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黒櫻――或いは祭部恭一朗の奇妙な日常 その壱
我が家の庭には櫻が三本植えられている。一つは極く普通の、何処にでも在る染井吉野である。残る二つは、妻の観櫻が実家から持ってきた櫻で、非常に珍しい種類の櫻である。一本は真っ白い花を咲かせ、もう一本は真っ赤な花を咲かす。白い櫻に関しては、観櫻と結婚する前に色々とあったものだが、今では其れも思い出である。
ともあれ其のようにして、我が家の庭には今三本の櫻があるのであった。
大分髪が伸びたので、散髪に行こうかと思い始めていた日の事である。
「貴方、散髪に行かれる予定はありますか」
何を考えていたのか、観櫻がそんな事を云いだした。
「あゝ、其の積もりだが、何か」
「では妾が切りましょうか」
そうして呉れるのなら金もかからぬし、出掛ける手間も省ける。別段断ることでもないと思われたので、私は承諾した。
「構わぬよ。但し、目も当てられぬような形にはしないで呉れ」
「ご心配為さらず。倩兒と伽慧の散髪もしておりますもの」
観櫻は早速に鋏を取り出して来て、縁側で散髪ということになった。確かに観櫻は手馴れており、私としては最う少し、心持ち長めにしておきたかったのだが、私の髪は随分さっぱりしてしまった。
「如何でしょう」
「随分切ったのだね」
差し出された鏡を見て、私は云った。耳が出ていたり、前髪が眉にかからぬという状態が何うも落ち着かぬ。夫れに、襟足もすうゝゝする。宛で違う人間を見ているようである。だが観櫻は満足そうであった。
「其の髪型も似合っておりますわ」
「そうだろうか。何うも落ち着かぬよ」
私は思ったままを云ったが、併し一旦切ってしまったものは戻らぬし、暫く経てば良い具合にまた伸びるだろう。第一、顔が変わった訳ではない。そう思って諦めることにした。体にかかった髪を払って、私は書斎に戻った。観櫻は縁側に落ちた私の髪を箒で掃き集めて掃除を始めたようだった。
再び書き物をすすめていたが、何やら庭で物音がする。誰かが土を掘り返しているようである。此の頃、倩兒は悪戯盛りで突拍子も無いことをするので、確かめておかねばならぬと思って私は窓から覗いてみた。
すると夫れは、観櫻だった。染井吉野の根元を掘り返している。家で飼っている猫が死んだ訳でも無いだろうし、一体何をしているのか気になって仕方がない。書斎から声をかけるのも何うかと思い、私は庭に下りて観櫻の傍まで近づいた。
「観櫻、何をしているのかね」
「あら、貴方」
振り返ると、観櫻は莞爾と微笑んだ。其の手元には、先刻彼女が切った私の髪が一房、握られている。
「私の髪じゃないか」
吃驚して私が云うと、観櫻は頷いた。
「白い骨を埋めたら、白い櫻が咲きましたでしょう」
そうである。我が家の白い櫻は、元は隣の櫻のように真っ赤な花を咲かせていたものだが、観櫻の云うように観櫻の前の良人であり、私の友人であった櫻木の骨を埋めた所、真っ白い花を咲かすようになった。夫れの挿し木である。
「ですから、黒い髪を埋めたら黒い櫻が咲くのではないかと思いますの」
観櫻が私の髪を切りたがった理由がやっと判った。彼女は嬉々として、先刻まで掘っていた穴の底に髪を置き、丁寧に土を被せた。夫れが終わると、観櫻は微笑みながら立ち上がった。
「春が楽しみですわね」
「咲くだろうかね」
嗚呼、斯うして櫻木も死んだのだろうな、と私は確信した。併し観櫻が私に欲したのが髪だけで良かった。
耳元を過ぎる風は髪を切られすぎた所為か、何故だか迚も寒かった。
終
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