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     お前はいつか一国の王になる。
     歴史に名を残すような王に。
     そして《光の天使》が
     お前を王座へ導くだろう。
            ――ローランの予言





     第三楽章 ラトキア行進曲




「勝利の女神モーナは俺たちの側にいる」
 そうアインデッドは言ったが、その言葉はラトキア兵にとっては真実であった。彼らのモーナとは、すなわちシェハラザードであった。
 エトルリアの人質となっていたナハソールの息子、ドミニクスが父の裏切りへの見せしめとしてラトキア軍の眼前で処刑されるという事件が、ナハソールが戦線に加わった翌日に起こった。
 また、その戦いでナハソールは二重の裏切りの後にラトキアへの忠義を尽くして戦死した。しかしそれはラトキア軍の怒りと士気を高める結果にしかならず、エトルリア軍にしてみれば墓穴を掘る結果となったのであった。
 このような悲しい事件もあるにはあったのだが、ポーラ伯アベラルド、ナハソールの次男テオの援軍が続々と加わり、戦況は一気にラトキア軍に有利となった。だめ押しとなったのは、ラエルとダリアの義勇軍を率いて戻ってきたスエトニウスであったが、シェハラザード軍の勝利がほぼ確実となってからの援軍に、アインデッドやマギード、ハディースといった主だった武将たちは一様に顔を見合わせたものであった。
 エトルリア側としても、これ以上戦いを続けるのは損害を大きくするだけだと判断したのだろう。ミシアの会戦から一旬が過ぎたユーリースの月の二十三日、シェハラザード新大公ひきいるラトキア軍はラン公子軍を敗走させ、ハディース麾下の白騎士団と青騎士団三万にその追撃を任せて、シャームへ凱旋した。
 祖国を解放し、我が手に取り戻した誇らしさ、晴れがましさがある。自然、足取りも軽くなり、予定よりも一日早くシェハラザードは一年ぶりに懐かしいシャームの土を踏んだのであった。
 市民たちは一年間の抑圧から一気に解放された喜びと、彼らのアイドルであった第三公女が以前と変わらぬ愛らしい、それでいてずっと成長した、一人の大公として凱旋した喜びに沸き立っていた。
 至る所に紙吹雪――花は冬のこととて手に入らなかったので――を撒き散らし、ケムリソウが火に投げ込まれてぽんぽんとオレンジの煙を上げ、道端で凱旋兵たちに配るために作られている料理のあたたかな煙と混ざり合った。
 そのお祭騒ぎの中で暗い者は、今までの権勢は一転、虜囚に落ちたエトルリア兵たちだけであっただろう。人々はみな、またこのシャームに、ラトキアに平和が訪れることを確信していた。
 昼頃、シェハラザードの行軍はシャームの市大門をくぐった。
 シェハラザードは真っ白なよろいにかぶとを取って、その顔をあらわにし、白い長いマントをなびかせ、感動に目を潤ませて父祖の地に馬を進めていた。ゆたかに輝く白銀色の髪はかつてシャームの人々の記憶にあったと同じまばゆい銀色で、かれらの目に限りなく輝かしく映じた。
 その美しいおもてはこの辛い一年半でむしろ成熟と完成を得ていっそう花開き、あでやかになったことを見るものすべてに思わせた。そこには長い幽囚のかげりも、屈辱に屈していた苦しみのあともなく、ただ勝利の女神の輝きだけが宿っていた。
 そうして、そのかたわらに、同じ白い鎧に、かぶとを左胸に抱え、駿馬にうちまたがる若き旗本隊長は、はじめてまみえるシャームの人々に、ロマンと義侠心と伝説の生ける象徴のように映っていたのだった。
 彼らが見たのは、きっぱりと果断な顔立ちの、ハンサムな騎士の顔であった。沿海州の鋭い、鷹のような眼差しと、どこか皮肉そうな、しかし妍麗(けんれい)な顔とは、非常な意志力と力強さ、新しいラトキアの守護神の頼もしさとをもって人々の目に映じた。
