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あまいひと



 ベッドルームの扉を開けた途端、薄暗がりに満ちていた甘い香りがふわりと体を包み、鼻腔に流れ込んできた。傍らに立っていた彼女は、風呂上がりでしっとりとまだ濡れている黒髪を微かに揺らして、怪訝な顔で部屋を見回した。
「何、この匂い。……香水?」
 職業柄、俺がどんな時でも香水やそれに類したものを付けることなどないと知っているから、他の人物が残した香りである可能性を念頭に入れて尋ねているのだろう。その目は単なる疑問ではなく、女としての疑惑の色を浮かべていた。
 何かにつけ俺を疑ったり非難したりするのは、もはや彼女の習性――第二の本能といってもいい。プライベートでは恋人同士だと、互いに認識していてさえこれだ。誠意を疑われるのは心外というものだが、彼女との関係が甘さを含んだものに変化したのはつい先日のことなので、仕方ないかもしれない。
「花だよ」
 大人げないとは思いながら、疑われたことにわずかな苛立ちもあったので、そう短く答える。家具といえばベッドとナイトテーブル、本棚しかない殺風景な室内に花の姿はどこを見てもない。だが、気配に敏い彼女は鼻も利く。すぐに匂いのもと――枕の脇で甘い香りを漂わせるクッションを探し当てた。
「これはポプリ?」
 彼女は抱え上げたクッションに鼻を埋めるように顔を寄せて、首を傾げた。
「似たようなものだな。花の蕾を詰めた小袋と、アロマオイルを付けた綿を入れてあるんだ。リラックス効果があるらしいから、寝室に丁度いいと思って」
「作ったの? 自分で」
「そう、自分で」
 いい歳をした男(つまり俺だ)が乙女よろしく花の蕾を集めて精油作りをし、ちまちまと縫物をしている姿を想像したのだろう。彼女は猫のように目を細め、ふふっ、と喉を震わせて笑った。
「お前さんって、意外と器用なところがあるわよね。そういえば庭に入った時、うっすら同じ匂いがしていた気がするけど。何という花なの?」
「金木犀」
「キンモクセイ?」
 俺が教えた名前を、彼女はぎこちなく繰り返した。Oの音がAに、EIの音がAIになっていたような気がするが、愛嬌だ。未知の言語をただ聞いただけで繰り返す時は、誰だってそうなる。
「知らない花ね」
「だろうな。東洋原産の木だから、植物園とか大きい庭園じゃないと見かけることはないだろうし。俺も、この家を手に入れた時に初めて見たし。そうそう、金木犀ってのは向こうの言葉での名前だよ。こっちだとフレグラント・オリーブって言うんだったかな」
 知らないことを知らないままにしているのは嫌いだと知っていたから、俺が知る限りのことを説明する。だが説明のどこかに、引っ掛かるものでもあったらしい。彼女はちょっと拗ねたように唇を尖らせた。
 なんだってそう、可愛い表情をするかな。
 と、そのままを言うわけにはいかないので、当たり障りのない質問を口にする。
「何? 俺、何かまずいことでも言った?」
 すると彼女は相変わらずのむっつりとした表情でぼそりと呟いた。
「……何だってそう、どうでもいいことまで詳しいの。お前さんの知識に死角があるのか、時々すごく気になるわ」
「……それは、褒めてもらってるってことでいいのか?」
 彼女は返事をしなかった。さらに機嫌を損ねたふうで、ぷいと顔を背けてクッションを胸に抱えたままベッドに身を投げ出した。だが、口や態度とは裏腹に、彼女の視線や体はとても正直だ。短い黒髪の間から、ほのかに赤く染まった耳が見えた。それを指摘すると本格的に機嫌を悪くしてしまい、宥めすかすのはなかなか骨が折れるので、俺はもうこの事に関しては何も言わないことに決めた。
「すごい匂い。酔いそう」
「嫌なら、向こうに持っていくけれど」
「いいわ別に。嫌いじゃないから」
 傍らに横たわると、背中を向けたままの彼女は視線だけをこちらに投げてきた。近づけば、香りはくらりとするほど深く濃厚になる。まるで、彼女の肌からその香りが立ち上っているような錯覚を覚えた。バスローブの襟元から覗く象牙色の肌に唇を寄せ、うなじに軽く歯を立ててみる。
「うん。やっぱり、味覚には影響しないか」
「そりゃ当然でしょ。何言ってるの」
 くすくすと笑う振動が唇を介して伝わってくる。彼女の声は立ち込める香りと同様に甘い。


