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     第二章 イーヴァイン




 そのような話があった後も、ジークフリートの日常にはいささかの変化も生じなかった。彼の過ごす日々は淡々としており、イーヴァインが呆気にとられたほどである。あの告白はまさか夢ではなかったのかと思うこともあった。ジークフリート自身、何故話してしまったのかと考えていた。
 出会ってから三年が経ち、たしかにイーヴァインはすでに彼の中で誰にも取って代わることのできない特別な存在となっていたけれども、そのことと一門の汚点である過去を語ることとはまた別問題だと、公爵としての彼は思う。
 だが、ド・ラ・アルマンドの名を離れた一人の青年としてのジークフリートは、全てを打ち明けられる相手をずっと求めていたのだ。一人で背負うにはあまりにも重すぎる記憶と感情とを抱えて。
 イーヴァインの方からは、あれから何も言ってこなかった。言えるはずもないだろう。たとえ彼の方から「全てを取り戻そう」と言い出したのだとしても。それはアルマンド一門の二大勢力、フリアウル家とハーゼルゼット家を敵に回すことであり、一門全体を動乱に巻き込みかねないことであったからだ。
 仮に今ジークフリートが当主の権限と財産の返還を叔父たちに求めたとしても、名のみの公爵に従う一族は限られてくるだろう。限られるだけならまだしも、逆に一門がジークフリートに面と向かって反逆したら、窮地に立たされることになる。そのような危険は冒せなかった。ジークフリート自身もそのことは熟知していた。
 おのれの立場をよく知っていたからこそ、どうすればいいのか――とそればかりを考える日々であった。先年首都に定まったオルテアに使者を送り、皇帝に調停と裁決を求める方法もある。国内で最も有力な公爵家の一つのアルマンド家である。一門の内紛は国を巻き込むことにもなりかねないから、皇家の介入があることは充分考えられる。
 しかしその方法は諸刃の剣であった。アルマンド家の所領や権力が、継承戦争を経たばかりでその支配力の衰えを隠せない皇家にとって侮れないものであるだけに、皇家の安定を図るために力を削ぐか、下手をしたら取り潰そうとするかもしれない。とすれば、絶好の機会を相手に与えてしまうことになる。
 それにまた、ジークフリートはヴァーレンから出たことがなく、当然ながら現皇帝に目通りしたこともなく、他に貴族の知り合いもなかった。その事一つだけ取っても、彼の代理と称して宮廷に出入りする叔父たちのほうが有利である。
 内にも外にも、恃むに足るだけの味方はいない。それだけが確実なことであった。
 もどかしさや焦りを感じることはあまり無かった。感じていたら、名のみの公爵に甘んじてはいられなかった。待つことをジークフリートは厭わなかった。それは諦めているからではなく、いつか物事は動き出し、待つものは現れると知っていたからだ。
 壊れた心の欠片を持つものを十四年間待って、イーヴァインが現れたように。
 だから、ジークフリートは待つ。機会が訪れるのを。イーヴァインが逸って一人で動くことを心配することもなかった。ジークフリートを取り巻いている状況を、彼もよく理解していたから。
 大きなことは何も起こらなかったが、二人きりでいる時間はわずかに増えた。ジークフリートは常と変わらぬ冷めた目で海を見つめる。その後ろで、イーヴァインも黙って主人と空とを見つめる。何を語らうでもなく。
 その少女を見たのは、この頃では珍しく一人で海を見るために外出した時であった。
 夢のように煌き、揺れる金の髪。
 それだけで、三年前に見たあの少女だと直感した。
 特に何を思うわけでもなく、ジークフリートは石積みの階段を降りて浜辺へと下りていった。崖は十バールもなかったので、さほど時間はかからなかった。少女はジークフリートの存在には気づかず、波打ち際で革靴の爪先を濡らして立っていた。
 どう声をかけていいのか判らず、ジークフリートは思ったままのことを口にした。
「お前は、海に住まう妖精か?」
 はっとしたように、少女がこちらを見た。
 同時に、ジークフリートも息を飲んだ。少女の髪の眩いまでの金色に。それは古めかしい金ではなく、鉱脈から取り出されたばかりの真新しい金の色であった。その瞳は空か、それとも海のように澄んだ青色であった。
