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青嵐


 あれが何時のことだったのか、(おれ)はもう憶えてゐない。
 二年程前の良く晴れた春の日の何時かであったということだけは確かだが、それが本当に(うつつ)の出来事であったのか、或いは夢の出来事であったのか、それはあの時から今でも判らない侭だ。
 あの頃の己は何時も逃げること(ばか)り考えてゐた。国中が戦勝気分で浮かれてゐたが、己はそれ処では無かった。
 逃げたいことは幾らでも有った。己は自らの身の振り方について、両親と毎日のやうに言ひ争いをしていた。己は家を継ぐ心算は毛頭無く、学校を卒業した後は家を出て働くことを考えてゐたのだが、両親の激しい反対に遭って果たせぬ侭日々を過ごしてゐた。
 己は物心付く前、赤子の時分にこの栢原(かやはら)の門前に捨てられてゐた捨て子だ。
 己を見つけ、両親に頼んで自分の弟として引き取らせて呉れ、名前を与えて呉れたのは十七離れた兄だった。だがその兄は己が六つの頃に亡くなった。結核だった。己が引き取られた時には既に発症してゐたといふのだから、随分長く病んでいたのだと思ふ。己が物心付いた頃には、兄は一日の殆どを離れの一室で過ごすやうになってゐた。
 病が伝染るのを避けるため、兄の居る離れに近づくことは禁じられていたが、大人達の目を盗んで会ひに行くと、兄は何時でも優しく迎えて呉れた。己が持ち込んだ花や、離れからも見える星の名前を教えて呉れ、本を読み聞かせ、時には歌留多や双六で遊んで呉れた。であるから、己に読み書きを手解きしてくれたのは兄である。やがて起き上がることすら侭ならなくなっても、本当に最期の時迄、兄は己を受け入れ続けて呉れた。
「斯うなってしまふ前に、お前を見つけることが出来たのは僥倖だった。己はもう長くないが、己が居なくなっても屹度お前が父さんと母さんの慰めになるだらう。何うか、己の代わりに二人に善く仕えてお呉れよ」
 兄は折に触れさう言ったものである。己を引き取って間もなく、兄の病状は束の間の外出も出来ぬ程悪化して仕舞ったからだ。
 不思議なことに、血の繋がりはない筈であるのに己は兄によく似ていた。年の離れた兄弟であると誰もが疑わず、事情を知っても俄かには信じられぬ程度には。その所為もあってか、両親は実の子同様に己を遇して呉れたし、兄は己を本当の弟のやうに可愛がって呉れた。己の人生から兄が喪われる迄、己は全く幸福であった。
 そんな両親と兄に感謝し、愛しているからこそ、栢原の血筋に綿々と受け継がれてきたものを赤の他人の己が兄の代わりに継いでは申し訳ないやうな気がするのだ。恩を感じているのならば家を継ぐことでそれを返して呉れと両親は言ふが、己にとって、今日まで養って貰った恩を返すことと家を継ぐことは全く別の話だった。幸ひにして、父方の叔父には息子が三人居る。下のどちらかが本家を継げば良かろうと思ふのだが、両親は「お前は薫の代わりに天が授けて呉れた子なのだから」と己以外の者には頑として譲らぬ覚悟で居る。なまじ己が兄に似ている為であらうと考えると、幼い頃には面映ゆくも誇らしかった顔形を恨めしく感じる。
 家を継ぐか否かが話題にならない時は、幼馴染との結婚話が争ひの種だった。実際の処、是が一番己を滅入らせてゐた。
 気晴らしをしたくとも、遊べるやうな所は何処にもない田舎の村である。一週間もしない内に、結婚を迫る双方の親と幼馴染、家督を巡る親との確執、そんな諸事に己はすっかり疲れ果ててゐた。


「其処で何をしてゐるんだ」
 その時、己が発した第一声はこの言葉であったと思ふ。縁側で転寝をしてゐたが何か厭な夢を見て眼を醒まし、人の気配を感じて己の書斎に行ってみれば、幼馴染が断りもなく上がり込んでゐたのだ。
 その上、彼女は己の文机の抽斗を勝手に開け、警官よろしく中を検めてゐた。当然の如く己は腹を立てた。
「何をしてゐると訊いてゐるだらう、珠子」
