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鎮花(はなしずめ)



「貴方、櫻を観にゆきましょう」
 庭の櫻が七分咲きとなった或る日、妻が華やいだ声で私に云った。私は庭に面した書斎で書き物机に向かい、此の処取り組んでいる研究を纏めていた。妻は縁側に腰掛け、息子をあやしている。
「相変わらず櫻が好きなのだね」
 私が云うと、妻は微笑んだ。櫻を愛するのが変わらぬように、年を経ても妻は変わらず美しかった。去年息子を産んでからは、以前の此の世のひとならぬ雰囲気は薄らいだが矢張り美しかった。観櫻(みを)の名のとおり、彼女には櫻が善く似合う。
 観櫻は嘗て、無二の親友だった櫻木の細君であった。四年前に櫻木が病で(みまか)り、二年前に私は未亡人となった彼女と結婚した。親友の妻を娶ったことで、知人達の中には責める者も居なくは無かった。櫻木に済まぬと思わぬのか、というように。私は死後の世界を信ぜぬ訳ではない。だが死した者は既に己の想念を語ることは出来ぬ。仮令冥府で櫻木が私を恨んでいるにしても、それを聞くのはまだ先の話であろう。
 (しか)し、周囲の者が何を云うにしても、櫻木は私を理解して呉れるであろうと思う。私は彼の妻を愛したのではなく、観櫻という一人の女に魅せられているのだと。それは極彩色の地獄絵図に畏怖しつつもそこに美を見出すに似ている。観櫻とはそういう女なのだ。
「ではいつ行こう。今日はこれから短歌の会があるが……。何うだろう、夜櫻を観に行こうか。夜櫻は好きだろう」
倩兒(せいじ)が愚図って仕舞いますわ」
「君さえ良ければ、倩兒の面倒は私がみるから、君一人で行ってくればいい」
 冗談に云うと、観櫻は小さく鳩のような声を立てて笑った。
「出来ない事をお約束なさってはいけません、貴方」
「出来るかどうかは、やってみなければ判らぬよ」
 何処か意地になって、私は言い張った。併し何時だって、私に対する評価は私自身のそれよりも観櫻の方が正しい。私は内心観櫻の云うとおりだと思いながら、倩兒を置いていく訳にも行くまいと考えていた。
「では観櫻、君が好きな時に決めたら善い。併し倩兒なら恐らく私達を困らすような事は無いと思うが」
 私が云うと、観櫻はまた微笑んだ。結婚する以前は知らなかった、優しく暖かな笑みである。彼女の腕で眠っていた倩兒が眼を覚まし、何かを訴えるような喃語を発した。
「ほら、倩兒も行きたいと云っているよ」
「またご冗談」
 観櫻は腕の中で呟くような声を出している倩兒を見下ろした。眼差しで何か語りかけているようにも見えた。母と子の間には、父親には理解できぬ繋がりが在るようである。彼女はやがて顔を上げた。
「貴方の仰るとおり、夜櫻を観に行きましょう。今夜の月は何でしたか」
 壁掛けの暦に目を遣った。観櫻は月夜の櫻を一番好む。
「十五夜だよ。それに、今夜は晴れるそうだ」
 話は決まった。
 私達が住んでいる深川には、櫻並木で有名な通りが在る。其処に行こうと決めた。それまでは暫く、待つ事になるだろう。


 短歌の会は、私の大学の師である閑谷(しずや)先生が週に一度、御自宅で開かれているものである。芸術性を追う文人の集まりではなく、己の趣味として短歌を嗜む人々の為に先生が幾らかの指南をしておられるのだ。閑谷先生は今年で還暦を迎えられる。一人で会を宰してゆくのは大分辛くなられたとのことで、偶々近くに住んでいた私が助手を務めている。
 何時ものように少し早く行くと、未だ生徒たちは来ておらず、先生が独り、帳面に何かしたためておられた。
「お邪魔致します」
 声をかけると、先生は不図顔を上げられた。元来血の気の薄い方だが、今日は特に顔色が悪いように見受けられ、私は素直に()れを口にした。
「先生、何処か具合が悪いのではありませんか」
 先生は其の様に云われるのは存外だと云わん許りに笑われた。
「心配無用。私はこのとおり元気だよ、祭部(まつるべ)君」
