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                                *



 程近いミシアでの乱戦のさなか――シャームは不気味なほどに静かであった。
「ヤン・クン長官。ナハソール殿が至急お会いしたいと次の間まで来ていますが」
 シャーム長官ヤン・クンは面倒だといわんばかりに振り向いた。
「どうせまた士気が上がらんだのなんだのと、愚痴を言いに来ただけだろうが。追い返してしまえ。われらは今日中にミシアまで行かねばならないのだぞ」
「しかし、どうしても、火急の用だというので」
 申し訳なさそうに、エトルリア人の小姓は肩をすくめた。その態度からも、ナハソールがいかに愚弄されているかがうかがい知れた。
「しかたがない。五テルジンだけだと伝えて、案内してさしあげろ」
 そして、ナハソールはヤン・クンの前にやってきた。前は黒々としていた髪も、たった一年で灰色になってしまっていた。一年で、彼は十歳も老けてしまったようだった。体は大柄なほうであったが、それもなにか縮んでしまったような感じがした。
「何の用ですかな、ナハソール殿」
 いかにも馬鹿にしきった態度で、横柄にヤン・クンは尋ねた。それは、何を聞いたとしてもまともに取り合おうという気すらないことを明確に表していた。
「折り入ってご相談がございます」
 ナハソールはきわめて丁重に言った。それは怯えているとも、ただそういうふりをしているだけともとれた。
「何の相談ですかな」
「ミシアへの援軍には、私の隊も組み入れられるのでございましょうか?」
「当然だ。それとも、もとの君主の娘と戦うのは嫌だとでも?」
 ヤン・クンは相変わらずいやな薄笑いを浮かべたままナハソールを見ていた。うつむいたナハソールの目に、きらりと光るものがあった。何かを耐えるような、苦渋に満ちた表情であった。
「……」
「お忘れかな。ご子息の命は貴殿の態度いかんにかかっておるのだということを」
「わかっております」
 ナハソールはほとんどうなだれんばかりだった顔を、唐突に上げた。
「許せ、ドミニクス!」
 言いも果てず――
 ナハソールの長剣が空を切った。
 鮮やかな剣技は、まったく衰えを見せていなかった。ヤン・クンの首は見事に血しぶきを上げて、ありうべからざる角度に折れ曲がり、床に落ちた。しばらくの間、ナハソールは死体を見下ろして立ち尽くしていた。
「お前を見殺しにする父を許してくれ、ドミニクス。父もすぐにお前のもとに行こう。シャームを取り戻した後には、必ず、必ず……」
 嗚咽するように、ナハソールの肩が上下した。
「長官……ああっ!」
 先ほどの小姓が戻ってきて、悲鳴をあげた。逃げ出そうとした背中に、ナハソールの剣が突き刺さる。裏切りが知られるのも時間の問題であった。捕らえられ、麾下にあるもとラトキア軍の部下たちを抑えられる前に軍をととのえて、シェハラザードのもとに馳せ参じなければならない。
 ナハソールは足早に麾下のラトキア兵たちが集められている練兵場へと向かった。ラトキア兵たちもミシアに向かう軍に組み入れられていたので、すでに軍装を整えていた。
「我々は今よりミシアに向かう」
 エトルリア軍の支配下にある身では、たとえかつての友軍であっても敵として戦わねばならない。彼の言葉を、半ば失望めいた、諦観にも似た表情を浮かべてラトキア兵たちは聞いていた。
「だが、我々が敵とするのは我らが同胞、友軍ではない。ヤン・クンはこのナハソールが討ち取った! 今こそシャーム城をエトルリア兵どもの手から取り戻し、正しき我らが君主、シェハラザード様をお迎えするのだ!」
 ナハソールは喉も裂けんばかりに声を張り上げた。一瞬、ラトキア兵たちは信じられないといったように一様に顔を見合わせ、沈黙がおりた。
「おお――っ!」
 だが次の瞬間には、それは賛意を示し、ナハソールを讃える怒号となって弾けた。
「ラトキア! ラトキア!」
「シェハラザードのために!」
「首都警備隊はエトルリア兵を捕らえおくためここに残れ。黒騎士団は全員戦闘準備を整え、エトルリア兵を制圧。そののちミシアに向けて出発!」
