前編  後編





牙を剥く影 中編



「乾さん!」
 雑居ビルの建つ路地から通りに出ようというところで、明日香を呼ぶ声が彼女の足を止めた。振り向くと、焔羅はすぐに追いつき、隣に立った。一度一階に降りたエレベーターが再び五階に来るのを待ったのか、階段を使ったのか、どちらかは定かではないが、すぐに追いかけたのだとしても驚異的な早さである。
 だというのに、駆け寄ってきた焔羅は初めから明日香の少し後ろにいただけといった感じで息も切らしていない。運動部でもなければ特に体育で目立つことがあるわけでもない焔羅の意外な身体能力に、明日香は密かに驚いた。
「どうしたの高木君、私、忘れ物してた?」
「ううん、違う。一緒に帰ろうと思って。送っていくよ」
 焔羅は忘れ物、という部分を否定するために首を振ってから、にこっと笑った。明日香はきょとんとした。
「え?」
「ごめんね。余計なお世話だと思うし、この辺りはそんなに治安悪くないし、まだ明るいけど、場所が場所だから何もないってわけじゃないんだよ。一人で帰すのは心配だってマスターと優后さんがすごく気にして。でも二人とも店を離れられないから、僕が代わりに来たんだ。あ、でも、迷惑なら断ってくれて構わないよ。とりあえず駅までは送るけど」
 先ほどの会話の中で優后が送迎のことを口にしていたのもあって、頼豪たちが相談の内容を焔羅に明かしたのでは――と明日香は一瞬疑ったが、店を出てから焔羅が追い付いてくるまで三分も経っていない。事情を説明している暇はどう考えても無いので、本当に申告通り明日香を送っていくように頼まれただけなのだろう。
「迷惑なんてことはないけど……高木君に面倒なことさせちゃって、ごめんね」
「面倒じゃないよ。僕もそろそろ帰らなきゃいけなかったんだ」
「そうだ。私が来た時、高木君宿題やってたんでしょ? 邪魔するつもりはなかったんだけど、悪いことしちゃったね」
「さっきも言ったけど、気にしないでってば。それだったら奥に引っ込んでる間に終わったよ」
 明日香の気分を少しでも上向かせようとしてか、ことさらに明るい声で焔羅は言った。
「えっ、もう終わったの? 今日けっこうたくさん宿題が出てるけど、それ全部?」
「そんなわけないじゃん。とりあえず、分かんないとこがあったから化学を教えてもらってただけ。それで今日は『とまりぎ』に寄ってたんだ」
「もしかしてお母さんに? あ、でも高木君のお母さんはピアノ弾いてたよね。てことは、香住さんに教えてもらってたの?」
 いかにも賢そうな頼豪の顔つきを思い出しながら明日香が尋ねると、焔羅は苦笑っぽい笑い方をして顔の前で手を振った。
「いや、優后さん。マスターに訊くんなら日本史とか漢文古文だね。古代史なんかめちゃくちゃ詳しいよ。だけど優后さんの方が教え方うまいから、どちらにしろ優后さんに訊いちゃうな」
「へえー……川崎さんて頭いいんだね」
 天は二物を与えずなんて諺も、一部の人間には当てはまらないのだな、と明日香がぼんやり考えたところに、更なる衝撃発言が続いた。
「何しろ優后さん、東都大の法学部卒だから」
「うそっ! まじで?」
 高偏差値を誇る最高学府の名を出されて思わず裏返った声を出してしまった明日香に、焔羅はいたってまじめな顔と声で答えた。
「うん、マジもマジ。現役ストレートで一発合格」
「ついでにスポーツ万能とか言わないでよ?」
 恐る恐る尋ねると、焔羅は機密事項でも明かすように、にやりと唇を歪めた。
「残念だけど割とそれに近いかな。苦手なものはないって」
「うっわあー。漫画とかラノベだったら川崎さん確実に主人公じゃん。チートじゃん。実在を疑われるレベルだわ。実在してるけど。現に会ったけど!」
