中編 * 目次





牙を剥く影 後編



「あっ、焔羅!」
 その日の帰り、二階と一階をつなぐ踊り場に差し掛かったところで、一人の女生徒が焔羅の名を呼び、軽やかな足取りで追いかけてきた。焔羅のかなり親しい知り合いであることは間違いないようだが、明日香には全く見覚えがない生徒だった。ということは上級生なのだろう。この高校では学年ごとに上履きの靴紐に使う色が指定されていたから、上履きを見れば相手の学年がすぐに判る。踊り場まで下りてきた少女の靴紐は赤。三年生の指定色だった。
(うわ……すごいきれい……)
 足元から視線を上げ、相手の顔を見た明日香は心の中で感嘆の声を上げた。三年生の少女は日本人離れした容姿の持ち主だった。といっても目鼻立ちの彫り深さは西洋的なものではなく、中東あるいは中央アジア的である。太目でやや鋭角の弧を描く眉や濃く長い睫がその風貌をますますエキゾチックに見せている。小麦色と言うにはやや淡い、黄金色と呼んだ方がよさそうな肌色をしていた。袖口から覗く上腕部もほとんど同じ色調だったので、日焼けではなく生まれつきであるようだった。
 肌色は濃いめだったが、胸の辺りまである髪は逆に色素が薄く、明るめの栗色をしている。根元まで同じ色なので染めているようには見えないが、光の当たっている場所がほのかに赤みがかって見えた。
「良かったあ、先に帰っちゃってたらどうしようかと思ってたのよ」
 少女はにこにこと焔羅に話しかけた。それから彼の隣にいる明日香に同じ笑顔で軽く会釈してきたので、明日香も頷くようなあいまいな会釈を返した。何しろ、相手が誰なのか、焔羅とはどういった関係なのか判らなくて、頭の中は疑問符でいっぱいだった。しかしその疑問は焔羅が相手を呼んだため程なくして解決した。
「どうしたの、姉さん」
(あ、お姉さんなんだ)
 そういえば『とまりぎ』で顔を合わせた時、姉が来ていなくてどうのといったことを話していたのを思い出した。最初は姉弟だと全く想像もできなかったほど、姉は焔羅と顔の系統がほとんど似ていない――つまり母である香爛にも似ていない。だが、焔羅は母親に似ているので姉の方は父親に似ているのだろう。失礼にならないようにと思いつつも、明日香はいつ観察する目でしげしげと見てしまった。その視線に気づいてはいるのだろうが、焔羅の姉は気にする様子もなく弟との会話を続けた。
「お母さんから、お米買っといてってメール来てたのよ。悪いけど、さすがに一人じゃ辛いから荷物持ちしてくれない?」
 察するに、カフェバーの勤務時間が午後から始まるため、夕方から夜にかけての家事は焔羅の姉がメインで受け持っているようだ。家の用事なら仕方がないと言いたげに焔羅はちょっと眉を寄せ、傍らの明日香に顔を向けた。
「乾さん。姉さんも帰るの一緒になっちゃうけど、構わないかな」
「全然かまわないよ。ていうか、そういう事なら私ひとりで帰るし」
「いや、それはだめだよ。万一何かあったらどうするのさ」
「そうよ。彼女を一人で帰すなんてとんでもないわ」
 思いがけず強い口調で、焔羅は言った。姉の方も同意を示して頷いた。
「って、割り込んでる本人が言っても説得力ないか。ごめんね。邪魔しないように、なるべく離れてるから私のことは気にしないで」
「邪魔なんて、そんなことないです。高木君のお姉さん」
 どう呼んだものかと首を傾げた明日香に、焔羅の姉は朗らかに笑いかけた。
「その呼び方、めんどいでしょ。朱雁(あかり)でいいよ。よろしくね、乾さん」
「は、はい」
「じゃ、私先行ってるから」
 明日香が頷くのを待って、朱雁は二人を追い越して階段を降り始めた。邪魔をしないよう離れている、という自分の宣言を守るためだろう。颯爽と離れていく朱雁の後姿を見やって、焔羅は深いため息をついた。声を潜めて言う。
「本当にごめんよ、乾さん。昔っから姉さんは強引というかマイペースというか、こう……ナチュラルに巻き込んでくるんだ」
「そんな謝らないでよ。いきなり声かけられてちょっと驚いたけど、全然気にしてないから。荷物が多いんならお姉さん一人じゃ大変だろうし、仕方ないよね」
 口ではそう言いつつも、内心では少し残念に思う気持ちがあった。
(せっかく二人で帰れる日だったのにな……)
 朱雁は離れていると言ってくれたが、明日香が先に降りた後、一緒に行動する予定であることを考えると、お互いの姿が確認できないほど離れることはないだろう。それに会話に立ち入ったり、ましてや邪魔する気など朱雁には全くないだろうが、初対面の、しかも相手の姉という立場の人間が傍にいる状況では、どうしても存在が気になってしまう。
 決して邪魔だと思っているわけではないが――などと、そんなことをつらつらと考え回していたので、前を歩いていた朱雁がふいに立ち止まり、さっと腕を動かして右の膝の辺りを払うようなしぐさをしたことに明日香は全く気付かなかった。
「姉さん!」
 突然焔羅が焦りをにじませた大きな声を上げ、明日香ははっとして顔を上げた。立ち止まった朱雁は、なぜか険しい表情で足元に落ちる街路樹の影を見つめていた。しかし、視線の先には何の変哲もないアスファルトの歩道があるばかりで、目を留める理由になりそうなものは何もない。
「ごめん。いきなりだったから、反射で……。今のはまずかったわね」
 やがて朱雁は振り返り、焔羅に話しかけた。ちらりと明日香に視線を移したが、それはほんの一秒ほどのことだった。立ち止まった時と同様、前触れもなく再び歩き出しながら、朱雁はきっぱりした口調で告げた。
「やっぱり荷物持ちはいいわ。焔羅は彼女についててあげて。ちゃんと家まで送るのよ」
「ふぇっ?」
 タイミングもそうだが、内容も唐突な朱雁の指示に、明日香は裏返った声を上げた。しかし焔羅も朱雁も、全く反応せず二人の会話を続けた。
