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 皇族を代表してエクァン州での公務に出ていたパリスとルクリーシア夫妻が、オルテアでリュアミルの身に起きた事件を知ったのは、連絡に魔道師を使ったのでとても早く、その日の夜のことであった。
 そして当然のことながら、最も衝撃を受けたのはパリスであった。朝にリュアミルとアルドゥインの婚約を知らされたばかりであったので、なおさらのことであった。姉の婚約の知らせに浮き立ち、喜びに溢れていた心は一転して、絶望の谷底に叩き落されたも同然であった。
「何てことだ――」
 報告を別室で受けた後、滞在していた館で居間として使っていた一室で、パリスは力なくソファに崩れ落ち、泣き出すように両手で顔を覆った。その傍らに、遅れて入ってきたルクリーシアは寄り添うように腰を下ろした。
「あなた、しっかりなさって」
「母上に続いて、叔父までも――。僕は逆賊を二人も親族に持ってしまった。すまない、ルクリーシア。君にまで辛い思いをさせることになってしまって」
 パリスは拳を握り締め、苦衷に満ちた表情で妻を見た。
「あなたのせいではありませんわ、パリス」
 ルクリーシアは言い、パリスの拳に自分の手を重ねた。彼女の受けた衝撃も相当なものであったが、肉親ではなかった分それはパリスよりも少なかったし、相手を慰めることに心を割ける程度には立ち直れていたのである。
「そんな風にご自分を責めるのはおよしになって」
「ルクリーシア」
 顔を上げたパリスの目に映ったのは、潤んだ射干玉の瞳であった。そこには同様に悲しい表情のパリス自身が映じていた。自分自身にも言い聞かせるように、ルクリーシアは言葉を継いだ。
「義母上のことも、今度のことも、あなたには何の罪も関係もないことです。ですから、ご自分を責めないで。わたくしたちにはどうすることもできませんわ。義姉上のご無事を祈る事しか」
「君の言うとおりかもしれない。けれども、僕は自分が許せないんだ」
 急に立ち上がり、ルクリーシアのいたわりを振り払うように背を返して、パリスは激しい口調で心中を吐露した。
「僕は幼い頃から、姉上は自分よりも皇太子にふさわしい方だと思っていた。だがそれを認められなかった母上に対して僕は何もできず、姉上を苦しめたばかりか母上も救えなかった。今度もまた何の助けにもなれなかった。いつもいつも、僕はああすればよかった、気付けばよかったと悔やむばかりだ。そんな自分が許せないんだ」
「あなた……」
 腹違いではあったが、パリスは心からリュアミルを姉として愛し、尊敬してもいた。その姉の苦しみと悲しみを思い、彼の心は引き裂かれんばかりに痛んだ。すぐにも駆けつけ、救い出すために戦うこともできず、思うことしかできぬ自分に苛立ちにも似た思いを感じていた。
 そんなパリスに、ルクリーシアはただ寄り添い、その胸中を分かち合おうと務めることしかできなかった。