 人々は一目見た瞬間からこの若い英雄に魅了され、その手によってラトキアとその正当な支配者が救い出された、という神話を既に受け入れていた。
「姫様! シェハラザード姫様!」
 突然、人垣から青年に手を引かれてよろよろと出てきた老人がいた。すっかり白くなってしまった髪や、深くしわの刻まれた浅黒い顔。しかしシェハラザードが彼を忘れているはずがなかった。彼女はぱっと顔を輝かせ、馬から飛び下りた。
「じいや! グリュン! 無事だったのね。ああ、グリュンに馬車か馬を用意して! 一緒に城に入りましょう」
 その老人はグリュン、手を引いて出てきたのはダンであった。シェハラザードは全軍に一時停止を命令してから大急ぎで馬車を用意させた。その間、グリュンはシェハラザードを救い出したという、人々の心の中ではすでに半分物語の中の人となってしまっている若い英雄に目を走らせた。
(ほう……)
 グリュンは、感心したように目を見開いた。アインデッドはその探るような視線に気付いたが、今のところこの老人のほうがシェハラザードに気に入られているとさっきの様子から判断していたので、いたって丁寧に軽く会釈をして視線を受けとめた。
(きれいな顔をしているな……。しかし独力で姫様を救い出し、ラトキアを勝利に導いたというからには、なよなよした色子のようなものと一緒にしてはいけないな。身一つでここまで来たからには腕は立つようだ。しかし出自も経歴も判らぬ男、姫様を色仕掛けでたぶらかして、ラトキアを手中におさめようともくろんでいないとも限らん。これは用心せねば)
 アインデッドは既に彼への興味を失ったように、前を向いたまま静止している。グリュンのひそかな疑惑などは気付いてもいないようだった。
(こうして見ていても、はっとするほど激しい炎を内に秘めている。まるで若かったときのツェペシュ閣下のよう――いや、それ以上に激しい炎だ)
 それだけは、幾ら第一印象からして敵のように認識しているグリュンでも認めざるを得ない事だった。何もかもを燃やし尽くすようなアインデッドの炎は、戦いが過ぎて抑えられていてもなおも激しく燃え盛っているようだった。
 やがて馬車の用意が済み、グリュンはダンと別れて馬車に乗り込んだ。馬車に乗ってしまうとアインデッドの姿は後ろ姿でしか確認できなくなる。それでもやはり、彼の周りだけは空気が違って見えた。
 シェハラザードにとってだけ、このような感動的な再会があったわけではない。行軍の至る所で、愛する夫や息子を見つけた女たちの歓声が上がっていた。彼女たちは略奪を免れたとっておきの晴れ着を身につけ、男たちの凱旋を待っていたのである。
「お帰りなさい、あなた!」
「ポール!」
 しんがりについていた赤騎士団の第二隊長は、人々の歓声の中に自分を呼ぶ声を聞き取って振り返った。見れば、人ごみに紛れて手を振っているのは、一年前に別れたきりの妻であった。
「ソフィア、無事だったのか!」
 さすがに行軍の途中で隊を放り出して駆け寄るわけにもいかなかったのだが、代わりにソフィアの方が列に駆け寄ってきた。このような場であったので、咎める者とていなかった。彼女の隣にはもう一人若い女がいて、こちらも愛する夫を列の中に見いだしたようであった。
「あなた、あなた! 良くご無事で!」
「トリエ、まだ行軍の途中だよ」
 半泣きになりながら首筋にすがりついてきた妻を、ポールの隣にいた副隊長のイェーオリは抱えるようにして歩きつづける羽目に陥った。第二隊長と副隊長の二人は幼なじみであったので、その気安さでイェーオリはポールにさんざんからかわれ、顔を真っ赤にしていた。しかしそれも、微笑ましい光景であった。
 シャーム城は以前と変わらぬ姿をとどめていた。エトルリア兵の略奪に遭っても、外観だけは変えることができなかった。シェハラザードにとっては懐かしい我が家でもある城内が無残に荒されてしまっているのは見るに忍びなく、彼女はとうとう懐かしさと悲しさに涙を零しはじめてしまった。そんな感動的な一幕の中、相変わらずアインデッドだけは部外者ということもあって冷静であった。