「……でも買い物は姉さん一人じゃ大変だろ」
「もう無くなってるわけじゃないし、一日二日遅れたって何とかなるわ。母さんには私から説明しとく。とにかく焔羅は明日香ちゃんをきちんと送ってきなさい」
「わかった」
「じゃあ、後はよろしく」
 ひらりと手を振り、突然立ち止まった時に何があったのか説明しないまま、朱雁は足早に駅とは別の方向に去っていった。事情を把握しているらしい焔羅も口をつぐんだまま再び歩き出した。とても気になったが、もしかしたら私的な領域に関わることかもしれないので、何が起きたのか明日香は尋ねられずにいた。かといって黙々と歩き続けるのも気づまりで、焔羅に他の話題を振ってみれば、きちんと内容に沿った応答があるものの、どこか上の空だった。
「……お姉さんのこと、心配なの?」
 意を決して尋ねると、焔羅はちょっと驚いたような顔をした。
「え、どうしてそんな話に? 心配なんかしてないよ」
 それが本当に屈託のない、ごまかすつもりも全くなさそうな声と表情だったから、明日香も拍子抜けしてしまった。
「そうなの?」
「さっき姉さんの言ってたことが気になってたのは事実だけど。乾さんと一緒にいるのに、別のことに気を取られてるのは失礼だったよね。ごめん」
 焔羅はにこりと笑って両手を顔の前で合わせ、拝むような真似をしておどけてみせた。だが結局、何を気にしていたのかは言ってくれなかった。しばらく気まずげな沈黙が続き、更に尋ねようかと明日香が再び口を開いたタイミングで、電車が目的駅に到着した。必然的にこれ以上の会話は続けられず、明日香は質問の代わりに別れの挨拶を口にして電車を降りた。すると何を思ったか、焔羅も彼女に続いた。
「あれっ。高木君が降りるの二つ先じゃなかった?」
「今日は家まで送ってくよ。さっき言ったじゃないか」
 そう言って、焔羅は改札口を示す矢印に従って歩き出した。予想外の事態が続いたせいで呆気に取られてしまった朱雁だったが、発車メロディーで我に返って追いかけた。
「たっ高木君、出口そっちじゃない。反対側!」
「あ、ごめん」
 駅から自宅までは自転車を使っているので、見送りは改札まででいいと初め明日香は固辞したのだが、柔らかい物腰とは裏腹に焔羅は意外と頑固だった。家まで送られるのは恥ずかしい明日香と、きちんと家まで送らなければ意味がないと主張する焔羅の意見は平行線をたどるかと思われた。しかし最終的には自宅が確認できる通りまで一緒に歩くということで一応の妥協点を見出した。
 駐輪場に自転車を取りに行く前に、明日香は隣のコンビニに立ち寄った。目的は火曜発売のファッション雑誌である。一緒に店内に入った焔羅はというと、雑誌コーナーの後ろにあるアイスの冷蔵ケースを覗き込んでいた。
 明日香が自転車を出してコンビニの前に戻ると、ちょうど焔羅が出てくるところだった。
「ねえ、乾さんは食べながら歩くの気にしない方?」
「別に気にしないけど」
「じゃあ、これ二人で分けようよ」
 そう言って、焔羅は二つに割って食べるタイプの棒アイスを袋から取り出した。それ自体はどこでも売っているが、アップルマンゴー味は夏季限定のものだ。
「高木君、マンゴー味好きなの?」
「いや、正直そこまで好きってわけじゃないんだけど、これ一回は食べとかないと落ち着かないんだよね。夏が始まったって気がしない」
「あー、何となくわかる。そういうのあるよね」
 今日はさほど暑くないと思っていたが、冷房の効いたコンビニを出ると、日差しが強いせいもあってじわりと暑さを感じた。焔羅が取り出したアイスの片方を差受け取って齧りながら、明日香はしみじみと呟いた。
「なんかさ……こういうのってすごく」
「ん?」
「……青春って感じがするね」
 付き合ってるみたいと言いかけて、実際に付き合っているのだからこのたとえはおかしい、と明日香は慌てて言い換えた。それに気づいたのか、焔羅も照れくさそうな笑みを返した。自転車なら十分の距離だが徒歩なので、所要時間は倍近くになってしまうが、一緒にいられる時間が長くなると考えれば、時々はこんな日があってもいいかと思えた。
 来週も一度くらいは家まで一緒に帰れたらいいと、ふわふわした気分のままベッドに入った明日香だったが、その日の夢は就寝前の気分を消し飛ばしてしまうような、奇妙で恐ろしいものだった。
 夢の中で、明日香は校門を出てすぐの道路に制服姿で立っていた。日常の光景だったせいで、初めはそれが夢だとは思わなかった。だが周りに誰もいないし静かすぎるのを不思議に思って周囲を見回し、再び正面に視線を戻した瞬間、これは現実ではないと気づいた。さっきまで何もいなかったはずの場所に、いつの間にか大きな黒犬がいたのだ。夢にしろ現実にしろ、はっきりと姿を見るのはこれが初めてだった。
 遠目にちらりと見た時でも大きいと思えたが、近くで見ればよりその大きさがよりよく判った。体格はがっしりとして狩猟犬種に近い筋肉質で、頭の高さは明日香の腰のあたりまである。体毛はなめらかな黒で、光の加減のせいか、まるで影から湧き出てきたように見えた。
 近頃は全く気にしていなかったのに、どうして突然夢に黒犬が出てくるのか――疑問に思う暇はほとんどなかった。
「きゃあっ!」
 前触れもなく黒犬が明日香に向かって飛び掛かり、同時に右の膝上あたりに灼けつくような痛みが走った。あまりにも素早い動きだったので目で追う事すらできなかったが、黒犬に咬みつかれたのだということは理解できた。
(痛い痛い痛い!)
 とにかく犬を振りほどこうとやみくもに腕を振り回す。だが確かに拳が犬の胴あたりを捕らえたはずだったのに、手は立体映像に近づけた時のようにすり抜け、何にも触れることがなかった。
(何これ、何なのこれ――!)