 実際、悪いのは顔色丈けで、他には先生の様子に常と変わる処は無かったので、私はそれ以上の事は云うまいと考えた。先生の代わりに準備をしている内に、生徒がぽつゝゝと訪れ始めた。
 何ういった訳か、此の会には女性が多い。大半は年配の御夫人であるが、中には私とそう変わらぬ歳の御夫人もいる。今日最初に来たのは、そういう若い方の一人の、工藤夫人であった。夫君は美術学校で教授を為さっていると聞いた。
「今日は、祭部先生」
「お早いですね」
「えゝ。今日は日向子が珍しく愚図らなかったものですから」
「既う三歳になられたのでしたか」
 そう尋ねると、工藤夫人は笑み崩れた。
「良く覚えていらっしゃるのね。えゝ、そうです。三歳にも成るのに甘えん坊で仕方ないのですよ。私も夫も手を焼いておりまして」
 工藤夫人はそう云ったが、実は令嬢の事を尋ねられるのが何よりも嬉しいらしい。笑みは幸せそうなものであった。何んな親にとっても、我が子とは可愛いものなのだろう。工藤夫人の話を聞いている内に、歌会の会員の面々が出揃った。
 銘々が自宅で推敲してきた短歌を持ち寄り、発表して批評し合うというのが此の会の趣旨である。閑谷先生は九年前まで大学で教授を為さっていたので御指導も慣れておられるが、私などは人に教えるというのは苦手である。とはいえ教えなければならぬ責任は感じているので、全力を尽くしている心算である。
 昼過ぎから始まった歌会は、二刻程で閉会となる。皆が帰った後もやらねばならぬことは多々ある。関節を痛めておられる先生の代わりに片付けなどをしていると、私が帰るのは夫れから更に一刻も過ぎた頃となる。辞しようとした時、先生が私を呼び止められた。
「祭部君、些と待ち給え」
 下駄を履きかけていた私に、先生は風呂敷包みを差し出された。感触から、紐綴りの書物であることが窺われた。
「此の前君が借りたいと云っていた書物だ。持って行き給え」
「宜しいのですか」
「構わぬよ。君は何時も善くやって呉れているから、其の礼代わりと思って呉れ」
 そう仰って閑谷先生は笑った。風呂敷の合間から書名を見ると、何度頼んでも首を縦に振っていただけなかった書物であった。門外不出のものかと思っていただけに、夫れは意外であった。何度も礼を云い乍ら、私は先生の御宅を辞した。
 すると木戸を潜り抜けた処に、一人の女が居た。先生のお宅に入ろうとしているでもなく通り過ぎるでもなく佇んでいるようであった。其の様子が気に掛かり、擦れ違う時に私は女を凝と見て了った。女は勿忘草色の地に色鮮やかな花鳥紋の刺繍が入った、古風ではあるが中々美事な留袖を着ていた。年の頃は二十七、八かと見える。
 驚くほどの美人だった訳ではないが、一度も陽に曝されたことなど無いのではないかと思われるほど白い膚であるのと、そのせいで余計にくっきりと見える左の目の下の黒子が印象的だった。夫れ以外に目立った処は無い女であったのだが、私は通り過がりの女を一瞬とはいえ不躾に見つめていた。擦れ違った後、振り返ると、女の姿は消えていた。道を曲がったのか、先生の御宅を訪れたのか、夫れは私には分からなかった。


 夕餉を済ませてから、観櫻と倩兒を連れて夜櫻見物に出掛けた。家を出た時には物珍しそうに辺りを見回していた倩兒は、今は温和しく観櫻に抱かれて眠っている。我々の他には夜櫻を見に来た人は居らぬようで、静かなものであった。
 夜の櫻は昼の華やかさとは別の、寂々とした空気を纏わせている。月光の下では淡い櫻色は闇に溶け、白っぽい輝きと為っている。
「未だ満開ではありませんね」
 空を覆う枝を見上げ、観櫻が云った。満開となるのは未だ既う少し先になるだろうか。今は五部咲きといった処である。私には満開の櫻よりは寧ろ此の頃の櫻が良い。満開の櫻は、後は散る丈けの風情が哀しくて心からは楽しめぬ向きが在る。そう思う反面、既う散りつつある櫻もまた良いと思う。観櫻は散る櫻を好まぬので、其の点でのみ我々は妥協し合えぬのであった。
 私達は半町程もある櫻並木を半分程度歩いていた。倩兒は相変わらず眠っていて、観櫻に代わって私が抱いていた。家に残して出掛けても構わなかったのではないかと、怪しからぬ事を不図考えてしまった。
