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霧の森


 それは恐ろしいほど静かで、暗くて深い森。
 道を見失えば二度と出てこられない、迷いの森。
 昼夜の別なく濃い霧が立ち込める森。その霧の中には魔性が住んでいるという。その森は「霧の森」と呼ばれていた。
 その日、僕と懐紀(なつき)はその霧の森に入った。山歩きや散策といった和やかなものではない。二人きりで話をするためだった。その話も、お互いの家では隣人や家族に聞かれるかもしれないし、人目のある喫茶店などで話し合える内容ではなかった。誰の目も気にせずに二人で話せるところと言えば、ここくらいしかなかった。
 もしくは――誰かが行方知れずになっても、絶対に誰にも判らない場所を、僕たちの深層意識は共通して望んでいたのかもしれない。
 待ち合わせていた時間ぴったりに、懐紀は来た。僕らは頷きあっただけで、互いに一言も口を利かぬまま霧の森へと入っていった。森に入っていくらも経たないうちに、靄がうっすらと漂い始め、散策路から外れて三十分も歩くとそこにはもう、手を伸ばした先がやっと見える程度の濃い霧が立ち込めていた。
「ここらでいいだろう」
 懐紀が後ろから声をかけた。
「そうだな」
 僕は応え、立ち止まった。気配で、懐紀も立ち止まったのが判った。しばらく僕らは顔も見えないまま、沈黙を保っていた。
「それで――お前は秋弥(あきみ)と結婚するつもりなのか」
 沈黙を破ったのは僕の方からだった。
「ああ」
 彼は即答した。それから、何かごそごそと服を探っているような音がしたので、僕は思わず身構えた。だが音の正体はすぐに判った。
「ち、湿気てやがる」
 懐紀は小さな声で罵った。どうやら煙草に火をつけようとしていたらしい。その前に聞こえたカチリという金属音はライターの蓋が立てたものだろう。
「彼女は、なんて」
「何も。親に逆らえる女じゃないだろ」
「一つだけ聞いてもいいか」
 僕は目を閉じ、震える声で問うた。
「お前、最初から僕と秋弥が付き合っていることを知っていたのか」
 再び沈黙が降りてきた。
 僕には秋弥という恋人がいた。
 人並み以上の美人というわけではないが気立ては良くて、しとやかで、何より僕が惹かれたのは彼女の優しさだった。彼女も僕を好いてくれていた。僕らが出会い、付き合いはじめ――そして将来を誓い合うまでにはそう長い時間はかからなかった。
「子供は二人がいいわ。あなたに似た男の子と、私に似た女の子。大きな家は寂しくて嫌。家族がいつでも一緒にいて笑いあえる、そんな家がいいわ。そして家の前には小さな庭を作るの。あなたの好きな雛菊を植えましょう」
「その隣には君の好きな菫を育てようよ。季節の花をたくさん。天気がいい日には花を眺めながらお茶ができるように」
 将来の夢を、秋弥は目を輝かせて話した。そんな時の彼女は何にも増して愛らしく、可愛らしかった。まだ見ぬ二人の未来を語り合うだけで、僕らは幸せだった。
 だが僕と彼女の結婚は、彼女の両親の認めぬところだった。僕は決して裕福というわけではなかったから、それが彼らには不満だったのだ。
 だが僕と彼女はそれでも説得を続け、ようやく婚約の許しが出た。それがつい二週間前、彼女が他の男に嫁ぐという話が唐突に決まり、僕は彼女の両親から一方的に別れを切り出された。その相手というのが、僕の幼い頃からの友人でもあるこの男、懐紀だったのだ。
 彼は起こした事業に成功して一代で富を築き上げた、いわゆる成功者というやつだった。僕ら三人の関係はよくあるメロドラマの筋書きに似ていた。貧乏な男を愛する娘、その娘を金づくで奪い取っていく裕福な男――。彼のもとに嫁いだ方が幸せだと、物質的には満たされるだろうと、諦めることも僕にはできた。だがそうするにはあまりにも、僕は懐紀という男の裏側を知りすぎていた。
 僕と懐紀の仲はその時以来、表だったものにはならないものの、刺々しいものになった。彼がどう思っているのかは定かでなかったが、僕は時折発作のように彼を強く憎んだ。
「……知ってたよ」
 ゆっくりと懐紀は言った。霧の中でぼんやりした影としか見えなかったのに、彼が冷たい嘲笑を浮かべているのが、僕には何故か手に取るように判った。
「知っていたからそうしたんだ。あの女はお前を愛してる。お前もあの女を愛してる。だけどあの女と結婚するのは俺だ。傑作だろ」
「お前っ……!」
 彼はまだくっくっと喉の奥で笑っていた。その声が我慢ならないほど耳障りで、僕は両手で耳を塞いだ。だがこの距離では、そんなものは彼の声を完全に遮る役には立たなかった。
「何でか聞きたいか? 俺はお前が嫌いなんだ。いつもいつも善人ぶって、恋人をとられたくせに、結婚おめでとうなんて言いやがって。虫唾が走るんだよ、そういう偽善者面が。ちょっとは悔しがれよ。泣いて喚けよ」
「……それだけのために彼女と結婚するのか」
 耳に当てていた手を拳にして下ろし、僕はそれだけをやっと言った。
「お前――彼女を幸せにしてやる気はあるのか」
「だから、そうやっていい子ぶるのが嫌なんだよ」
 懐紀は吐き捨てた。彼が僕の言動をどう受け取ったかなどは知らない。だが、僕は純粋に、僕への嫌がらせに巻き込まれてしまった秋弥をいたわしいと思っていたのだ。その僕の気持ちに偽りはなかった。
 握りしめた拳に爪が食い込んだが、不思議に痛みは感じなかった。そして僕は意識が白く霞みそうになるほどの怒りの中でどこか冷静に彼の言葉を反芻し、その意味するところを考えていた。
 思えば僕は理不尽なこと全てに目をつむり、ただ耐えるだけで生きてきた。どんなことにも僕は正面からぶつかって抵抗し抗議するよりも、黙ってそれらを被り、心を押し隠すことでやり過ごしてきた。それが彼には気に入らなかったのだ。偽善と映ったのだ。
 でも。
「何で……」
 僕が偽善者だとしても、それが罪だとしても、それを裁くのは人じゃない。
「何でお前に僕の幸せを奪う権利があるんだ!」
 叫んだ瞬間、かっと頭に血が上る感触が判った。耳の奥がざわざわと鳴っていた。木々の葉擦れの音ではない。血の音だった。そして、白い霧で遮られた視界が一瞬、赤く狭窄した。