 パニックに陥ったところで、明日香は自分がタオルケットを握りしめ、もう一方の腕を天井に向かって伸ばしていることに気づいた。カーテンの隙間からは白々とした光が差し込んでおり、夜はすっかり明けていた。枕元の時計を確かめると、起床時間にはまだ一時間以上の余裕があったが、噛みつかれた時の生々しい感触と痛みを思い出すと二度寝をする気にはなれなかった。
(仕方ない、起きよう)
 のろのろと起き上がり、着替えを始めたところで、明日香は自分の脚に痣ができていることに気づいた。
「なに……? これ」
 右膝に浮かんだ赤い痣は、一つ一つは小さかったが幾つも並んで歪な半円形を描いている。他の場所にもできていないかと思って確かめてみると、膝の裏にも似た形の痣があった。寝ている間にぶつけたにしてはおかしな形である。何なのか、と首を捻った明日香は唐突に気づいた。
 痣の形が動物の――もっと言えば、大きめの肉食動物の咬み痕に似ていることに。そして、痣ができているのは夢の中で犬に咬まれた場所だということに。その瞬間に浮かんだ感情を、明日香は思わず呟いた。
「気持ち悪い……」
 ともあれ痣それ自体はさほど大きなものではなく、痛みもなかったので特に処置をする必要はなさそうだったが、視界に入ると得体の知れない気持ち悪さと一抹の恐怖が湧いてくるため、湿布を貼って隠すことにした。
 普段と違うことはもう一つあり、この日は先の駅でに乗り込んでいる焔羅の傍らに朱雁がいた。
「おはよう。昨日は大丈夫だった?」
「いろいろとごめんね、乾さん」
 開口一番に焔羅は心配の、朱雁は謝罪の言葉を口にした。驚きながらも二人に挨拶を返して、明日香はまず焔羅に尋ねた。
「一緒に帰ったんだから、何もなかったのは高木君だって知ってるでしょ」
 若干困ったような顔をする焔羅が何か言い返す前に、明日香は続けて朱雁の方に顔を向けた。
「昨日のことなら、お姉さんが謝る必要なんか全然ないですよ。気にするようなことじゃないですし」
「……まあ、そう言うと思ったんだけど。あれは私のミスでもあるから、謝っておかないと気が済まなくて。気にしないって言ってくれてありがとうね。明日香ちゃんはいい子だなあ。あらためてよろしくね!」
 朱雁は明るく笑いながら握手を求めて手を差し出してきた。その手を握り返すと、笑顔の効果なのか、ふわりと暖かな空気に包まれたような感じがした。弟である焔羅と外見は全くと言っていいほど似ていないが、性格や趣味は似た所があるのだろう。昨日は初対面だったことと、ほとんど個人的な会話をしなかったこともあって、朱雁に苦手意識のようなものを感じていたが、言葉を交わしてみればとても話しやすかった。
「あれっ。乾さん、その足どうしたの? どこかにぶつけた?」
「え?」
 昇降口で朱雁と別れ、教室に向かう階段の途中で、焔羅が驚いたような声を上げた。ちょうどスカートの裾で隠れていた膝が、階段を上る動きで見えたのだ。忘れかけていた朝方の気味の悪さを思い出してしまい、明日香は眉をひそめた。
「あ……えっと、寝てる間にぶつけたみたいで、起きたらあざができてたんだ。痛くはないけど」
「――痛くないなら良かった」
 心の底からほっとしたように焔羅は言った。その日は部活があるので友人と帰る予定の日だったので、放課後になると明日香は部室棟へ行くため、焔羅は帰宅するため、昇降口までは一緒に行ったがそこで別れた。昨日流れてしまった食料の買い出しを手伝うのだということだった。
「じゃあね、高木君」
「また明日」
 屋外競技の部活が多いため、運動部の部室棟はグラウンド横に建てられている。明日香は靴を履き替えて、校門とは逆方向のグラウンド側に出た。部室のドアを開けると、先に来てすでに着替えていた二年生の一人が「あれ?」とでも言いたげな顔をした。
「乾さん、今日はこっち来てていいの?」
「はい?」
「いや、鈴木が今日は書架整理があるから来れないって言ってたんだけど、乾さんも図書委員でしょ。女子は免除って話は聞いてないよ」
「……あっ!」
 きょとんと先輩の言葉を聞いていた明日香だったが、理解が及んだ瞬間声を上げた。月に一度の書架整理が今日だということを、今の今まですっかり忘れていたのだ。思い返せば教室を出ていく時、同じ図書委員の男子が何やら物言いたげな視線を向けていたような気がする。明日香は頭を抱えたい気分になった。
「す、すいません先輩。今から図書室行ってきます」
 がばっと頭を下げると、頭上から先輩たちの苦笑する声が降ってきた。
「だと思ったよー」
「部長と先生にはちゃんと伝えとくから、早く行っといで」
「はい。ありがとうございます」
 結局、鞄を置く暇もなく明日香は校舎へと駆け戻る羽目になった。図書室は三階にあるので、さすがに走っていくと着いた頃には少し息が上がっていた。幸いにしてホームルームや掃除が長引いたために遅れてくる委員もちらほらいたので、明日香のちょっとした遅れは咎められずに済んだ。本棚の整理や並べ直し、延滞者への通知作成といった事務的な作業はそこそこ面倒なのだが、この日を楽しみにしている者も多い。
 というのも、保管期限が過ぎて廃棄することになっている週刊誌や月刊誌は、希望者が持ち帰ってもいいことになっているのだ。明日香も、この特典目当てで図書委員になった一人である。欲しい雑誌がすんなり手に入ればよし、誰かと希望が被ったらじゃんけんでどちらがもらうか決めたり、差し支えなければ欲しい記事だけ切り取ってもらったり、逆にあげたりと、整理後のお楽しみは賑やかに過ぎていった。
 読みたい雑誌を手に入れたこともあるし、早く帰宅しようと足早に駐輪場へと向かった明日香は、自転車を目にして思わず声を上げた。
「ちょっと、何これ……」
 駅前の駐輪場は台数が多い上に、管理が行き届いているとはいえないので防犯のため前輪の鍵に加えて後輪にも鍵を付けているのだが、後輪に見覚えのないチェーンロックがもう一つ取り付けられていたのだ。おまけに、前輪の鍵が壊されていた。これでは勝手に付けられたチェーンロックを切るなりして外しても乗ることができない。
「信じらんない! 誰よ、こんないたずらしたの!」