「どんだけだって感じだろ? それで本人は特に何とも思ってないっていうか、大したことじゃないとか言ってるのがもうね。優后さんレベルになってくると嫌味にもならないっていうか嫉妬もできないっていうか」
「そんなハイスペックな人が、何でバーでウェイターなんかやってんの……」
 職業に貴賤はないとはいうが、どうしても勿体ない気がしてしまって明日香は思わず呟いた。
「詳しい事情はさ、僕が勝手に話していいものじゃないから言えないけど……優后さんは昔大きな問題を抱えてて、そのことですごく悩んでたことがあったけど、『とまりぎ』に来て救われたんだよ。だから自分も誰かの助けになりたくて、『とまりぎ』で働くことを決めたんだって」
「そっかぁ。まあ、いい大学出たからって、一流企業に勤めるとか、公務員になるとかが全てじゃないもんね」
「だね。優后さんがとまりぎで働くって決めた時さ、マスターは口じゃ『もったいない』とか『川崎君ならもっといい所があったはず』とか言ってたけど、本当は喜んでるのがバレバレだから可愛いっていうか、面白かったよ」
「目標にしてもらえる、っていうのはやっぱり嬉しいんじゃない? よく判らないけど」
「なのかな? そういう立場になったことないからマスターの気持ちは判らないけど、僕は優后さんの気持ちは判らなくもないよ」
「わかるんだ」
「何となくね」
 二人は駅の改札を抜けて、電車に乗り込んだ。話題はいつの間にか別のことへと移り、とりとめもなく続いた。同級生である以外に接点がないので、焔羅とまともに会話したのはおそらく今日が初めてだったが、思ったよりも話が弾んだのは意外だった。
「こんなに話したの初めてだから知らなかったけど、高木君ってけっこう面白い人だよね。すんごい真顔で『マジで』なんて言うキャラとは思わなかった」
「僕のことどんなキャラだと思ってたんだよ、乾さん。それって褒めてる?」
 確かに微妙な表現ではあったが、あまりに不審げな顔をして焔羅が言うので、明日香はちょっとむきになって肯定した。
「褒めてるわよー! だって高木君と話すの楽しいから、ストーカーのことなんかぜんっぜん気にならな――」
 元気よく言いかけて、明日香は口を開けたままぴたりと固まってしまった。相談を始める前に席を外してくれた焔羅の気遣いを、今のでまるきり台無しにしてしまったことに気づいたのだ。
「あ」
 焔羅も気まずい表情を浮かべた。
「……今の、聞かなかったことにした方がいいのかな」
「ううぅ……」
 唸るような小さい声を上げて明日香は首を捻った。いくら気分が浮ついていたからといって、どうして口を滑らせてしまったのかと、自己嫌悪するやら後悔に苛まれるやら、心中には嵐が吹き荒れていた。
 ちらりと横目で焔羅の様子を窺うと、彼の浮かべている表情は好奇心に満ちているというよりも心配そうであるといった方が近かった。恐らく焔羅は本当に、明日香のことを案じてくれているのだろう。『とまりぎ』での最初のやり取りから察するに、あの店に相談事を持ち込む客と出くわすのは珍しいことではなく、彼自身には聞く気も関わる気もないのに相談内容が耳に入ってしまうことも少なくないのだろう。だがそれを自分の胸に収めておくこともまた、きっと焔羅にとっては当たり前のことなのだ。そう考えると少し、落ち着くことができた。
「今の、しっかり聞こえちゃったよね……」
「聞こえたけど、忘れろって言うならそう努力するよ。乾さんがマスターたち以外の誰にも知られたくないと思っているなら、乾さんの事情に踏み込んだりはしない」
 焔羅は答えはあくまでも気遣いに満ちていた。彼ならば、事情を知ってもそれを学校で言いふらすなどしないだろうとこの時点で確信していたので、明日香は事情を訊かれても構わないと肚を括った。