「あゝ、此の櫻は満開のようだ。深山櫻だろうか」
 私に倣って観櫻は足を止め、其の櫻を見上げた。白い小振りの花が葉と共に繁っている。私の識っている櫻の種類は夫れと染井吉野と八重櫻を幾つか、荒川堤に在る手鞠桜の他に無い。観櫻は夫れを知っていたからか、僅かに微笑んだ。
 此処の櫻は染井吉野の他に深山櫻しか無い。夫れでなくとも三十二年も暮らしていれば、自然に憶えるというものである。私も夫れは判っていたので、笑み返した丈けであった。其の時、私の眼に華やかな花鳥紋が飛び込んで来た。黒々とした幹と幹の合間から突然現れたので、余計に眼を引いた。
 月明かりの下だったので、色は良く判らなかった。だが、豪華な刺繍に見覚えがあった。知り合いでも顔見知りでも無い女を、一日の内に二度も見るのは何の偶然だろうかと考えながら、私の眼は其の留袖を追っていた。また幹の陰に隠れた姿は、突然に消えた。
「貴方、何か見つけたのですか」
「大した事ではないのだがね。今日の昼に見掛けた人が、今其処にいたのだが、不意に消えてしまったように見えたのだ」
「向こうに行かれたのでしょう」
「昼にも、消えたように見えたのだよ。不思議な人だ」
 私が云うと、観櫻は一寸首を傾げた。
「不思議な人ですね。気になるのでしたら、確かめてこられたら如何です」
 揶揄うように観櫻が云った。私は倩兒を抱えた儘、女が消えたと思しい場所に近づいた。観櫻も私の後ろからついて来た。櫻の樹のすぐ傍まで近づいた時、先刻の女とは全く別の人影が其処に佇んでいた。矢羽根模様の藍絣には見覚えがあった。其の後ろ姿は私には馴染み深い方のそれであった。
 閑谷先生であった。
 併し、声を掛ける事は躊躇われた。先生は何やら物思いに沈んでおられるようだった。ほんの一、二間しか私達と先生の間には無かったが、私達に気付かぬほどの物思いならば破るのも無粋と思われて、私はそっと其の場を離れた。


 再び閑谷先生のお宅を訪れたのは、夫れから二日後の午後だった。先日貸して頂いた資料を返す為である。先生は矢張り顔色が悪かったが、御加減が悪いわけでは無いようだった。世間話の序(つい) でに、私は先日の夜の事を話題にした。
「二日前の夜、先生も花見にいらっしゃっていたのですね。偶々、私もあの日、妻と子を連れて夜櫻を観に行っていたのですよ」
 先生は驚いたように私の顔を見た。
「君も行っていたのか。夫れは気付かなかった」
「声をお掛けするのは躊躇われたので、遠慮させて頂きました。処で、彼処にもう一人、女の人が居ませんでしたか。先生が居られた辺りで消えたように見えたのですが」
「女かね」
「そうです。確か、刺繍の美事な留袖を着ていました」
「夫れは見ていないな。祭部君の見間違いではないのかね」
 先生は頭を振った。確かにあの女は幻のように消えたのであるし、見たのは私一人であった。見間違いと云われたら、否定は出来なかった。
 次の歌会の日、本田夫人が私に不思議な話を聞かせてくれた。彼女は噂好きで、何処から仕入れて来たのか判らぬような事を色々と人に話すのが好きな人である。其の彼女が話したのは、彼女の幼時に遡る話であった。
「祭部先生、(わたし)の家の近くに櫻の見事なお屋敷が在りますのを御存知ですか」
「えゝ存じています。櫻屋敷でしょう。あの辺りには毎年花見に行きますよ。其の屋敷が何うしたのですか」
 本田夫人は、何か他人の知らぬ事を自分丈けが教えてやれるというのが嬉しくてならぬというように笑った。
「彼処は昔、何処かの藩士のお屋敷だったのですよ。御維新の時に国元に戻られたきりになって仕舞いましたが、其処に迚も綺麗な奥方がいらしたのです。御維新があった時、妾は未だ十になるならずでしたが、其の奥方の事はよく憶えています」
「はあ」
 気の無い相槌を打った私とは対照的に、此処からが肝腎だというように本田夫人は身を乗り出してきた。
「先日、櫻屋敷の近くで其の奥方を見たのですよ」
「では東京に戻って来られたのですね」
