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牙を剥く影  前編




「本当にここでいいのかしら……」
 明日香はため息をついて呟いた。ショートボブの髪は毛先が軽やかに肩口で揺れて活発な印象を彼女に与え、すんなりと伸びた手足は細すぎず太すぎず、程よく筋肉がついているのが見て取れる。悩みや憂鬱とはおよそ無縁そうな見た目の少女であるのに、その表情とため息は大層深刻なものだった。
 いま、明日香がいるのは人通りの少ないビル街。目の前に建つ雑居ビルの入り口には黄色のカナリアのイラストと『5F バー・とまりぎ』と装飾的な白抜き文字が描かれた水色の看板が立っている。そしてエントランス横に張り付けられている金属板にはビルのテナントが表示され、四列の表示板にはそれぞれ企業名らしきものが一つか二つずつ並んでいた。そこに入るにしては、高校の制服といういでたちの彼女はかなり違和感がある。
「地図は、このとおりなのよね」
 ここに来るまで何度も見たメモを、彼女はもう一度確かめてみた。住所表示に間違いはない。『とまりぎ』という店の名前も同じである。まさかそれがバーだとは思っていなかったが。もう一つ、ビルの前には看板が出ているのに、テナント一覧は四階までしかなく、店名の表示がどこにも無いのも困惑の一因だった。エントランスまで入ってはエレベーターのボタンを押せず外に出るのを三回ほど繰り返した後、明日香はとうとう覚悟を決めた。ここまで来てすごすごと帰るのも悔しくなったのだ。
 ようやく乗り込んだ、少々時代を感じさせる駆動音の激しいエレベーターで五階まで上がると、二畳ほどの広さのエレベーターホールを挟んで、一つのドアだけが正面にあった。マホガニー色をした重厚な木造りのドアだ。いかにも高級そうなしつらえで、やはり知り合いの占い師に誘われただけで来るような場所ではなかった、と思ったが、せっかく店の前まで来ては心情的に引き下がれない。思い切ってドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
 カランと軽やかな音を立ててドアベルが鳴り、しっとりした低い声が出迎えた。
 バーという単語で身構えていたけれど、想像よりも品のいい店だった。少し薄暗い店内の真ん中にスポットライトを浴びる古いグランドピアノが置いてあり、黒髪をすっきりと夜会巻きに結い上げて赤いドレスを着た女性がベートーベンの『月光』を弾いている。やや奥まったところにカウンターがあって、その奥では先ほど明日香に声をかけたバーテンダーらしい初老の男性がグラスを磨いていた。カウンターを拭いているウェイターの青年も、顔を上げてこちらに会釈してきた笑顔には浮ついたところが無くて感じがいい。
 そこまで無言で観察していた明日香は、カウンター席の奥に目をやって思わず声を上げた。
「高木君?」
 カウンター席の端でスツールに腰掛け、ウーロン茶らしきものを飲んでいるのは、彼女と同じ高校の制服を着た少年だった。どうしてここを自習の場所にしているのか明日香にはまったく理由が分からないが、カウンターテーブルに教科書とノートを広げて右手にはペンを持っている。彼女の声で振り向いた顔は、切れ長の目や吊りあがった眉のせいで雰囲気はきつい。けれど、性格はいたって温厚であることを彼女は知っていた。名前だって知っている。名前は高木焔羅(ほむら)。クラスメイトだ。
「あ……」
 彼は困ったような顔をした。その表情を見て、隣に立っていたウェイターの青年がどうかしたのかと尋ねた。
「僕の同級生。(いぬい)さん」
 焔羅は青年に答えてから、くるりと椅子を回転させて明日香に向き直った。そこに近づいていきながら、明日香は首を傾げた。
「学校帰りにバーだなんて、いいの?」
「乾さんこそ、バーだって知ってるなら何で来たんだよ?」
 もっともな指摘で切り返された明日香は、焔羅に事情を語るよりも話をそらす方向に持っていくことにした。
「それ、お茶よね?」
