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     あふれる涙は 私の心を覆い
     私の心は死んでいく
     この苦しみに
     ああ 千もの死を耐えながら
     これを生と呼べようか?
            ――「あふれる涙」




     第四楽章 軍隊ポロネーズ




 オルテアを経って四と半日後、紅玉騎士団はブランベギン州内に到達した。七千のうち七割近くが騎兵であったとはいえ、驚くべき速さであった。しかし州都アドリヴンはブランベギン州の北東部、かなり国境に近い場所に位置しており、州内に入ったといっても本拠地にたどり着くまでにはまだ道のりは遠かった。
 ハヴェッド伯ヴラドはハヴェッド騎士団を使って少なからぬ人員を偵察のためにブランベギンに送り込み、事前の情報収集を行ってくれていた。ヴラドと騎士団長カイルの自主的な協力だったが、迅速な人選と行動の裏でソレールが大いに貢献していたことは言うまでもない。
 領主を討伐するための進軍であるので、ブランベギン領内での戦闘をアルドゥインは覚悟していたのだが、門を閉ざして通行を拒否する市や町はあったものの、積極的な抵抗活動には一度も遭遇しなかった。それらの情報は前もって斥候やハヴェッド騎士団の騎士たちによって知らされていたので大抵は別の道を選択できたし、仮に情報が入らずそのような場所に遭遇しても、回り道をすれば済むだけの話であった。
 二日目に宿を取ることになった市では、市長自らが館を隊長クラスのものの宿泊のために提供し、市内の宿を手配してくれた。歓待といってもいいほどの対応にアルドゥインは不審な思いを抱いたのだが、挨拶を述べに来た市長の名を聞いて納得した。
 彼の名のすぐ後には『アルマンド』と入り、さらには姓の前に女性名が入っていた。つまり、彼はアルマンド一族の末席に連なる貴族だったのである。サラキュールがブランベギン州内の一族全てに、ルノーには従わぬようにと当主命令を下していたことはアルドゥインも知っていた。
 その命令どおり、アドリヴンに至るまでに接触があったアルマンド一族の者は全て、領主であるハークラー候よりも当主であるアルマンド公に従ったのである。もちろん、どう考えても道理がなく、形勢も不利なルノーに義理立てして反逆者となるよりも、皇家に忠誠を示しておく方が後のためにも得策である。
 当主の命がなくても彼らはそうしたかもしれない。だが消極的なものとはいえ抵抗を見せる一族外の貴族もいたことを考えると、やはりサラキュールの牽制にはそれなりの効果があったと考えるべきであろう。
 内と外から自分の戦いに力を貸してくれたソレールとサラキュール、二人の友情にアルドゥインは心から感謝した。確かにこれは彼一人の戦いであると同時に、多くの戦友たちの力によって支えられた戦いでもあった。
 そして――三日後。今やハークラー候の居城・アドリヴン城は眼前にあった。
 すでに夕闇が迫ろうとする刻限であった。
 金と薔薇色に輝く夕焼けの雲を戴いて聳えるレントの峰々を背後にし、黄金色にきらめくイズール川のゆったりとした流れを前にして、その城は静かに佇むように見えた。川とその水を引きこんだ濠によって城下町と隔てられた城自体は戦闘を主眼に置いたものではなく、物見の塔も外郭もない城館といった外観であった。
 紅玉騎士団は三隊に分かれ、アルドゥインが直接指揮を執る第四・第五隊はアドリヴンの街を迂回し、城を見下ろせる背後の山中に開けた場所を見つけてそこに陣を布いた。残る第一・第二隊は大通りを真っ直ぐに抜けて城の正面に位置する市の大門前、第三隊は城から最も近い橋のたもとにそれぞれ待機し、退路を断つ構えである。
「今夜のうちに決着をつけますか、閣下」
 城の内部を探るために掲げていた望遠鏡を下ろしたところで、傍らに控えていた副官のヤシャルが尋ねた。
 数時間前に戻ってきた斥候からの最新の情報によれば、城を警備し、或いは駐留している兵の姿は見えないということであった。確かに、城の中で大勢が動き回っている気配は全く感じられなかった。しかし油断はできない。アルドゥインは一つため息をついてから答えた。
「我々が敵の姿を確認できなくては、殿下を探し出してお救いすることも、ルノーを捕らえることも難しい。それに、まだ城内の詳細を把握していない状態では効果的な攻め方をとることもできない。歯がゆいが――朝を待とう。第一、第二、第三隊にもそのように伝えてくれ」
「かしこまりました」
「それから、第三隊には城から抜け出すものがいないか、よく注意するように重ねて伝えておいてくれ。夜のうちに何らかの動きがあるかもしれない。こちらが市を包囲している事は、すでに知れていようからな」
「はっ」