 それに、いつも感じている気配を説明するのにふさわしい言葉が他に無いので『ストーカー』と呼んでいるが、実際にその姿を確認したわけでも、何かをされたわけでもない。現時点でかなり心配してくれている焔羅に申し訳ないので、犯罪に巻き込まれているわけではないから安心してほしいと、頼豪たちに打ち明けたのと同じ話を焔羅にもした。ただし、まるで明日香の願望を叶えるかのように相次ぐ事故だとか、黒い犬の夢だとかいったオカルトじみた話は伏せておいた。
「……だから、警察とかじゃなくて赤城先生に相談しに行ったの。あ、でもうっかり喋っちゃった私がいけないんだから、高木君はほんとに気にしないでね? 聞いてもらえるだけですごく気が楽になったから」
「乾さんがそう言うならなるべく気にしないようにするけど、困ったことがあったら遠慮せずに言ってくれよ。マスターたちに連絡する事もできるから。もし本当にストーカーだったら大変だしさ」
「うん、ありがとう」
 あえて固辞するようなことでもなかったので、明日香は素直に頷いた。それから二人はまた宿題がどうだとか、最近はどんな漫画を読んでいるだとかいった高校生らしい内容のお喋りを再開させた。
「乾さん、どこで降りるんだったっけ」
 ふとドア上の液晶画面を見上げた焔羅が言った。
「あ、もう次」
「家まで送らなくっても大丈夫?」
 本心から案じている風で、焔羅は画面から明日香に視線を戻した。そういえば焔羅は自分を送るためについてきてくれたのだと思い出した明日香は、すっかり忘れていた自分の暢気さに内心で苦笑しながら首を振った。
「この時間ならまだ明るいし、だいじょうぶ。ありがとね、高木君」
 ちょうど電車が停まり、軽やかな音楽に合わせてドアが開いた。人の流れに合わせて下車し、振り返ると焔羅がひょいと片手を挙げた。
「じゃあ、また明日」
「うん、またね」
 声が小さかったうえに発車ベルに紛れてしまったのできちんと届いたかどうか不安だったが、焔羅はにっこり笑って挙げた手をひらひらと振った。どうやら別れの挨拶はちゃんと聞こえたらしい。何となく明日香はほっとした。
 いつもの帰宅時間からずれていたせいか、それともお喋りの楽しさで気が紛れていたせいか、この日明日香は何の気配も感じなければ足音を聞くこともなかった。
 高校生二人が電車内でほのぼのとした時間を過ごしていた頃、『とまりぎ』に残った大人たちはまだ明日香のことを話題にしていた。
「あの子は無事に帰れたかな」
「焔羅がついていれば大丈夫でしょ。仮に何かあっても、とりあえず今日の所は犬神が出てくるようなことにはならないわよ」
 ようやく酒類解禁の時間となり、一杯目にお気に入りのブランデーを出してもらった香爛は、グラスに鼻先を寄せて芳醇な香りを楽しんだ。心配性の頼豪とは対照的に、香爛は差し迫った問題が明らかになっていない限り、あれこれ思いを巡らせることをしない。もともとの楽天的な性格もあるが、自分の役割はそのような「もしも」を考えることではないと決めているからだ。
「でも……僕も心配ですね」
 優后はその細く整った眉をきゅっと寄せた。
「もう、優后までそんなこと」
 咎めるような香爛の声に視線だけで応え、優后は続けた。
「犬神はその家を守護するものだから、乾さんには害を為さない――と一概には言い切れませんよ、香爛さん。彼女が乾家の犬神使いとして不適切な言動を取れば、犬神は彼女を主とは認めずに反逆するでしょう。彼女には確かに犬神を使う力がありますが、まだ自分の力の正体に気づいていないし、犬神が事故を引き起こしていることに怯えている」
 優后はボトルが並んだ棚のガラス扉をぱたんと閉め、香爛を振り返った。
「確かに、エスカレートしたり、力の矛先が乾さん自身に向く危険性はあるかもしれないわね。でもだからって、簡単に教えられることでもないでしょう。そのために今日は焔羅を行かせたんだし、今後は朱雁にも気を付けてもらうわ」
