覆っていた鼻の頭に皺を寄せながらレギンは言った。
「それが、しぶとい男でございまして――」
 室内には立っているのが二人、壁に斜めに立てかけた梯子のようなものに縛りつけられた一人の計三人の男がいて、立っている一人が振り返って答えた。その手には先端に鉤や星型の鋲が取り付けられた革紐を束ねたものが握られている。拷問台に縛り付けられた男は辛うじて下穿き一つを身につけた半裸で、こちらに向けている背中は至るところ血にまみれていた。何が行われているのかは明白であった。
 だがその痛々しい姿に、レギンが同情するような素振りは全くなかった。むしろ苛立たしげに言う。
「お前たちの責め方が手ぬるいのではないか」
「ですが、喋らせる前に死なせてしまっては元も子もございませんもので……」
 レギンに応対している拷問吏は少し困ったような顔をした。声を低めて、相手に聞こえないようにレギンに身を寄せる。
「先程まで吊り落とし責めを加えてやったのですが、名前すら言おうとしません。この分では、或いは死ぬまで責めても口を割らぬかもしれません」
 吊り落としとは、腕を後ろ手にねじったまま吊り下げ、一定の高さから急激に落とす事で関節を痛めつける拷問である。続ければ脱臼や筋肉の断裂といった結果をもたらす、非常に苦痛の大きいものであった。
 薄暗がりによく見れば、男の両肩や肘の関節は黒々と変色して膨れ上がっていた。どれだけの間この拷問が加えられたのかは定かでないが、確実に彼の腕や肩の関節は使い物にならなくなっている。それに耐え抜いたというのだから、拷問吏が述懐するまでもなくこの暗殺者の覚悟と忍耐は相当のものなのだろう。
 年の頃は三十半ばと見えるこの男は、城内の探索を避けるように城を抜け出そうとしていたところを、待ち構えていた番兵に捕らえられたのであった。彼が捕らえられる前に濠に投げ捨てようとした荷物の中からは幾つかの毒物が発見され、彼自身もその毒の一つで自決しようとしたところを取り押さえられ、今に至っていた。
 拷問するまでもなく、この男が城内の誰か――恐らくはレギンかギゼラ――を毒殺するために忍び込んできた暗殺者である事は明らかだった。レギンが聞きだそうとしていたのは、その雇い主であった。思い当たる名前は二つ三つしかないが、そのいずれなのかは押収した証拠や、男の民族的特徴からは判らなかったからである。
「見上げた忠義だな、まったく」
 言葉とは裏腹にレギンの口調は全く感心したようではなかった。そして苦痛のうめきを途切れ途切れに上げている拷問台の男に近づいていき、その顔を覗きこんだ。男の瞼がかすかに開き、自分を確認したことを見て取って、レギンは言った。
「こうとなればどうせ貴様に残された未来は死しかないと判っているだろう。ならば無駄に苦しむより、何もかも白状して、早く楽になる方が良いとは思わんか? 今ならば慈悲をもって縛り首だけで済ませてやってもよいぞ」
「……」
 だが、男はレギンを睨みつけ、唇を噛み締めただけだった。レギンは片頬を小さく持ち上げ、嘲るとも笑うともつかない表情を浮かべた。
「馬鹿な男だ」
 レギンは踵を返した。そして、最初に声をかけた拷問吏に再び近づいた。
「何としてでもこやつの主人の名を自白させろ。処刑まで生かしておく必要はない」
「かしこまりました」
 それは事実上の死刑宣告であった。レギンは命じ置いて、踵を返した。目を刺すほどの異臭が立ち込める拷問部屋に、いつまでもいたいとは思わなかったのだ。
 彼が立ち去った後、会話をしていた拷問吏は相方に頷きかけた。もう一人の拷問吏は薄暗い部屋の明かりの一つとして、不気味な赤い光を放っている金属製の桶に近づいた。桶の中では石炭が音も炎もなく燃えており、やっとこに似た形の火ばさみが無造作に突っ込まれていた。
 分厚い皮手袋を嵌めて、拷問吏は火ばさみを持ち上げた。長い間熱せられていた鉄製の道具は、手袋を通しても持ち手がほのかに熱く、その先端は白熱していた。持つだけでも熱い空気が顔に昇ってくるそれを、拷問吏は台に縛り付けられた間者のもとへと運んでいった。
 地下牢には人のものとは思えぬ絶叫が響き、肉の焦げる臭いが立ち込めた。しかし、足元で繰り広げられている惨劇に、城内の人々は無関心であった。その叫びを耳にする者はいても、聞こうとする者はいなかった。
 拷問吏がレギンの前に姿を現したのは、それから数時間後、もはや夕方近くなってからであった。
「ようやく割れたか」
「はい」
 衣裳は通常の城勤めの使用人のそれに改められていたが、レギンに差し招かれて近づいた拷問吏からは、かすかに拷問部屋で嗅いだあの異臭の名残のようなものが、血の臭いとともに漂った。
「して、何者だ」
「ヴィス伯セドリック・ラ・ヴィシーであると、そう申しました」
 辺りの耳をはばかるように低く告げられた名前に、レギンは驚く様子も見せなかった。半ば以上そんなところではないかと考えていたからである。
「やはりな。或いはハーゲンかとも思ったが……。ジークフリートめ、つまらぬ相手を唆しおって」
