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 その日の夜、ジークフリートはヴィス伯からの使者の話、それに何と答えたかをイーヴァインに伝えた。どこからか忍び込んでくる隙間風に、蝋燭の明かりが心もとなげに揺らめいて、夜の色の髪と朝の色の髪を持つ二人の青年の横顔を照らし出した。
「これは私に与えられた最初で最後の機会なのだと思う」
 ジークフリートは瞑想的に呟いた。
「一族外のものが絡めば、いずれかの叔父がそちらと手を組んでもう一方を蹴落とすくらいは平気でやるだろう。手を組まずとも、ヴィス伯がこの争いに加わってくれるだけでもよい。そうすればいずれ、叔父たちに一矢報いる機も得られよう」
「万が一、ヴィス伯が手を引くようなことがあれば……」
 イーヴァインの言葉に、ジークフリートはゆっくりと首を振った。
「そうなれば、私に打つ手はほとんどなくなるが、それは考えづらいな。ヴィス伯家は三代前が騎士身分から皇帝陛下に取り立てられ、爵位を賜ったものだ。もともとは平貴族の成り上がり。我がアルマンド家と縁戚を結ばせてくれなどとは、本来ならば考えられもしないような無礼な話だ。と考えると、私も随分と低く見られたものだが……。ともあれヴィス伯家にとって、アラマンダ公家と縁続きになればこれほど家格を上げることもないだろう。そう簡単に諦めるとは思えない」
 富と権力にしがみつきたがる人間の醜さは、いやというほど見せ付けられてきたジークフリートである。その執着が、ある種の人間においてはどれほど強いものかも知っている。それこそ誰を殺し、犠牲にしても構わぬと思うほど執着しうるものだと。
 沈黙の合間を縫うように、窓の外で風が鳴った。皇帝や王族の居城でもなければ見ることができない高価な透明板ガラスが、この城ではほとんど全ての部屋の窓に嵌められている。そのガラスに風が容赦なく吹きつけて震わせる。今夜はことのほか、海からの風が強いようだ。二人は蝋燭を一本だけ灯した燭台のもとで長椅子に隣り合って座り、しばらく互いの指先を見つめていた。
 やがて、イーヴァインが顔を上げた。
「ヴィス伯の動きを、フリアウル候とハーゼルゼット候は知っているのでしょうか」
「知らぬと思う」
 ジークフリートは目を伏せた。
「叔父たちは互いを出し抜くのに汲々としている。我が父母と兄を殺したように、共通の利益になるならばいくらでも協力しあうだろうが、そうならぬことは隠すだろう。同じように娘を娶れと私に迫っている、ということも知らぬのではないかな。もし互いにこの事を知っていれば、どちらの娘を私にあてがうか決めておくであろうし、或いは彼らの言うがままになる家から相手を連れてこようから。だからヴィス伯の使者にはそのままを告げてやった」
「ヴィス伯もみすみす叔父ぎみたちに、ジークフリート様が仰ったとおり伺いを立てることはなさらないでしょうね」
「おそらくは、な」
 イーヴァインの言葉に、ジークフリートは軽く頷いた。
「ヴィス伯セドリックはなかなか侮れぬ相手だ。その父もかなりのやり手であったと聞いている。不干渉を貫いた我が一族はともかく、係わり合いになりながら継承戦争の混乱を切り抜け、親子二代だけで領土をあそこまで広げた手腕には確かに見上げるべきものがあると思う。そしてまた、野望も大きいのだろう」
「なかなか、厄介な相手ですね」
 溜め息のようにイーヴァインは言った。
「ではあるが、でなくば叔父たちに対抗しうる敵手にはなりえない。思うような展開に持ち込むよう操れるかどうかは私しだいだが、ヴィス伯の野望も、その持つ武力も――私が求めていたものだ」
 どこか決然とした響きを帯びた声。ジークフリートの瞳に、つかのま怒りにも似た強い光が閃いた。
「私には後ろ盾となる権力も、戦いを挑むための兵もない。それでも――戦う手段はある。たとえ名のみの公爵であろうとも、それゆえにこそ、この名だけでも戦ってみせる」
 地位に縛られ、地位のために生かされ――しかし、それゆえに命をつないでいる。まるでおのれの首にかかった縄一本で、果ても知らぬ深淵に吊り下げられた身を支えているかのように。
 それがド・ラ・アルマンドの名だった。それだけが、ジークフリートの持つ唯一の武器なのだ。他の誰も持たず、彼だけが持つ武器。それ自体では何もなせぬけれども、逆にそれがなければ何もなせぬこともある、形のない武器。誰もが欲しがる最後の切り札。いつ、どこでどのように出すか。それで全てが決まるだろう。
 ジークフリートは傍らのイーヴァインに顔を向けた。
「まさに賭けだな、イーヴァイン」
 彼にもしも浮かべることのできる表情があったなら、そこにはおのれの運命を哂うかのような笑みがあったことだろう。
「勝てばそれまで――。だがもしも負けたら、私には今度こそ何も残らない。――おのれの命すら」
「そのようなことを仰ってはいけません」
 イーヴァインは低く言った。
