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     第四楽章 亡き少女のためのパヴァーヌ



 オルイフ城を辞したいというエスメリオンの願いがやっと聞き届けられたその日、夕暮れ時の木陰で栗色の髪の娘は座り込んでいた。頬に手をあて、膝に頬杖をつくようにして少し離れた地面を見つめていた。と、独りきりの物思いを破って、草葉を踏みしめる足音が聞こえてきた。
「来てくれたのね、エスメリオン」
 近づいてきた足音の主を見上げ、エズマは晴れやかな笑顔を見せた。
「何度呼びだしても来なかったお前のことだもの――城を出たきり、そのまま行ってしまうかと思ったわ」
 どことなく沈んだ面持ちでエスメリオンは首を振りながら答えた。
「これが最後との姫の仰せを、何故に断れましょうか」
「お前は礼儀正しいわね」
 エズマは言った。どことなく不満そうに。
「でもお前は、決してわたくしにその心までは踏み込ませない。礼儀正しくわたくしを避けるばかり。お前の心はわたくしにも判らない。まるで手を伸ばせば空に逃げる隼ね、お前は」
 彼女は立ち上がり、小さくかぶりを振った。エスメリオンは彼女から五歩以上も離れたところで足を止め、動かなかった。
「このようなこと、最初で最後です。お約束を一度でも守りましたからには、一刻も早く城にお戻りください、エズマ様。わたしのような者と共にいるところを見られては、要らぬ疑い、あらぬ噂を招きますゆえ」
「わたくしがここにいることなど、誰も知らないわ。この場所はわたくしだけの秘密の場所なのだもの」
 男の心配をあざ笑うように、エズマは鼻を小さく鳴らした。その仕種は、わがままに育てられた高慢な姫そのものといった風情であった。
「お前こそ、ガリバルデに見られはしなかったでしょうね?」
「それは、姫が仰せになりましたので気をつけてまいりました」
 エズマは憤懣やるかたないといった様子で呟いた。
「嫌な男。あれはいつもお前を見張って、わたくしの邪魔をする」
 エスメリオンは何を思ったようでもなく、果ての知れぬ空のような目で、或いは底知れぬ氷河の谷のような目で彼女を見つめているばかりだった。
「どうしてわたくしがお前をここに呼んだか判る?」
「お別れを仰るためではないようですね」
 エスメリオンは常と同じではぐらかすように答えた。エズマはむっとしたのを隠そうともしなかった。愛らしい眉をひそめて一歩詰め寄る。
「もちろんではないの。わたくしの気持ちは知れようものを、お前ときたらここまで来てもまだ判らぬふりをするのね。それとも、それが吟遊詩人のやり方なの?」
「……」
 エスメリオンが黙っていたので、エズマは続けた。
「お前が判らぬと言うのなら言ってあげるわ。わたくしは逃げたいの」
 エズマはエスメリオンの目を正面からとらえたまま、昂然と言った。エスメリオンは悲しげに首を傾げた。
「何ゆえに――何処から、何処へお逃げになりたいのですか」
「何処へかなど知らないわ」
 エズマは乱暴に言った。
「ただわたくしはフリアウルからも、わたくしの名からも、全てから逃げたい。このようなままならぬ身から自由になりたい。それだけよ。わたくしほど不自由な者など、この世にはないかもしれない。父上はわたくしを従兄の――アラマンダ公の妻にしたいらしいわ。従兄もそのつもりのよう。たしかに公爵夫人は魅力的な地位かもしれない。でもわたくしは、どんなに地位があろうと、美しかろうと、笑うこともない人形のような男などまっぴら。お前のほうがずっと美しい。わたくしの隼」
 それに対してエスメリオンはただ、小さく笑って首を振っただけだった。それは彼女の言葉に戸惑っているようでもあり、またやんわりと否定するようでもあった。彼女の言葉のうちの、何を否定したかったのかまでは読み取ることができなかったけれども。
「ああ――お前を愛しているのよ、エスメリオン。その名の通りお前に翼があれば、わたくしをさらって逃げて。誰もわたくしたちが共にいることなど知らないわ。二人で、自由に羽ばたいてゆきましょう」
 情熱的に言い、エズマはエスメリオンの胸に身を投げた。
「では……参られますか?」
 エスメリオンは竪琴を持たぬ腕でエズマの肩を抱いて、静かに低い声で尋ねた。
「わたしがお連れしてもよろしいのですね」
「ええ――ええ!」
 男の胸に頬を寄せ、目を伏せたままエズマは強い口調で返した。抱き返した拍子に弦が服か体のどこかに触れたのか、竪琴が音を立てた。それとは別の、何か金属が擦れるようなかすかな音も。恋の恍惚に酔っていたエズマは気にも留めなかった。エスメリオンは革の帯で肩にかけられた竪琴を手放し、両手でエズマの肩を抱いた。
 エスメリオンの指先が弦を爪弾くような動きで彼女の首筋をまさぐった。栗色の髪をかき分けて、ほっそりとしたうなじに指をすべらせる。エズマはうっとりとして身を委ねていた。指先はうなじの窪みを探り当て、いとおしむようにぴたりとそこで動きを止めた。あるいは、その場所がどこかを確かめるように。
 甘く歌うような声で、エスメリオンが囁いた。
「わたしは共に参れませんが――どうぞ安らかに」
「え?」
「お別れです。エズマ様」
 エズマは男の顔を見上げた。青白いほど色の薄い金髪は夕焼けの光に照らされて赤い黄金のように輝いていた。端整な顔には艶冶(えんや)としか言いようのない微笑み。だが淡い青の瞳はどことない悲しげな色を帯び――。
 彼の手に銀色の短剣が閃いた瞬間。
 翼ある死が彼女を暗闇へと運び去った。


