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 テラニア市に到着してから、サライとファイラはこの旅行で初めての別行動をとった。サライはテラニア候ツィシウスとともに、去年の秋に落成したばかりのテラニア運河の視察に向かい、ファイラはその間テラニア城で候夫人ファルヒアとともに、州下の主だった貴婦人を招いてのサロンで過ごしたのである。
 テラニア運河はルーディア県のルード湖沼地帯に水源を求め、幾つもの支流を作りながら州をほぼ横断する、かなり大規模なものであった。何しろ着工は二代前のオイディウス帝の治世末期で、落成までに三十年近くを要したというのだから、その規模もおのずと知れようものであった。
 この運河によってルーディア県では湖沼地帯の排水を行い、あまり大きな川を持たない東部では灌漑を行う。運河の果ては広大な人工湖へと注ぐ。これによって今まで開墾に向かなかった湖沼地帯でも畑を作ることができるようになった。今年の秋には収穫として運河整備の成果を見ることができるだろう。同時に船による交通網によって、物品も流通しやすくなるものと思われた。
「ルーディア辺りでの工事はさぞ大変だったことでしょうね」
 馬上からミール麦の畑の合間にきらめく運河の水面を見やりながら、サライは傍らのツィシウスに語りかけた。冬の終わりに種を蒔いたミール麦は、今が伸び盛りである。青葉が目に痛いほど鮮やかだった。
「私は実際を見たわけではありませんが、父からそのように聞いています」
 ツィシウスは頷いた。運河整備はテラニア候親子二代に亘っての大事業であった。彼は三十代の半ばであったから、工事が始まった頃にはまだ幼子であった。最も初期に作られたルーディアの運河については伝聞ばかりでほとんど実際を知らない。父親に連れられての視察には何度か行っただろうが、危険な場所には行っていないはずである。
「この辺りはともかく、ルーディア県はいまだに悪魔が頻々と現れますから。工事中の事故よりも、悪魔に襲われて命を落とす者の方が多かったようです」
 少しトーンの落ちた声音を、ツィシウスは振りやるように明るく変えた。
「ですが、森が開かれて光が射すようになってゆけば、そこに潜む悪魔もいずれ少なくなっていくでしょう。我がテラニア騎士団もよく頑張ってくれていますから」
「一日も早く――このテラニアだけでなく、全ての土地で、悪魔に脅かされず人々が暮らせるようになればよいですね」
 はるか彼方を見やりながら、サライは呟いた。
「ええ」
 ツィシウスも同じように運河の果てを見定めるような目になりつつ返した。
 そのようにして、テラニア市での一日目は過ぎていった。夕べには市内の主だった貴族や有力市民などを招いての盛大な宴が開かれ、カーティス公夫妻の到着とその婚姻とを祝った。
 宴が果てた後にはテラニア候夫妻とのささやかな団欒の時間が持たれた。ファルヒアは温かなチョコレートを手ずから作り、大理石で飾られた見上げるほどに高い暖炉の傍でテラニアの昔話を語ってくれた。
 語られたのは血の風が吹く荒々しい戦いの物語であり、途方もない展開を見せる滑稽な物語であり、望みのない運命に彩られた悲恋の物語であった。人々の口承のみに細々と留められ、それでいて決して途切れることのないその土地の記憶であった。
 ファルヒアの語る静かな声を聞きながら、サライは遠い昔のことを思い出した。あの平和で、毎日が穏やかに過ぎていた頃。祖母や母もこのように、幼いサライと妹に昔話を語って聞かせてくれたものだった。永遠に失われた幸せな日々を思い、サライは急に胸を締め付けられるような切なさにとらわれた。
 語られていたのは結ばれえぬ恋人たちの悲恋であったから、サライはそれにごまかしてそっと目元を押さえた。
 その夜であった。
「サライ様」
 寝支度も整え、そろそろ休もうという時間に寝室の扉が叩かれた。隣室には護衛の騎士とテラニア城の使用人が数名いたが、彼らも引き取った後のはずであった。
