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     彼は鋭き槍もて挑み、戦った
     勝ち取りしは乙女の名誉
     そして彼は
     悲しみに沈むかの乙女を救った
           ――オルテアの書




     第四楽章 トゥルネオ




「二日のパーティーに遅れたのも、あれは誰かがリュアミル様の部屋の時計を半テルもずらしていたせいなんですのよ。それをまるでリュアミル様がずるけて欠席したように言いふらして。それに馬鹿な娘たちがユナ様の気に入られたいばかりに殿下に嫌がらせなどして……」
 そこで彼女は感極まって目頭を押さえた。アルドゥインは何となく気おされてしまったように何も言えなかった。鼻を軽くすすってから、彼女はにっこりとした。
「取り乱してしまって、申し訳ありません」
「ご安心ください、ええと……」
「わたくしはトオサと申します。リュアミル様の女官長でございます」
「トオサどの、俺はこう申すのははばかりながら、騎槍試合はけっこう得意なのです。槍試合を選んだのがあやつの運の尽き、あの無礼者を必ず打ち負かしてやります」
 たぶんこの次の間にいるだろうリュアミルにも聞こえていれば良いのにと思いながら、アルドゥインは語気強く言った。そこに、別のお仕着せを着た女官がぱたぱたと駆け込んできた。
「アルドゥイン将軍、こちらにおいででしたか」
「何です。――皇后陛下の女官が」
 トオサは反感を隠しもしない厳しい口調と、睨むような目でじろりと駆け込んできた女官を見た。トオサの着ている、喉もとまでぴっちり包む白いブラウスと灰色のドレス、結い上げた髪に乗せた白いヘッドドレスといういたって禁欲的かつ普通のお仕着せとは対照的に、その女官の身なりは非常になまめかしかった。
 宝石か色ガラスか、とにかくきらめくものをいっぱいに散りばめた胸当ての上にショールをかけ、足首まであるふわりとした深いスリット入りのスカートを色とりどりの腰布で留め、腰や手首足首、首にちゃらちゃらとした飾りつきの輪をつけ、髪を高々と結い上げてそこに花や宝石のピンを挿している。
 彼女はその長々としたスカートをちょっとつまんで礼をした。トオサのことは無視である。どうやらトオサはリュアミル派の女官の頭目であるらしかった。
「皇后陛下が将軍閣下をお召しでございます。今すぐいらっしゃらねばお怒りを受けますでしょう」
「そんなに皇后陛下は恐れられておいでか」
 ちょっとした皮肉を込めて、アルドゥインは言った。
「皇后陛下はとても厳しいお方なのです。お召しに遅れただけで、これまでにも何人もの小姓や女官が死刑に処されております。さ、お早く」
「わかった。トオサ殿、殿下によろしくお伝えください。ではこれにて御免」
 アルドゥインは歩き出し、歩きながらマントの留め金をきちんとかけて、一応身づくろいを整えた。
(セレヌス殿が言ったとおりになりそうだな)
 思わず呟いた。皇女の名誉をめぐる臣下の決闘騒ぎがどうやら、人々のあいだでは皇女と皇后のあらそいに発展しているようだ。皇女宮を出て、美しい格子模様のアーケードの下をくぐり、アルドゥインは後宮に入った。女官は後宮に入るとさっきに輪をかけて早く早くと急かした。
「ここから先は通常なれば男子禁制、そのおつもりで、あまり周りをごらんになりませぬよう」
 女官が注意を与える。普通は男子禁制という後宮の中は、天井から壁までつややかであでやかな絹で張られ、香が焚かれ、香料と白粉のにおいが立ち込めている。花のような女官たちがそっと物陰からアルドゥインを眺めているのが感じられたが、アルドゥインは何も目に入らず、何も耳に入らないかのように歩いていった。
 しかし女たちのなまめかしい忍び笑いやざわめきは、ある一角にたどりつくとぴたりと止んだ。急に空気まで冷え込んだかのようである。ここから先は、ユナ皇后の居室であった。
「よろしいですか、将軍閣下、先程も申しましたが皇后陛下はひじょうに厳しいお方、ご下問にははきはきとただちにお答えし、決して直答など畏れ多い真似をなさいませんように。毛筋ほどの粗相があってもなりませぬ。陛下をじきじきに見たり、勝手に何かを触ったりなさらぬよう。全ての御用は私ども女官が承ります。くれぐれも陛下の御意に逆らってお怒りを買うようなことのないように」
(まるで君主だな)
 アルドゥインは呟いたが、聞こえるほどのものではなかった。あたりはますますありったけの贅をこらしたものとなり、脂粉のにおいや香の匂いで何となく胸が悪くなるほどだった。
「さ、御前です」
「何をしている、レティシア」
 さっと金の刺繍がなされたカーテンが左右にかかげられるのも待たずに、鞭のように鋭い声が飛んだ。とたんに女官は体をこわばらせ、平伏した。
「陛下、アルドゥイン将軍をお連れいたしました」
「遅い――が、まあ良い。イサドラ、リアナ、下がりなさい。レティシア、お前も」
「は――しかしご直答は」
「わらわが良いと言っているのです。お下がり。時が移る」
 鶴の一声で、女官たちはすみやかに退出した。