 琥珀色に沈む氷をからんと揺らして、香爛はのんびりした口調で言った。しかし少し間を置いてから、ほんの少しだけ眉をひそめて首を傾げた。
「……だけど、乾さんに憑いているものが犬神だってことくらい、鏡子に判らなかったはずがないし、単にそれだけなら彼女に何も悟らせず犬神をコントロールする方法を授けられるはずよね。何だって彼女をこちらに来させたのかしら」
「これは飽くまで僕の考えですけど」
 言いにくそうに唇を歪めて、優后は口を開いた。
「鏡子さんは乾さんに、犬神の存在を認識させたいんじゃないでしょうか。だから僕たちとの関わりを持たせた」
「何のために? 今までただの人間として生きてきて、うまくやればこれからもそうしていけるっていうのに。普通に生きてきた子なら、自分が『こちら側』だなんて考えもしないだろうし、受け入れるのも一苦労だわ。力の正体を知らなくても制御できるのなら、あえてわざわざ教えることでもないじゃない?」
「そうでしょうか」
 信じられないとばかりに言うと、返す刀じみて即座に優后が反論してきたので、香爛は少し驚いたように目を瞬かせた。
「今は何も判らなくても、いつか必ず自分の持つ力に乾さんが気づく日が来ます。乾さんは犬神を視る力を持っているし、気配も感じ取れる。犬神は乾さんの心を映した存在、いわば分身のようなものです。それを無視し続けることなどできるはずがない。彼女が力を使わないよう僕たちが見張るとしても、無意識に使うものを防ぐことはできないし、二十四時間ずっと見張り続けられるわけじゃないです。……それに、無意識にとはいえ既に犬神の力で傷つけられた人がいる以上、僕は乾さんが何も知らないままでいいとは思いません」
 今回の件で考えたというよりも、以前からこのような事例に対してしっかりと持っていた彼なりの意見であったらしく、言葉を探す気配もなくきっぱりした口調で優后は続けた。
「意図したものではなかったとしても、自分が他人を害していたと気づかないままでは、彼女のためになりません。犬神の力は基本的に攻撃のための力ですし、本人が望むと望まざるとに関わらず、受け継いでしまったら手放すことができないんですから、どこかできちんと自分の力について知り、向き合い、受け入れなければならないと僕は思います。でなければ力を制御できないまま、同じことを何回も繰り返してしまうでしょう。もちろん知ることは辛いだろうし、初めからそう『在る』なら考えなくてもいいことを考えなきゃいけない。途中で『為る』のは――己が何者かを知るのは、恐ろしいことでもある。香爛さんたちが、彼女をそこから遠ざけてあげたいと思う気持ちは判ります。でも自分が何者なのか――どんな力を持っているのか知らないまま、いつか目の前で力を使って取り返しのつかない事態を引き起こしてしまって、その現実をいきなり突き付けられたら、どうなります? きっと彼女は力の存在だけでなく、自分がしてしまったことに対しても苦しみ、悩むでしょう。下手をしたら、自分の存在に絶望しかねない」
 頼豪と香爛はこの長口舌の間にちらりと顔を見合わせ、次いで優后を見つめた。二人とも口を挟まず最後まで聞き終え、ややあった沈黙の後、香爛はふっと息をついた。
「……そういうの優后が言うと、説得力しかないわね」
「そりゃあ、経験者ですから」
 そう続けて苦笑するように細めた瞳の奥で、ブラックオパールめいた青と緑の光がほんの一瞬だけきらめいた。優后の考えは彼自身の考えにも沿うものだったのか、少し待っても頼豪が口を出す気配はなく、優后も黙って定番メニューの仕込み作業に戻り、それ以上続ける気はなさそうだった。これで犬神についての討論はおしまいと判断して、香爛はようやっとグラスにまだたっぷりと残っているブランデーを楽しむことに意識を傾けた。