 何の気もなく云うと、本田夫人は肯いた。
「けれども、夫れがまあ不思議なことに、奥方は私が最後に見た時と全くお姿が変わっていなかったのですよ」
「まさか、在り得ませんよ。其の方の御令嬢なのではないですか」
 彼女は頑固に首を横に振り続けた。
「いゝえ、そんな事は絶対に有りません。あれは奥方御本人です。確かに、御維新の頃奥方は三十手前のようでしたから、国元に戻られてから娘様が産まれたなら、同じ位のお歳になっているのでしょうが、妾も最初そのように思ったのですが、余りにも瓜二つなのですよ」
「良く似た親子というのは珍しくないと思いますが」
「でもねえ、祭部先生。似ているにしても全く同じ人のようだなんて、気味が悪いじゃありませんか。御顔立ちもそっくりなら、黒子の場所まで同じなのですよ」
「黒子ですか」
「そうですよ。左目の下に、墨を置いたような黒子が一つ。そうゝゝ、国元にお帰りになるという日に奥方が着ておられた、大層美事な勿忘草色の花鳥紋の留袖を着ておられたもので、直ぐ判ったのです。本当にそっくりだったものですから、此方まで十の子供に戻ったような気が致しましたわ」
 私は其の後の彼女の話を殆ど憶えていない。彼女の語った奥方の風体は、私が見掛けたあの女に、聞けば聞くほど似ているように思えた。御維新と云えば、私は未だ生まれても居らぬ頃である。三十余年も姿の変わらぬ女。そんな馬鹿馬鹿しい話があるだろうか。人の好い本田夫人が嘘を吐くとは思えぬが、私は、全く混乱していた。
 先生の宅を辞した後も、本田夫人の話が私の頭を離れなかった。三十年近くも前に彼女が見た女と、今私が頻々と見る女。そして、閑谷先生。其の三つの接点が、私には何うも分からなかった。
 或いは女は櫻屋敷の奥方の娘であり、私が二度見掛けたのも、夫れが何れも閑谷先生のおられた近くであったのも、全くの偶然であったのかも知れない。併し夫れだけでは納得行かぬものが私の心の裡に在った。
 考えていると居ても立っても居られなくなった。凝と書斎に籠もっているのも原因であるかもしれぬと思い、散歩に出ることにした。
「観櫻、少し出掛けて来る」
「散歩ですか」
「あゝ。直ぐ戻るよ」
 考えや文章に行き詰ると宛も無く逍遥に出るのが私の癖である。観櫻は多くを尋ねなかった。
「重々お気をつけて」
 そう云った丈けだった。
 逍遥の常で、何処に行こうという宛は無かったが、閑谷先生の事を考えていた所為であろう。私の足は何時の間にか閑谷先生の御宅の方に向かっていた。未だ酉の刻にも成っていなかったのだが、朧に灯が灯っているのが分かった。余程、其の儘お邪魔してしまおうかと思ったが、斯んな時刻に用事も約束も無く尋ねるのは無礼に過ぎるので、踵を返そうとした。其の時、門から滑るように抜け出てきた者が居た。
 夫れはあの勿忘草色の留袖の女であった。
 見掛けるのは三度目、先生の家から出て来たとなれば、既う偶然とは云えまい。先生は否定されたが、矢張り女と先生には何らかの繋がりが在るに違いなかった。女は私の存在には気づかなかったようで、足早に歩み去って行く。女の正体を知りたいという欲求に年甲斐もなく駆られて、私は女の後を追った。
 女はなよやかな外見に因らず健脚のようで足が早かった。私は夫れほど体を動かすのが苦手という訳ではないのだが、一定の距離を保ちつつ付いてゆくのもやっとであった。(やが)て女は櫻並木の通りに入った。本田夫人の家の近くであり、櫻屋敷が在る場所である。
 櫻屋敷の傍まで来た時、あれほどしっかりと見ていたにも関わらず、女の姿は以前と同じように、瞬きの間にふっと掻き消すように消えていた。(まる)で狐にでも化かされた人のような不可思議な気分になった。屋敷に入ったのかとも思ったが、然りとて忍び込む等出来ず、私は妻子の待つ家に戻った。
 翌朝、私は閑谷先生の家を訪ねた。もしもあの女が先生に縁のある人物ならば、本田夫人の話の真偽も明らかに出来る。何処の誰なのか御存知ならば教えて頂きたかった。先生は常のように書き物をしている部屋にいらっしゃった。