(趣味の悪い城だな……金をかけてるっていうのはわかるんだが、内装自体にまとまりがないというか……。とにかく飾りつけりゃ豪華に見えるってわけじゃねえんだぞ。俺だったら――俺もそう、粋な趣味は持ち合わせちゃいねえが……そうだな、この赤と金の調度は派手すぎるから変えるな。もっと落ち着いた感じの色で統一して、こんな目が痛くなりそうな色は避けるぜ。使うにしても一箇所とか、ほんのアクセントぐらいでさ)
 とはいえ内心でそんなことを考えているなどとはおくびにも出さず、アインデッドはごくおとなしく一行の後ろについて歩き回っていたのだった。ルカディウスの方はと言えば、これは貧しい育ちの悲しさか、そういった装飾品やら調度やらの品の良さなどは皆目判らなかったため、ただその麗々しさに口を開けそうな勢いで見入っていた。
「そうね……わたくしが戻ったからには、元通りにしましょう。まず壊された所を直して……いいえ、それはいけないわね。ツェペシュ・ラトキアの時代は終わってしまったのだもの。これからは新しい時代だわ。その焼けた父上の建国物語のタペストリは取り払って、シェハラザードのラトキア再興を画家に描かせましょう。公女宮は改装して兵舎にするわ。何もかも変えてしまいましょう。忌まわしい一年間を思い出させるようなものはすべて取り払って――さっそく始めましょう」
 シェハラザードは焼けたタペストリから目をそらし、にっこりと笑った。そういう、すぐに笑ったり、泣いたりするところで、シェハラザードは側近たちに愛されるのだろうとアインデッドは思った。
 その日の夜は、シェハラザードがシャームを奪還したと聞いてぽつぽつとシャームに戻ってきた大臣や貴族たちを招いての宴会となった。シェハラザードは終始にこにこと微笑み続けており、ルカディウスはここぞとばかりに自分を売り込みにかかっていた。それにはマギードも一役買っていた。
「アインデッド・イミル隊長でしたかな」
「まずは一献」
「おお、お強いのですね。火酒をもっと運ばせましょうか」
 アインデッドの方は山と積まれた御馳走にはほとんど手をつけず、黙々と酒を飲みつづけていた。
 彼としてはこのようなお世辞とお追従の嵐にはまったく辟易としていたので、彼を取り巻いてはどのようないきさつでシェハラザードを救い出すことになったのかを熱心に聞きだそうとする貴族たちには愛想笑いもせず、出て行っても礼を失しない程度の時間を必死で我慢すると、今夜中に片付けたい仕事があるからと言い訳をして退出していった。
「おい、酒! 水割りじゃねえやつだ」
 あてがわれている一室に戻るなり、アインデッドは小姓に命じた。タリム砦からずっと彼についている小姓たちは、これほど彼が不機嫌なのは初めてだったので、困惑しながらも火酒を運んでいった。それを半分ひったくるようにして奪い取り、おざなりな調子で人払いを命じた。
「ちくしょう……みんな茶番だ……。ルカディウスも、シェハラザードも……ああ、苛々する!」
 周りに誰もいないので、アインデッドは瓶に直に口を付けて中身をあおった。酒を空けてしまうと、アインデッドは飛び込むようにベッドに身を投げ出した。酔っているのが自分でも判った。
「俺もハディース殿と一緒に、追撃軍に入っていりゃよかった。あんなんじゃ戦ったとも言えねえ。もっと、もっと戦いたいんだ」
 子供のようにシーツの端っこを噛みながらアインデッドは呟いた。既に時刻は真夜中を過ぎていた。しかしこの部屋にも伝わってくる宴会のざわめきは、ますます高まっているようであった。
「ラトキア人ってのはどうやら、馬鹿らしいほど宴会好きみたいだな。あのグリュンとかいったじじいも、クジラみてえにものを食いやがるし、あんな細っこいセオドアもすげえ食べるし」