 明日香は憤慨しつつ駅前交番に向かい、自転車が壊されて乗れなくなっていることを告げた。夏の始まりを感じさせて日が高くなりつつある時期とはいえ、陽が落ちると一気に暗くなってしまう。近くの警察署から鑑識係が来て、自転車に残された指紋を採集したり傷つけられた場所の写真を撮ったりといった全ての作業が終わり、被害届を出して交番を出た頃には十九時近くなってしまっていた。夕焼けの光はまだ少し西の空に残っていたが、辺りはだいぶ暗くなっている。
 一人歩きには少し不安があるが、この時間ではまだ帰宅していないので父親に迎えに来てもらうことはできないし、母親もパートから戻っているかいないかといったところで、仮に帰宅していても夕飯の支度があるので家を離れられない。何とも中途半端な時間帯なのだった。
(家がもっと駅の近くか、バスがあればよかったのになあ……。ここの道、街灯が暗いし少ないから、恐いんだよね)
 自転車が無事であればライトで周りを照らせるし、何より早さがあるので気にせずにいられる人通りの少なさを、徒歩では否応なしに感じる。無意識にいつもより足早になりながら、明日香は家路を急いだ。
 違和感を覚えたのは駅前のちょっとしたビル群を過ぎ、住宅街に差し掛かったあたりだった。自分の足音に重なるようにして、別の足音が聞こえる。普段から人通りが少ない道といっても誰も通らないわけではないから、同じ方向に歩いている人がいてもおかしくはない。だが、なぜか今日は気になって仕方がなかった。背後からじっと見られているような気がするのだ。ともすれば駆け出したくなるのを抑え、明日香は自分に言い聞かせた。
(……気のせいだよね。前を見てたら私が視界に入るのは当然だし)
 その時、遠くから犬の吠え声が聞こえてきて、思わず足が止まってしまった。よくよく考えてみるまでもなく、今朝の夢とは無関係だということは分かっていたのだが、ぎゅっと心臓が縮み上がるような感覚すら覚えた。
(やだな。あれは夢だったじゃない)
 一呼吸おいて、さすがに過剰反応だと苦笑してまた歩を進めた明日香は、ずっと後ろを歩いていた何者かが追い抜きもせず、近づいてもいないことに気づいた。足音がはっきり聞こえ、気配を感じるほど近くを歩いているはずなのに、ついてくる足音の大きさは全く変わっていないのだ。
(ど、どういうこと……?)
 今度こそ、明日香は恐怖から足を止めた。すると、背後の足音もぴたりと止まる。
(後つけられてる! どうしよう、どうしよう……)
 思わず立ち止まってしまったものの、恐怖と焦りのせいでうまく思考が回らず、ここからどうするべきかの判断もつかない。前からでも後ろからでもいいから、他の通行人が来ないかと願ったが、下校時間どころか帰宅時間帯もだいぶ過ぎた住宅街では外に出てくる人もほとんどいない。背後の気配は相変わらず動かなかい。相手も明日香の出方をうかがっているようだった。
 自分の足は人より速いと思い出したのは、ゆうに三十秒は経ってからだった。鞄を抱えているし靴も運動用のものではないが、それでも相手が同じく運動選手でもないかぎり、距離を取るには充分な速度を出せる自信があった。走って逃げればいいのだと思いつくまで、相手もじっと待っていたのは不可解だったし不気味だったが、ぐずぐずしているいわれはない。明日香は立ち止まった姿勢から一気に地を蹴り、全力で駆けだした。
「あっ!」
 若い男の声が後ろから小さく聞こえた。驚いたような、切羽詰まったような声音だった。待ってと続けられたような気もしたが、待ってやる義理など全くないので、明日香は無視して加速した。長距離は得意ではないが、自宅マンションのエントランスまでくらいならトップスピードを保ったまま到着できる。走り慣れていないのか妙にばたついた足音が追いかけてきたが、スタートダッシュで開いた距離を縮めるどころか引き離されていくようで、その足音はどんどん遠ざかっていく。完全に振り切ることはそう難しくなさそうだった。
 間もなく、マンション前の交差点が見えてきた。進行方向の信号は青。
(変わらないで!)
 祈るような思いで見つめる明日香の前で、歩行者用信号が点滅を始めた。無視して突っ切るには、この交差点は交通量が多かった。それに歩行者が少ないためか、制限速度を超えて通過していく車が多いのだ。交差点まであと十メートルといったところで、とうとう信号が赤に変わってしまった。と同時に車が一台通り過ぎ、明日香は否応なしに足を止めざるを得なかった。
 焦れったさと、いつ背後から正体不明の誰かが現れるだろうかという恐怖に駆られながら、信号が変わるのを待つたった三十秒ほどはまるで永遠のように感じられた。幸いなことに信号待ちの間に追いつかれることはなかった。かなり引き離したか、それとも曲がり角のどこかで撒くことができたのだろう。
 少しほっとして、明日香は無意識に詰めていた息を吐いて信号を小走りに渡った。もう自宅マンションは目の前だった。入ってすぐの管理人室は無人であることの方が多いエントランスではあったが、ここまで来ればもう安心だと思えた。少し奥まったところにあるエレベーターのボタンを押して待っていると、エントランスの扉が開いて誰かが入ってきた。
 マンションの全住民を把握しているわけではないが、明日香には見覚えのない男だった。二十代半ばくらいの、これといって特徴のない男である。強いて言うならば人見知りででもあるのか俯きがちなのと、目元を隠すように伸ばした髪、やや太り肉の体型が特徴と言えなくもないが、目立つほどではない。
 手ぶらであるし、服装からして運送業者ではない。顔を見たことが無い住人か、誰かを尋ねてきた客だろうかと明日香は考えた。その男はエレベーターホールを指してまっすぐ足早に近づいてきた。
「……こんばんは」
 身に付いた習慣として、明日香は軽く会釈した。すると次の瞬間、男がばっと顔を上げ、唇を裂け目のように広げて歪んだ笑みを浮かべた。その目に妙にぎらついた光を感じて、明日香はぞくりとした。はっきりと理由を示すことはできないが、この男は危険だと本能が告げた。しかしエレベーターホールはエントランス部の一番奥にあるため、その場を離れるには男の横をすり抜けるか、非常階段につながっている鉄製の扉を開ける必要がある。どちらにしろすぐには動けない。
「さっきは驚かせちゃってごめんね!」