 再度詰るやうに問ふと、珠子は何も言わずに俯いてしまった。恐らく己が自分との結婚を渋るのは、他に女が居るからだと思って、証拠となる手紙なり日記なりを捜さうと考えてゐたに違いない。
「此処は己の部屋だぞ。己が何時、お前に入ってよいと言った」
「だって、嵐志(あらし)さん」
 珠子は眉尻を下げて顔を一寸傾けて、困ったやうな姿(しな)を作って己を見た。大抵はそれを可愛い仕種と見るのであらうし、彼女なりに愛想を振りまいたつもりであったのだらうが、頭に血が上りかけてゐた己には逆効果であった。
「昔からよく、嵐志さんのお部屋にもお邪魔してゐたじゃありませんか。それに、私はいずれ貴方の……」
「昔のことなど訊いてゐない。今、己が言ったかどうかを訊いてゐるんだ!」
「だって、だって……」
 珠子は莫迦みたいにその言葉を繰り返した。
 みるみるうちに彼女の眸に涙の粒が盛り上がってきたが、嫌悪を感じこそすれ、ひとかけらの同情も哀れみも感じはしなかった。云ひ訳を聞く気も無かった。幾ら昔は親しかったからとて、人の眠ってゐる隙に部屋に入るなど、泥棒と同じではないか。
「泥棒みたく勝手にひとの部屋に入って荒し回るやうな女と、誰が結婚などすると思ってゐるんだ」
 凝っと座ったまま俯いてゐる珠子に、己は冷たくさう言い放った。己の一言で珠子は到頭泣き出してしまった。珠子が許可も無く己の部屋に居るといふ事も許し難いといふのに、更にめそゝゝと泣いてゐるのが余計に腹立たしくて、己は珠子を怒鳴りつけた。
「出て行け! 今直ぐに!」
 (しか)(なが)ら彼女はその場を動かうともせず、益々深く項垂れ顔を覆って泣くばかりであった。己が大声を出したので家人たちも異変に気付いたらしく、数人が近づいてくる足音が聞こえた。
 珠子が泣いてゐるといふ事態から予想される諸々の面倒を考える迄もなく、もう、己はこれ以上この場に居たくなかった。
「お前が出て行かぬなら己が出て行く!」
 己は叩きつけるやうな激しさで乱暴に襖を開け、その侭縁側を駆け降りて下駄を突っ掛け、屋敷の外に飛び出した。
 待ちなさい、と己を呼ぶ母の声が背後から追いかけてきたやうに思ったが、敢えて無視して走り続けた。まるで、今まで抑えてゐた逃走への衝動が一気に迸り出て、勢いを与えたかのやうであった。
 田畑を抜け、村を囲む林の中の道ともつかぬ道を、どれほど走ったか自分でも判らなくなるほど走った。呼吸の度に喉が、胸が痛かった。漸う走るのを止め暫く歩くと、木立が突然途切れ、一面に空が広がった。其処は天然の広場のやうに木がぐるりと周りを囲み、漸く訪れた春の陽射しを浴びて、背の低い草が一面に生ひ茂ってゐた。
 走り疲れたこともあって己は何うしても其処に寝転んでみたい誘惑に駆られ、その青臭い緑の褥に倒れ伏した。仰向けに寝転び、空を見上げると其処には美しひ一幅の絵のやうな風景が広がってゐた。
 未だ芽吹きはじめたばかりの木々は枝ばかりで寂しげなふうであったが、確かに命が息づいてゐると感じられた。己は暫し我を忘れ、風景に見入ってゐた。
 其の瞑想を破ったのは、誰かが近づいてくる、草を踏みしめる音であった。己は思はず飛び起き、近づいてくる人影を確かめた。家人か、珠子が追ひかけてきたのではないかと疑ったからである。
 併し己の予想は良い方に外れた。己一人のものであった風景に入ってきたのは、年の頃は十六、七と思しひ見慣れぬ少女であった。この村の娘ではないと一目で判った。こんな田舎では滅多に見ることが出来ぬ、仕立ての良い服を着てゐたのだ。
「か……」
 己の顔を見るなり、少女はまるで信じられぬものを見たかのように一瞬だけ目を瞠り、呼びかけるやうに小さく唇を開いた。だが結局、その音は明確な言葉にはならないまま彼女の口の中で消えていった。近づく前に姿は見えてゐたであらうに、そこまで驚かれる理由が判らず、己は首を傾げた。
「……こんにちは」
「初めまして」