 アルドゥイン率いる紅玉騎士団がオルテアを発ったその日、パリスとルクリーシアはわずかな供回りの者と護衛だけを連れてオルテアに戻った。かなり急いだのだが紅玉騎士団とは入れ違いのような形となってしまったので、パリスはアルドゥインに激励の言葉も、慰めの言葉もかけることができなかった。
 紫晶殿に戻るなり、パリスは旅支度を解く間もほとんどなくイェラインに二人だけの話があると水晶殿に呼び出された。皇帝の言葉を伝えに来た女官や、先触れの侍従の態度や表情に、どことなく彼をどう扱っていいのか判らない戸惑いのようなものがあることにパリスは気づいていたが、深く考えることはあえてしなかった。
 それに、これから起こるであろう話し合いと事態に比べれば、それは瑣末なことにしか過ぎなかった。彼の心を占めているのはもっぱら事件への怒りと哀しみ、それに関して変化するであろうおのれの立場についてであった。
 近衛も侍従も遠ざけての話に、パリスは常にない緊張を覚えていた。考えられるのは、帝位継承についての話以外にありえなかったからだ。
「ただいま戻りました、父上」
 皇帝の謁見室の一つに入るなり、パリスは膝を軽く屈めて一礼した。イェイランは鷹揚に頷いて迎え入れた。
「よく戻ってきてくれた」
 息子を迎える父としての優しい表情を浮かべてから、イェラインは皇帝としてのおもてに戻った。だが、先に言葉を発したのはパリスであった。硬い表情で、まだ軽く膝を折った姿勢のままで父を見上げる。
「お話は……帝位継承についてのことでございますか」
「……うむ。まずは座れ」
 イェラインは何ともいえぬ表情で小さく頷いた。パリスは促されるまま椅子に座り、目を床に落とした。イェラインも、パリスに向かい合うように席に着いた。しばらく、重苦しい沈黙が二人の間に落ちた。
 メビウスの世継ぎがリュアミルただ一人というわけではない。
 残酷な話ではあるが、皇子のパリスがいるのだから、リュアミルがたとえ殺されたとしてもそれでただちにメビウス皇家――アルパード朝が滅びるわけではないのだ。仮にリュアミルを無事取り戻す事ができなかったならば、パリスが皇太子となり、次のメビウス皇帝になるのは当然のなりゆきである。
 結果としてリュアミルが皇太子となったわけだが、彼女が正式に皇太子となるまで、リュアミルとパリスのどちらが帝位を継ぐかは表向き未定ということになっていた。それにまた、ルクリーシアの夫としてクラインの統治に関わる可能性もあるということで、パリスも姉のリュアミルとともにアルカンド三書や帝王学などを学んできた。突然皇太子にたてられても、充分にやってゆける教養と知識は身につけているし、パリスにはそれだけの度量があった。
 しかしこの後どんな話がイェラインの口から出てくるにせよ、自分を皇太子にするという話にはなるまいとパリスは思っていた。
 パリスは皇帝を暗殺しようとしたユナ皇后の息子――つまりは今回反逆を起こしたルノーの甥でもある。姉弟の二人ともが反逆事件を起こしたハークラー家の血を引くパリスが皇帝に就くことに抵抗を感じ、さらには反対する諸侯も少なからず出るだろうし、世論からも疑問の声が上がることは間違いない。
 それを考えれば、最愛の女性との間に生まれた娘であるということもさることながら、何としてもリュアミルを無事に取り戻したいとイェラインが願うのも致し方なかった。パリスもまた、自分の不安定かつ微妙な立場はよく承知していた。場合によっては廃嫡の皇子となることも、彼は半ば覚悟していたのである。
「アルドゥインがリュアミルの奪還に向かった事は、すでにそなたも承知だな」
 ようやく、イェラインは口を開いた。すでに二人が席に着いてから五分以上の時が経っていた。
「はい。紅玉将軍には挨拶と激励の言葉を伝えておきたかったのですが、間に合いませんでした」
 軽く頷いて答えるパリスのおもてもまた、イェラインに負けないほど苦しげなものであった。
「ところで、姉上の安否は」
「まだしかとは確かめられておらぬ。リュアミルが生きていてこそ、ルノーもメビウス王を名乗れるとあれば、恐らく命は無事であろう。しかし、どちらにもせよルノーの要求を受け入れるわけにはいかぬ。そうなれば……」
「仰らないで下さい、父上」
 無礼は承知であったが、パリスは青ざめた顔で遮った。畳み掛けるように続ける。
「ヴィラモント将軍が必ず、姉上を取り戻してくださいます。ですから、仮定だとしてもそのようなことはお考えにならないで下さい。メビウスの帝位を継ぐなど、今の私にはできません。できるわけがありません。それどころか、私は廃嫡されても致し方ない。そう思っています」
 パリスは俯いて唇を噛み締めた。
「私は……私には、逆賊の血が流れているのですから」
「母や叔父の事はそなたには関わりのないことだ、パリス」
 イェラインは意外なほどきっぱりと言い切った。父上の言葉に、パリスははっとしたように顔を上げた。イェラインの瞳には父としての慈愛があると同時に悲しみのようなものも浮かんでいた。
「ユナの息子、ルノーの甥である前に、そなたは私の息子なのだ。そなたが責められる謂われはどこにもない。責められるべきは私なのだ。ユナに一言なりとも優しい言葉をかけていてやれば、あれがミラルカを殺す事も、あのような死を選ぶことにもならずに済んだかもしれぬというのに、結局私はミラルカを死なせ、ユナを死なせ、リュアミルを失い――そなたを逆賊の息子にしてしまった。全ては私の不徳の致すところだ」
 パリスの手を取り、イェラインは言った。
「許してくれ、パリス。せめてそなただけでも、この父に守り通させてくれ。誰にもそなたを逆賊の血を引く皇子などとは言わせぬ。廃嫡など絶対にせぬし、そのような意見など、誰にもさせぬ」
「父上のお考えはよくわかりました。心より嬉しく思います」
 しばらくの沈黙の後、パリスは静かな声で握られた手に力を込めて握り返した。それから声を落とし、続ける。
「ですが、もし姉上がお戻りになれぬとしても、私が代わって皇太子となることを宮廷全てに納得させることはできますまい。どうあっても誹謗中傷は避けられぬでしょう。父上がどんなに仰ってくださっても、私がハークラー候家の血を引いている事実に変わりはないのですから。メビウス皇家の血統に傷をつけるようなことはできません」
「それは、そなたの言うとおりだ。パリス」
 悲しげにイェラインは首を振った。
「アルパード朝は、私の代で終わるやも知れぬ。しかしそれもヤナスの定めならば、受け入れるより他あるまい」
「継承権はございませんが、血統的にはパアル候かエクァン候のどちらかに継いでいただくということになるでしょうか」
 パアル候ジグムントとエクァン候レオンは、いずれも先帝キウィリスの妹姫を母に持ち、イェラインとは従兄弟にあたる。皇家のもっとも近しい親族であった。直系男子ではないのでパリスの言ったとおり継承権を持っているわけではないが、帝位を継承する正統性は充分有している。年齢的には本人たちではなく、その息子が候補に挙げられることになるだろう。
 イェラインは頷いた。
「幸い、ジグムントには息子が二人いる。考えたくもないことだが、リュアミルの不幸が伝えられることがあれば、次男のガイロルドをパアル候にさせ、長男のオルランドを皇太子に、ということになるだろう」
「姉上がご無事に戻られれば、それに勝ることはないのですが」
 パリスは言ったが、それは絶望をにじませた声音であった。


(2010.10.10)

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