「当たり前だろ」
 グラスを指して尋ねると、焔羅は少しむっとしたように答えた。それからピアノの方向へと視線を向けて、ぼそりと言った。
「ここのピアノを弾いてるのが、うちの母さんなんだよ」
 反射的にピアノへと視線を向けたが、ピアニストはカウンターでの会話など我関せずといった様子で鍵盤だけを見つめ、演奏を続けている。いつの間にか、軽やかな第二楽章を過ぎて月光は第三楽章に入っていた。音階と共に激しく躍動するクレッシェンド。
「おや、焔羅君の学友なのかい? それはそれは、初めまして。焔羅君とお姉さんは、うんと小さい頃から学校帰りにここに来るのが日課でね。決して、不良高校生ってわけじゃないよ」
 それまで静かにグラスを磨いていたバーテンダーが、にっこりと微笑んで説明した。どうやら彼がこのバーのマスターらしい。細面で鼻の下が長く、少しばかり鼠めいた印象はあるものの、そのような顔立ちにありがちな小狡そうな印象や貧相な感じは一切なく、身にまとう雰囲気は知的である。歳は六十過ぎくらいで、灰色がかったオールバックの髪は光の加減で銀色っぽく見える。こういう男性をロマンスグレイというのだろうか。
「ともあれ、いらっしゃい。うちは開店から五時半までは、喫茶をやっているから未成年でも来ていただいて構いませんよ。どこでも好きな席に座ってください。ご注文は?」
「えっと……」
 一瞬、何と答えたものかと思ったが、ウェイターが助け船を出してくれた。
「マスター、確かに今はカフェタイムですけど、何もないのにうちにこんな歳の女の子が来るってことはないでしょう。鏡子さんが言ってた子じゃないかと思いますよ。詳しい内容は聞いてませんけど、確か一昨日、連絡があったでしょう?」
「さて……?」
 しかしすぐにはぴんと来なかったようで、マスターは首をひねった。
「え、ええ。そうです。『浄玻璃の館』の赤城先生に悩み事を相談しに行ったら、内容的にここで相談した方がいいって紹介されたんです。最近のことなので、お聞きになってないかもしれませんが」
 明日香は急いで頷いた。『浄玻璃の館』は明日香の周囲ではよく当たると評判の占い屋である。もっとも、この年代の少女たちは占い師に対して、占いそれ自体の当たり外れよりも人生相談やカウンセリング的な効果を求めるものだ。明日香の場合はそれとは性質が少し違ったけれど、青年が先ほどその名を口にした店主の赤城鏡子は、彼女の悩みを聞くと「自分よりもずっと助けになる場所」と言って地図を手渡したのだ。
「なるほど、鏡子ちゃんの。うんうん、思い出した。そういえば、『そっち側』のお客さんがうちに来るって言ってたね」
 記憶を手繰るときの癖なのか、こめかみに人差し指を当ててとんとんと叩いていたマスターだったが、ようやく心当たりの記憶を引っ張りだしてきたのか、明日香に向かって微笑んだ。
「しっかりして下さいよ、マスター」
「あー……それで今日は来てないのか。姉さんってほんと勘がいいな……」
 ウェイターは呆れ顔で肩をすくめ、焔羅はなぜか困り顔で俯いた額に手を当てた。
「確かに間が悪いけど、これは僕らの仕事だからね。よっぽどのことがなきゃ、焔羅に手伝ってもらうようなことはないから安心しな」
 慰めるように焔羅の肩を叩きながら、ウェイターは苦笑した。先ほどからのマスターやウェイターの発言に引っ掛かるものがあって、明日香は首を傾げた。
「あの……ここって、バーとかカフェをやってるだけじゃないんですか?」
「ええ、基本的にカフェバーですよ。でも」
 にこにこと笑みを崩さないまま、マスターが答えた。
「うちはお客様との会話を大切にしていますからね、職業柄、世間話かたがたお客様の人生相談を受けることも多いんです。中にはちょっと人様には言いにくい、知られたくないって話もある。そういうお客さまには、お望みなら解決のヒントを差し上げたり、専門家を紹介したりといったお手伝いをしているんです。よろず相談みたいなものだと思ってくれればいいですよ。そんなわけで、鏡子ちゃんの占いだけでは――つまり、どうしても誰かの手を借りなければ解決できないお悩みを、時々うちが引き受けているんです」
