前へ  次へ

     晴れたるときは晴れたる日のごとく
     嵐の日は嵐の日のごとく
     われは君と共に生きん
     共に手を取りかたわらにある時も
     遠く万里を隔てたる時も
     変わらずわれは君を愛す
     こはディアナのさだめなりせば
     よし死がわれらを分かつとも
     われは君の妻、君はわが夫
     再び黄泉にて巡り会うべし
         ――《ディアナの誓い》より




     第四楽章 愛の夢




「御気分はいかがでございますか――?」
 暗く、涼しいひっそりとした寝室。清潔な白いシーツに覆われたベッドで、白い夜着に身を包み、横たわっているのは、濃い赤の髪と、青ざめてはいるが精悍で美しい顔、そして黒みがかった赤い瞳の持ち主であった。
「悪くないよ、エドガー」
 主人と同年代――もしくはもう少し年上と見える小姓は心から心配している様子で声をかけた。
「でも、無理に動こうとなさらないでください、バーネット様。まだ四日しか経っておりませんからね」
「今度という今度は、俺も動けないな」
 バーネットは、やっと死の淵から戻ってきた人のように小さく笑った。しかし、彼に長年仕えるエドガーはあまり信じたようではなかった。彼は長嘆息して、閉めていたカーテンを開けた。もうとっくに夜は明けていたし、いかにも病人らしくしているのは主人の好むところでないということを、彼は熟知していたので。
「お目覚めになってすぐのところ申し訳ありませんが、シェレン・アルゲーディ卿が、若様の意識が戻ったとお聞きになり、お会いしたいと仰せでした。――ですが、もう少し療養なさってからのほうがよろしゅうございますか」
 バーネットはほとんど即座に答えた。
「いや。使いを出して、もう大丈夫だからいつでも来てくれればいい、と言ってやってくれないか」
「かしこまりました」
 一礼してエドガーは出てゆき、まもなく盆に載せたスープを運んで戻ってきた。
「エド、他には何かなかったか」
「そうですね。二日前に――ですから若様がお目覚めになる少し前、シェレン卿がフレデグント様に結婚を申し込まれました。むろん旦那様はこの縁組を御承知なさいました。その時におっしゃっていたことですから、おそらく若様にお会いになりたいというのも、そのことかと」
「そうか」
 ほとんど何の感慨もなく、バーネットは言った。
「めでたく若様の陰謀どおりにことは運んだというしだいで」
 エドガーは彼の体を起こしてクッションをあてがいながら嘆息した。
「誰が、陰謀なんか」
 バーネットはぼそぼそと口答えした。しかしそれは、エドガーに手厳しく反論されただけだった。
「陰謀でしょう。いつまで経ってもシェレン様が、姫様と結婚したいと仰らないから、若様はのっぴきならない状況にシェレン様を追い込まれたんです。シェレン様が母君のご再婚で動揺なさっているのをいいことに。誰だって若様と他の殿方が姫の前で決闘すると言えば、姫をかけての戦いと思い込みますし、そうなればなおさらシェレン様はひけませんからね。違うとはこのエドガー、十五年お仕えしております自負にかけて言わせませんよ。若様の考えることは、それこそ手に取るようにわかるのですからね」
 エドガーはため息をついた。
「だからといって、こんな命がけの賭け、陰謀などなさらないでください。命がいくつあったって足りませんよ。ヤナスを試すようなことはなさらないことです。何度もうまく脇腹に刺さるとは限りませんよ」
「死んだら死んだで、それこそヤナスの思し召し、というものだろう。ある意味――俺はその賭けには負けたと言えるな」
「なんて事をおっしゃるんです」
 びっくりして、エドガーは言った。
「まったく、どうして若様は姫様のことになると、こうも陰謀家に、それも一流の陰謀家になられるのですか? 普段は陰謀なんて無縁の方ですのに」
「別にそのつもりはないんだがな」