 男は妙に機嫌の良さそうな声で話しかけてきた。逆に明日香は恐怖で体がこわばるのを感じた。急かされたように早口に言う男の笑顔には形容しがたい気持ちの悪さがあった。口元はにこにこと不自然なくらいの笑みを浮かべているのに、目元は全く笑っているようには見えないせいもあるが、それ以上に明日香を怯えさせたのはその発言だった。
「急に走り出すからびっくりしたよ。そんなに早く二人きりになりたかったなんて知らなかった。気づけなくてごめんね。意外だったけど嬉しいなあ」
 誰かを驚かせた覚えはなかったが、帰り道で急に走り出したのは確かだ。そしてそれを知っているのは、明日香本人とその場にいた人間だけ。つまり駅から後をつけてきた犯人以外にあり得ない。完全にまいたと思っていたが、ほとんどすぐにこうして姿を見せたことを考えると、既に自宅まで突き止められていたに違いない。
 どうやって、どうして――恐怖と混乱の渦に突き落とされた明日香の沈黙をどうとったのかは分からないが、男はぺらぺらと続けた。
「でもさあ、昨日のあれは駄目だよ。いくら俺に嫉妬させたいからって、他の男とベタベタするのはさ」
「な……何、言ってるの?」
 ようやく明日香は震える唇を開いた。
「……ていうか、あなた、誰?」
 それがいけなかった。
「……は?」
 立て板に水を流すように喋り続けていた男がぴたりと動きを止め、数拍おいてその一音だけを発した。先ほどまでの上ずった声とは真逆の、腹の底から響くような低音だった。男の顔から一瞬で笑みが消え、首筋からじわじわと血の色が昇っていく。口元が強張るように歪み、引きつった目元がぴくぴくと震え始めた。何に対してかは今もって分からなかったが、明日香の言葉の何かが彼を怒らせたのだということは理解できた。本能的に危険を感じ取った明日香は男から距離を取ろうと片脚を後ろに引いた。
 だが、男の腕が明日香の喉元へと伸びる方がわずかに早かった。
「ふ、ふ、ふざけるな、このくそアマぁぁっ!!」
「きゃあっ!」
 罵りだということは分かるが、最初に怒鳴った以降は何を言っているのかは聞き取れない喚き声を上げながら男が掴みかかってきた。とっさに頭を庇った左腕を掴まれた瞬間、ぞわりとした悪寒にも似た気持ち悪さが触れられた所から全身へと広がった。男は口角から泡を飛ばしながら、なおも何事か喚いている。
「やっ、やだ! 放して!」
 エレベータの方へと引きずられそうになった明日香は体重をかけて抵抗した。そこでようやく掴まれていた手首を解放されたが、抵抗していた反動も加わって反対側の壁に強く背を打ち付けた。肩から鞄が滑り落ち、床に当たって重い音を立てる。追いかけてきた男が明日香の体を壁に押し付け、首を両手で掴んだ。腕を突っ張って何とか引きはがそうとしても、さすがに逆上した男の力には敵わない。喉元にかかる指の力が増した。
「ふざけるな、ば、ば、馬鹿にしやがって……!」
(殺されるっ!)
 恐怖に見開いた明日香の目に、涙が浮かんで視界がぼやける。息がかかるほどの近さに、興奮で赤黒く染まり憎悪で歪んだ男の顔があった。叩きつけられる負の感情に耐えきれず、明日香はぎゅっと瞼を閉じた。
(誰よ? 何なの、何で? 勝手に付きまとって怒りだして、意味わかんない……!)
 涙が目尻を流れたその時、彼女の心の中にあったのは救いの希求よりも、理不尽な暴力への怒りと拒絶であった。
「ぎゃああっ!」
 唐突に男が悲鳴を上げ、同時に体にかかっていた全ての重圧から解放された。ようやくまともに呼吸ができるようになった明日香は、咳き込みながら壁にもたれたままずるずるとへたり込んだ。その間も喚くような短い男の声と、ばたばたと手足を動かすような音が断続的に聞こえてきていたが、呼吸を整えるのに精いっぱいで何が起きているのか確かめるどころではなかった。しばらくして咳が収まったので、荒い息をつきながら涙でかすむ目を開けると、床に倒れた男を大きな黒い影が覆っていた。
(――犬?)
 それは紛れもなく犬だった。青い燐光を帯びているように見える黒くなめらかな体毛、がっしりとした体格。それは以前事故現場で垣間見た、そして明日香の夢に現れた犬にとてもよく似ていた。
(なんで、こんな所に……)
 しかし明日香が呆然と犬を見つめていたのは、実際には数秒もなかった。助かったという安堵よりも、いきなり降って湧いたようにあの犬が出てきたことへの混乱の方が大きいようなありさまだったが、今なお犬の攻撃を受け続けている男の抵抗が次第に弱々しくなっていることには気づいていた。今のところ攻撃対象は自分ではないとはいえ人を襲う犬は恐ろしかったが、このまま放っておいたら男はよくて大怪我、下手をしたら噛み殺されてしまう。そうしたら、結果的に自分を助けてくれたこの犬が、人を襲ったからと処分されてしまうかもしれない。それは嫌だ、と明日香は判断した。
 とにかく犬に攻撃をやめさせなければならない。明日香はまだ違和感が残る喉を擦り、空咳をひとつふたつ零した。ようやく出せた声は思っていたよりか掏れていたが、犬の唸り声に被さるだけの声量はあった。
「だめ! 止まって! やめなさい!」
 もとより、興奮状態の動物が飼い主でもない人間の声くらいですぐ止まるとも思えなかったが、注意をそらすことはできるのではないかと明日香は思っていた。しかし犬は一瞬ぴくりとして耳を動かしたように見えたものの、明日香に視線を向けることもなく、噛みついた男の腕を引きちぎろうとするように頭を左右に激しく振る動きを止めなかった。
「だめ、だめだったら! それ以上はまずいってば!」
 興奮状態の犬に近づくのも怖いし、さっきまで自分を殺そうとしていた男に近づくのも怖くて、明日香はその場に座り込んだまま声を張り上げた。しかし何を叫んでも犬は泊らないし、男はもはや気を失っているらしくぐったりしている。
「もう……っ! 離れろ!」
 焦れた明日香は落とした時に鞄から飛び出て散らばったペンケースを掴み、犬に向かって投げつけた。至近距離だったしまとも大きいおかげで、ペンケースは狙い通り犬の左肩のあたりにパシッと軽い音を立てて命中した。その瞬間、明日香の左肩に後ろから何かがぶつかったような衝撃が走った。それは小さなものだったが、『何かが当たった』感触ははっきりと分かった。反射的に振り向いたが、当然ながら背後には壁しかない。
(今の……何?)