 あなたもそうでしょう、と問いかけるように、マスターは再び微笑みかけた。いかにも経験と知識を重ねて歳を取ってきたといった感じの彼を見ていると、この人に相談を持ちかけたくなる気持ちというものが何となく理解できる気がした。一朝一夕では身につかない、有意義に歳を重ねてきた者だけが持つある種の貫録というものだろう。
 焔羅は明日香にちらりと視線をやると、ノート類と筆記用具を鞄にしまい込んで立ち上がった。
「じゃあ僕、席を外してるよ。どういう相談かは知らないけど、乾さんだって僕がいちゃ落ち着いて話できないでしょ」
「邪魔しちゃってごめんね、高木君」
「乾さんが気にすることないよ」
 顔の前で軽く手を合わせて拝むような格好をしつつ謝ると、焔羅は軽く手を振ってそれに応え、カウンターの左隣にある『staff only』の札がかかった扉の向こうに引っ込んだ。母親が従業員だからなのか、焔羅はバーの関係者扱いになっているらしい。そういえば月光が終わって以来ピアノの音が聞こえない、と気づいて首を巡らせてみると、いつのまにか焔羅の母も姿を消していた。焔羅を関わらせないなら、母親の彼女も関わらないほうがいいと配慮したらしい。
「さて、と」
 フロアにいるのはマスターとウェイター、明日香の三人だけになった。ウェイターはスツールを引いて着席を勧め、明日香が座ると目の前のメニュー表を取り上げ、カフェタイム専用のページを開いて差し出した。
「飲み物は何にしますか? 未成年だからアルコールは駄目だけど」
「じゃあ、アイスティーを下さい」
「ミルクとレモン、どちらにします?」
「レモンで」
「かしこまりました」
 青年はにっこりと笑った。マスターが壁際のガス台で湯を沸かし始め、ウェイターはちょうど明日香と向かい合うような形でカップを棚から出してきたり、ポットを温めたりしている。まだ、相談事を話し出せるような雰囲気でもないし、促されることもなかったので、明日香は黙って二人の作業を眺めていた。
(シャンプー、何使ってるのかな……)
 目線の関係で、少しうつむき加減になったウェイターの頭に、カウンターを照らす暖色のライトに照らされて俗に言う『天使の輪』が眩しいくらいに輝いているのを見て、明日香はぼんやりとそんなことを考えた。今しがた雨に降られでもしたかのような、濡れたような輝きである。男女を問わず、こんなに美しい髪を明日香は今まで見たことがなかった。目を引くのは髪だけでなく、顔立ちもかなり整っている。俯いているせいで、長い睫が頬にうっすらと影を落としているのだが、伏し目がちな角度も相まってただ紅茶を淹れているだけなのに妙なくらい艶めかしく見えた。美男であるのはもちろんのことだが、化粧や服装、髪型次第では女性と言っても通じそうだ。
「お待たせしました。……どうぞ?」
「えっ。あ、はいっ」
 ぼんやりしていたせいで、目の前にアイスティーのグラスが差し出されたことに気づくのが遅れてしまった。慌ててグラスを引き寄せる明日香に、ウェイターもマスターも子供の微笑ましい失敗を見守るような優しい目を向けていたので、何とも言えない恥ずかしさがあった。実際、彼女は未成年で相手は成人だったのだが。
「さて、話の前に、まずは自己紹介をさせてもらってもいいかな?」
 紅茶を淹れた後の片づけをウェイターに任せて、マスターが彼と入れ替わるように明日香の正面に立った。
「私は香住頼豪。まあ、大体みんな私のことはマスターと呼ぶのだけれどね。彼はウェイターの川崎君」
「川崎優后です。よろしく」
 頼豪に紹介されて、ポットを洗っていた青年が振り向き、軽く頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします、香住さん、川崎さん。私は乾明日香っていいます」
「いぬい? どういう字を書くのかな」
 優后が首を傾げた。明日香にとってそれはさほど珍しい反応でもなかったので、空中に字を書くしぐさをしながら答えた。