 目鼻立ちは北方メビウス人の常として彫り深かったが、大作りすぎることもなく、全てが調和を保って美しかった。肌は白く、身にまとった白い麻のドレスとの境目が溶け込んで見えてしまうほどだった。
 彼の目の前に立つ少女は三年前には子供としか見えなかったが、今ではすらりと若木のように伸びた肢体を持つ一人の女性となっていた。さすがに、もう海で泳いで遊ぶような年齢ではない。
 驚いたような目をしてこちらを見た少女は、やがて小さく首を傾げた。
「では、あなたは海の王子かしら? 美しい方」
 その切り返しは予想外だったので、ジークフリートは虚を衝かれて一つ大きな瞬きをした。見知らぬ相手に正面から目を見つめられたこともなかったから、瞬きの後わずかに目を伏せ、少女の視線を逃れた。
 彼女が口にした海の王子の伝説は、ジークフリートも知っている、この辺りに伝わる伝承であった。この海の底には妖精たちを統べる王子が住み、人々が敬うことを忘れぬかぎりは恵みをもたらすが、罪には嵐をもって報いるのだという。その王子の瞳は、まるで海のような色をしていると伝えられていた。
「いや、違う」
「わたくしも違いますよ」
 少女は首を振った。
「私はお前に無礼なことを言っただろうか? そのようなことは、よくわからないのだ」
 素直に謝ると、少女は首を横に振った。
「失礼とは思いません。海の妖精は美しいといわれていますもの。それと間違えられたのはむしろ名誉なことなのでは?」
 少女の微笑みは、その金色の髪と同じように目映かった。しかし、ふと微笑みが潮の引くようにその美しいおもてから消え、不安げな色がかわりに現れた。
「あなたこそ、何かお怒りのことでも?」
「いや……」
 その柔らかな青の瞳に映る無表情なおのれが、ひどく場違いなもののような気がした。笑えぬ自分を意識したのは、イーヴァインと語り合う時に続いて二度目だった。それで、ジークフリートは逃げるように次の言葉を探した。
「お前の名は?」
「ハルカトラです」
 歌うような調子であった。
「あなたは?」
「私は――」
 ジークフリートはふと迷った。なぜ自分が迷ったのか、名乗ることにためらいを覚えたのか、その時のジークフリートには判らなかった。名を告げて、少女の態度が変わることを恐れたのかもしれない。
「私は、ジークだ」
 そう告げると、ハルカトラは再び微笑んだ。そうして、ふわりとドレスの裾を翻して踵を返した。
「憶えておきます。またお会いできる日まで。さようなら」
「……」
 彼が別れの言葉を告げる暇もなく、ハルカトラは白い蝶のようにドレスの裾を躍らせ、金色の髪を揺らしながら砂浜を軽やかに駆け去っていった。暮れはじめた太陽の強い光に照らされて、白いドレスも金の髪も輝き、周囲の光と溶け込んでやがて消えていった。
 まるで幻を見たか、本当に妖精にでも会ったような気がした。ジークフリートは再び石段を登って崖を上っていった。城をさして歩いてゆくと、従僕の一人が迎えに出ていた。二旬ほど前に城に上がった者だったが、いずれ遠からぬ内にこの男も辞めていくだろうとジークフリートは思った。
「何かあったのか」
「ヴィスより使者が参っております」
「何の用件だ?」
「用件はまだ伺っておりません」
 ジークフリートとは目を合わさずに、礼をするように下を向いたまま従者は答えた。そのような態度にも慣れていたので、ジークフリートはそれについては何も言わず、ただ頷いただけだった。
「そうか」
 ヴィスはアラマンダと東の境を接する伯爵領であった。領主の身分は伯爵であるが、その領地はなかなかに広く、山間部の多い北方メビウスの中でも比較的平地に恵まれた、ゆたかな土地であると聞いている。
(境界のことでもめたことは、まだ一度もなかったはずだが)
 今まで交流などなかったヴィス伯から、いったい何の用件で使者が来たものか、まったく見当もつかなかった。内心で首を傾げながら、ジークフリートは城に戻って使者を待たせている一室にそのまま向かった。
「お待たせした」
「いえ、決してさような」
 室内には、使者にたった四十代とおぼしい男が一人待っていた。ジークフリートに対して彼は膝をつき、いくぶん丁寧が過ぎる礼をした。