 不思議に思いながらゆっくりと視線を前に戻す。いつのまにか男への攻撃をやめてこちらを見据えていた犬と視線がぶつかり、ぎくりとした。仰向けに倒れた男の胸を踏みつけて立つ犬は、唸り声も上げず、頭を昂然と揚げて威嚇の姿勢を解いていた。だがその全身に怒りが満ちている――そしてそれは自分に向けられていることが明日香には本能的に悟られた。
 犬の目は黒々とした被毛に囲まれて、まるで燐光のように青白く輝いていた。丸く磨いた玉髄のような、半透明のガラス玉めいた無機質な目である。これは現実に存在する犬ではない。物を投げつければ当たり、爪や牙でこちらに傷を負わせることができるが、この世のものではないのだ。触って確かめたわけでもないのに、明日香はそう感じた。
 そうでなければ――ただの犬が怒りだけでなく絶望や悲しみといった複雑な感情を、視線一つで伝えられるはずがない。
 犬は明日香をじっと見つめたまま、男の上から降りた。床のタイルに爪がカチカチと当たる音は存外に可愛らしかったが、そのことに和む余裕などなかった。犬を相手に喧嘩をしたことはないが、その力はよく知っている。これに本気で襲いかかられたら、逃げ切ることはまず不可能だろうし、彼女の首など簡単に噛み裂いてしまえるだろう。そうなれば、大怪我では済まないかもしれない。
 広々としたエレベーターホールには身を隠したり逃げ込んだりできる場所はない。男に襲われたショックもまだ抜けきっていない明日香にはたた、目の前の怪異としか言いようのない存在から目をそらさずにいることしかできなかった。
「やだ……やだ、来ないで」
 やっとのことで絞り出した声は囁くような小ささだったが、犬の聴覚をもってすれば問題なく聞き取れる音量だったらしい。犬はぴくぴくと耳を動かし、軽く首を傾げた。それはまるで「どうして」と尋ねているかのような仕草だった。
 どうして止めた、どうして嫌がる――そう尋ねる声が聞こえてきそうですらあった。犬がもう一歩踏み出した、その瞬間に明日香の中で限界を超えた恐怖と緊張が弾けた。
「く、来るな! あっち行けっ!」
 感情の爆発力でもって、金縛りにあったようになっていた体がようやく動かせた。左右の床を探り、ノート、教科書、化粧ポーチと、手に触れたものをとにかく投げつける。彼女の混乱した精神状態をよく表して、そのほとんどは狙いを外して犬の横やまるで見当違いの場所に落ちるばかりだった。しかし最後に投げつけた教科書の角が、犬の耳の横に当たった。
「痛っ!」
 痛みに怯んだのは犬ではなく明日香の方だった。ペンケースを当てた時と同じく、まるで犬と感覚を共有しているかのように、同じ場所に何かが当たった感触と痛みが走ったのだ。硬い、少し重さのあるもの――まるで、本の角がぶつかったような。
(まただ……もしかしてこの犬、痛みを私に移してる?)
 およそ現実離れした考えだったが、同じことが二度立て続けに起きてはそうとしか思えなかった。
(じゃあ、こいつが私を襲ったらどうなるの?)
 脳裏にふと浮かんだ考えを読んだのではないだろうが、犬は本をぶつけられるやさっと上体を下げて後足を曲げ、威嚇たっぷりに牙を剥きだした。逃げなければと思う暇もなく、強く踏み込んだ爪がタイルを擦る硬い音と共に黒い影が宙に躍り出た。
「きゃああっ!」
 とっさに手足を縮め、頭を庇う。ぎゅっと目をつぶったのとほぼ同時に、壁に正面からぶつかったような衝撃と痛みが肩から胸にかけてを襲い、金属板に重量のあるものが当たった時の派手な衝突音が響き渡った。痛いことは痛かったが、動物に咬まれる痛みとは全く違っている。
 明日香はそろそろと目を開けた。するとなぜか、自分の周りだけエレベーターホールを照らしている明かりが遮られて暗くなっていた。不思議に思って顔を上げると、目の前にはベージュ色の壁がそびえ立っていた。非常階段につながっている鉄製のドアが開かれて、ちょうど隣にいた明日香をその陰に隠していたのだ。激しい衝突音は、このドアに犬がぶつかった時のものに違いなかった。
「乾さん、大丈夫?」
 そうして、扉の後ろからひょいと覗き込んできたのは意外に過ぎる人物だった。
「た……高、高木君」
 驚くのも忘れて、明日香は呆然と呟いた。焔羅はちょっと眉尻を下げて、身を屈めて明日香と視線を合わせた。
「怪我はない?」
「たぶん……無いと思う……」
「そっか、良かった。警察を呼ぶけど、何があったか説明できる?」
「うん」
 ほっとしたような笑みを微かに浮かべながら、焔羅は携帯電話を取り出した。
「自転車がパンクさせられてたから歩いて帰ってきたんだけど、途中から変な男の人に追いかけられて……ここで追いつかれて、その人がわけわかんないこと言いながら腕を掴んできたの」
「じゃあストーカーは、この人で決まりだな」
 肩越しに振り向いて、焔羅は低く呟いた。それから立ち上がろうとする明日香に、彼は当然のような自然さで手を差し伸べた。少し恥ずかしかったが素直に手を借りて立ち上がり、扉の陰から出ようとしたのを、焔羅はなぜか柔らかい口調で制止した。
「ああ、まだそこから動かないで」
 どうしてと口にしかけて、明日香ははっとした。
「まさかまだ犬がいるの? どうしよう、早く警察……違う、保健所?、に、連絡しなきゃ。とにかく危ないよ高木君!」
「安心して。犬なら『今は』いないよ。乾さんがそこにいる間は出てこない」
 その口調が不思議なほど自信ありげに聞こえたことと、何やら含みのある言い方であること、そして今さっき駆けつけたばかりであるはずなのに全ての事情を――当事者である明日香すら知らないような――知っているような落ち着きように、明日香はようやく違和感を覚えた。そもそも、現れたタイミングの良さもさることながら、焔羅はどうやってここに現れることができたのだろうか。明日香と親しいクラスメイトに聞けば住所を知ることはできるかもしれないが、それでも今日ストーカーに襲われるなんてことは分かるはずがないのに――。
 そして、焔羅の言葉どおり、影も残さず消え失せた犬はどこに行ったのだろう?