「乾燥の乾で、イヌイです」
「……なるほど」
 彼はちょっと考え込むような顔で呟いたが、明日香はその表情には気づかなかった。
「で、鏡子ちゃんからここを紹介された理由を話してもらえるかな?」
 促す口調はあくまで柔らかかったが、こちらを見る頼豪の目は真剣なものだった。ここには雑談のためでも飲食のためでもなく、自分にとっては深刻な相談のために来たのだと明日香は改めて思い出した。
「その……最近、ちょっとおかしなことが続いていて」
「具体的には、どんな?」
 頼豪が重ねて尋ねると、明日香はうつむいて視線を落とし、いよいよ相談を始めようという今になってもまだ打ち明けるべきか迷っているようだった。ここで問い詰めても萎縮させてしまうだけだろうと考え、頼武も優后も無言で明日香の決心がつくのを待った。一分ほどの逡巡が過ぎ、明日香は顔を上げてまっすぐに頼豪の顔を見つめた。頼豪は、人のそんな真剣な眼差しが好きだった。
「私、誰かに後をつけられているみたいなんです。最初に気づいたのは家に帰る途中だったから夕方でしたけど、朝や昼間でもふと気付くと、後ろに誰かの気配を感じるんです。でも姿を見たことはなくて、いつも足音だけが聞こえます」
「それは、ストーカー? だったらまず警察に相談したほうがいいと思うが」
 頼豪が言うと、明日香は首を横に振った。
「最初はそう思いました。でも気配を感じたり、足音が聞こえたりするだけで、つけてくる人をはっきり見たことはないし、それ以外のことは何もないんです。相手が誰だか分からないし、そもそも本当にストーカーがいるのかどうかも分からないんじゃ、警察も動いてくれないんじゃないかと思って……」
「うーん……。確かに話を聞いた限りでは実害は出ていないみたいだから、難しいね。相談の実績を作っておくことは悪くないと思うけど。大ごとになってからじゃ遅いのだし」
 考え込むように腕を組み、天井を仰いで優后は呟いた。
「でも、おかしなことと言うのは、それだけじゃないよね。まだ他にも、君を悩ませていることがあるんじゃないかな?」
 何気なく続けられた優后の言葉に、グラスに添えていた明日香の手がぴくりと震えた。後を引き取って、頼豪が穏やかに続けた。
「話したくない、話せないことなら無理に聞き出すつもりはないけれど、ここはそういう『悩み』を解決するための場所だから、身構えなくたっていいんですよ」
「……あの、信じて下さい。絶対に、嘘じゃないんです」
「そりゃあ、もちろん。君が作り話のためにわざわざここまで来たとは思わないが、まずは話してもらわないと」
 はっと気づいたように明日香は顔を赤らめ、カウンターに乗り出しかけていた上体を引いた。
「関係があるのかどうかは分からないけれど、高校に入ってから、私の周りで事故が起きることが多くなって」
「事故」
 少し眉を寄せて、優后が繰り返した。
「具体的には、どういう事故が? 君に被害はある?」
「いいえ、私には何もないです。今のところ、なのかな。でも、その……」
 よほど打ち明けにくいことなのか、明日香は小さくうつむいて言い淀んだ。頼豪と優后は彼女が話し出すのを辛抱強く待った。何度か口を開きかけてはきゅっと唇を噛むのを繰り返し、三分ほども経ったところでようやく明日香は顔を上げた。
「……私、中学からずっと陸上部で短距離走をやっているんです。高校に入ってすぐに大きめの大会が一つありました。顧問の先生は機会は平等にって考えで、学年関係なくタイムだけで選考してくれるんです。その時のタイムは二年生の先輩の方が早くて、だから代表は先輩に決まりました。なのに出場が決まってすぐ先輩は交通事故に遭って、足首を捻挫してしまって出場できなくなりました。次に選ばれた三年の先輩も盲腸で入院して、もう一人の先輩も大会の二日前に原因不明の熱で倒れてしまって、出場できなくなってしまったんです。それで出場の機会が一年生の私に回ってきました」
「君には何も起こらなかったのかい? 大会の競争相手は?」
