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     薔薇が花開く 春が来たから
     私の心は暗くなる 春が来るから
     ウグイスが歌う 恋の吐息をつきながら
     それでも 私の心は戻らない
              ――「薔薇が花開く」




     第一楽章 物思う春に




 春も間近いラトキア公国。
 シェハラザードのシャーム奪還から二ヶ月が経とうとしている。じきにディアナの月となり、暦の上でも春となる。一年に亘ったエトルリアの支配から逃れたこともあり、人々の春を待つ心はいつもよりも浮き立つようであった。
 シャーム城の改修工事は一段落がつき、今は内装工事が行われている。市内でもエトルリア兵によって破壊されたり、荒らされた市壁や家々、神殿の修復作業は順調であった。そしてまた、新たに区画整理が行われて橋の架け替えなどの公共工事も進んでいる。
 農地は鋤き耕され、ミール麦やその他の穀物の種が撒かれた。それらは間もなく芽吹き、鮮やかな緑となって柔らかに、そして力強く伸びだしてゆく。あまり目立たないし取り立てて美しくもないが、カディスの蕾がふくらみ始め、或いは葉もまだ茂らぬアーフェルがちらほらと咲き始めた。
 一時は戦場ともなり多くの血を吸ったミシアの平原ですらも、その記憶を癒し、悲しみを覆い隠すように草花が芽吹き、灰色と枯れ草色の大地を新緑の色に塗り替えて茂りはじめていた。それはまるで、マナ・サーラの緑の裳裾が広がるかのようであった。
 市場は賑わいを取り戻し、人通りが途絶えがちであったシャーム市内の大通りにも、旅人や旅商人の姿が見かけられるようになった。人々は解放の喜びと熱狂からすでに抜け出して日常に戻ってはいたけれど、今もなお酒席に集まればシェハラザードのため、また救国の英雄たちのために乾杯を惜しまなかった。
 ほとんどの物資をエトルリアに徴収されていたために寂れていた市場には、今は食品から日用の品々まであらゆる物が溢れている。エトルリア兵の目に留まることを恐れて息を潜めるようにしていた女たちも堂々と通りを歩き、人々の顔には笑みがある。今はまだ冷たい《雪送り》が吹く日のほうが多いが、それは春の訪れが間近いことを知らせるものである。
 《雪送り》が肌にやわらかな春風に変わるころ、ラトキアは本格的に冬の名残から抜け出す。そうすればラトキアの誇る花々が市場といわず街角に至るまで、すべてを彩るようになるだろう。
 あの戦いで命を落とした者たちの遺族も悲しみから立ち直り、今までとすっかり同じとはいかないものの、平和な日々をもたらしてくれた父や息子、兄弟の魂に静かな祈りを捧げるのだった。
 暗い一年は本当に過去のものになったのだ――。
 これからは新たな、若く美しい女大公のもとで、ラトキアは繁栄のみの未来を歩んでいくに違いない――。
 そんな思いが、人々だけでなく街をも明るくするようである。しかし、春が来るからといって誰もが心浮き立っていたわけではない。中には、色々と物思いを抱え込んでいる人もいた。
 若きラトキアの英雄、黒騎士団団長にしてルクナバード伯爵――つまりアインデッドもその一人である。
 現在の彼のもっぱらの仕事といえば、麾下の黒騎士団の訓練であった。練兵に関しては、アインデッドは意欲的に取り組んでいたが、それが終わると五色騎士団を統括する将軍としての様々な事務仕事が待っている。
 更には、きちんと責任者を任命したのに、シャーム警備隊の雑事までもが彼のもとにまわってくる。どうやら彼らは、発案者であるということと、全ての武の責任者であるということから、剣を以てラトキア大公に仕える者は全てアインデッドの管轄とでも思っているらしかった。
 いわく、これこれの不審者を捕らえましたがいかがいたしましょうか。どこそこの家は境界のことでもめているがどうすればいいでしょうか。かれこれの小路でごみの不法投棄があるが、犯人を捕らえてもよいのか、捕らえたらどのように処分すればよいのか――といった本当の雑事である。
 中には警備隊の仕事の範疇から大幅に外れた、明らかに民事上の事件まで持ち込まれて裁決を仰がれるのだからたまったものではない。ラトキア人の大半に見られる、他人任せな気質という悪しき特徴がありていに表れているといってもいいだろう。