「だけど……乾さんが気にしている気配って、本当に犬神のものだけなんでしょうか」
 だから、ぽつりと優后の唇から零れた独り言は誰の耳にも届かないまま、ピアノが奏でる柔らかな音色に紛れて消えてしまった。


 翌日、いつも通りの時間に家を出て駅に着いた明日香は、ホームで電車を待つ人々の列を見て驚いた。降車駅の階段がいちばん近いからと定位置にしているドア番号の所に、昨日会ったばかりの人物を見つけたからだ。濃いグレーのスーツに身を包み、右手には小さく折り畳んだ経済新聞、左手には革製のブリーフケースを持った初老の男性――今は服装や小道具のおかげでまるっと会社員にしか見えないが、それは『とまりぎ』のマスター、頼豪だった。
 明日香の視線に気づいたのか、頼豪は新聞に落としていた目を上げ、立てた人差し指を一瞬唇の前にやり、微笑んだ。知らないふりをしろということだとすぐに理解して、明日香はそれ以上頼豪の方を窺うのをやめ、電車の到着を待つ列の最後尾についた。間もなく電車がホームに滑り込んできて、小柄な頼豪の姿は動き出した人並みに飲まれて明日香の視界から消えてしまった。
 彼女の登校時間は朝練に出る関係もあってラッシュのピーク時には少し早いのだが、それでも満員電車になるのは変わらない。同じ電車に乗ったのは確かでも、傍に寄ることはできなかったし、周囲の肩越しに見回してみても、探し当てることはできなかった。それでも、見守ってもらえているという安心感は明日香の心を温かくした。
 昨日の夕方に焔羅と二人で帰った時と同様、不審な気配はみじんも感じられなかった。
 思いがけない見守りについて事情を知っているだろう焔羅と話せたのは、何だかんだと状況やタイミングが合わず放課後になってからだった。明日香が話をしたがっているのは感じていたらしく、先に教室を出たはずの焔羅は廊下の壁に背を預けて佇んでいた。携帯電話をいじっていたのは周囲に訝しがられないための「ふり」だったようで、明日香が出てきたのを横目で見た焔羅はすぐに画面を閉じ、まっすぐにこちらを見た。
「高木君、ちょっといいかな。話があるんだけど」
「大丈夫だよ」
 たまたま相談に来たところに出くわし、成り行きで事情を聞くことになってしまったとはいえ、明日香が自分の悩みを誰にも知られたくないと考えていたことを慮ってか、焔羅はそっとひそめるような声を出した。今まで明日香と焔羅が個人的に親しく言葉を交わしたことはなかったのだが、同級生たちは気にした様子もなく、並んで歩く二人の傍を通り過ぎていった。
「ところで乾さん、部活は?」
「今日は無い日」
「だったら途中まで一緒に帰ろう。話は歩きながらでもいいよね」
 明日香は頷いて、歩き出した焔羅の後を追いかけた。並んで歩くのは少し気恥ずかしかったので、お互いが視界に入る位置を意識しながら、ほんの半歩分だけ後ろでつかず離れずの距離を保って歩く。一年生の教室があるのは四階なので、昇降口まではそれなりに距離があった。昇降口は帰宅する生徒たちと、掃除の仕上げにごみの集積所へと向かう生徒が行き来しているせいでざわついていた。
 男女別になっている下足箱の所でいったん別れ、靴を履き替えて外に出ると、今度は焔羅が明日香の後を追って出てきた。ローファーの明日香と違って、スニーカーの焔羅は靴紐を結ぶのに手間取ったらしい。
「話って、今朝のマスターのことだよね」
 追いついて開口一番、焔羅は確信した口調で聞いてきた。明日香は苦笑しながら頷いた。
「うん。何か見たことがあるおじさんがいるなと思ったら、香住さんなんだもん。びっくりしちゃった」