「……どうして、そんなこと分かるの」
 幾つも浮かんだ疑問のうち、明日香が口に出せたのはそれだけだった。焔羅は通報よりも明日香への説明を優先することにしたらしく、手にしていた携帯電話をポケットに戻した。
「あれは乾さんの影だから」
「え?」
 焔羅の答えは簡潔ではあったが理解の範疇を超えていた。何の冗談かと問いかけるように明日香は黙って焔羅の目を見つめたが、彼はいたって真剣な顔をしていた。
「だから、乾さんの影が消えたり、今みたいに別の影の中に入ってしまったら犬は出てこられない」
「うそでしょ、そんな……」
「嘘じゃない。本当かどうかは――このドアを閉めて、影から出てきてみれば分かる」
 明日香の表情を見て、焔羅は付け加えた。
「大丈夫、何が現れても僕が守る。守れるから」
「……わかった、高木君がそう言うなら」
 明日香の言葉を受けて、焔羅はずっとドアを支えていた手を放し、勢いがつかないようにゆっくりと閉めた。重い音を立ててドアが閉まると同時に、遮られていた照明の光が明日香に降り注ぎ、足元の床と壁に影を落とす。
 エレベーターホールには男が一人、先ほどと変わりなく倒れているだけだった。だが低い獣の唸り声が聞こえたかと思った次の瞬間、まさしく瞬くほんのわずかの時間で、明日香と倒れた男のちょうど中間地点に黒い犬が再び現れていた。
「どういうこと……」
 まるで幽霊じゃない、と口の中で呟いた明日香は、自分の言葉と襲われた恐怖を思い出して身を強張らせた。そんな彼女を体で庇える位置に立ち、視線と注意を犬に向けながら焔羅が言った。
「そう、あれは本物の生きた犬じゃない。犬の形をしているけれど、別のものだ。いいかい、乾さん。君にとって辛いことを言うけど――あの犬は乾さん自身の心を反映してる。そして襲われた後じゃ信じられないだろうけど、君を守るために存在している。だから乾さんが無意識に望んだことを、無意識だったから歪な形になってしまったけど叶えたんだ。だから、できればあの犬を否定しないで」
 でも人を殺そうとし、自分を襲ってきたのだと言いかけて、明日香は口を開いたまま止まった。確かに今さっき、犬は彼女に危害を加えようとした男を襲った。明日香が相手に抱いた拒絶と嫌悪を反映して。その中に、明確ではないにしろ殺意がなかったとは言い切れないと気づいたのだ。もし犬が明日香の深層意識を反映するものであるならば、犬に対する拒絶もまた明日香自身に跳ね返ってくるのではないだろうか。犬はじっと動きを止めたまま明日香を睨むような強い目で見据えている。明日香はその視線を正面から受け止めながら、焔羅の言葉を自分の中で繰り返し、考えた。
(そうだ――)
 確かに彼の言ったとおりだった。自分の中の醜い感情――妬みや怒りがこの犬を動かしていた。それはどんなに辛くても認めなくてはならない事実だ。言葉を詰まらせながら、明日香は人に呼び掛けるように言った。
「……ご、ごめんね。おまえが……私を守ってくれてた……全部、私が無意識にでも望んだことだっただなんて、思わなかったの。ひどいことを言って、ごめん。……姿が見えなくて、おまえが何なのか判らなくて、恐かったの。あっち行けなんて言ってごめんね。おまえはどこにも行けないのに。おまえは何も悪くない。許してくれる?」
 すると唸り声を上げ、明日香を睨んでいた犬の表情が、だんだん穏やかになっていった。そして尻尾をゆらりと左右に揺らして明日香の方に歩み寄ってきた。今度は明日香もきちんと待ち、逃げなかった。何だか、傍に焔羅がいてくれるだけで心強い気持ちになれる。
「おいで……」
 明日香は犬の頭に手を置いて、遠慮がちに撫でた。少し冷たいが、まるで本物の犬のようにつやつやした毛並みだった。この犬は明日香の心の暗部を映していただけ。人を傷つけたのも、結局は明日香が望んでいたから。
 犬はそれ自身の意思とは関わりなく、主の心を満足させるために存在する。主を守るために行動する。大会に出たい、テストを回避したい――そんな明日香の無意識下の願いを感じ取り、それを忠実に反映していただけなのだ。明日香は自分が恥ずかしかった。
 彼女の心に呼応するように犬が一声吠えたかと思うと、足元に落ちた明日香の影に吸い込まれるように消えた。
「え……っ?」
 明日香は目をこすった。確かに一瞬前までここにいて、触れていたはずの黒犬の姿はどこにもない。文字通り、影も形もない。明日香の影に溶け込むように消えたのだ。
「消えた」
「うん。乾さんが犬の存在を――自分の心を受け入れたから、二度と襲ってくることはない」
「じゃあ、もう出てこないの?」
「少なくとも、無意識に出てくることはないはずだよ」
「高木君はあの犬が何なのか知ってるの? あの子は何?」
 マスターと優后さんの受け売りだけど、と前置きして、焔羅は説明してくれた。
「あの犬は犬神といって、乾さんの一族――家に憑いている、家の守り神のようなものなんだ。主の望みを叶えたり、身を守ったりするために存在しているから、制御できなければ無意識の願いで誰かを傷つけてしまうことがある」
「さっきみたいに……ってことね」
 神妙な顔つきで明日香が呟くと、焔羅は黙って頷いた。ところで、ここ数か月の後悔と反省を噛みしめていて、ふと気づいたことがあった。
「でも、どうして昨夜は夢の中で襲われたんだろう。あの時はまだ全然、こんなこと知らなかったのに」
 あの日、焔羅と一緒に帰れなくなった原因の朱雁を恨む気持ちがあったことを覚えている。だとすれば犬に襲われるのは朱雁でなければならないはずだ。明日香の述懐を聞いた焔羅は、気まずげな表情を浮かべた。
「ああ、それは……姉さんが犬を払いのけたせいだ。姉さんに向かった攻撃が君に跳ね返っちゃったんだよ。本当にごめん」
 言われて、明日香は帰り道で突然朱雁が立ち止まったこと、それから姉弟の間で不可解なやり取りがあったことを思い出した。
「もしかして、高木君のお姉さんって見えたり祓えたりする人なの?」