 そう。
 確かにその時。
 僕は、彼を殺してやりたいと思うほど憎んだのだ。


 詳細に自分が何をしたのかは判然としないが、僕は怒り任せに懐紀に飛びかかったのだと思う。僕らの体は宙に投げ出され、一瞬の浮遊感の後、不意に重力が体全体にかかった。濃い霧のせいで見えていなかったが、僕らの背後には地面がなかったのだ。霧の森の中に崖があるだなんて、僕は知らなかった。
 叫ぶ間もなく、激しい衝撃が全身を襲った。干上がった川底か、それともただの地面か、ともかく硬い地盤に叩きつけられたことだけは確かだった。ぐしゃり、ぼき。柔らかなものが潰れる嫌な音、骨の折れる音が聞こえた。一気に失血したのだろう。急激に意識が遠のいていく。
 その時ぼんやりと僕は死を悟った。
 だがここで僕が懐紀と一緒に死んでしまったら、秋弥はどうなるのだろう。彼女の幸せはどこにあるのだろう。僕でなくても、懐紀なら少なくとも財産がある。その意味での幸せは手に入るはずだ。だが、僕も懐紀もいなくなってしまっては――。
 ああ、とため息が漏れた。それだけで痛みが押し寄せてきた。せめて僕に彼女の両親を納得させられるだけの金さえあれば、こんなことにはならなかっただろうに――。
 意識が闇に落ちる瞬間、霧の中から誰かの声が響いたのを、聞いたような気がした。


 天井も壁も真っ白な病室。あの日の霧の中のように。耳に飛び込んでくる音も、どこか遠いところから聞こえてくるようにぼんやりしていた。
「あんな崖から落ちて助かるなんて、よくよく運のいい人だよ。これも運命だったってことさ、秋弥」
「これで、退院したら何の気兼ねもなく祝言を挙げられるわね」
「よしてよ、今はそんな話……!」
 秋弥と、両親の声だった。彼女の声は涙を必死でこらえているような調子だったが、両親がそれを気にしている様子はなかった。
「ともかく、あなたに会いたがっているんだから。失礼のないようにね」
 母親のその声を最後に、足音が遠ざかっていく。両親はその場を離れていったようだった。しばらくすると病室の扉が開き、秋弥が入ってきた。彼女はかすかに項垂れて、全身を包帯に包まれてベッドに横たわっている男を見つめた。まだ意識はぼんやりしているようだったが、彼は確かに目を開けて、彼女を見つめていた。
 秋弥は本心では帰りたくて仕方がなかったが、両親には逆らえなかったし、生死の境からやっと意識を回復し、自分に会いたがっている怪我人を放っておけるほど冷たい人間でもなかったので、しょうことなしにベッドの傍らに歩み寄った。
「懐紀さん……秋弥です。わかりますか?」
 秋弥はありきたりな台詞を言った。それ以外にかけられる言葉がなかった。強いて別のことを言うとしたら、それは酷い言葉になっただろうから。
 霧の森で崖から落ちた二人の男のうち、助かったのは一人。懐紀だった。もう一方の生還を望んでいた秋弥にとって、それは喜びではなく悲しみだった。懐紀は彼女の言葉にかすかに頷き、擦り傷だらけの顔でぎこちなく微笑んだ。
「退院したら、結婚しよう」
「……」
 秋弥は悲しげに眉を寄せたまま、彼女と恋人の仲を結果的に永遠に裂くことになった男の顔を見つめていた。だが懐紀は構わずに続けた。
「僕らが住むのに、大きな家は要らないよ。僕らは、いつでも家族が顔を合わせて笑いあえる、そんな家庭を作ろう。そして庭には僕の好きな雛菊と、君の好きな菫を植えよう。季節の花を育てて、天気のいい日にはそこでお茶をするんだ」
「……」
 秋弥の沈黙はその意味合いを変えていた。
 彼女の頬を一筋の涙が伝う。そして、涙を流しながら笑った。
「あなたなのね? 夏希(なつき)……」