「どうした?」
「エルカンゲールでございます。夜分に恐れ入りますが、ご報告があって参りました」
 それを聞いて、サライはちょっと眉をひそめた。
「ファイラ、すまないけれど仕事の話みたいだ。先にやすんでいてくれ」
「ええ。早くなさってね」
 何かと尋ねることもなく、ファイラは頷いた。時間を問わず魔道師たちが彼のもとに情報を持ってくるのにはだいぶ慣れていたのである。サライはちょっと息をついた。叩き起こされずにすんだのはありがたいが、朝まで待たずにしなければならない報告となれば、かなり重要な情報が入ったということだろう。
「そうできればいいけれど」
 呟いて、サライは寝室を出た。一間続きの控え室にはエルカンゲールが一人で待っていた。常夜灯だけになっていたはずの室内は、燭台の幾つかに明かりが灯っていた。彼が点けたのだろう。
「おやすみのところをお邪魔致しまして、申し訳ありません」
「いや、構わないよ。緊急の情報なら時間に構わず報告するようにと命じたのは私だ。それで一体、何事だ? ラトキアか、エトルリアか」
「ゼーアです」
 さっと跪いて、エルカンゲールは答えた。
「皇帝ウジャス三世が崩御いたしました」
 サライは目を瞬かせた。
「それは、いつ?」
「今日の夕方でございました。追って宮廷からもご連絡があるかとは思いましたが、何分ただいま公はカーティスにご不在でございますし、ご旅行中ということもございますから、或いはご帰還後に事後報告のみ受けられるということも考えられましたので」
 苦笑にも似た、困ったような表情でサライは頷いた。
「まあ……わが国とゼーアとなると、あまり親しいというわけでもないからね。何と言っても私は新妻と蜜月の旅行中なわけだし。陛下がこの程度のことは私に知らせず処理なさるかもしれないのは確かだけれど」
 独り言めかして続け、サライは考え込むように手櫛で髪を梳きながら近くにあったディヴァンに腰掛けた。
「まったく、今年はよく高貴の方が死ぬね。ユナ皇后といい、ウジャス皇帝といい。このクラインにはお目こぼしを願えるよう、サーライナに祈っておいた方がいいかな」
 この少々不謹慎な発言に対して、エルカンゲールは無言で彼を見上げただけだった。サライは肩をすくめた。
「まあ、そんなに難しい話ではないね。各国の葬礼については記録もあるし、詳しい文官も儀典官も多くいる。クラインからの弔問使節などに関しては、陛下がお一人で対処なさるだろう。問題は、ゼーア皇帝の死を受けて三大公国がどう動くか、だな。ウジャス三世に子孫はいなかったはずだね?」
「はい。ウジャス帝にも、三人の兄皇帝にも、一人も子孫はおりませんでしたから。直系の皇族は全く。傍系も女系ばかりであまりに血が薄すぎますので、帝位を請求できるほどの者はおりません」
「では今後は皇家に拠らず、実力で全ゼーアを支配しようという動きが出てくるだろう。皇帝領はこれまでもそのようなものだったのだからペルジアに組み込まれるとして……。たしか、ラトキアにはナーディル公子が戻ってきていたはずだね。それはディアナの月か、ヌファールの月の初め頃だったっけ」
 エルカンゲールは頷いた。
「はい。ご記憶のとおりです。現在ラトキア宮廷に主だった動きはありませんが、どうやらシェハラザード大公は大公位をナーディル公子に譲るつもりで、その準備を進めているようです」
「で、まだランはラトキアに留め置かれたままで交渉も途中……。そんな時期にお亡くなりあそばしたか。中原の平和のためにも、あと二年は頑張っていただきたかったが。なかなか厄介なことになってきたな、ゼーアも」
 目ばかりはまったく面白がっていない光を浮かべつつ、サライは薄く微笑んだ。
「それ以外に、三大公国で不穏な動きは?」
「今のところはございません」
「では引き続き現地で情報収集にあたってくれ。特にラトキアの公子とエトルリアについてはよく気をつけるように、他のものにも伝えてくれ」
「かしこまりました」