 ヤシャルはきびきびと答え、伝令の騎士にアルドゥインの言葉を伝えるために駆け出していった。それを見送ったアルドゥインは、再びアドリヴン城に目をやった。夕闇はますます濃くなり、城の影がイズール川に黒く映りこみ、オレンジ色の光が波に砕けてそのコントラストを強めている。
 美しい夕暮れの光景であったが、見つめるアルドゥインの目には明らかな焦燥の色があった。自らの言葉どおり、敵に地の利がある状態での夜襲はこちら側に不利であるばかりでなく、混戦となって必要以上の被害を出しかねない。指揮官としてそれは避けねばならない事態であったが、愛する人の身を案じる一人の男として、今すぐにも駆け入っていきたかったのだ。
 城側に動きが出たのはそれから間もなくのことであった。日がまだ落ちきらぬ眩い茜色の光に照らされながら、それなりの身分と思われる男が従僕らしき人物に馬を引かせて出てきたのである。馬上の人物とその従者は、大将の旗印を目指して城の裏手から出てくると、真っ直ぐに進んできた。
 その手に高々と掲げられているのは、降伏を示す白旗であった。報告を受けたアルドゥインは自ら陣の最前線に出向き、この二人連れを待ち受けた。将軍の軍装をまとったアルドゥインの姿を確認した時点で使者は馬から下り、従僕に手綱を預けて一人で近づいてきた。顔が見える位置まで来ると、それが年老いた男であることが分かった。
 先に前衛の騎士が男を止め、誰何して用件を述べさせた。それからアルドゥインに使者の言葉を取り次ぐため駆け寄ってきた。
「降伏の申し入れです。いかがなさいますか」
「とりあえず、使者に会おう。こちらへ」
 間もなく連れてこられたのは、確かに老人と言ってもいいような男であった。何か悲壮な覚悟を固めたような顔をして、しゃんと背中を伸ばして立っていたが、顔には疲労の色がありありと見て取れ、全体的にしなびた印象が強かった。
「私はアドリヴン城家令、フォラリウスと申します。我が女主人、ドムナ・コレットには閣下に対し、ひいては皇帝陛下に対していかなる抵抗、攻撃をも行う気はございません。ただただご寛恕を下されたく、降伏のお許しを得に参りました次第でございます」
 周囲の人々には、アルドゥインがほんの少し、驚いたように見えた。だが口を開いたアルドゥインの声には全く動揺の色はなく、それ以外のどのような感情を抱いているのかも、その表情からは読み取れなかった。
「女主人、と申されたな。家令というからには貴殿の主人はハークラー候――ルノーではないのか?」
 フォラリウスと名乗った家令は、口上を述べるために上げた頭をもう一度深々と下げた。
「ルノー様は、既にアドリヴン城をお捨てになられました。今、城にはコレット様と、私のような役立たずの老人しかおらぬのでございます。申し訳ございませんが、ルノー様の消息につきましては私も存じません。我が言葉に偽りのないことを、どうぞ城内にお運びいただいてお確かめください。お供まわりの方は幾人お連れ下さいましても構いません。コレット様も、そのようにお望みでございます」
「心得た」
 アルドゥインの返答は間髪ないものだった。ヤシャルと同じく今回も副官を務めるセリュンジェをはじめ数人の供だけを連れて、フォラリウスの案内のもとでアドリヴン城への道を下っていくまでには、それから五分も経たなかった。
 言葉どおり、一行が足を踏み入れた城内はしんと静まり返っていた。人の気配はあるものの、見えるのは畏まって頭を下げている女中の他には、男は中年以上の老人ばかりであった。逃げ出したのか、それともルノーが連れて出たのか、城を守る最低限の人数すら、今は揃っていないようであった。
「こちらでございます」
 フォラリウスが扉を腕で押さえながら開け、アルドゥインたちを招き入れた。そこは謁見用に使われている広間らしく、壇を設けてはいなかったものの上座に透かし彫りを施された背高椅子を置いてある。背後にはハークラー侯爵家の紋章入りのタペストリが掛けられ、暗い赤地を背景にして、純白の一角獣が天に向けて駆け上がるかのように両前足を高々と掲げていた。
 床には二色の大理石で美しい碁盤模様が描かれ、アーチ状の高い窓が連なるその合間の壁には色とりどりのタペストリや絵画がかけられ、その前には彫刻や甲冑が並べられていた。だが広間には全くひと気がなく、椅子にも誰も座っていなかった。そして広間の中ほど辺りに一人の貴婦人が佇んでいた。
 ふくよかな体を地味な褐色のドレスに包み、頭頂部近くで結い上げた髷に未亡人らしく白いレースをかけている。彼女がルノーの母であり、前侯爵夫人であることはアルドゥインにもすぐ判った。彼が入っていくと、彼女は君主にするように膝を折って床につき、深々と頭を下げた。
「初めまして、アルドゥイン・ヴィラモント閣下。わたくしはコレット・ド・ハークラーと申します。まずはこのたびの我が息子の不始末、どのようにお詫び申し上げればよいものか……」