「いや、やろうと思えばできるんだろうけど、あれはちょっと違って……朝、姉さんと握手しただろ? あの時に、姉さんは乾さんに加護を与えたんだ。もし乾さんに誰かが悪意を持って触れたら、姉さんにはそれが分かる。それで姉さんから乾さんが危ないって知らされたから、僕も駆けつけることができたんだ」
「いやいやいや、何言ってるの高木君」
 軽く混乱しつつ、明日香は遮るように顔の前で手を振った。
「なにしれっと言っちゃってんの? 普通は判らないよ? そんなの」
「だって姉さんは普通の人間じゃないというか、そもそも人間じゃないというか……ハーフなのに母さんを軽く超えちゃってるからなぁ……」
「へっ?」
 言葉を選んでいるようでいて、何一つとして選べていない感じの答えだった。思わず、明日香の口からは息が漏れるような声が出た。
「じゃあ、何なの」
「……説明すると長くなるから、とりあえず警察を呼んでからでいい? あの人、目を覚ましちゃいそうだし」
 焔羅の言うことは尤もだったので、ものすごく気になりはしたものの明日香はその提案に同意した。通報は焔羅に任せ、明日香は母親に連絡を入れた。マナーモードにしていたので気づかなかったが、明日香の母はすでに帰宅していて、いくらなんでも娘の帰りが遅すぎると心配していた。不在着信とメールの量に、明日香は驚いたものである。母は明日香が電話してすぐ――体感としては一分もしないうちに大慌てで一階に降りてきた。
 警察官が到着すると、追いかけられたあげく襲われた件だけでなく駐輪場でのことから話し始めなければならなかったし、焔羅も通報者として別の警察官に話を聞かれていたので、説明を求めるどころではなくなってしまった。
 犯人に心当たりは、と尋ねられて明日香は全くピンとこなかったが、駅前のコンビニの店員だと焔羅は気づいていた。昨日の帰りに立ち寄った時、自分と一緒にいる明日香を見る男の視線が気になり、折からストーカーめいたものに悩まされていると明日香から聞いていたので、万が一のことを考えてマンションまで来ていたのだと焔羅は説明していた。タイミングといい、出てきた場所の不自然さといい、どうもそれだけではないような気がしたが、おそらく焔羅の言っていた「話すと長くなる」事情によるものなのだろう。
 結局、落ち着いて焔羅と二人で話ができたのは一週間後のことだった。
 それまでに、今回のストーカー事件について色々なことが判明していた。駅前のコンビニ店員だというのはその日のうちに焔羅の証言によって明らかにされていたが、実は明日香が住むマンションの向かいに住む引きこもりの青年だったのだ。
 彼は窓からたまたま見かけた明日香に一目惚れして通学路や行動パターンを調べ始め、接点を増やすために一念発起してあのコンビニでバイトを始めたのだという。両親は、急に外出するようになり、身なりに気を付けるようになったばかりかバイトまで始めた息子の前向きな変化を喜んでいたというのだから、実にやりきれない話である。
 この男がストーカーを始めたのと、犬神の力が目覚めて気配を感じるようになったのがほぼ同時期だったため、実際にストーキングが行われていたのは駅から自宅までだけだったが、明日香は常に後をつけられているような気がしていたというわけである。
「優后さんは、乾さんが元服の年齢を迎えたのが理由じゃないかって言ってたけど、もしかしたら、犬神が出てきたのはストーカーの悪意を察知したからかもしれないね」
 明日香から事件の背景を聞いた焔羅は、少し考えてからそう言った。
「そう……かもね」
 夕日を浴びて長々と背後に伸びる影を振り返って一瞥し、明日香は頷いた。焔羅の言ったとおり、あれから犬が出てくることは一度もなかった。明日香の後を追ってくるものは何もない。自分の影から犬が出てきてストーカーに逆襲し、さらには自分も襲われかけたなんて、はっきりとこの目で見て触れていなければ、夢を見たのだろうと思うほど信じがたい出来事だった。
 信じがたいと言えば、隣を歩いている同級生に流れる血の半分は人間ではないということもそうだった。
 そもそも、最初にストーカーのことを相談した占い師の鏡子をはじめ、この事件を通じて出会った人々全員が人間ではなく、『妖怪』と呼ばれる存在なのだと焔羅は語った。警察にも事情を知る者や仲間がいて、今回のような説明のつけようがない事件のつじつま合わせに協力してくれるのだという。言われてみれば、原因らしい原因もないのに生じたどう考えても不自然な犯人の怪我や、ほとんど抵抗されていないのに突然弾かれたように倒れて手足を振り回す犯人、何もない所に鞄の中身を投げる明日香という防犯カメラのおかしな映像について、何かを尋ねられることはなかった。
(聞かれても説明しようがないから、助かったけど……)
 たった一週間で、自分では平凡な女子高生だと思っていた明日香の世界は思いがけない方向に広がった。受け入れると決めた今でも、決して喜ばしいばかりとは言えない変化だったが、拒絶するつもりはもうなかった。
 明日香がその存在を認め、受け入れたことによって犬神は彼女の心を糧としてさらに強くなるだろう。無意識に誰かを傷つけることはなくなっても、意思一つで誰かの命を奪うことすら、できるようになるのだろう。けれどそのことに恐怖はなかった。己の持つ力を自覚した以上、明日香は決して人を傷つけることを望みはしないし、焔羅たちは傷つけさせないから。
 この影が牙を剥く日は、もう二度と来ないはずだ。
 やがてマンション手前の横断歩道にさしかかり、焔羅は足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん、またね」
 信号が青に変わって足を踏み出す前に、ふと思いついて明日香は焔羅に声をかけた。
「そうだ。今度、とまりぎに遊びに行ってもいい? 高木君のことも、香住さんたちのことも、ちゃんと聞きたいから」
 駅へ戻ろうとしていた背を返して、焔羅は笑顔で頷いた。
「もちろん。いつでも歓迎するよ」


終(2019.9.20)

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