 焔羅の説明によれば、よく一緒に乗り合わせる友人がいるとはいえ毎日一緒になるとは限らないし、ストーカーの正体を突き止めるためには周囲を観察する必要があるので、身辺警護というほど大げさな話ではないが、頼豪がしばらく明日香と同じ電車に乗ってみることにしたらしい。
「それで高木さん、今朝はつけてくる人いなかった?」
「多分いなかったと思う。何も変な感じはしなかったから」
 少し考えて、明日香は言った。
「でも、何で香住さんが? そりゃ、昨日は私が断っちゃったけど、あの時は川崎さんが付き添ったらいいって香住さん言ってたのに」
「確かに優后さんが一番身軽に動けるんだけど、目立ちすぎるから駄目、うちの母さんは家のことがあるからちょっと時間的に難しいってことで、消去法でマスターになったって」
「ああ、なるほど」
「僕も聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
 この流れからすると今の二人に共通する話題――つまりストーカー問題に関連する話だろうと思いながら、明日香は頷いた。
「どうぞ」
「乾さんは何曜日に部活がある?」
「月、水、木だよ」
 それが何か、と問うように明日香は首を傾げた。すると焔羅は、昨日頼豪がしたのと似たような質問をした。
「その日は遅くなると思うけど、誰か一緒に帰ってる人はいる?」
「あ、それは大丈夫。いすずちゃん――三組の浜中さんか、先輩と途中まで一緒。降りるのは私が先だけど、駅からうちまでそんなに遠くないし」
「そっか」
 いくぶんほっとしたように焔羅は笑ったが、すぐに表情を曇らせてしまった。
「あ……でも駅から家までは一人なんだよね。運動部だと帰る頃には日が暮れちゃってるんじゃないかと思うんだけど」
「自転車だから大丈夫だよ。雨の日は歩くけど人通りが多い道を選んでるし、これから日が長くなるし。高木君ってば心配性だなあ。うちのお父さんみたいなこと言わないでよ」
 内心では少々馴れ馴れしすぎるかもしれないとどきどきししていたものの、明日香は冗談めかして焔羅の肩の辺りをぽんと叩いた。しかし懸念とは裏腹に、焔羅は明日香の冗談に乗ってくれた。
「同い年の娘を持った覚えはないんだけど」
「私だってないわよ。若くてイケメンのお父さんなら大歓迎だけど、さすがに同い年はダメでしょ」
「アウトだね」
 二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。
 しばらく様子を見るのだと焔羅が説明した通り、翌朝も同じ電車に頼豪が乗っていた。近くにストーカーがいる可能性を考えて、明日香は目が合った時に小さく目礼するだけに留めておいた。帰宅時は同じ部活の友人と一緒だったのだが、明日香たちがいる場所から座席を一つ挟んだドア付近に焔羅がいた。明日香と同じく部活帰りなのか、名前までは判らないものの顔は知っている男子生徒二人と話に興じている。偶然なのかと明日香は内心で首を傾げた。
 しかし、今まで焔羅と下校時刻が被ったり、同じドア番号の所で乗車したりすることなど一度もなかったはずなのに、下校時は焔羅が必ず視界に入るところにいる状況が三日も続いたので、これは偶然ではないと判断せざるをえなかった。とはいえ焔羅は何も言わなかったし、明日香も何となく自分から話題に出すことができずにいた。そうして一週間が過ぎ、次の火曜日がやってきた。頼豪が朝の電車に乗り合わせていたのは初めの一週間だけで、代わりに焔羅が登校時間を合わせてくるようになっていた。
 部活はないものの掃除当番が回ってきていたので、さすがに今日は焔羅が同じ電車に乗っていることはないだろうと考えながら廊下の窓を拭いていた明日香は、その当人に声をかけられて、思わず肩を小さく跳ねさせた。
「乾さん」
「はいっ!?」
 振り向くと、びっくり顔の焔羅と目が合った。普通に話しかけたつもりが、急に大声を出されたのだから無理もないだろう。
