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 安静を守らないのでいつも医者を困らせ、嘆かせるバーネットにしては珍しくも、おとなしいことこの上なくベッドにおさまってじっとしていたので、もうすぐ三十歳になる男とは思えぬほど回復は早かった。
 十日目には、まだ傷は治りきっていなかったが、今回の騒ぎを起こした当事者の一人として皇帝に謝罪するため、乗馬や、カーティス城に出仕することが許されるまでに持ち直していた。
 一日でも早く仕事に戻りたかったので、何とか医者の言うことも聞いていたバーネットである。許可が下りるとさっそくにレウカディアへの謝罪と挨拶をし、仕事に戻ることにしていた。
 あらかじめ謁見の許可を願い出ていたので、登城して小姓に用向きを述べると、すぐに控えの間に通された。数分待たされてから、謁見の準備ができたので入るように、と小姓が告げに来た。
 公的な謁見ではなく、私的な話のようなものと判断されたのか、小姓に案内されて通されたのは、皇帝の書斎であった。てっぺんにガラスをはめこんだ天井は高く、丸い部屋のぐるりに背丈よりも高い書棚が並べて据え付けられ、梯子がかかっていた。
 バーネットはレウカディアから一バールほど離れたところで片方の膝をついて、うやうやしく騎士の礼をとった。レウカディアは大儀そうに片手を振って、女官や小姓たちに人払いを命じた。
「かくはいやしきこの身に貴重なるお時間を割いていただき、謁見のお許しいただきましたこと、光栄に存じます」
 レウカディアは優美で華奢な椅子に物憂げに腰掛け、バーネットの様子を探るように目を走らせた。このところではもうすっかり彼女の本性となってしまったかのような暗い顔で、彼女は手を差し伸べてバーネットの後ろを指差した。
「これは公式の謁見ではないのだから、ルデュラン子爵。そのようにかしこまることはない。それよりも、病み上がりの身に長く跪かせるのも心苦しい。そこの椅子にかけることを許そう」
「かたじけのうございます」
 バーネットは素直に従い、そこにあった椅子にかけた。
「体のほうは、もうよいのか」
「はい。まだ本復とは申せませんが、実戦に出ることさえなければ職務に戻ることは可能と、カリクレス殿にもお墨付きをいただいております。陛下におかれましては御心配をおかけしましたこと、また陛下に捧げるべき我とシェレンの命をいたずらに脅かし、かようの騒擾を起こしましたこと、深くお詫び申し上げます」
「それはわらわが許したこと。そのことは、もう申すな」
 レウカディアはどこか怒ったような硬い表情で、ゆっくりと言った。即位してからほとんど、皇帝の衣装か、そうでなくても紫をどこかに取り入れたドレスをまとっているレウカディアだったが、この日は珍しく薄桃色の、レースを縫い縮めて花のようなコサージュにしたものをスカートにあしらった、愛らしいドレスを着ていた。
 髪には薄桃色のマノリアを一輪ずつ左右に編みこみ、普段と変わらぬのはその白い額にきらめく黄金の《皇帝の環》だけだった。バーネットは言及しなかったけれども、それは彼とレウカディアが初めて個人的に言葉を交わしたときに着ていたドレスだった。
 そのような晴れやかな姿だったので、レウカディアはこの半年近くすっかり失われていた年相応の美しさと若さが戻ってきたようだった。実際のところ、必要以上に重々しく、暗いレウカディアの態度や姿が人々の目に触れている期間のほうが短かったのに、薄桃色に身を包んだレウカディアはあまりに新鮮に映った。
 さきに人払いを命じられて出ていっていた女官や小姓たちもこのあからさまな変化には目を剥いていたし、その理由も多分に想像がついていたのだが、口に出すことはひかえられていたのだった。
「謁見を願い出たのは、その詫びを申すためか、ルデュラン子爵」
 レウカディアが尋ねた。
「さようにございます、陛下」
「職務には、いつから戻る」