 当たり障りのない挨拶の言葉を掛けると、少女はゆっくりと一つ瞬きをする間に動揺を消し去り、己に応えて軽く頭を下げた。華族か士族の娘が転地療養でこの辺りに滞在してゐるのではないかと己は考えた。その少女の姿は、晩年の兄を思い出させて儚げであり、避暑には時期が早すぎたからである。それに又、結い上げず胸の辺りで揃えられた彼女の髪は村の娘達とは全く違ふ輝きを持つてゐたし、細かな縦縞模様が織り出された光沢のある上品な蒼の小袖と白銀の帯は、見るからに質の良いものであった。
 少女の風体を見て、己は寝巻代わりの浴衣姿の儘で家を飛び出してきてしまったのを後悔した。恐らく髪も乱れてゐたであらうし、()んな格好をしてゐては、狂人に見られても仕方が無い。驚いたのはその所為であったかもしれぬと思った。
 併し少女は己の格好には余り頓着してゐないやうであった。
「先程は失礼しました。お邪魔でないなら、此処に座っても可いでせうか」
「勿論」
 己が答えると、少女は微笑を浮かべ己の隣に上品に腰を下ろした。少女も己も、相手が何故此処に居るのかを訊ねやうとはしなかった。少女はそれを不躾と考えたのであらうし、己はそれを何か酷く無礼なことのやうに感じたのだ。だがやがて、少女が先に口を開いた。
「私は青華(はるか)と申します。失礼でなければ貴方のお名前をお聞かせ下さい」
「己の名は、嵐志です。此処の近くに住んでゐるのですが、貴女は?」
「ずっと遠い所から参りました」
 さう言って、青華と名乗る少女は莞爾と微笑んだ。それきり己と彼女は沈黙し、己は空を見上げ、彼女は野を見詰めてゐた。彼女は其処彼処に生えてゐる小さな花を弄ってゐるやうだった。
「一つ、お尋ねしても可いでせうか? 嵐志さん」
 彼女は足元を見詰めながら己に尋ねた。
「此の花の名を御存知ですか」
 それは小指の爪ほども無い、小さな花びらを持つ蒼い花だった。
 己はその花の二通りの名を知ってゐたが、村で使ふ名か、それとももう一つの名を教えるか少しの間迷った。もう一つの名は、兄が一度だけ口にしたものであったので、それが本当に正しいのか、判らなかったのだ。
「天人唐草と言ふのですよ」
 迷ったのは実際には数瞬の事であっただらう。己は迷ったほうの名を教えてゐた。
「天人唐草」
 少女は小さく繰り返し、納得したやうに頷いた。足元に咲いてゐたその花を一輪、優美な指先で摘み取って、彼女はそれを己に差し出した。空の色を映したやうな蒼い花びらは、かすかな風に震えてゐた。
「教えて下さって、有り難ふ」
 己は徐ろに手を伸ばし、彼女の差し出す天人唐草を受け取った。今は微笑を返す余裕も有った。
「先程は随分と驚かせて仕舞ったやうで、申し訳ない」
 取り敢へずこれは詫びておかねばならぬだらうと思ひ謝罪を口にすると、青華はゆっくりと首を振った。
「いいえ、私こそ失礼を致しました。不躾に驚いて仕舞って」
 さう言って、彼女はふわりと笑みを浮かべた。それは外見の若さを裏切って、ひどく大人びた表情であった。
「何方か、御存知の方と思われたのですか」
「ええ。貴方は、私が昔愛した方に迚もよく似ていらっしゃいます。二度とお会ひすることは無いと存じて居りますのに、あの方が再び戻って来られたのかと思って仕舞った程」
「その方は……もしや?」
 窺うやうにしながら言外に亡くなったのかと問ふと、青華は静かに頷いた。そして遠い眼差しを空に向けて続けた。胸の裡に秘めたものが知らず知らずに零れ落ちてゆくやうな、訥々とした調子であった。
「ずっと昔のことになりますが、忘れも致しません。あの方と出会ったのは、丁度斯んな陽気の春の日のことでした。それから毎年、春に此処でお会ひして居りました。最後にお会ひした時、あの方は私と共に生きたいと言って呉れました。けれども私は頷くことが出来ませんでした」
「何故です?」
「私とあの方が生きる世界は、余りにも違ってゐましたから」
 目を伏せて、蒼華は呟いた。