「お早う、祭部君。何うしたのかね。そんなに急いで」
「お早う御座います、先生」
 歌会の日でもないのに現れた私を、先生は不審がるでもなく出迎えて下さった。
「お尋ねしたいことがあって参りました」
「此の前貸した本の事かね」
「いいえ」
 私が首を振ると、先生は小さく首を傾げた。
「昨夜、何方かが先生を御訪ねになりませんでしたか」
 真剣な顔で其のような事を尋ねる私は、恐らく幼稚にすら見えていただろう。先生は鷹揚に否定された丈けであった。
「可笑しなことを訊くね、祭部君。最う少し賑やかでもよいと思うが、残念なことに誰も来てはおらぬよ」
 そう決然(きっぱり)と云われては、返す言葉も無かった。先生の家から女が出てゆくのを見たのです、と云っても、幻を見たのだと断じられてしまいそうであったので、私は既う何も云わなかった。明らかに何かを隠しておられるようだが、夫れ以外には普段と変わらぬ閑谷先生の前で、幻のような女のことに何時までも拘っている自分が余りにも愚かしげであった。閑谷先生は莞爾としながら立ち上がった。
「夫れより君、好い所に来て呉れた。其処の棚の上に在る筺を取って呉れないか。君なら手が届くだろう」
 私の問いにも全く動ぜぬ先生を前にしては再び同じことを尋ねることも出来かねて、釈然とせぬ儘先生の家を出た。不図顔を上げて、私は声も出ぬ程驚いた。目の前に、あれ程私を悩ませていた当の女が立っていたのである。
 私は唯だ木偶のように立ち尽くしていた。すると女は薄い微笑みを浮かべて、私に近づいてきた。思わず私は女の足元を見た。私の愚かしい想像を裏切り、きちんと両足が揃っており、薄曇りのせいで頼りないものではあったが影が落ちていた。
「先日も此処でお会いしましたね。貴方も閑谷先生に師事しておられるのですか」
 其の言葉に、やはり私が見ていたものは幻では無かったのだと確信した。歌会の日、私は女を見たし、女も私を見ていたのだ。
「私は、大学で先生に教えて頂いた者です。今は歌会のお手伝いをしています」
 内心は迚も動揺していたが、至って平静な声音で答えることが出来たのは不思議であった。緊張していた為か、喉が迚も渇いた。
「妾は、絢子と申します」
 女が名乗ったので、私も名乗らざるを得なかった。
「私は祭部恭一朗です。……此処へは、善くお出でになるようですね。貴女を櫻屋敷の辺りでお見掛けした事も在りますよ」
「えゝ、あの屋敷は妾の伯母の嫁ぎ先でした。伯母の婚家が江戸を離れましたもので、妾が譲り受けたのです。閑谷先生には卯月の初め頃に、妾の家の近くでお会いして、詩歌の教授を為さっていたとお伺いしたので、短歌を習っている次第です」
 尋ねた訳でもないのに、絢子と名乗った女は詳しく話して呉れた。
「夫れなら、歌会にお入りになれば宜しいのに」
「人が沢山居る処は苦手なのです。夫れに、陽射しの強いのも駄目なのです。気が遠くなって仕舞うものですから」
 絢子は悲しげに云い、微かに首を振った。
「そうですか」
「けれども、今は夜も明るいものです。瓦斯灯など建てられて……。天保の夜はもっと暗う御座いました。夫れこそ何が出るか分からぬ程でしたのに」
 呟くように、絢子は云った。
「では、失礼致します」
 彼女はすらりとした首を伸べて一礼し、足早に立ち去った。相変わらず、不図目を離すと何時の間にか消えていた。彼女の言葉の奇妙な点に気付いたのは、家に帰って夕餉をしたためている最中であった。私は余程変な顔をしていたに違いなかった。観櫻が心配そうに私の顔を窺った。
「何うかしましたか、貴方」
「先刻話した女の事だよ」
「絢子さんと云いましたか。其の方が何か」
 観櫻は首を傾げた。そうしている間にも、倩兒の口に匙を運ぶ手が休むことは無い。
「別れ際に妙な事を云ったのを思い出してね」
「何んな事ですか」
「明治の夜は明るい、天保の夜はもっと暗かった、そんな事を云ったのだよ」
「天保の夜」
 観櫻は呟くように繰り返した。