「何のご用件であろうか?」
「その前に、お人払いを願えますでしょうか。アラマンダ公閣下」
 ジークフリートの後ろに控える二人の従者を見上げて、使者は言った。
 彼の腰には何も下がっていないこと、衣服に妙なふくらみもないことを確認して、ジークフリートは従者たちを見やった。
「かまわぬ。そなたらは下がっておれ」
「ですが、御身にもしものことがあっては……」
「使者に立ちながら、このような場で隣の領主を害する愚か者などおるまい。それとも、私への話をお前が聞かなければ何か問題でも起こるのか?」
「……」
 ジークフリートの目に射られたように、反論しかけた従者は口を閉ざした。そして仲間と互いに顔を見合わせながら、部屋を出ていった。彼らの気配が部屋の外からも消えたことを確かめてから、ジークフリートは再び使者に目をやった。
「これでよろしかろうか?」
「ありがとうございます」
 使者は頭を下げた。
「自己紹介をお許しいただけますでしょうか。わたくしはヴィス伯セドリック・ラ・ヴィシーの臣、リロイと申します。以後お見知り置きを」
「リロイ殿か。覚えておこう」
 気のない様子でジークフリートは答えた。
「アラマンダ公閣下におかれましては、益々ご健勝なることとお喜び申し上げます。まずは、我が主ヴィス伯よりのご挨拶を申し述べさせていただきたく……」
 リロイが前口上を述べ始めたところで、ジークフリートはいささか気を悪くしたように冷たくそれを遮った。
「リロイ殿。私はそのような社交辞令で時を無駄にするのをあまり好まぬ。率直にご用件を述べていただきたい」
「は、申し訳ありません」
 慌てたようにリロイは深々と頭を下げた。
「それでは申し上げます。このたび私が参りましたのは、当方の伯女エルメリーナ姫との縁組を公にご一考いただきたかったためでございます」
 その言葉を聞いた瞬間、ジークフリートは背筋を興奮に似たものが稲妻のように駆け上がり、全身の肌が粟立つような感覚を味わった。そのような感覚は、生まれて初めて経験するものだった。
 ヴィス伯の狙いが叔父たちと同じであることは明白だった。ジークフリートはアルマンドの嫡流を得るための道具であり、彼らの娘は彼らの血をも受け継ぎ、真に思惑通りに動く次期公爵を産ませる為の道具にしか過ぎない。
 だが、一族以外の者がこの舞台に現れたのはジークフリートにとって思ってもみなかった好機であった。
「いかがでございましょうか?」
 彼の沈黙を不安に思ったか、リロイが尋ねた。ジークフリートは先ほどあの娘相手には腹立たしく思った、何を感じようが何を思おうが、絶対に動かないおのれの表情に初めて感謝した。
「――さようのことを、今すぐにここでお答えするわけにはいかない。婚姻とは生涯を左右する大切な選択だからな。それはご理解いただけようか、リロイ殿」
「それはもう、むろんのことでございます」
 続く言葉を言うか言わないか、ジークフリートは数瞬迷った。これは、賭けだった。賭けに負ければせっかく訪れたこの好機を逃すことになる。だが――うまくいけば、全てを動かしていくきっかけを掴むことができる。
(何を恐れることがある。よしや失敗したとて私に失うものなど、この命の他にはもう何もないではないか)
 ジークフリートは心を決めた。一つ息を吸い、ゆっくりと言った。
「それにまた、フリアウル候とハーゼルゼット候からも同様の申し出を受けている」
 リロイは難しい顔になった。
「では、我が方の姫はお選びいただけないということで?」
「それは判らない。申し訳ないが、私の一存では決められぬのだ」
 どうせお前もお前の主人も、私に真の意味での選択権などないこと、名のみの当主、公爵であることを知っているだろうに――。そう思いながら、ジークフリートは言葉を次いでいった。
「恥を忍んで申し上げれば、私は私自身のことも何一つとしておのれで決めることを許されていない。ゆえにこの件はフリアウル候とハーゼルゼット候に通し、そちらの姫を娶ることを二人が許したならば、その時にいま一度お越し願いたい。そのように、ヴィス伯に伝えてくれ」



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