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 翌日も、ジークフリートは誰にも知られぬようにイーヴァインを呼び出した。幼い頃一度だけ教えられ、それ以来誰にも伝えてはならないという父の教えをこれまで頑なに守ってきた、秘密の部屋に。
 このような時のために、父上は嫡男ではなかった私にここを教えてくださったのだろうか、とジークフリートはふと思い、すぐにそれを否定した。まだできて間もないこの城を彼の父はとても自慢にしており、最新の設備や隠れた仕掛けを子供たちに説明し、教えるのを楽しみにしていた。
 そして、どうせ理解できまいと思ってか、ジークフリートに嫡男同様の心得を説いて聞かせることもあった。ここもそれと同じように、気まぐれで教えたものだろう。まさか本当に、ジークフリートが教えを実践し、秘密を利用しなければならない身になるとも知らずに。
 二十年近く誰も入らぬままだった壁の中の隠し通路や部屋は、思ったよりも汚れてはいなかった。確かに年月を感じさせる埃が積もってはいたが、家具がほとんどないので、足もとに目をやりさえしなければ気にならなかった。
「このような場所があるとは存じませんでした」
 遅れてやってきたイーヴァインは感心したように言った。ジークフリートはそれに応えてゆるく頭を振った。
「私も、このように使う日が来るとは思っていなかった」
 だが二人が世間話めいたことを話したのはそれだけだった。
「どのようにして、ヴァーレンを出ましょう? 今さらお傍仕えを辞めるというのも不審がられましょうし」
「辞めることはない。戻ってもらわねば困る。お前にしばらく休暇を与えるということでよいだろう。これまで三年間、一度も故郷に帰っていないのだから、そのための休暇とでもしよう」
「一両日中に発てますので、いつなりとお命じください」
「ああ」
 ジークフリートは頷いた。
「それで……エズマに近づく手段は考えているか?」
「吟遊詩人に成りすまそうかと思っております」
 領主の無聊を慰めるために、城に吟遊詩人を招くのはよくあることである。旅の吟遊詩人をすぐに城まで入れることはないだろうが、しばらく滞在していれば城に仕える者の目にとまり、そこから城へのつてを手に入れられる可能性は高い。娯楽が少なく、人々の出入りもそれほどないので、旅芸人や吟遊詩人はとても歓迎されるのだ。
 それに、そうした生業の人々ならば素性が曖昧であったとしても不審がられることはないし、明らかな嘘を並べたところで、それが面白い物語になっていれば誰も咎めないという利点があった。
「いかが思われますか?」
「良いと思う。お前の声は海を渡る西風のように心地よく響くからな。それにお前の奏でる音は野の花に射す陽のように優しく温かい」
 揶揄するでもなくジークフリートは言った。その詩的な賛辞をイーヴァインはわずかにくすぐったげな表情をしたものの、平静に受けとめた。この青年が事物を論評することは滅多にないが、する時にはそれが褒めるにしても貶すにしても、思ったままを言っているのだと知っていたからである。
 剣術と同様、楽器もこの三年の間ジークフリートの相手を務めるためにイーヴァインが磨いてきた教養の一つであった。本職の楽人とまではいかないが、吟遊詩人に成りすましても疑われない程度の技量は身についている。もちろん、そんな用途のために培ってきたものではなかったけれども。
「事をなしたならばすぐに帰れよ、イーヴァイン」
「はい」
 彼の返事を聞きながら、ジークフリートはちょっと考え込んだ。
「できればお前の動きを見つつ、レギン叔父とヴィス伯への対応も考えたいのだが……ままならぬものだな。魔道師どもの使う遠話なるものが使えたならば、フリアウルに行くお前と容易に連絡が取れるのだが」
 それを聞いて、イーヴァインは少し間を置いてから切り出した。
「レユニでは連絡用に鷹や隼を飼っておりました。ここでも一羽、隼を飼っております。それに伝言を持たせて飛ばしましょう。魔道ほど早くはございませんが、人よりも早く伝えられます。この城ではなく、宿に戻るように調教いたしましたから、直接お伝えすることはできませんが、いつもおいでになる海辺に使いをやります」
「それが一番確実で、誰にも知られぬ方法か」
 日課にしている散歩に同道する者は、今ではイーヴァイン以外いない。彼とてもジークフリートから求められなければ共に行くことはないので、それ以外の人間が同行することなどまず考えられない。
 時間も大体一定しているので、どちらかが待ちぼうけを食う可能性も低い。連絡手段も決まり、二人はジークフリートの私室に戻る通路を歩き出した。
「隼……か」
 その途中でふとジークフリートが物思うように呟いたので、イーヴァインは傍らの主に向けて首を傾げた。
「いかがなさいました?」
「不思議な偶然もあるものだと思っていた。私の幼名のエスメラルダは、隼という意味だったから。……そういえば、エズマの名も、恐らく意味は似たところだろうな」
「それは、どこの言葉なのですか?」
「神聖古代語だ。本来の形はエスメリオン。私は嫡男ではなかったから、おのれの力で自由に生きてゆけるようにと父上が付けてくださった名前だった。隼のように(エスメラルダ)自由に生き、勝利と平和(ジークフリート)を手に入れよと――今の私には、これほど皮肉なこともないが」
 翼はもがれ、戦うための牙も身を守るための爪もない。彼の身を支えているのは誇りだけであった。もし誇りや自尊心などなければ、このような境遇に生きていても安々と甘んじ、苦しむことはなかったかもしれない。だが誇りもなく生きるくらいなら、彼は死を選んだだろう。それはこの古い一族――その最も純粋な血を持つ者だけに受け継がれる生来の誇り高さであった。