「自覚のないのがいちばんいけません」
 ぴしゃりとエドガーは言った。バーネットは言い返せなかったので、黙ってスープを口に運び、機械的に飲み下していた。
 あの日決闘で脇腹にレイピアが刺さり、運良く内臓は傷つかなかったものの、それから二日間意識不明の重体であったのだと、昨日の朝にやっと意識を取り戻して知らされたばかりであった。
 もともと頑健であるし鍛えているので、四日も経っていれば傷はそれほど、動いたりしなければ痛まなかった。バーネットは去年、悪魔に咬まれて絶対安静を言い渡されていたにもかかわらず、その翌日には歩き回って投獄されたという華々しい前科を持っていたので、周りの者たちは彼の怪我をわがことよりも心配し、今度こそ動かすまいとして日夜見張っていたのだが、その必要はなさそうだった。
 どんなにバーネットが無理をするタイプでも、しかも無理を無理と思わぬ性格だったとしても、今回の負傷は思いのほか彼の体にこたえたようだった。彼はずいぶん病人らしくおとなしくしていた。
 二日も昏睡していたのも、傷のためというよりは、ひとえに睡眠によって傷を癒そうという自然の働きによるところが大きいようだった。バーネットはどこまでも健康的なつくりをしているらしかった。
 スープだけの食事を終え、洗顔をすませて口をすすぎ、さっぱりとすると、バーネットのおもてからは目覚めたときのあの死人のような青白さは薄れていた。エドガーは再び彼の体を慎重にベッドに横たえさせ、掛け布団をちょうどよい具合に直してやった。
「シェレン卿がいらっしゃいましたらお知らせいたしますから」
「それ以外でも、用があれば起こしてくれてかまわない」
「ではそれまでまた眠っていらしてください。お薬は?」
「大丈夫。寝てる分には痛くないから」
 バーネットはおとなしく答えた。
「さようですか。ですが、お薬はここに置いておきますから、痛むようでしたら飲んでください」
「分かった。ああ――カーテンは閉めていってくれるか」
「かしこまりました」
 というわけで――
 小一時間ほど経って、シェレンの訪問をうけてエドガーが起こしに来たとき、バーネットはぐっすりとよく眠っているようだった。無防備にそうして眠っている彼の寝顔は妙に若く、そしてあどけなくさえ見えた。
「バーネット様」
 そのせっかくの安らかな眠りを妨げてしまうことに少々罪悪感を覚えつつ、エドガーは呼びかけた。
「若様」
「あ――ああ、シェレンが来たのか?」
 すぐにバーネットは目を覚ました。どうやら眠りは浅かったようだ。
「お通りいただいてもよろしゅうございますか? それとも、まだおやすみでございますと申し上げましょうか」
「それには及ばない。眠ってばかりいたら頭が痛くなってしまう。ただしまだ病中のことゆえ、寝たままで失礼しますと申し上げてくれ。それからカーテンを開けて、窓も少し開けておいて」
「かしこまりました」
 エドガーはすぐに窓のほうにゆき、カーテンと窓を開けた。明るい日差しがさっと室内に満ち、優しい風が静かに入り込んできた。それからバーネットの上体を起こして、背にクッションをかった。
「――おやすみのところを邪魔したのかな」
 シェレンはそう言いながらそっと入ってきた。口調は変わりなかったが、何となく気のおけるようで、少年の頃からの親しい仲のよい友人ではなく、初めてその家を訪問した馴染みの薄い貴族ででもあるかのように、どこか緊張していた。
「傷のほうは?」
「怪我のことなら心配ない。もともと大した傷じゃないのに、皆が騒ぐから」
「だが、二日も昏睡していたそうじゃないか」
「俺もそれは、我がことながら驚いてる。起きていると動き回ってなかなか治らないから、医者が一服盛ったんじゃないのかと思っているくらいだ」
 バーネットは微笑み、シェレンもその冗談に応えて小さく笑った。エドガーが入ってきて、二人にアーフェル水のグラスを渡し、また出ていった。それを待って、シェレンは何から話せばいいのか判らないように、当たり障りのないことを口にした。