「時間が許せば、本日ただいまからでも復帰いたす所存にございます」
「たった十日で。さすが日頃から鍛えた武人は違う」
 彼女はなんとも言えぬ微笑みを浮かべた。バーネットは笑みを返すことはせず、無表情に近い顔で答えた。
「もとより大した傷ではございませんでしたので。それに、無理をいたしますと治りが遅くなることは過日の負傷で身にしみましたゆえ」
「そのようなことも、あったな」
 レウカディアは懐かしむような口調で目を閉じた。しばらく、二人の間にしんとした沈黙が下りた。宮殿の奥の、召使たちの声や足音がかすかに聞こえてくるほかには、何の音も室内にはなかった。
「バーネット・ルデュラン」
 やがてレウカディアの方から沈黙は破られた。
「は」
「そなた、アーバイエ候の剣をわざと受けたな。武人ならず、女の身なるわらわにも、その程度は判る」
「……」
 冷たい黒曜石の色をした瞳が、バーネットの目を正面からとらえた。バーネットはその視線にたえかねたように、そっと俯いた。
「そなたは――死ぬつもりであったろう」
「なにゆえに、さような」
「言い訳無用」
 押し被せるように厳しく、レウカディアは言った。
「剣を折られ、おめおめと負ける恥辱に耐えかねて自ら負けることを選んだかのように装って、もっともらしく己の死を飾るつもりだったのだ、そなたは。アーバイエ候の、そなたの妹への恋心を利用して」
 バーネットは眉をかすかに寄せて、レウカディアに視線を戻した。
「さようのお疑い、なにゆえでございますか」
「私から逃げるために」
 間髪入れず、レウカディアはきっぱりと言った。
「成人式の折りそなたと踊って以来、私がそなたに何を望んだ? 私とて、皇帝の立場というものがあることは知っている。答えよ、即位してから、私がそなたに無理を言ったことが、あったか?」
「いいえ、決して!」
 バーネットは彼女に負けず劣らず蒼白になりながら応えた。
「さもあろう。なのにそなたは私を宮廷中の笑い者にしたのだ。私が知らぬとでも思っているのか。バーネット・ルデュランは女帝の求愛に困って、ナジアと付き合いだした、と皆があざ笑っていることぐらい、私も知っている。あげくそなたはそれだけでは飽き足らず、今度はサーライナの黄泉に逃げようとした」
「それはあまりといえばあまりなお疑いにございます。そのようなことは、決してございません」
 悲痛な声で、バーネットは力なく言い返した。レウカディアの言ったことは、大半がその通りのことであったから、なおさらその声には力がなかった。彼の言葉を無視したように、レウカディアは冷笑した。
「だが、残念であったな。そなたは命冥加に生き長らえてしまった。そのような回りくどい逃げ方をせずとも、一言私に告げれば済むものを。ナジアを愛している、私の心には応えられぬ、と」
「陛下!」
 バーネットは青ざめ、声を上げた。
「お願いでございます、そのようなことを仰るのは、おやめください。私は決して――陛下から逃げようなどと考えたことはございません。ただ、臣下としての分はわきまえねばならぬのです。そのことをどうか御理解くださいませ」
 レウカディアは声を張り上げた。
「馬鹿にするのもたいがいにおし! 私が――私を、何も知らぬ、名ばかりの皇帝だとしか思っていないくせに、言葉ばかり飾って呼んだとしても、そんな偽りはすぐにわかる。そなたたちが、どうせ二十の小娘、あの父上の娘だと私を侮り、これっぽちも私をうやまってなどいないこと!」
「そんなことはございません、陛下。誰がそのようなことを。どうかお気をお鎮めください、陛下――陛下」
 うろたえて、バーネットは腰を浮かせかけた。
「陛下、陛下――陛下!」
 レウカディアは苛立たしげに足を踏み鳴らした。そんな子供っぽいしぐさも、久しぶりのものであった。
「何が《我が陛下(エル・レジェーヌ)》よ! もうたくさんだわ、そんな呼び方!」