「其の方は妾位のお歳に見えたのでしょう。だとしたら天保は産まれるよりも四十年以上も昔のことではありませんか。七十年も昔のことを見てきたように語って、ご維新の前から姿の変わらぬ方なんて、夫れが本当なら、不老不死となった八百比丘尼の話のようですわね。其の方は人魚の肉でも食べたのでしょうか」
「八百比丘尼……そうだね。可笑しい事だな。文明開化の此の時代に、そんな伝説のような話が出てくるとは」
 以前の私なら、一笑に付したであろう。だが、此の何年かで私の伝説に対する考え方は大きく変わった。何んなに荒唐無稽な話であっても、永く伝わっているものならば、有り得ぬことでは無かったのではないかと、そう思うのは観櫻の影響だろう。
「余り気に為さらない方が宜しいでしょう。何やら良くない気がします」
 観櫻は何時になく真剣な面持ちで云った。そう云われても、一度気に掛かった事は頭から中々離れて呉れなかった。女の事は兎も角、何故先生が女と知己である事を隠そうとするのかが、一番判らぬ事であった。
 翌日の晩、私は今回書き上げた論文を見て頂く為に閑谷先生の許を訪ねた。文学者の肩書きを持ってい乍(なが)ら、未だに先生に教えを請わねばならぬというのも、中々に反省せねばならぬ事である。
「良く書けているのではないかな。殊に此の考察等は面白い」
 一読して、先生は微笑を湛え乍ら云って下さった。
「君の視点は誰にも似る処が無い。夫れを大事にし給え」
「有り難う御座います」
 他にも色々と御教示を頂くのが長引いたので、其の儘先生のお宅で夕餉を御馳走になった。先生とは晩酌の相手を務め乍ら色々な話をしたが、女の事は二度と口にすまいと心に決めていた。花の話をしていた時、先生が改まった様子でお尋ねになった。
「祭部君、君は散らぬ櫻が在ったら何う思うかね」
「散らぬ櫻ですか」
「美しいと思うかね」
 問い返すと、先生は問いを重ねつつ頷かれた。何故そのような質問をされたのか判然としない儘、私は思った事を述べた。
「櫻にせよ何にせよ、花は孰(いず)れ散ると判っているから、盛りを美しいと思うのではないでしょうか」
「君は然う思うか」
 先生は目を閉じて、微笑むような顔をした。
「私は斯う思うよ、祭部君。散らぬ花は悲しいものだと。夫れ故に私は、散らぬ花を美しいと、愛しいと感じるのだ」
 其の言葉を独白のように呟かれたので、私は応える言葉を見出せなかった。私が黙していると、先生は苦笑のような笑みを漏らした。
「君も私位の歳になれば屹度(きっと)判るだろう」
「そうでしょうか」
「君は人と少し違った物の見方をするから、屹度判るよ」
 人とは違うというのを聞いたのは、今日は夫れで二度目だった。褒められているのか貶されているのか分からずに、私は眉を少し顰めた。子供の仕種を見て微笑を禁じ得ぬ大人のように、先生は声を立てて笑われた。
「私は褒めているのだよ、祭部君」
「夫れは有り難う御座います」
 余り納得行かなかったが、何うやら先生の仰る、人と違うとは褒め言葉のようであった。言葉の切れ目に、先生は空を見上げた。
「さて、そろそろ夜も更けた。君は帰った方が良いだろう」
「ではお言葉に甘えて失礼致します」
「土産代わりと云っては何だが、之れを持って行き給え。手直しの時に要るかも知れぬだろうから。返すのは何時になっても構わぬよ」
 先生が渡して下さったのは、文政頃の国学者が著した万葉集の研究であった。夫れは以前にも何度かお借りしたものの、未だ写していない物であったので、私は随分恐縮し乍ら受け取った。自分の草稿と先生の本を抱えて、私は家路を急いだ。今夜は女を見掛けなかったし、会う事も無かった。
 家まで後一町もせぬ処で、包みの縛り方が甘かったのか何かの拍子で風呂敷が解け、先生からお借りした本を道に落としてしまった。地面が濡れていなかったのがせめてもの幸いであった。慌てて拾い集めていた時、私は一片の紙片が本の合間に挟まれているのを見つけた。
 先生の文字で、何やら歌がしたためられている。瓦斯灯の下まで行って、辛うじて読む事が出来た夫れには、斯う書かれていた。


     願わくば 花の下にて春死なむ 其の如月の望月の頃