 頼豪の問いに、明日香は頷いた。
「ええ。フライングだとか転倒だとか、普通のハプニングはありましたけど、先輩たちに起きたほどのことは起こらなかったです」
「他には、何か?」
「先週、化学の抜き打ちテストがあった時には、私たちのクラスで授業が始まる前に職員室で小火騒ぎが起きて、使うはずだった問題用紙が燃えてしまったせいでテストが中止になりました。大会に出たいなぁとか、テストが中止になったらなあ、とかは思いましたけど、まさか本当になっちゃうなんて……その……」
「……まるで図ったようなタイミングで事故が起きるんだね」
 明日香の言いかねた言葉を引き取るように、優后が言った。口元にうっすらと浮かべられていた愛想笑いは、幾分ひきつったものに変化していた。
「そう、そうなんです。まるで、誰かが私のために事故を起こさせたみたいな感じで……気味が悪いんです。今はまだ怪我とかちょっとした事故くらいで済んでいるけれど、いつか何か、取り返しのつかないようなことが起きそうで、怖いです」
 それを聞いて、優后は微かに浮かべていた笑みを消した。
「君の先輩に起きたことと、職員室での騒ぎに関連があると思うのかい?」
 明日香は否定的に首を振った。
「判らないです。ただ、そう思うだけで。でもちょっと気になることがあります。さっき話した、大会前に怪我をした先輩と盲腸で入院した先輩の二人とも、黒い犬に襲われる夢を見て、その夢で犬に噛まれたところを怪我したり、手術したそうなんです。それから、これが赤城先生に相談しようって思ったきっかけなんですけど、私も黒い犬を見たんです。大きいってほどじゃなかったけど……しかも夢じゃなくて、本当に」
「鏡子さんに相談するきっかけ……ということは、君が黒い犬を見たのは三日くらい前? その時も、何かしら事故があったのかな」
「ええ。電車が来る前に助け出されたから、ちょっと怪我をするくらいで済んだみたいだけど、人がホームから落ちたんです。叫び声が聞こえて振り向いたら、集まってる人の足の間に犬が見えました。一瞬だけでしたけど、あれは絶対に犬でした。盲導犬でもないのに、駅の構内に犬がいるなんておかしいでしょう? 私が見たのと、先輩たちの夢に出てきた犬は同じなんじゃないかって思えるんです。ホームから落ちたのはいつも痴漢してくる人だったから、犬が仕返ししてくれたのかな、なんて思ったりもしたけど……先輩は何も悪いことなんかしてないから、犬は何かそういう不幸を招く存在で、祟りか何かなんじゃないかなって」
「黒い犬、というのに心当たりは?」
「ないです。今まで犬を飼ったことはないですし、近所にもそんな犬がいたことはないです。初詣とお彼岸で近所の神社とお寺には行きましたけど、そこで犬に祟られたとか呪われたなんて話、聞いたこともないですし」
 考え込むように視線を下げ、頬に片手を当てて優后は呟いた。
「聞けば聞くほど不思議な話だね。ところで、このことはご両親に話した? さっきの、ストーカーがいるかもしれないってこともだけど」
 すると明日香はあっという間に表情を暗くし、深くうなだれてしまった。意外な反応だったので、優后と頼豪はどういうことかと互いに問うように顔を見合わせた。俯いて黙りこくっていた時間はそれでも十秒もなかった。明日香は暗い面持ちのまま顔を上げ、口を開いた。
「親には……相談した方がいいのは判っているんですけど、言えません。言ったらきっと、部活を辞めろって言われちゃう。はっきり言われたことはないけれど、帰るのが中学の時より遅くなっちゃうせいで、陸上を続けてることをあんまりよく思ってないんです。犬のことだって、こんな、自分でも作り話みたいだって思うようなこと、信じてもらえるわけがないし……」
「そうか……。ご両親に相談できないっていうのは、ちょっと辛いね」
 宥めるような優しい声で、優后が言った。
「でも、必ず解決できるし、してみせるから安心して。で、僕としては目下の問題はストーカーだと思う。脅すつもりはないけれど、本当にストーキングされてるとしたら、祟りだとか呪いよりもそちらの方が危険だ」