「私は、私の世界では無い場所で生きることが恐ろしかった。仮令あの方が私の居場所に為ってくれたとしても、あの方が先に逝くであらうことは互ひに解って居りましたから。さうしてあの方が逝って仕舞ったら、私は居場所を失って仕舞ふ。それには耐えられないと思ったのです。居場所が在らうと無からうと、あの方を喪えば同じことであったのに、それに気付かない程、私は若く、愚かだったのです」
 さう語る青華は、己よりもずっと幼い少女としか見えなかったのに、まるで老女の昔語りを聞くやうな心地がした。こんなにも若い彼女の言ふ『昔』とは、『若い』とは何時の話のことなのであらうか。己が似ているといふ『あの方』とは誰なのか。
「だから、嵐志さん」
 その声に、己は物思いから引き離され、彼女へ視線を戻した。
「貴方は、何処が貴方の居場所なのかよりも、何が貴方にとって一番大切なのかをお探しなさい。大切なものの在る場所が、本当の居場所なのですから。さうして、見つけたならばそれを大事になさい。貴方は私のやうに後悔しては可けません」
 まるで何もかもを見通すやうな色の瞳で、彼女は己の目を見詰めた。その瞳には遠い記憶を呼び覚まし、揺さぶるやうな輝きが有つた。まるで己を子供扱いしたやうな言葉であったが、己は何かを返すことも忘れて彼女の瞳を唯だ茫然と見詰めてゐた。不思議なことに、その瞳は己のそれと同じ色をしていた。
 彼女は静かな笑みを唇の端に浮かべた。
「薫さんの居た場所を、貴方が奪ふのではありません。貴方が今居る場所は、薫さんが与へて呉れた、貴方だけの場所でせう。何うか、それを捨てやう等とは思いますな」
「え」
 何故、話してもゐない兄の名を知っているのか――。突然他人の口から聞いた名に驚いたその時、不意に梢の青葉を揺らして強い風が吹いた。己は思わず目を閉じ、吹き付けた塵から庇うやうに腕で目を覆った。
 風が止み顔を上げると、先刻まで傍らに居た筈の青華の姿は何処にも見えなかった。まるであの風に浚われたやうに、彼女の痕跡すらも消えてゐた。己は天人唐草の咲き乱れる野に独りで座り込んでゐた。先刻までの青華との会話や時間の全てが白昼夢であったかのやうな、不可思議な気分であった。
 何時までも此処で呆けてゐる訳にはゆかぬ、家へ戻らねばならない、と己は思った。未だ何一つとして結論は出て居らず、置き去りにして来た諸事が待ち受けてゐるだらう。だがさう考えても、心は凪いでいた。両親と亡き兄――己の大切な人達が住まふ栢原の家は、確かに己の家でもあった。


 あれから二年が過ぎた。
 己は両親の求め通り家に留まり、今も日々を暮らしてゐる。珠子との結婚はあの一件以来、終ぞ話に出ない。恐らくは本気であったらう珠子には気の毒ではあるが、一方に思いの無いまま結婚しても不幸なことにしかならぬ。己の為ではなく彼女の為にも、これで良かったのだと思ってゐる。
 春が来るたび己はもう一度あの林の中の野に行かうとするのだが、其れは未だ果たされてゐない。恐らくあの場所に居るのではないかと、行けば逢へるのではないかと思ふのだが、青華と名乗った少女に逢ふことも無い。
 如何にも愚かしい考えだが、青華が愛し、彼女を愛した人とは兄なのであらうと確信してゐる。そして己に同じ色の瞳を与えたのは青華なのだと。だからこそ、兄は門前に己を見出した時、栢原の息子として引き取ることを決意したのだらうと。
 青華が何者であったのか。何故彼女と兄が出会ったのか。何故あの日、恐らくは兄と出会ったその時と変わらぬ姿で己の前に現れたのか。それは己には判らぬ。屹度、知る日は来ないであらうと思ふし、青華とは別の世界を生きてゆく己には知る必要も無いことだと思ってゐる。
 併し乍ら、青華にもう一度逢ふことが叶ふのならば、一つだけ知りたい事がある。
 この瞳の色は空の蒼を映してゐるのか、それとも天人唐草の蒼を映してゐるのか。


終(2013.3.20up)

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