 西行の句である。先生は気に入られた句を善く抜き書きしている。其の句もそういう類のものだろう。併し此の処様子の奇怪しかった先生の事、亦た同じ櫻の季節である事を思い返し、私の脳裏に、散らぬ櫻が愛しいと仰った先刻の先生の言葉が蘇った。そして何故か、あの絢子という女の事が思い出された。
 確信が有った訳ではない。
 だが「散らぬ櫻」とは絢子の事なのだと私には唐突に閃いた。何時までも盛りであり続ける、散ることを許されぬ悲しい櫻。夫れがあの女なのだと。何うして絢子が散らぬ櫻に成ったのか、何うして先生が彼女を知ったのか、私には判らぬ。夫れでも、一つ丈け判ることがあった。
 此の句は先生からの別れの言葉なのだと。
 そう思い至った時、私は走り出していた。先生の家にではない。私は直感に従って櫻屋敷へと急いだ。折りしくも櫻は満開の時を迎えていた。夜櫻見物の客が居ても良いものだったが、其処に人影は全く見当たらなかった。
 下手をすれば捕まるだろうと思い乍ら、私は屋敷の庭に入る木戸に手を掛けた。恐らく三十余年の間手入れ等一度もされていなかっただろう木戸は、私の力でも易々と壊すことが出来た。
 其処は、一面の櫻であった。
 そう形容するに相応しかった。
 観櫻が生まれ、櫻木が生まれたあの村の情景にも似た、庭を或る種の圧倒感を以て埋め尽くす櫻の巨木、そして舞い散る花卉。其の櫻吹雪の中、一際大きな櫻の下に閑谷先生が絢子と共に佇んでいるのが見えた。
 私を見て、先生は微笑んだようだった。少し行けば手が届く。声を出せば確実に届く。併し私の足は地に縫い止められたように動かず、舌は凍りついたように一言も発することが出来なかった。
 茫然としている私に、先生と絢子はゆっくりと背を向けた。先生を止めなければならない。屹度行って了われたら、先生は二度と戻って来られないだろう。そんな焦燥感に駆られて、私は何とかして足を動かそうとした。
 私の眼は二人の後ろ姿を捉えていた筈であったのに、益々激しく舞い散る櫻吹雪に視界を遮られ、私は一瞬眼を閉じた。
 そして眼を開けた時、庭は何事も無かったかのように静まり返っていた。あれ程激しい花吹雪であったにも拘わらず、幾ら地面を眺め渡してみても、相応する量の花びらは全くと云っても良いほど落ちていなかった。私は先生の姿を探して、庭中を巡った。だが私以外の人間は其処には居なかった。
 もしかしたら全て幻であったのかも知れない、という最後の希望を持って、私は仕方なく家に戻った。併し幾日経とうとも、先生は戻って来られなかった。絢子という女も、あの夜から二度と見ることは無かった。
 官憲が先生の家を調べたが、何一つ手掛かりとなる物は見出されなかった。
 満開だった櫻が散り始めた頃、先生から後事を託すという内容の手紙が届いた。何処から送られたのかは、判らなかった。其の手紙が来た時、先生は亡くなってはおられぬが我々の手の届かぬ処に行って了ったのだと、やっと思えるようになった。
 絢子と共に生きること――本当の生であるのか、私には図りかねるが――夫れが先生の幸せだというのならば、あの時私に如何して止める事が出来ただろう。
 今年も、櫻の季節が終わる。
 再び妻子と三人で歩く櫻並木は、今は散りゆく櫻吹雪の最中である。
「絢子は一体、何者だったのだろうね」
 私の独白めいた呟きに、観櫻は同じく独白のように応えた。
「知らずに居た方が幸せである事も、此の世には有るのではないでしょうか」
「そうかも知れぬね」
 今夜は新月である。見上げた空には星しか見えぬ。櫻の合間にぼんやりと光るのは瓦斯灯であったが、夫れでも矢張り暗い。天保の夜はもっと暗う御座いました。そう云った絢子の言葉を思い出した。
 私は、明治の夜をしか知らぬ。
 私は思う。
 天保の夜は今よりも暗かったかも知れぬ。何が出るか判らぬ闇であったかも知れぬ。
 併し明治の夜は、人を隠す闇なのだと。


終(2012.1.15改訂)

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