 確かに、ストーカーがらみの凶悪事件は枚挙に暇がない。優后の言うことは尤もだったので、明日香は神妙な顔で頷いた。
「ストーカーはいつ頃から始まったか覚えている?」
「具体的には判らないけれど……最初にはっきり気配を感じたのはゴールデンウィークの少し前だったから、たぶん高校に入ってからです」
「事故が続くようになったのは?」
「大会の時のあれが最初だとしたら、四月から」
「ふむ……。時期的には近いが、誰かに後をつけられているという話と、君の周りで事故が続くという話は性質が違うようだから、原因も別だと考えた方がよさそうだ。君自身に害が及ぶ可能性の高さから言えば、ストーカーの方が上だろう」
「僕もマスターと同意見ですね。というわけで、ストーカー問題の方から片づけるってことでいいかな、乾さん」
「は、はい」
 さすが美形と言うべきか、時と場合も忘れて見とれるほどの笑顔で微笑みかけられて、明日香はどぎまぎしながら頷いた。
「ストーカー事件となると、身の安全を一番に考えないといけないわけだけど、一緒に登下校しているお友達はいる?」
「約束してるわけじゃないけど、よく電車が一緒になる友達はいます。中学からの友達で一番仲がいいし、家が近いから乗る駅も一緒です。帰りは、乗る路線が同じ先輩と同級生がいますけど、駅からは一人で帰ってます。あ、あと、部活がない金曜日は、さっき言った子と一緒に帰ってます。そういえば、近くに人がいるから気づきにくくなっているだけかもしれないけれど、誰かと一緒の時には気配を感じない気がします。」
「だったらなおさら、一人で登下校するのは避けた方がいいね。朝はなるべくその友達と一緒に登校するようにしてほしい。まだ日が高いと言っても部活動があったら遅くなるだろうから、解決するまで休んだ方がいいと思うけど、これはちょっと無理だよね。顧問や先輩たちに理由を説明しないといけなくなるし、それじゃ大ごとになってしまうし」
「そう……ですね」
「乾さんさえよければ、部活がある日だけでも僕が家まで送ろうか」
「そうで……、えっ? ええっ!」
 にこやかな表情を変えずごく自然に、さらりと言われたのでついうっかり聞き流してしまいそうになったが、明日香にしてみれば突拍子もない申し出に声が裏返ってしまった。
「い、いいです、いいですっ! 駄目ですよ、そこまでお世話になるわけにはいきませんっ」
 明日香はちぎれそうな勢いで首を横に振り、両手をバツを作るように胸の前で交差させた。まだ日の入りは遅いとはいえ明日香が帰宅する頃にはすっかり暗くなってしまっているし、薄暗い道を一人で歩くのは心細いので、送ってくれるならもちろんありがたいことだが、相手が明らかに年上の、しかも目を引くこと間違いなしの美青年では目立つどころの騒ぎではない。近所の人に見られて噂にでもなったら、ストーカーされていることを両親に知られるよりも厄介な事態になりそうだ。
 彼女の慌てぶりと拒絶を見て、優后は眉尻を下げて苦笑した。
「遠慮せずに頼ってくれていいんだけど――初対面の男と一緒に家まで、なんていう方がよっぽど問題か。ごめん、今のは忘れてくれていいよ。でも、なるべく帰り道は一人にならないように気を付けて、人通りの多い道を選ぶようにしてね」
「すいません……」
「君が謝る道理じゃないよ。こちらの配慮が足りなかったんだ」
「良い案だと思うんだがなあ……」
 頼豪が思案顔でぶつぶつ言っている隣で、優后は急に話題を変えてきた。
「ところで乾さんは、ご両親のどちらかが関西の出身なのかな? 四国とか、九州の方で見る苗字だと思うんだけど」
「はい?」
 いきなり何の話だろう――と明日香は首を傾げて、優后を見つめた。明日香の当惑に気づいたのか、優后は降参のしぐさのように両手を胸の辺りに上げてひらりと振った。
「あ、突然変なことを聞いてごめんね。今のはただの雑談のつもりだったんだけど……珍しい苗字だから、ちょっと気になって。由緒あるお家だったりしない?」