*  *  *


 喉の渇きを覚えてキッチンへと向かった。明るい所からいきなり暗転したり、真の暗闇でもない限り、多少の暗さは俺にとって行動の障害にならない。明かりを点けると明るさに慣れるまで時間がかかるので、淡く青みがかった月明かりの中を歩いていく。秋も半ばとなれば、室内でも無人なら空気はしんと冷え切っていた。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐのも面倒でそのまま口を付ける。喉を滑り落ちてゆく水の冷たい感触が心地良かった。ダイニングの椅子に腰かけてぼんやりとしていたら、慣れた気配が足音もなく近付いてきた。別段、驚きもしなかった。それが誰かなんて判り切っているし、今はプライベートだから警戒する必要もない。
「飲むか?」
「ありがとう」
 振り向きざまに自分が飲んでいたボトルを渡そうとして、俺が直接口を付けたものなんか渡したら怒るか、と少し心配した。だが彼女は気にした様子もなく手を伸ばし、白く細い喉を反らせて先刻の俺と同じように水をあおった。
 気の済むまで水を飲んで、ボトルをテーブルに置いた彼女は、俺の肩から流れ落ちる髪を一すくい手に取ると、そこに鼻を寄せた。
「どうした?」
「匂いが移ってる」
 髪から顔を離さず、彼女は小さな声で言った。
「花の匂いを振りまいてる殺し屋なんて、間抜けだわ」
「そいつはあんたも同じだろ。気をつけろよ」
「私はいいのよ。ボディガードだもの。お前さんみたいにこそこそ隠れる必要ない。むしろここにいるんだってことをアピールした方がやりやすいこともあるし」
 彼女が花の香りを振りまいて目立つことよりも、殺し屋の俺と同じ香りをまとわせていることを誰かに知られたら事だと言いたかったのだが、妙なところで詰めの甘い彼女はそこまで考えなかったらしい。
 ベッドルームに入る前はまだ少し湿っていた俺の髪はこの数時間の間にすっかり乾いていて、もてあそぶように何度も何度もすくい取る彼女の指の間から、銀色の砂のようにさらさらと流れ落ちていく。こういう関係になってから知ったことだが、彼女は俺の髪の色とか手触りといったものがことのほか好きらしい。例によって、口には出さないが。
「ずいぶんとご機嫌だな」
 俺の口調はからかうようなものだったが、それに突っかかることなく、微笑みを崩さないまま彼女は答えた。
「だってお前さん、こんな甘ったるい匂いさせてちゃ、仕事にならないでしょう」
「あのなあ、あんた……」
 何を馬鹿な事をと言いかけて、俺は結局口をつぐんだ。
 ありとあらゆる方法を駆使するプロの殺し屋である俺にとって、身に付けた匂いなど何の障害にもならない。
 それに、こんな花の香りなら可愛いものだ。どんなに微かなものであっても誰もが神経を尖らせずにはいられない、本能的に危険を悟らせる汚辱とその臭いにまみれた日々を俺は知っている。そして染みついたそれらの臭いをごまかし、消す方法など幾らでも知っている。そもそも感づかれたり、痕跡としてそれが残るような距離に近づかずに――或いは何の痕跡も残さず殺すことなど造作もない。
 それくらいのこと、彼女だって判らないはずがない。知らないはずはないのに。
「リラックス効果とやらで気を抜いたのかしら? お前さんにしてはぬかったわね。こんなに匂うもの、洗ったって消えそうにないじゃない」
 仕事の邪魔に成功した時と同じくらい輝く笑顔で、実に嬉しそうに彼女は言った。この稼業から足を洗う気はさらさらないが、俺たちの関係が良好に維持されるなら、彼女の言うとおり、この匂いが自然に消えるまで休業するのも一つの手かもしれないと、その笑顔を見て俺はふと思った。恋人に笑顔でいてほしいと思うのは当然の心理だし、上機嫌は歓迎すべきものだ。理由は何であれ。
 そう思わせるのが彼女の戦略なのかもしれない。だが、季節が変わるまでなら乗せられてやってもいいかと思う俺も大概甘いものだと、静かに苦笑した。


終(2011.10.20up)

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