「必ず、全てを取り戻すのですから」
「だが――」
 口を開きかけたジークフリートだったが、何を言うべきかと迷うように言葉を途切れさせて、イーヴァインを見つめた。イーヴァインは待った。しばらくの沈黙の後、ジークフリートは幼い子供のように彼の肩に額を乗せ、袖を小さく掴んだ。
「ジークフリート様……」
 突然の仕種に、イーヴァインは戸惑いを隠しきれない声で主人の名を呼んだ。それすらも耳に入らないように、ジークフリートは呟いた。
「イーヴァイン、今まで、私はおのれをアルマンドの名と共にこの地に朽ち果ててゆくだけのものと思ってきた。たとえ明日には叔父たちの手にかかろうとも、それはそれまでのものなのだと。だが私はいま初めて、おのれの命を惜しいと思う。生きたいと思う。これを人は恐れというのだろうか? これが最初で最後の、そして唯一の機会だと判っているのに。それでも、思うことは止められない。私はいつのまに、このような臆病者になったのだろう?」
「……」
 目の前で絹よりもなおつややかな黒い髪が震えていた。イーヴァインは袖を掴まれていないほうの腕をゆっくりと挙げ、壊れ物に触れるように、いたわるような優しさでジークフリートの背中に下ろした。掴まれている腕は肘から下だけを動かして、同じように背に添えた。
 ジークフリートは何も言わなかった。支えがなければ自らの重みで折れてしまう柔らかな茎の花のように、彼の肩にもたれたままでいた。
「あなたがそのように思われることを、わたしは嬉しく思います」
「嬉しい……?」
「それは誰しも思うことです。人は――いえ、この世にある生きとし生けるもの全てにとって、生き延びることこそが神々から与えられた至上の使命なのですから。それを恐れとは申しません。むしろそうお思いにならなければ、命など懸けぬ者たちには勝てないのではございませんか? 兵法などはわたしにはよく判りませんが、捨てる覚悟で臨んでこそ、護れるものなのではないでしょうか」
「――お前の言うとおりだ、イーヴァイン」
 ややあってから、かすかな声でジークフリートは言った。そしておもむろに体を離し、顔を上げた。
「もう、すべては始まってしまったのだ。止められようはずもないし、自ら始めた戦いから逃げることなどできないな」
 イーヴァインは応えるように微笑んだ。自らの決意を確かめるようにジークフリートは続けた。
「すまなかった。もう二度と、逃げるようなことは言わない。この戦いには必ず勝つ。私はアラマンダ公であり、私以外の誰もそれを名乗れぬのだから。最後までついてきてくれるか、イーヴァイン?」
「むろんのこと――。命果てるまでお供いたします」
 きっぱりとイーヴァインは頷いた。ジークフリートの瞳にある決然とした色と同じく、鮮やかな氷青色の瞳には強い決意が表れていた。
「して――いかがなさいます? 三人とも断るわけには参りませんでしょうし、かといって従妹さま方では……」
「ああ。私には、従妹たちを選ぶ気はない。かといって他にしかるべき相手を知らぬし、探す手立てすらない。とすればこの中での選択肢はヴィス伯の息女しかない。が――単にそちらを選ぶだけでは我がアルマンド公家をヴィス伯家に売り渡すようなもの。それではヴィス伯の思うつぼだ。叔父たちがヴィス伯一人になるだけのことで、私の立場は何一つ変わらない。どころか、一族のものではない分そちらの方がたちが悪い」
 ジークフリートの口調は少々の苦々しさを含んでいた。
「彼には悪いが、我が公家の優位を保つためにヴィス伯家の力を削ぐ必要がある。叔父たちと互いに潰しあってもらおう」
「ですが、どうやって」
「従妹を殺そうと思う」
 ジークフリートはさらりと答えた。
「双方が私に縁談を持ち込んだことを知った上で、ギゼラかエズマのどちらかが不自然な死を遂げれば、叔父たちは互いの暗殺を疑うだろう。私が選んだ方が死んだとなれば、疑いはさらに強まる。もとから、彼らの仲など表面を取り繕う程度のものでしかないしな。武力闘争に持ち込ませるのはさほど困難なことではなかろう。そこにヴィス伯の存在が絡めば、叔父たちは互いに加えてヴィス伯を疑うだろう。ただ、どちらをどうやって殺すか、どうすればそれまでの間、明確な返答を引き伸ばせるかは思案のしどころだが」
 ギゼラはハーゼルゼット候レギンの娘、エズマはフリアウル候ハーゲンの娘である。
 彼が悩んだのは、何の恨みも罪も無い従妹を殺すことについてではなく、選択と方法についてだった。命の大切さ、などという言葉はジークフリートには存在しなかった。彼にとって生死の観念は希薄なものであった。死とは物が壊れるのと変わらない。たとえ今は惜しむようになったとしても、自分の命であっても同じことだった。それを狂っているという者もいるだろう。
 イーヴァインもまた、背筋に寒いものを覚えずにはいられなかった。どんなに彼を愛しても、理解しようと努めても、これだけは共有できなかった。彼の心には命は何よりも大切なもの、尊いものだという概念が根付いていたから。相手に無いもの、自分に無いものを共有することなどできない。