 記憶を呼び起こそうとするように首を傾けた。確かに、曾祖父の代までは四国に住んでいて、明日香自身は行ったことがないが今も本家はそちらにあると聞いたことがある。
「川崎さん、名前だけで出身まで判るなんてお詳しいんですね。父方は四国の出です。それに、平安時代から受け継いでる名前だって聞いたことがあります」
「そうか……」
 彼は一人で納得したように頷いた。
「教えてくれてありがとう。じゃあ、雑談はこの程度にしようか。まだお客さんが来るには早いけど、もうすぐお酒を出す時間になっちゃうから、高校生を引き留めるのもよくないしね。何か気づいたことや、気になることがあったら、ここに連絡して」
 優后は、カウンター脇の小さな籐籠にたくさん入っている、店の名と住所、電話番号が印刷された名刺を明日香に手渡した。
「営業時間外だったらこっちに」
 彼はギャルソンエプロンのポケットからメモ用紙とボールペンを取り出し、そこに携帯電話の番号とメールアドレスを書いた。話の流れから察するに個人のアドレスである。明日香が思わず顔を見上げると、優后は苦笑に似た微笑みを浮かべた。
「気にしないで。これ、仕事用のだから」
 それが真実なのか否かを確かめるすべはなかったが、確かに何かあった時、無人の店に電話を入れたところでどうしようもないので、明日香はメモを素直に受け取った。
「ええと、相談料は幾らですか?」
 鞄から財布を出そうとする明日香を、頼豪がにっこり笑って制した。
「アイスティーの代金三百六十円以外、支払いの必要はないですよ。うちはカフェバーであって、相談所じゃない。お客さんに寛いだひと時を過ごしてもらうのが仕事ですからね。お話を聞いたり、お悩み事のお手伝いをしたりっていうのは、そのためのサービスです。さっき優后君も言ったとおり、何かあればすぐに知らせてください。何事も起こらなくても、この店を気に入ってくれたならいつでも来てくれて構わないからね」
「はい。ありがとうございました」
 明日香は会計を済ませるとぺこりと頭を下げ、入ってきた時よりはよほど軽い足取りで店を出ていった。ドアベルの音で明日香が出て行ったことを悟った焔羅が嚙み切れないものを口に入れているような玄妙な顔をしながら、母に続いて顔を出した。
「聞こえていたかね」
 頼豪は肯定の返答を確信している口調で尋ねた。焔羅はこくりと頷いた。
「乾さんが話してたボヤ騒ぎとか、陸上部員のこととか、全部心当たりがある。でも――まさか乾さんが関係してたなんて思わなかった。見るかぎり普通の人間だし、全然こっちには関係なさそうなのに」
 ため息と共に吐き出したのは、まるで自分は普通の人間ではないかのような言葉だった。
「たしかに乾さん自身は普通の人間だろうけど、彼女の家系には僕らとの関係があるよ」
「優后さんはもう判ったの?」
 驚きを隠さない表情の焔羅の問いかけに、優后は頷いた。
「うん。マスターも判ってるだろうし、話が聞こえてたのなら香爛さんにも判ってるんじゃないかな?」
 そうでしょう、と問うように優后が視線を向けると、二人はそれぞれ肩をすくめて見せたり、深く頷いたりした。どちらも無言のままで、どうやら優后に説明を任せるようだったので、彼は焔羅に視線を戻して続けた。
「大昔にご先祖様が施した呪術が、今も彼女の家系には受け継がれている――というか、そこから生み出されたものが乾家に取憑いているんだよ。そして幸か不幸か彼女にはそれを使う能力があった。お互いの相性が良かったってことだろうね。まず間違いなく、乾さんは犬神憑きだ。乾という姓も、恐らくは『犬依』から来てて、犬神憑きの一族である証だったんだ。犬神使いとしての力が目覚めたのは、話からするとおそらく高校に入ってから、つまり十六歳になったくらい。昔で言えば元服の歳……成人を迎える年齢だから、それをもって犬神が彼女を主として認めたんだろう。――と考えたんですが、どうでしょう。マスター?」
 最後の質問は頼豪に向けたものだった。
「優后君の推理で間違いないだろうな」