「それでも、空を求めてはならぬというわけではございますまい」
 そっと囁くような声で、イーヴァインは言った。
「わたしがあなたの翼にも、牙にもなります。そのためにわたしはここにおります。そしてまた、必ず帰ってまいります。あなたのもとへ。そしてあなたに勝利を捧げます」
「……そのような言葉を聞いていると、お前こそが隼のようだな、イーヴァイン」
 言葉ではなく、やわらかな微笑みが返ってきた。これほど惜しみなく自分に与えられている同じ表情を、少しでも返すことができればいいのに、とジークフリートは心から思った。
 公爵が気まぐれのように、好きなだけ休むがいいと数人の使用人に休暇を与えたのは、それから二日後のことであった。これ幸いと城を離れた十人ばかりの中に、イーヴァインの姿があった。見送ることはしなかったが、ジークフリートは一度だけ城門から町へと続き、街道へと延びてゆく道を窓から見下ろした。
 そこにはもう、誰の人影もなかった。
 常に傍にいるわけではなかったし、イーヴァインの顔を見ない日もこれまで幾度となくあったのに、本当に離れてしまったのだと思うと自分の一部が欠けてしまったような気がした。
 これが寂しさというものなのだろうかと、ジークフリートはうっすらと思った。今までに感じたことのない心の動きであった。やはりイーヴァインがいなければ――いや、いるにしてもいないにしても、彼によってしか私の心は動かない。そうも思った。
 フリアウルまでの道のりを、イーヴァインは途中まで使者を装って馬で飛ばす予定であった。市に近づいた所で吟遊詩人のなりに替え、徒歩に切り替えるということであったから、到着までには早くて五日程度だとジークフリートは踏んでいた。
 イーヴァインが発って八日が経った夕方、ジークフリートは一人きりで崖下の浜辺に佇んでいた。近頃は使いが来るかもしれないので、散歩のたびに崖下まで下りていた。
 崖から見下ろす海が好きだったのだが、視点を低くした海も悪くなかった。港となっている海岸からは遠いし、数百バールに亘って続く砂浜には視界を遮るものは何もないので、まるで空と海とに包み込まれるような気がする。
 そこに、波の音の合間を縫って、柔らかな砂を踏みしめる微かな足音がした。見張りはいないし、見つかったからとて咎められることはないが、公家の所有するこの浜辺にあえて入り込む領民はほとんどいない。ジークフリートがここで領民を見かけたのは、十七年の間でたった七度だけしかなかった。イーヴァインの言っていた使いの者だと、振り返る前からジークフリートには悟られた。
「公爵様でございますか?」
 次いで聞こえてきたのは、銀の鈴を振ったように澄んだ声だった。ジークフリートはゆっくりと頭を巡らせた。最初に目に入ったのは、かすかな海風に毛先を遊ばせる金のきらめきだった。次に、大きく見開かれた青い瞳。イーヴァインのそれに良く似た、浅い青色の瞳であった。
 同様に近づいてきた相手が見たのは、肌を青白く見せるほどの黒い髪と濃藍の瞳を持つ青年だった。
 互いの姿を確認し、それが誰であるのかに気づいた時、二人の唇はほとんど同時に動いていた。
「お前が」
「あなたが」
 ジークフリートとハルカトラは、しばし無言で見つめあった。
 ややあって、口を開いたのはジークフリートだった。
「お前は……ハルカトラと申したな。イーヴァインの姉妹ではないようだが、恋人か?」
「はい」
 頷きながら、ハルカトラはかすかな声で答えた。それから用事を思い出したようで、彼女はずっと体の横につけていた腕を差し上げた。
「――イーヴからの伝言です」
 彼女がほっそりとした手に握っていたのは、隼の足に結び付けていたか、それとも首輪に付けていたと思われる細く畳んだ羊皮紙だった。受け取って広げてみると、短い手紙がしたためられていた。それを読むジークフリートの顔をうかがうように、ハルカトラは尋ねた。
「……公爵様。差し支えなければ、あの人が何と伝えてきたのか教えていただけませんでしょうか。旅先には、無事に着くことができたのでしょうか?」
「読まなかったのか」
「わたくしが見てもよいものではございませんから」
 何気なくジークフリートは尋ねたが、ハルカトラは首を縦に振った。どこに、何をしに行くのかまでは明かさなかったとしても、恋人というからにはしばらく留守にすることだけは告げていったのだろう。安否程度は伝えたところで害のないことであったから、彼はためらうこともなく教えてやった。
「何事もなく着いた、と」
「そうですか」
 ほっとしたようにハルカトラは言った。
「これは、私からの返事だ」
 持ってきていた亜麻紙を、ジークフリートはハルカトラに差し出した。彼女は受け取ったそれを見つめながら呟いた。
「公爵様、イーヴはお役目が終わるまでヴァーレンには戻らないのですか?」
「すまぬことだが、そうだ」
 ジークフリートは頷いた。
「そうですか」
 だいたい予想していた答えだったらしく、ハルカトラの声はさして失望したふうでもなかった。
「それでは、また参ります。公爵様」
 用事はすぐに済んでしまったし、話すこともなかったので、ハルカトラは一礼し、二人はそのまま別れようとそれぞれ踵を返した。
「ああ……」
 だが途中で足を止め、思い出したようにジークフリートは付け加えた。
「……私のことは、ジークフリートと呼んでくれないか。私を公爵とだけ呼ぶのは叔父たちやその臣下たちなのでな。領民にまでそう呼ばれるのはあまり好かないのだ」
「わかりました。ジークフリート様」
 同じように振り返ったハルカトラは、小さく笑った。夕日に照らされていたせいかもしれないが、眩しい笑みだとジークフリートは思った。



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