 泣き出しそうに震える声で言い、うなだれて肩を小さくしたコレット夫人は怯えたようでさえあった。
「亡き夫には何の落ち度もございませねば、息子が皇帝陛下に弓引いてハークラーの名を汚しましたのは全てわたくしの不徳のいたすところ、育て間違いであったのです。むろん、だからとてお許しいただけるなどとは思っておりません。ですが、お怒りを解くいくばくかのお役に立ちますならば、この命をもって償わせてくださいませ」
 一気に言い切ると、コレットは両手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。れっきとした反逆罪を犯しては、ハークラー候家の取り潰しはまず免れないことであろう。守らねばならぬはずの嫁ぎ先の家名を血を分けた息子が汚し、先祖の面目を潰してしまった不甲斐なさ、絶望感といったものが彼女を濃く覆っているようだった。
 もちろんアルドゥインにはルノーに対する強い怒りと憎悪があったけれども、その感情を目の前の女性にぶつけようなどとは思わなかった。護衛の役に立ちそうな兵の一人も残さず置き去りにした母親に、ルノーが抱いている感情というのがどの程度のものであるかは明白であった。
 本人が言ったように育て方に間違いがあったとしても、責任の全てがそこにあるわけではない。幼い子供ならばともかく、成人し家長となった息子の罪を母親に被せる気は毛頭なかった。
 確かにコレットは息子の罪を諫めて改心させることも、止めることも追いかけることもできず、かといって置き去りにされた後に実家を頼って逃げ出すこともできないような弱い女性だった。
 だがその弱さを罪と断じる事は、アルドゥインにはできなかった。
「お顔を上げて、お立ちください、ドムナ・コレット。貴女に罪があろうなどとは、イェライン陛下はつゆほどにも考えておりません。むろん、俺も」
 促されて、コレット夫人はようよう顔を上げた。その目は既に泣き腫らして目尻を赤くしていた。化粧をして隠そうとしていたが、左の頬は赤と青の斑の痣が浮き出し、泣き腫らしたのとは全く性質が違うと分かる腫れ方をしていた。
 間近に顔を見て、思ったよりも若かったことにアルドゥインは少なからず驚いた。ルノーは三十歳とはいえ姉のユナ皇后が四十歳を過ぎていたことを考えると、その母なら少なくとも六十の坂を越えていると思っていたからである。
 だがコレットは、ここ数日あまりの心痛ですっかりやつれた様子を見せているものの肌にはまだ張りがあり、手入れが行き届いているのか明るい茶色の髪も豊かでつやを失っていない。どう見ても五十をいくらか越えた程度にしか思えなかった。
 そんな疑問が無意識のうちに表情に出ていたのだろう。コレットはこちらの顔色を窺うような、不安げな目をして首を傾げた。
「あの……ヴィラモント閣下?」
「ルノー候の母上というのは、俺の聞き違いでであっただろうか? 確か、貴女の夫君である前侯爵閣下は皇后陛下とルノー侯のお父上と聞いていたが……兄上と、姉上の間違いだっただろうか」
 ある程度は慣れている質問だったのだろう。コレットは驚いた様子も取り乱した様子もなく、手にしたハンカチーフで鼻頭を少し押さえてから再び口を開いた。
「いいえ、確かにルノーはわたくしの息子でございますし、我が夫アタルスはユナ様とルノーの父親でございます」
「ということは、ユナ皇后は……」
 アルドゥインの問いかけの途中で、コレットは肯いた。
「はい。ユナ様は夫の最初の妻、レモビア殿の娘でございます。わたくしの実の子供はルノーだけです。それがこのような不届きな……」
 この全てに絶望し、打ちひしがれている夫人に再び惨めで情けない思いをさせるのはあまりに哀れと持ったので、アルドゥインはそれを遮った。
「失礼、貴女は随分お若いように見受けられたので、つい要らぬ質問をしてしまったようだ」
 多少の芝居っ気を交えてアルドゥインが言うと、コレットはようやくぎこちない微笑みを浮かべた。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「とにかく、先にも申し上げたが、このたびの反逆に加担しておらぬ事が明白ならば連座、縁座ともに無用のことであるというのが陛下のお考えです。この城に残された人々を見れば、罪に問うべき者はここには一人もおらぬというのは一目で明らかなことだ。それよりもお尋ねしたいことがある、ドムナ」
「リュアミル様の安否と、ルノーの逃れた先でございますね」
 問いたいことを、コレットは先回りして尋ねた。アルドゥインは頷いた。



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