 口頭試問を受けているかのような言い方をする優后に、頼豪はまた頷いてみせた。
「犬神、かあ……。話には聞いたことがあるけど、まだ存在してたんだ。でも、犬神って厳密には、僕らとは少し違うよね」
 独り言めいた焔羅の呟きに、答えたのは頼豪だった。
「まあ、犬神は人為的に作られた幽霊みたいなものだからね。在り方は似ていても、成り立ちはずいぶん違う」
「大丈夫かな。犬神の力を使うことで、乾さんに悪影響なんか出ないの?」
「そこは気にしなくてもいいんじゃないかしら。犬神は強いものなら相手を祟り殺すほどの力を持っているけど、彼女の犬神は怪我どまりでしょう? 無意識にしろ、ちゃんと制御できている証拠よ――ありがと、優后」
 するりと優雅なしぐさでカウンター席に着いた焔羅の母――香爛に、優后は完璧なタイミングでジントニックのグラスを差し出した。軽い口調で礼を言い、香爛はグラスに口を付けた。ウイスキーを愛飲する彼女の好みからすれば物足りないが、まだカフェタイムであるし未成年の息子の目の前なので我慢する。
 ピアニストが席を外しているにも拘らず、ピアノは明るいジャズナンバーを奏で始めていた。とはいえ自動ピアノではない。この古いピアノは付喪神で、ピアノ自身が好みの曲を選曲して勝手に奏でているのだ。なら専属ピアニストの必要性はあるのか、という疑問が生じるが、そこのところは不問に付すというのがここでは暗黙の了解となっている。
「まあ、それを乾さん本人はストーカーだと思っちゃってるのが問題だから、その心配を取り除いてあげるのが私たちの仕事ってところかしら。というわけで焔羅、乾さんを送っていってあげなさい。気になるんでしょ?」
 ぴしりと出入り口を指さす母親に、焔羅は困惑の目を向けた。
「気になるのはその通りだけど……さっき乾さん、優后さんの送るって申し出を断ってたじゃん。僕が行っても余計なお世話になるだけじゃない?」
「大丈夫、断らないわ。あの子が断ったのは、優后じゃ悪目立ちするからよ。優后は確かに美人だけどね、連れて歩くには向かないタイプの美形なの。それに優后の歳のことを考えなさい。女子高生と並んで歩いてたら事案よ」
「言ってくれますね香爛さん……」
 容姿については褒められているはずなのだが、全体としては貶されているようにしか聞こえない。年齢にしたってまだ二十代前半なので、確かに十歳近くの差はあれどもそこまで言われるほどのことではないと優后は顔をしかめたが、香爛はさらりと無視した。
「でも焔羅なら同級生なんだし、誰にも不審がられることはないでしょ。マスターに頼まれたとでも説明すれば納得してくれるでしょう」
「わかった。じゃあ行ってくる」
「焔羅くん」
 彼らの会話はさほど長くなかったとはいえ、恐らく明日香は既にビルを出て、雑踏に紛れているだろう。追いつくべく足早に出入り口へと向かう焔羅に、頼豪は呼びかけた。
「走って追いかけるのも面倒だろう。直接出ればいいよ」
 そう言って、頼豪はカウンターの左隣の何も表示が出ていないドア――構造的に屋外に通じるはずのないドアを指し示した。
「いいの?」
 意外そうに目をぱちぱちさせた焔羅だったが、頼豪が深く頷いてみせるとそれ以上の疑問は示さなかった。
「ありがとう。行ってきます」
 開けたドアの向こうは従業員室のような室内ではなく、かといって屋外でもなく、ただべたりと漆黒の暗闇が広がっているばかりだった。店内の照明が差し込んでいるはずなのに、光が闇に飲み込まれたかのようにただひたすらに暗い空間である。しかし焔羅は臆した様子もなく足を踏み入れ、すぐにドアが閉じた。後は静まり返り、階段を下る足音も何も聞こえてこない。といって、店内に残った大人たちがそれを不審がったり、焔羅を案じたりすることはなかった。ドアを使った焔羅を含めて全員、このドアがどこに、どのように通じているのかを知っていた。


(2016.11.20up)

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