 少しずつ、時代は動き出していた。だがそれはツェペシュ・ラトキアの作り上げたラトキアに終わりを告げることでもあった。
 城内でエトルリア兵との小規模な戦闘が起こったが、勢いに乗ったラトキア兵に恐れるものはなかった。数時間後、シャーム城内のエトルリア兵は全て武装解除されて捕らえられた。ナハソールはシャーム城にはためいていたエトルリアの旗をすべてラトキアのものに取替え、ここにラトキア騎士団のよみがえった事を全市民に知らせた。
 そして一夜明けた、ここはミシア。
 その後の夜襲はなかったが、両軍とも不安な一夜を過ごした次の朝。いつもと変わりなく太陽がその金色の光を戦場に投げかけていった。
「敵に何か異常はないか? いや、こっちにでもいいんだが」
「いいえ、まったく動きは見られません。我が軍も落ち着いております」
 アインデッドは既に目を覚まして、洗顔も食事も済ませていた。彼付きの小姓たちが既に行李を開けて、軍服を持ってきていた。
「着替えを」
 命じながら、アインデッドは次の手を考えていた。どのみち、数に圧倒的差があるうちはこのままいっても負けるだけだろう。それこそ、シェハラザードではないが、あてのないナハソールの裏切りかスエトニウスの援軍でも期待するしかない。
(戦えりゃそれでいいなんて、今の俺には言えねえからな。ハディース殿はともかく、ぼんぼんのマギード殿と十七のガキ、お荷物のシェハラザード大公閣下の面倒をみなきゃならねえし、それに何てったって、俺自身の命がかかってる)
 アインデッドは例によって、ぶつぶつと呟いていた。そこにタマルを従えたシェハラザードがやってきたものだから、うっかり口を滑らせてはいないかどうか、素早く左右に目をやった。
「おはよう、大公閣下」
「ええ、おはよう。気分はどうかしら」
「何も問題ねえよ」
「そう。それはよかったわ」
 シェハラザードはアインデッドの若々しい、秀麗なおもてを眩しそうに見上げた。アインデッドはその視線を、いくぶんくすぐったそうに受け止めた。
「何か、用なのか?」
「いいえ……あなたが無事でよかったと思ったのよ」
「そりゃあ、そうだな。俺が今死んだら、大将が一人いなくなっちまうわけだし」
 アインデッドは小姓に、アーフェル水を三つ持ってくるように言いつけ、唯一の家具である簡易寝台に腰掛けた。
「そうじゃないの」
 同じように腰掛けて、シェハラザードが言った。アインデッドはふと眉を寄せ、いぶかしむように少女の顔をを覗き込んだ。
「昨日の戦いを見ていて……暗かったから、何がどうなっているのか、本当のところよく分からなかったのだけれど、あなたがもし怪我でもしたら、どうしようかと」
「ふうん」
 シェハラザードは典型的なラトキア人で、自分の感情にはとても正直だった。
「わたくし、あの戦闘の間、あなたのことを考えていたの」
 言いながら、彼女はふっと自嘲するように笑った。
「おかしなことね。父上の国を取り戻すための戦いだというのに。ああ、あなたが怪我をしてしまったらどうしよう、怪我で済めばいいものの、死んでしまったら、どうすればいいのだろうと、そう思っていたの」
「……」
 アインデッドは、何と言っていいのか判らないまま、シェハラザードのひたむきな菫色の瞳を見つめていた。
「俺さ……あんたのこと、最初は、やたらと地位を振りかざすいけ好かない女だと思ってた。でも、あんただって、この年で親や姉を亡くして、敵国の王の妾妃にされて、大変だったんだよな……。でも今こうして、祖国の復興のために戦って……すごいよ、あんたは。自信を持ってもいいと思う」
 ようやく、口が開いた。
「でも、わたくしの最初の兵はあなたが集めてくれたものだもの」
「そりゃ、そうかもしれない。でも、あとのはみんな、あんたの名前のもとに集まったんだよ」
 優しく、アインデッドは言った。シェハラザードの白いうなじが赤く染まる。十八でエトルリア大公の妾に落とされた身であったが、シェハラザードは恋をしたことがなかった。だから、なぜこんなにも自分の胸が苦しいのか、全く判らなかった。
「あんたは、尊敬に値する女だよ」
 もう一度、アインデッドは力強く言った。胸の高鳴りはアインデッドのためだとシェハラザードは感じた。森のきらめきを映した緑の瞳と、朝焼けの空を映した青紫の瞳とがぴたりと重なった。