 そんなことくらい自分たちで判断しろ、とアインデッドにしてみれば言いたい所であった。が、戦後の混乱期とあって法の整備もままならず、内閣では新たな体制の下での法を目下発案、審議中といった状態で、ツェペシュ時代の旧法を当座しのぎに使っている状態である。
 しかもその旧法というのはきちんと要件が成文化されたものではなく、個々の事例ごとに示された判断の積み重ねによるというものだったので要件も処分もたいへん曖昧で、おまけにラトキアでの「常識的判断」など外国人のアインデッドにはてんで判らなかった。これはツェペシュ大公のせいというよりは、この土地に根ざしているペルジアの文化らしかった。
 シャーム中の犯罪行為を取り締まるといった所で、犯罪を定義する法そのものが元来曖昧で、なおかつ警備隊員のほとんどが詳しい法の内容を知らない。そこで、一般常識で対処しきれないような事態は当然、上へと伺いが回ってくるのだ。
 まともな勉強や細々したことに頭を使う仕事など、ティフィリスでの少年時代に数年したばかりで、以降は全くやっていないアインデッドである。シャームが落ち着いてからというもの、昼は軍の仕事と前述の雑事に追われ、夜はそのための法律の勉強と、寝る暇も惜しむような状況が続いている。今は若さと持ち前の体力で何とかなっているが、これでもし風邪などひいたら、一旬は寝込みそうだった。
 もちろん、アインデッドは面倒くさがりではあったが自分がやらなければならないことはきちんとわきまえており、彼でなければできない仕事ならば決して手を抜いたり怠けたりはしなかった。そんなことをしようものなら、いざという時騎士団の統率が取れなくなるということは熟知していたのである。
 暇はよほど根を詰めて手早く用事を済ませてしまうか、先送りにするか――しかしこれは前述のとおり問題解決にはならない――しなければ作ることができない。おかげで正直なところ、朝から晩まで休む暇もない。
 落ち着いたら取り掛かろうと思っていた領地経営も、自分の手で行えるようになるのはいつのことなのか、今の段階では見通しすら立たない。気長にやるつもりではあったが、もともと悠長にしているのが苦手で大嫌いという性分である。一日が二十五時間あればいいのに、とアインデッドにとってはもどかしいばかりであった。
(出世ってのも、一概にいいことばかりじゃねえな……)
 地位が高くなるに伴い、付随する責任も重圧も大きくなっていくのだ、ということを実感して噛み締めている毎日である。
 それ以外にも、アインデッドには気がかりなことが幾つもあった。タリム砦を出てから彼の指揮下から引き離されてそれきりの、盗賊の部下たちのこと。シェハラザードとのこと。それに関する宮廷での噂諸々。そしていまだ行方不明のナーディル公子の安否など、数え上げれば切りもない。
 忙しい日常はそれなりに張りのあるものであったが、代わり映えがないことも事実であった。だが、そんな中でもささやかな起伏は幾つもあった。タマルが結婚するらしいということも、そういった出来事の一つであった。
 相手は白亜宮に囚われていたころから彼女に何くれとなく便宜を図り、また脱出の際にも手助けし、そのままシェハラザードに付き従ってラトキアへと下った元白亜宮警備隊の小隊長、イー・ジュインである。
 彼は現在、シャーム城警備の中隊長に任ぜられていた。大公付き女官の結婚相手としては申し分ない身分であるし、ジュインからタマルとの結婚の許可を求められたシェハラザードは、大切な親友の幸せを心から喜んだ。
 アインデッドがタマルの結婚のことを聞いたのは本人からではなく、シェハラザードからであった。私室に呼び出されたアインデッドが顔を見せるなり、彼女は我がことのように頬を紅潮させながら口を開いたのである。
「ねえ聞いて、アインデッド。タマルが結婚するのよ」
「へえ」
 シェハラザードはうきうきと爪先で踊るように歩きながらアインデッドに近づいた。声も弾んでいた。
「誰とだと思う?」
「誰って、イー中隊長だろう?」
 アインデッドはあまり気のない様子で答えた。途端にシェハラザードは出鼻をくじかれたようにちょっと拗ねた顔つきになった。
「もっと驚いてくれてもいいじゃない」
「驚くも何もあるかよ。別の男と結婚するってなら驚くけど」
 どういう返答をシェハラザードが求めていたか定かでないが、この答えは失敗だったらしいと思ってアインデッドは内心で首を傾げた。
(どう答えりゃいいってんだ、こういう時?)