 だからイーヴァインは、それ以上考えることをやめ、別のことを考えた。
「……フリアウル候とハーゼルゼット候の、どちらの武力が大きいのですか」
 その質問だけで、ジークフリートはイーヴァインの言いたいことの全てを理解した。娘を確実にジークフリートに選ばせるためには、候補を一人にしてしまえばいい――。そう考えるのは恐らく、正面から武力でぶつかっても簡単には勝てず、自分の娘も選ばれそうにない方だ。
「判った。エズマを殺そう」
 その言い方は、まさに物を放り捨てるように無造作であった。
「だが、暗殺を生業とするものを雇うことはできないな。そのようなつてはないし、私の自由になる金も無い」
「わたしが致しましょう」
「お前が?」
 イーヴァインは真剣な面持ちで頷いた。
「毒物のことは何もわかりませんが、剣は随分、ジークフリート様に鍛えていただきました。短剣使いも覚えましたし。間近に接する機会さえ与えられれば、物慣れぬ姫を殺すくらいはできると思います。それに暗殺者が捕まり、雇い主はレギン様であると自白すれば、ハーゲン様は恐らく何の疑いも持たずに信じるでしょう」
「だが、それではお前が……」
 ジークフリートは最後まで言いかねて、言葉を途切れさせた。
 殺人の罪は犯人の死を以て償うのが古今如何なる地においても普遍の法である。特に主人筋に当たる者、身分高い者を相手にしたときの刑は凄惨を極めることが多い。それでなくとも暗殺者は捕らえられれば雇い主や協力者を探り出すため苛烈な拷問にかけられる。そうしてその果てに待ち受けているのは、処刑台の上での無惨な死。
「覚悟はできております、ジークフリート様」
「苦痛の果ての死でもか」
「はい」
 答えには一瞬の迷いもためらいもなかった。イーヴァインの目の中にある覚悟も本物だった。だが、ジークフリートは首を横に振った。
「駄目だ。許さぬ」
「しかし、それでは確実性に欠けます」
「構わない。叔父たちを相戦わせるのは私の役目だ。お前は、共に私から奪われたものを取り戻すと誓ってくれた。ならば、目的を達さない内に死ぬことは許さない」
「取り戻す手段となるのならば、目的を達するためならば、たとえ死んでも後悔はいたしません」
「ならぬ。お前が死んだら私も生きてはいられない。お前がいてこそ、取り戻そうと思ったのだ。他の誰が死のうが、誰を何人殺そうが構わない。だがお前だけは別だ、イーヴァイン。お前がいなければ、何を成そうとも意味がない」
「ですが!」
 イーヴァインが言い返せば、ジークフリートも同じように頑固に言い張った。どちらも思いつめれば頑なになる若者であった。二人の会話はしばらく平行線を辿ったが、やがて一息ついたのはジークフリートの方だった。ふっと息を吐き、凪の海に似た静かな瞳でイーヴァインを見つめた。
「私をまた一人にするのか、イーヴァイン?」
「……!」
 はっとして、イーヴァインは何か言おうと開きかけていた口を閉ざした。自分が死んでしまったら、ジークフリートに心から忠誠を誓い、その力となるものはいなくなってしまう。そして彼が唯一、心を取り戻せる相手も。
「……申し訳ありません」
「イーヴァイン、判ってほしい」
 言いながら、ジークフリートはイーヴァインの手を取った。対等な友人同士ならば自然な動作でこそあれ、主が臣下にする仕種ではなかった。黙ってそのまま、ジークフリートはイーヴァインの手を握っていた。イーヴァインもまた何も言わず、振りほどくこともできず、数分が経った。
「失念しておりました。わたしにはまだ、生きてやらねばならぬことがあると」
 彼の手を包み込むように握っていたジークフリートの指から、ほっとしたように力が抜けた。表情は変わらないながら、そこに表れていた緊張が解けたように思われた。
「必ず生きて戻ります。それでよろしいですね」
 ジークフリートは無言で頷いた。それから、ふと思いついたように口を開いた。
「人を殺すのは初めてだろう」
「それでも、必ずやり遂げてごらんにいれます」
 イーヴァインはきっぱりと言い切った。いつか心に欠けた「何か」を取り戻した時、ジークフリートにも従妹に対する悔悟や憐憫の情が湧くことがあるだろう。でも、それは今でなくていい。今は自分が感じればいい。主人の代わりに、全てを背負おう。
 だがジークフリートは再び躊躇った。イーヴァインの内心の決意を読み取りでもしたように。
「やはり……お前に汚れ仕事をさせるのは気が進まない」
「わたしにしかできないことです。どうかわたしにお命じになってください」
 数(テルジン)の黙考の後、ジークフリートはイーヴァインを見つめた。
「できるか、イーヴァイン」
「はい」
 イーヴァインは低く、しかしはっきりと答えた。



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