 霧の森にはやはり魔性が住んでいる。今日もそいつは霧に紛れて獲物を探している。あの霧、白い闇に呼び覚まされる心の闇を求めて。それが悪いものなのか善いものなのか、僕には判らない。だが少なくとも、僕にとってあれは悪いものではなかった。
 あの時霧の中から呼びかけてきたものは、僕の憎しみの念に惹かれてきたと告げて、死にかけていた僕にこう持ちかけた。
 誰のものであれ、魂と引き換えに望みを一つだけ叶えてやる、と。
 そして懐紀が望みを口にし、僕は彼の望みを優先させてやった。そしてそれが叶えられた。それだけのことだ。
 懐紀は秋弥を本気で愛していたのだろうか。だから、あんなことを願ったのだろうか。それともただ僕を殺したかっただけなのか。今となってはもう判らないことだ。


 ――夏希の魂と引き換えに、俺が秋弥に愛されるようにしてくれ。


 声の主は僕と懐紀に願いはそれでいいのかと確かめ、僕たちは承諾した。僕はあの時、もうすっかり自分の命を諦めていたし、僕が死んでしまっても秋弥が悲しまずに済むなら、それでもいいと思ったのだ。
 確かに声の主は懐紀の望みを叶えた。秋弥が愛していたのは僕だったが、その僕の魂が宿ったことで、懐紀の体は彼女の愛を得ることができたのだから。しかし魂と引き換えという条件だったのだから、懐紀の願いを完全に叶えたのなら僕の魂は魔性に奪われていたはずだが、僕はこうして無事でいる。
 あの声の主はどちらも『ナツキ』である僕らを取り違えて懐紀の魂を奪ったのか、懐紀の願いを叶えるために必要だったから僕の魂を奪わなかったのか。それとも己を呼び寄せた僕の魂は奪えなかっただけなのか、それはわからない。
 しかし魂が入れ替わったのであれ、魔性に奪われたのであれ、どのみち懐紀は死んでいたはずだ。僕の――夏希の体ときたら、背骨は折れるわ内臓は幾つも破裂しているわの、悲惨な状態だったらしい。あの時即死していなかったのが不思議なくらいだ。そんな体に乗り移ったら、間違いなく死ぬに決まっている。
 今になって考えてみると、全てが奇跡だった。魔性のものが現れなければ僕の魂は僕の体と共に死んでいたし、魔性のものが現れていても、崖下にあたる散策路を通りがかった人がいなかったら懐紀も死んでいたはずだ。僕は――つまり本来の僕、夏希の体だが――はほぼ即死、懐紀の体も退院できるようになるまで半年以上を要したほどの大怪我だった。
 僕は懐紀としての生活に慣れるまで記憶喪失を装うことにし、彼の両親も疑いを抱かずにそれをそのまま受け止めた。懐紀の性格が一変した理由を、皆は霧の森での一件のせいだと考え、誰一人として懐紀に僕の魂が宿っているなどと考える者はいなかった。だいたい、実際に体験した僕でさえあれは夢だったのではないかと思いたくなるほど荒唐無稽な話だ――。この秘密は僕と秋弥が墓まで持っていくのだ。
 そして退院した翌年の秋、僕は秋弥と結婚した。
 あの時、魔性のものの言葉に耳を貸さなければ、助かったのは懐紀だったはずだ。彼はいつでも諦めずに最後まで足掻く男だったが、最後の最後にそれが裏目に出てしまったということだろう。
 魔性のものは僕の憎しみが呼び寄せたのであり、僕を助けようと申し出たのだが、僕は懐紀が先に願いを口にするのを止めなかったし、それを覆そうともしなかった。懐紀が死んでしまってから、彼の言っていたことを考えることがよくある。
 そして、この世の中で最後に得をするのは、他人を踏みつけにしてでも己の幸せを求めようとする人間ではなくて、踏みつけにされることを甘受する偽善者なのではないかと思うようになった。
 懐紀が言ったとおり、僕は偽善者だ。あの時も懐紀よりも先に願いを言うこともできたのに、取り消すこともできただろうにそれを譲ってやった。だが他人を踏みつけにしようとして懐紀はそういうふうに死んでしまったのだし、そうなるくらいなら僕はやはり偽善であると言われようとも、今のままでいい。
 何であれ僕は今幸せなのだし、それはこれからも続いていくだろう。


終(2011.2.20up)

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