「ご、ごめん高木君。なに?」
「こっちこそ驚かしてごめん。今日は部活がない日だったよね。よかったら、一緒に帰らないかなと思ったんだけど」
 直球で訊ねられて、明日香は戸惑ったり照れたりする暇もなく反射的に頷いてしまった。もちろん近くに人がいないことを確認して焔羅は声をかけたのだが、全く誰の目にも触れないというわけにはいかなかった。一週間も経たないうちに、人目を避けて二人だけで話をし、待ち合わせて同じ電車で帰る、朝も一緒に来る、という行動は『二人は付き合っている』という誤解を招いてしまった。
「なんか噂になっちゃってごめん。登下校は自分でどうにかするわ。学校来るときはつけられてないみたいだし、帰りの方は何とかなるから、無理して一緒の電車にしてくれなくてもいいよ。高木君の親切はありがたいけど――」
「親切って……僕はそこまでお人好しじゃないよ」
 焔羅はちょっと困ったように眉を寄せた。
「そりゃクラスメイトが困ってたら気にはするけど、わざわざ電車の時間を合わせるなんて面倒なこと、友達ならともかく、何とも思ってない子にするわけないじゃないか」
 当然のように焔羅は言い、明日香はさらりと言われたその言葉に固まった。
「えっ」
「乾さんが困ってる時に、不謹慎だっていうのは判ってるけど、乾さんと一緒にいると楽しいし、もっと色々話をしたいと思ってる。……そういうことだから、乾さんが嫌じゃなかったら、本当に付き合わない?」
 思いがけない展開に明日香が戸惑っている間に、焔羅は一息に言い切った。だが勢いはそこまでで、せっかく顔を上げて目を合わせたのに、口を閉じると頬を赤らめてまた目をそらしてしまった。一方の明日香はすっかり思考が固まってしまっていた。クラスメイトとはいえ、これまできちんと言葉を交わしたことは数えるほどしかない関係だった上に、気にかけてくれるのは単なる親切心からだとすっかり思い込んでいたので、そこに好意があるなんて予想もしておらず、ひたすら驚きしかなかったのだ。
 焔羅の口ぶりからすると、最初からそれなりの好意があったようだが、これまでの接点のなさを考えれば、おぼろげな好意が一緒に行動するようになってはっきりと形になってきたのかもしれない。では自分の気持ちはどうなのだろうと考えてみれば、こちらの事情に巻き込んで負担をかけてしまっているという申し訳なさを感じつつも、焔羅と過ごす登下校の時間が楽しかったのは事実だった。
 もし彼のことを嫌っていたり、何とも思っていなかったら、登下校を共にするのは最初から断っていただろう。この時点で半分以上答えは出ているようなものだった。しかし考えに耽る明日香の沈黙を拒絶と受け取ったのか、再び視線を戻した焔羅は気まずそうな表情を浮かべた。
「……ごめん、こんな時に。今のは忘れて」
「ち、違うの! 考え事してただけ!」
 明日香は慌てて、否定の意味でばたばたと手を振った。
「びっくりしたけど、それだけ! 嫌とか全然そういうのじゃないからっ」
 言い募る明日香の顔を、いまいち理解が追い付いていないような表情で焔羅は見つめた。明日香は急激に押し寄せてくる恥ずかしさに頬を染めつつ告げた。
「――だから、えっと……よろしく、お願いします……?」
「……こちらこそ」
 応えた焔羅も負けないくらい赤面していた。
 そんな、何とも締まらない形で交際が始まったのだが、登下校時以外の会話が増えたくらいで、二人の行動パターンはあまり変わらなかった。そうして部活動がない日には焔羅と一緒に帰るのが半ば習慣化する一方、ストーカー疑惑については動きがないまま半月ほどが経った。


(2017.9.30up)

前編  後編
web拍手


inserted by FC2 system