「次の間は花でいっぱいだ。まるでクライン中の花を買い占めたほどにも」
「適当に邸内に活けておけと言ったんだが、まだあるのか。まったく――花ばかり送りつけるのも何とかならないものかな。傷よりも、花の匂いで死にそうだ」
「お前がそんなに繊細だとは思えないが」
「言ったな。――腕はもういいのか?」
 バーネットはシェレンの左腕に目をやって、尋ねた。シェレンはゆるく首を振った。
「俺のことはどうでもいい。さいわい、骨や筋は切らなかったし。お前のほうがずっと大怪我だ」
「シェレン、あれは決闘だったんだ。何か一つ違っていたら、お前がもっとひどい怪我を負っていたのかもしれない」
 慰めるようにバーネットが言ったが、シェレンの沈痛な面持ちは変わらなかった。しばらく黙った後、彼は顔を上げて親友の顔をまっすぐに見つめた。
「なあ、バーネット」
「何だ?」
「最後に剣が折れて、俺の剣を受けた――あれは、わざとだろう? 俺の腕に切りつけたのも、剣を弱らせるためで」
 バーネットは黙ったままで、否定も肯定もしなかった。
「俺はまんまとお前の計略に乗って、勝たされたわけだ。だが今更、それをどうこう言うつもりはない。それどころか、俺はお前に謝らなければならない。それに、礼も言わなければ」
 ささやくようなかすかな声で、シェレンは言った。
「何を?」
「舞踏会の夜のこと。よくよく考えてみれば――いや、あの時だって、本当は判っていたんだ。だがどうしようもなかった。母とワルターどののことは、俺が口出しできることではないのに、母を父以外の男にとられてしまう――俺は実に幼い、愚かな、嫉妬のような思いにとらわれて、それを周りに当り散らしていた。お前は、そうすべき立場でもないのにそれを受け止めてくれた。そのことに」
「仕方ないさ。俺がお前の立場だったら、やっぱり荒れたと思う」
 年上らしく、バーネットは言った。
「それに……フレデグントのことも」
「ああでもしなければ、お前はずっと黙っていて、結局クレメント子爵があれと結婚すると言い出していただろうからな。お前ときたら実際――俺から見ても、もどかしくてしょうがなかったぞ。あ、痛」
 バーネットは脇腹を押さえてちょっと痛がりながらも、笑うのを止められなかった。
「クレメント子爵には悪いことをした」
「お前がすまながることはないよ、シェレン。結局のところフレーデがクレメントではなくてお前を選んだんだ。それに、あのわがままなじゃじゃ馬をならすには、お前くらいの大人が丁度いい。彼はいい子だとは思うが、あれには不足だ。まあ、恋の一つや二つに破れてこそ、男が上がるってものだろう」
「お前の台詞とは思えないな」
「むろん、俺の思いついた言葉じゃない。父上の受け売りだ。父上の場合、そんな事を言っておきながら、今まで一度として恋に破れたことなんかないからたちが悪い」
「まったくだな」
 声を上げて笑ったわけではなかったが、言いたかったことを告げて、シェレンの気持ちは大分ほぐれてきたようだった。
「そういえば――」
 やっと思い出したように、バーネットは呟いた。
「お咎めは何もなかったのか」
「ああ」
 シェレンは頷いた。
「昨日そのことで陛下に呼ばれたんだ。お互いの身分も考えて、ドヴュリア塔に謹慎一ヶ月くらいは覚悟していたんだが、何のお咎めもなかった。むろん、お前にも。双方にけがはあったが命は無事だったのだし、決闘を許可したのは自分なのだから、と」
「そうか」
「じゃあ――俺はそろそろ帰るよ。けが人をいつまでも起こしているのは悪いからな。ちゃんと寝ていろよ、バーネット。焦らなくたって、けがで結婚式に出られないなんてことはないんだから」
「判ってるよ」
 バーネットは苦笑し、シェレンを見送った。

前へ  次へ
inserted by FC2 system