 突然、彼女の口調が昔のような、二十歳の娘らしいものに変わった。レウカディアはうつむいてバーネットから顔を隠した。泣き出したかのように、その肩が小刻みに震えるのを、どうしてよいのか判らずにバーネットは見つめていた。
「どうして昔のように、レウカディアと呼んでくれないの? バーネット」
 やがてレウカディアは腹の底から絞り出すような深いため息とともにその呟きを吐き出した。
「クライン聖帝ともあろう陛下を、ヤナスの前のちりよりもはかなく、いやしい存在にしかすぎぬ私がなぜそのように呼べましょう」
 バーネットは苦しそうに顔を引きゆがめ、俯いた。
「ならば、私が皇帝として許します。私をレウカディアと呼ぶことを。それでも、あなたは私を陛下と呼ぶの?」
 ますますうなだれて、バーネットは言った。
「お許しください。たとえ陛下がお許しになろうとも、それは臣下としての分をわきまえぬ行為――天は許さぬでしょう」
「そうやって、あなたは礼儀を尽くして、主君への丁重さでもって、私との間に臣下と君主という、決して越えられぬ垣根を築いてしまおうというのね。冷たい人――! 拒むよりも、もっとひどいわ」
「陛下――」
 差し伸べられた手を振り払うような激しさでレウカディアは顔を上げ、いたわるようなバーネットの声を押さえつけた。
「いいえ、自惚れてはいけない、バーネット・ルデュラン! 私に選ばれることを、そうでなくとも好意あるまなざしを向けられることを、何人の貴族たちが、王子たちが望んでいると思うの? だって私にはそれだけの値打ちがあるわ。私は世界でもっとも高貴な、クライン帝国の女帝なのだから。なのにあなたには、それがいけないというのね? 私が女帝であることが!」
 レウカディアのおもてを凍らせていた皇帝としての威厳を保たねばならないという意識はいつのまにかすっかり消え去り、やせてはかなくなった顔にはただ、恋に悩む若い女としての表情しかなかった。
「ルデュラン子爵――いえ、バーネット。私はあなたに訊ねます。あなたの陛下(エル・レジェーヌ)ではなく、一人のレウカディアとして訊ねます。あなたは――あなたは、私を、レウカディアをどう思っているの?」
 彼女は感情の激するあまり、椅子を倒しかねない勢いで立ち上がった。
「わたくしは永遠に、クライン聖帝陛下の忠実なるしもべでございます」
 さらにうつむき、バーネットは蒼白な顔で悲しげにかすれた声で答えた。
「そう――……」
 何か言いかけたレウカディアは一度口を閉ざした。その、バーネットに負けず劣らず蒼白だった顔は紅潮し、瞳は今にも泣き出さんばかりに潤んでいた。彼女の目を濡らしていたのは怒りのあまりの涙であったが、同時に悲しみの涙でもあった。
「そう……言うのね。私はあなたの君主でしかないと? それなら私はクラインの唯一にして冒すべからざる神聖な皇帝の名において命じます。ひざまずきなさい、バーネット・ルデュラン。そして――私を――私を、愛していると言いなさい!」
 爆発的にレウカディアは鋭く叫んだ。
 一言も反駁せず、バーネットは言われたとおりにした。椅子から立ち上がり、ひざまずいて恭しく頭を下げた。彼ははっきりと言った。
「愛しています、陛下」
「心から? 私のために死ねるほどに?」
「はい。陛下のお望みであればいつなりとも死んでみせましょう」
「バーネット、あなたは私のもの?」
「私の命も、髪の一筋もすべてあなたさまのものでございます、陛下」
 レウカディアは目を閉じ、それから眼下にひざまずいている男の端正な顔をきっと睨みつけた。
「そんな事を言ったって、私がどんな権力をもって命じたって、あなたの心を――人の心を縛ることなんてできないのは、判っているのよ。あなたの今の言葉が口先だけだということも! 判っているけれどもどうしようもないから、こんなに悩んでいるのに、それが判らないというの? 残酷な、冷たい――ひどい人!」

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