 アインデッドはぶつぶつ言っていたのでようやく気が晴れて、あらためて宴会の様子を思い出して一人で感慨にふけった。しかし、ラトキア人の大食いを指摘するなら、いつもだったら二人前くらい平らげてしまう彼もそんな立場ではなかった。
「アインデッド様、シェハラザード閣下が至急大公の私室までおいでになるようにと仰せでございます」
 しばらく、眠っていたらしい。アインデッドはその声で飛び起きた。
「今、何時だ?」
「ユーリースの刻を半テルほど過ぎました」
「で、やっと宴会が終わったってわけかよ。たまげちまうな」
 着替えながら、アインデッドはぼやいた。これからラトキアの一将としてやっていくのなら、このような宴会にいつでも駆りだされるのかと考えるとぞっとしない気分だった。
「お呼びでしたか、大公閣下」
 アインデッドが部屋に入っていくと、シェハラザードは待ちかねていたように立ち上がった。
「ああ、来てくれたのね」
 シェハラザードが手真似で人払いを命じると、相変わらず青ざめた面持ちのタマルが、目にいっぱいの涙をためてそっと引き取っていったが、シェハラザードは全くそんなことに気付かなかった。
「あなたがさっさと席を立ってしまったから、何かあったのかと心配だったの」
「それだけか。じゃあ何もなかったんだし、俺は眠いんだ。戻っていいか?」
 アインデッドが疲れたようにもと来た道を戻ろうとすると、シェハラザードの腕が腕にからみついてきた。ぎょっとして振り向くと、泣きそうな顔で彼女が見上げていた。アインデッドは自らの女性遍歴をことあるごとに自慢するくせに、はっきりいって、この手の涙は大の苦手であった。
「な……何だよ。俺、何かまずいことでも言ったか?」
「あなた何か怒っているの? シャームに入ってからずっと黙ったきりで話しかけてもくれないし、わたくしずっとそれだけが気になっていたの。初めて会った時、あなたは言ったわね。わたくしに手を貸してくれるのは、夢を実現するための手だてだと。でも、お願いよアインデッド、今のわたくしにはあなたが必要なの。傍にいて!」
 シェハラザードはもうなりふりかまわずアインデッドの胸にすがりついていた。どうしたものかと困惑しながら、アインデッドはその髪を撫でてやった。
「怒ってなんかいやしねえよ。ただ、今日は疲れたんだ。そう泣くなよ。偉い大公閣下がさ。そんなに必要ってんなら、エトルリアを滅ぼすなり、ラトキアがしっかりするまではいてやるよ」
「嫌!」
 シェハラザードは輝く銀色の髪を振り、激しく泣き崩れた。
「あなたがいなくては嫌! あの戦いの中で判ったの。わたくしはあなたが好き。愛しているの。本当よアインデッド、あなた一人を愛しているの。……そ、それとも、わたくしでは駄目? わたくしが、サン・タオの、その……」
 そこまで言って、シェハラザードは忌まわしい思い出に口ごもった。突然の告白にとまどいながら、アインデッドの脳裏に稲妻のように閃くものがあった。
(……光の天使……。そうだ、俺をいつか王座へと導くはずの、予言の……。シェハラザードはそう呼ばれて……)
 考える前に、アインデッドはシェハラザードを強く抱きしめていた。シェハラザードがはっとしたように身をすくめる。
「気になんかしてねえ! たとえどうあれ、お前はお前だ、シェハラザード。過ぎた昔のことなんて、気にするな。今のお前には俺がいる。俺が忘れさせてやる。そんな記憶、俺が消してやる」
 アインデッドは気持ちが変わらぬうちに、というように急いで言葉をついでいった。その深い緑の瞳は闇の中で狂おしく輝いていた。
「アインデッド――アイン、愛しているわ……」
 シェハラザードの囁きも、その夜のしじまの中にかき消えていった。

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