 二人の間の空気が、その瞬間何かやわらかく甘やかなものに変わった。
「シェハラザード……」
 アインデッドはこれまで、シェハラザードのことを女には横柄な口をきくのが一番だと考えていて、それをねじ曲げようとも思わない彼にしては珍しく、「公女殿下」とか「大公閣下」などと呼んでいた。戦闘中のどさくさ紛れに「あんた」と呼んでみたのにシェハラザードが何も言わなかったのに気をよくして、ずっとそれで通していたのだが、呼び捨てにしてしまうとどこか不安が残った。
「……アインデッド……」
 しかし――シェハラザードは全く、かみつくことはしなかった。二人の後ろで、タマルがほとんど真っ青になって声を抑えるように口許に手をやり、天幕を駆け出ていったことにも、二人は気付かなかった。
「シェハラザード」
 細い肩に手をかけて、もう一度呼んでみた。シェハラザードは目を閉じた。アインデッドはその細いとがった顎に指をかけ、少し上げさせた。目を閉じる。二人の唇が相手を求めてさまよい、そして触れ合いそうになったその瞬間――。
「アインデッド!」
 二人の間の魔法は粉々に砕け散った。シェハラザードは慌てて飛び退り、アインデッドは何となく行き場を失った手を振った。
「なんだ、ルカディウス」
 アインデッドがいつになく憮然としているのに一抹の不安を感じながら、ルカディウスは報せを伝えた。
「それが……シャームのナハソールがこちらに寝返った。今、一万を率いてこっちに進軍中だ」
「なんだと?」
 それにはアインデッドもシェハラザードも驚きを隠せなかった。
「まあ、ナハソールが、まあ……」
「よし、使者を立てろ。一万もあれば挟撃することも可能だ。その段取りを今日中につけるぞ」
 アインデッドはさっきまでシェハラザード相手に恋愛ごっこをしていた様子もすっかり拭い去り、ルカディウスに命じた。
「こりゃあいけるぜ……フェリス騎士団だけではどうにも心配だったが、ナハソールの軍が加われば、四万。五万には足りないが充分だ」
 アインデッドはとても現実的であったので、シェハラザードのようにナハソールを心待ちにしているようなことはなかったが、それでも一万が味方になってくれないというのは気の重いことであったので、ほっと一安心したのだった。
 次の日の朝に、全面衝突が始まった。その間にアインデッドはナハソールと話を付けて、エトルリア軍を双方から攻撃する計画を立てていた。
「じゃあ、俺も行ってくる。いいか、大公閣下。やばくなったら逃げるんだぞ。俺はすぐ追いついて守るから」
「ええ……どうか、無事で」
 シェハラザードは彼女らしくもなくもじもじとしながら剣でヤナスの印とナカーリアの印を切った。ルカディウスは二人の間が昨日の一件でただならぬものになっているとは気付かず、アインデッドの白く輝くような戦装束を惚れ惚れと見つめていた。アインデッドはにっと笑って、軍配を振った。
「旗本隊、出撃!」
 アインデッドが戦場に駆け込んでゆくと、そのまわりにはぽっかりと空き地ができる。一つには彼の周りの敵がなぎ払われてしまうためであり、もう一つには戦う前から相手が逃げ出すせいでもあった。
 一昨日の狂戦士のような戦いぶりはエトルリア兵の間にすでにすっかり知れ渡っているものらしい。もともととても勇猛であったのに加えて、アインデッドにはここ数ヶ月まともに戦えなかった鬱憤があったので、晴らされる敵側としてはたまったものではなかった。
 合図の戦太鼓の三連打で、ナハソール率いるシャーム警備隊が背面攻撃を仕掛ける予定であった。
 そして遠く、それが聞こえたようであった。
「黒騎士団団長ナハソール、見参!」
 エトルリアの鎧からその紋章を剥ぎ取ったといういでたちのシャーム警備隊一万がなだれ込んできた。エトルリア軍は浮き足立ち、崩れだす。
「行け! 敵は浮き足立ってる。今だ!」
 アインデッドは戦の高揚に任せて叫んだ。その白騎士団のマントも鎧も、しぶいた血で真っ赤に染まっていく。エトルリア軍の敗北は、最初の優勢はどこかに消え失せ、今は目に見えるものになっていた。
 確かにその時、アインデッドは運命の声を聞いた気がした。

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