「それは、そうかもしれないけれど」
 シェハラザードは本気で腹を立てているというよりは、甘えているようであった。あまり疲れていると相手をする気にもなれないが、今日は心に余裕があったので、アインデッドは彼女の機嫌を取れそうな言葉を一生懸命考えてみた。が、どうにも思いつかなかったので、話題をそらす方向に持っていくことにした。
「ああもう、あんまり怒るなよ。俺が悪かったよ。んで、式がいつかなんてことは決まったのか?」
 逃げるために言ったのだったが、予想外にシェハラザードは拗ねた態度をあっさりと捨ててしまった。
「いいえ。そういったことはまだよ」
「じゃあ許可だけ取りに来て、日取りはそれから決めるってことか」
「そのようね。タマルの両親に伝えねばならないでしょうし、実家はヤラカに近いところだから、そこから両親がシャームまで来るのだとすれば日にちもかかるでしょうしね」
 タマルに両親が健在であるというのは、アインデッドには初耳だった。それはまあ、人と生まれたからには親がいるのが当たり前だが、タマルは何となく影の薄い娘であったから、家族には縁が薄そうな気がしていたのだ。
 しかし、そんな失礼なことを口に出すとまたシェハラザードに怒られそうだったので、アインデッドは別のことを尋ねた。
「ヤラカってのは、どの辺りだった? 東だったっけ」
 大雑把な地図を見ての曖昧な記憶だったが、どうやら正しかったらしい。シェハラザードは頷いた。
「ええ。ダンゼルクに近いところで、東部の森林地帯のそばだそうよ」
「ふうん……じゃあ、辺境に近い地方なんだな」
 またも意外な思いでアインデッドは呟いた。
「でもタマル自身は十歳でシャームに来て、それ以来一度も実家に帰っていないから……両親に会うのも十年ぶりくらいになるんじゃないかしら」
 公女や王女の近辺に仕えるとなれば、一般市民の子女なら十になるならずの頃から親元を離れて城に上がるのが一般的である。貴族だとか有力市民の子女であれば、実家でそれなりの教育が行えるのでもう少し年がいってから――たいていは十五くらいで城に上がることとなる。
 それからは男子禁制の女宮で育ち、毎日を過ごすのだから、主人である公女たちよりも男性と出会う機会など少なく、世間知らずである。タマルも実はその例に漏れず、きちんと男性と話をしたり、間近に付き合ったりといったことを、エトルリアに行ってから初めて経験したのであった。
 ともあれそんなタマルにもちゃんと愛し愛される男性が見つかり、結婚の運びになったのだからめでたいことであった。シェハラザードが大喜びして周囲に話してまわったのは言うまでもない。
 だが当のタマルはというと、こちらは浮かれ喜ぶこともなく、祝いの言葉を述べられるとひっそりと微笑むばかりであった。しかし、彼女はもともとあまり感情を表に出すような娘ではなかったので、沈みがちに見えるのも、ただ結婚前にありがちな若い娘の物思いなのだろうと皆考えていた。
 だがそれは、本人にも理由の判らぬ漠然とした結婚前の憂鬱などではなく、理由は本人にしか判らないことながらはっきりとした悩み事のせいだった。物思いを抱え込んでいるのは、タマルも同じだったのである。


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