 エルカンゲールは立ち上がって、深々と一礼した。そしてその黒衣の姿は部屋の隅の闇に紛れるようにして消えていった。サライはため息を一つつくと、ファイラの待つ寝室に戻った。だが、あまり良く眠れそうにはなかった。
 テラニアには二旬あまりも滞在し、その間にはテラニアの各県を訪れた。どこに行ってもカーティス公夫妻は人々の歓迎を受け、それは長らく――百年近くも不在であったテラニアの領主として、一滴もクライン皇家の血を引いていないにも拘わらず彼らが名実共に認められていることを示していた。
 クラインの皇帝は皇帝として、テラニアの王はカーティス公爵である。そのような考えが人々にあることを思わせる歓待ぶりであった。テラニアの民が直接支配を受けるのはクライン皇帝ではなくカーティス公であったから、それも無理からぬことと思われた。
 このテラニア滞在の間にサライは二十三歳の誕生日を迎えた。予定をかなり超過してしまったものの、ほどなくして長いテラニアでの日々も終わり、カーティスに戻るための道程として次に向かったのはブランベル州であった。
 ブランベルは農耕地が多かったがテラニアほど地味が豊かというわけではなく、ローレインのように目立った特産品があるわけでもない。かといって文化的に洗練された都市が存在しているわけでもないという、今ひとつ地味な向きのある州であった。
 同じように州伯ラチス・アルカデルは宮廷でもそれほど重要な役職を占めているわけでもなく、力があるというわけでもなかったが、この人は穏やかな人柄によって調停役に回ることが多く、ために誰からも一目置かれ、人望は高かった。
 レウカディアからの正式な書状で、ウジャス帝の死を知らされたのはここブランベルで、ラチスを通じてであった。サライは大して驚きもせずにその情報を受け取った。
「折角のご旅行中に、このような訃報をお伝えする役目になるというのも、なかなか心苦しいものですが」
「お気になされず、ラチス殿。このようなことでここでの滞在がいささかも不快になることなどありませんよ」
「そう言っていただけるとありがたい」
 ラチスは皺の目立つようになってきた顔に、さらに笑い皺を刻んだ。
 次いで訪れたエセル州でサライたちを迎えたのは、貴族議員では最年長の一人だったクラディウスであった。今まで長くエセル候の地位にあったクラディウスはレウカディアの在位一年を区切りとして隠居し、息子のグントラムが新エセル候となった。そのため、カーティスにはグントラムが、エセルにはクラディウスがいたのである。
 ダネインの州都カザレスでは、アリオンがカーティス参勤の間州政を担う長男のザグレウスが迎えた。サライは一時期カザレス城で騎士見習いとして過ごしていたこともあり、また次男オクタヴィウスは白竜隊に籍を置く武官であったので、彼ら兄弟とサライとは年の離れた兄弟のように親しくしていた。
 気心の知れたザグレウスの一家と過ごすダネインでの三日間が過ぎるのは、楽しい時ほど早く過ぎるという諺そのままにあっという間であった。一行はカザレスを発った日の夕刻にバージェスの州都ファリアに入った。すでに暦はリナイスの月。長かった旅も、残す州はアルターのみとなったのである。
 レウカディアからの勅使がファリア城を訪れたのは二日目の朝であった。
 三十半ばと見える勅使の男は食堂に会した四人の前で丁寧に膝をついた。
「カーティス公に申し上げます。レウカディア陛下より、無理は承知の上ではあるが、カーティスに至急帰還せよとの仰せでございます」
 バージェス伯ロデリクスとフィデリア夫人は互いの目を見交わした。周囲がざわめく中で、サライは落ち着いた表情で使者に尋ねた。
「一体、何事が。国内に異変でも? それともゼーアに?」
 使者は首を横に振った。
「メビウスです。メビウスで政変が起こりました」
 食堂はさらに騒然となった。

「Crhonicle Rhapsody26 月と太陽」完 (脱稿・2006年)

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