 舌打ちしかねない口調でレギンは呟いた。
 その頃――ハーゼルゼット城の裏手では、日暮れを迎えて濃紺と毒々しいまでの赫光に彩られた空を数十羽の烏が舞っていた。
 烏は黒々とした夜のような翼をばたつかせ、やかましく鳴き交わしながら、石垣に囲われたごみ捨て場の中と外を行き来していた。餌となるようなものが新たに投げ込まれたのだろう。近づけば、その嘴に生々しく血を滴らせた肉塊がくわえられているのを見ることができた。それが所々に焼け焦げた跡を持つことも。
 常ならば、ごみ捨て場を荒らされないように下女たちが箒で鳥を追い払いに来ようものだが、この日に限って誰一人として出てくる気配はなかった。暗がりを照らし、鳥や鼠、虫たちにたかられたそれの正体を、あえて確かめようとする者も。
 拷問吏が退出した後、レギンはテガンを呼び出した。
「ギゼラを狙ったのはヴィス伯であったと判った。戦の支度だ。あの成り上がり者に、目にもの見せてくれる」
「かしこまりました。しかし、戦となりますと表向きだけでもアラマンダ公の許可が必要なのでは」
 相手が一族であれ一族外であれ、全ての紛争は当主であるアラマンダ公に報告するのが古くからの決まりであった。当主が間に立って、できる限り穏便に解決する方法を探るのが最良と考えられているからだ。武力闘争はあらゆる意味で最後の手段でなければならなかった。
「かまうものか」
 だがレギンは激しく言い切った。
「ジークフリートの許可など、あってもなくても同じ事だ。そもそも、あれがつまらぬ気を起こすから、このような事態が出来したのではないか。いわばあやつが蒔いた種から生えた毒麦を、私が刈り取ってやるようなものだ。無許可の挙兵を責めるどころか、あやつには感謝してもらわねばならんくらいだ」
 頭から湯気を噴きかねない勢いで、レギンはまくし立てた。うっかり主人の逆鱗に触れてしまったテガンは、身を縮めて罵倒の嵐が過ぎるのを待った。
 ハーゼルゼットとヴィスは境を接していない。ヴィスに向かうためには、間にあるアラマンダ公領のエーバースと、同じアルマンドの一族であるリエテ伯爵の領地を越えていかなければならない。
 アラマンダ公の許可は不要と言い切ったものの、軍勢を通行させる以上、リエテ伯の了解はどうしても取らねばならないだろう。相手は伯爵でこちらは侯爵なので、事前に通告だけして、拒否されても身分差を使ってごり押しする事もできるが、一応の礼儀というものがある。かんかんになっていたが、レギンはそのことを忘れていなかった。
「とにかく、今からリエテ伯に早馬を出せ。だがジークフリートには何も知らせる必要はない」
「はい。ただいますぐ」
 ぐずぐずしているとまたレギンの怒りに触れると判っていたので、テガンはすみやかに命令を実行するために出ていった。


「レギンが、ヴィスに兵を出しただと?」
 その報告は青天の霹靂であった。ハーゲンは目を丸くして知らせを持ってきた間諜に問い返した。
「ハーゼルゼットと接しているわけでもないのに、いったい何ゆえにだ」
「それがどうやら、ヴィス伯がハーゼルゼット候女ギゼラ姫の暗殺を企んでいたのが露見したためだとか……」
「何だと」
 それを聞いて、ハーゲンは明らかに顔色を変えた。他人の、しかも敵視している競争相手の娘とはいえ暗殺と聞いて心中穏やかでなかったということもあるが、心に閃くものがあったのだ。
 レギンが暗殺者を未然に捕らえる事ができたのは、恐らくエズマの死を伝え聞いて、おのれの娘を心配したからに違いない。そうでなければ、ギゼラもまた殺されていだろう。エズマのように。
(もしや、エズマは……)
 ヴィス伯の狙いが、ジークフリートの妻になりそうなアルマンド一族の娘を消す事なのだとすれば、暗殺者を送り込んだのがハーゼルゼットだけだと考えるのはむしろ不自然である。
「ハーゲン様」
 気づかうような家臣の声に、ハーゲンは知らずうなだれていた頭を上げた。睨むように床を見つめていた彼は、やがて口を開いた。
「ヴィスに使者を出す。今より親書を書こう。くれぐれもこの動きをレギンには知られぬようにな」
「かしこまりました」
 エズマのことはさておき、ハーゲンが考えたのはレギンをいかにして出し抜き、実権を握るかであった。
 もはや自分には、ジークフリートに娶わせて跡継ぎを産める娘はいない。セドリックには娘がいるが、非一族の彼はアルマンド一門に何の基盤もない。ここでセドリックに恩を売り、彼の娘をジークフリートの妻にするための後ろ盾となれば、実の娘を使って手に入れようとしたアラマンダ公の権力を、一部なりとも手に入れられるのではないか。ハーゲンはそう計算したのである。
(もしエズマを殺させたのがヴィス伯であったならば――決着はことが済んだ後に付けてくれる。娘はエズマの代わりに利用させてもらうとしてな……)
 拳を爪が食い込むほど握り締めながら、ハーゲンは暗い思いを馳せた。

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