 城から姿を消したエズマが亡骸で見つかったのは、翌日のことであった。木陰に横たえられたエズマは、眠るように穏やかな表情を浮かべていた。それは彼女にとって死は全くの予想外であったこと、危険に気づく間もなく、苦痛を感じる暇もなく殺されたのだということを示していた。
 ハーゲンの嘆きは深かった。彼女の死によって、もう少しで成立するはずだったアラマンダ公との婚約は破談となってしまった。エズマ以外の子供がいないハーゲンには、代わりに出せる娘もいなかった。結局、彼の目論見は水泡に帰したのである。そのことに気づいたとき、ハーゲンの嘆きは怒りに変わった。一体誰が――というところで真っ先に彼が疑ったのは、血を分けた弟であった。
「レギンだ。レギン以外に、誰がいる。あやつがエズマを殺させたのだ」
 犯人は誰かを捜索する中で、エズマが失踪した日に城を辞したエスメリオンが怪しいとガリバルデは主張したが、ハーゲンは取り合わなかった。
「あれは単なる吟遊詩人ではないか。どこにも武器など持っていなかったし、それはお前も確かめていたはずだぞ、ガリバルデ。あやつはエズマと二人きりにならぬように常に気をつけていたし、お前にもそれを頼んでいたというではないか」
「……」
 愛する姫を喪ったガリバルデの顔も、ハーゲンに劣らずやつれていた。エズマがいなくなった日から彼はほとんど不眠不休で彼女を捜し、殺された事が判ってからは犯人を捜していたのである。彼女の死を知って受けた衝撃は誰よりも――或いはその父親よりもずっと――大きく、その憔悴は哀れを誘うほどであった。
「それに、あれが城に来たのは偶然だ。我らがあれを気に入るかどうかなど、あらかじめ判るはずもない。あんなに堂々と正面から来る暗殺者などいるものか。……しかし偶然というにはたしかにできすぎている気がしなくもない。念のため、街道に人相書きを回しておくように」
「かしこまりました。――しかし、本当にレギン様が暗殺させたのでしょうか? 他に姫を狙う者がいるとすれば……」
 ガリバルデの言葉のうちにある答えを先取りして、ハーゲンは言った。
「ジークフリートか? エズマを娶ると言っておきながら、殺したと。……ありえない話ではないかもしれんが、あれにこのようなことができるはずがない。暗殺者を雇う金も、そんな頭もあれにはないだろう。あれは、公爵の務めを果たすだけの機械仕掛けの人形のようなものだからな」
 馬鹿にしているのを隠そうともせず、ハーゲンは言下に切り捨てた。それがどれほど事実と違う認識であるかなど、考えもしなかった。


 オルイフに入る前に馬を預けた農家には、二日前に城下で起きた事件の情報はまだ流れていないようであった。イーヴァインは何一つ怪しまれることもなく馬を返してもらうことができた。
「ずいぶんと長くオルイフにいたんだね」
 家畜小屋から馬を引き出しながら、農家の主人が笑った。前払いで世話代と礼金の一部を払っておいたこともあって、きちんと世話をしていてくれたようだ。馬の毛並みはつやつやとして、これから何時間(テル)でも走れそうなほど元気いっぱいであった。
「ええ、やらねばならないことがありましたから――。それに、ご贔屓にしてくださる方がいらっしゃいましたので」
 イーヴァインも笑顔で相槌を打つ。
「そりゃあよかったね。ところで詩人さん、これからどこに行くつもりだい?」
「北へ帰ります。わたしを待っている人がおりますから」
 はるかに煙る北の山並みを見やりつつ、イーヴァインは答えた。馬具の用意を終えた農夫は何か納得したような顔で頷いた。
「それはあんたのいい人かい? あんまり待たせちゃ、いけないよ」
「ええ」
 苦笑するようにイーヴァインは頷いた。
 農夫にこれまでの礼としてまとまった額の金を渡し、彼は街道を北に向けて進んだ。途中の森に差し掛かったところで木立の中に歩を進め、石と枯れ枝とで覆って隠しておいた荷物を取り戻した。剣を油紙の包みから取り出し、鞘を払って確かめる。念入りに包んでおいたので、刀身には錆も曇りもついていなかった。
 そこで今まで着ていた吟遊詩人の衣装を脱ぎ捨て、いかにも城勤めの者らしい、襟の詰まった濃い青の胴衣と脚にぴったりとした白いカルツェに改めた。その上から黒のマントを羽織り、竪琴の代わりに剣を腰に佩く。それから、竪琴の胴にぴったりとはめ込むようにして隠していた、針のように切っ先の細い短剣を抜き取った。外した竪琴と脱ぎ捨てた衣装は、荷を軽くするためにその場に捨て置いた。ただ、見つかって足取りを追われては厄介なので、慎重に隠すことは忘れなかった。
 イーヴァインは街道の傍まで戻ってから荷物とは別の革袋の中でおとなしくしている隼を出してやり、最後の手紙をしたためた。もう婉曲な表現や暗号めいた言葉を使う必要はなかったのだが、少し考えた後で彼はこう書き記した。
『隼は手の届かぬ場所へ飛び去りましたので、わたしはあなたのもとに帰ります』
 書き終えてから、イーヴァインは微かに眉を寄せて目を伏せた。だが何を思ったにしてもそれは数秒のことで、彼は手紙を畳んで首輪のポシェットに入れた。
「わたしより先に着けよ」
 そう呟いて、隼を空へと放った。


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