「アルドゥインとやら」
 乾いた、低い声だった。
「苦しゅうない。顔を上げよ。じきじきにわらわに答えるのです。ここはわらわとそなたしかおらぬ」
 先日のパーティーで見た、あの永遠の不満をたたえた男のような顔がそこにあった。色鮮やかな絹のドレスも、身につけた豪華な宝石も、彼女を女らしく美しく見せる役には立っていなかった。
「わらわは下らぬ駆け引きや探りあいでつぶす時を持たぬ」
 跪いたままのアルドゥインにユナは言い放った。
「アルドゥイン。ペルジアでのそなたの武勇のほどは聞き知っている。そなた、明日の決闘は辞退しなさい。それができぬのならば負けなさい。一度きりしか言わぬ」
「……」
 アルドゥインは絶句した。まさか言うまいと思っていたことをずばりと言われた驚きのためだった。
「それは――つまり」
 しかし何も言わずにいることはできず、アルドゥインはのろのろと口を開いた。
「俺に、偽りの試合をせよ――と、そう仰るのですか」
「そなたが噂どおりの使い手であれば、不自然にならぬように負けてやることも、難しいことではあるまい。のう、アルドゥイン。そなたはこのメビウスに伺候してまだ日も浅いが、その勇名はすでに知らぬ者とてない。チトフごときを試合で負かしたとして、それが何の名誉になろう? ここは彼の顔を立て、負けてやってはくれぬか。彼がリュアミルを侮辱したというであれば、べつだん決闘をせずとも罰することはできよう」
 ユナはそう言ってにこりと笑ったが、それはとうてい優しいとも和やかとも言いかねる、おのれの優位と勝利を確信した者の小気味よさそうなものだった。アルドゥインは顔を伏せ、しかしきっぱりと言った。
「恐れながら陛下、俺は騎士の名において剣をいつわることはできません。俺は俺の名誉のためではなく、皇太子殿下の名誉、ひいては皇帝家の名誉の為に戦うのです。それゆえ、いかなる負けも許されぬもの、万一負ければこの命もってお詫びすべきものと心得ております」
「なんと――」
 ユナの笑顔が瞬時に凍りついた。が、激昂するかと思われた彼女はぐっとその怒りの色を抑え、あろうことか再びこわばった笑みを浮かべた。噂に聞く彼女の激情、怒りを考えれば、とうていありえるはずの無い自制心であった。
「そう、か」
 毒々しい朱唇が笑みの形につりあがる。
「そうよな、まことの騎士ならばいつわりの試合はできかねような。ほほ、これは無理を申してすまなんだ。詫びのしるしに、わらわからの酒の一杯なりとも飲んでいきや」
 衣擦れの音をさせながら、ユナはそばの酒棚を開いた。
「ええと――おお、この酒がそなたにはふさわしかろう」
 芝居がかった口調で言いながら、ユナは銀の足つき杯と酒瓶を取り出した。杯に酒を注ぎ、それから細かな透かし彫りのなされた銅を被せた木箱の蓋を開け、そこからピチェの実かユジュバ果のようなものを一粒落としこんだ。
「これでよい。さ、一気に干すがよい。褒美を取らせようほどに」
 アルドゥインは黙ってうやうやしく銀杯を受け取った。が、眉がかすかに寄せられた。ユナが入れた粒は酒の中に溶け出して、どす黒い濁りがもやもやと杯の底に広がりだしている。
(毒――?)
「どうした、アルドゥイン。わらわが毒を入れたと疑うておるのか。案ずることはない。それは珍しいエトルリアの没薬。ちとにおいは気になるが、たちまち体を熱くし、次には氷のように冷やしてくれる。おお、そなたの体格には一粒では足らぬな。では、それもう一粒入れてやろう」
 ユナはくくく、と笑いながら彼の目の前で例の粒をもう一つ落とした。鮮紅色だった酒は濁り、異様な苦いにおいが立ちのぼっている。そこにアルドゥインのような体格の男でも充分に殺せるほどの猛毒が仕込まれているのはもはや明らかだった。
 ユナの声はますます嘲笑をはらんだものとなっていった。
「わらわの敵が不思議にも奇怪な死を遂げるとか、よく毒薬使いを飼っているとやら、口さがない噂が立っているのは知っている。しかしそれも飽くまで不幸な偶然よ。ミラルカ……あの美しいロザリアのような娘もな――いや、そなたには知らぬことだろうが」
「……」
「さあ、わらわの酒は飲めぬのか」
「――陛下は」
 だんだんに曇ってくる銀杯の内側と濁った酒を見つめ、アルドゥインは低く言った。
「陛下は、俺の死をお望みか?」
「わらわに逆らい、敵となるのならばな。しかしそなたほどの勇者、死なすには惜しい気もするが」
 ユナはねつい光を帯びた目を細めた。
「そのような時間稼ぎをしても無駄なこと。そろそろ覚悟をお決め」
 言い終わらぬうちだった。
「皇后陛下」
 部屋の入口にかけられた透けるカーテンの向こうに、両手を組んで下げた頭の上にかかげた女官レティシアの姿が現れた。
「何事です」
 とたんにユナは不機嫌な鋭い声を投げつけた。レティシアはますます頭を下げ、おびえたように答えた。
「ルクリーシア殿下がお目通りをと」
 その隙に、アルドゥインは邪魔になるからと告げて出ていった。イサドラに導かれてルクリーシアが入ってきた。彼女は入口を振り返るようにして尋ねた。
「お義母様、紅玉将軍とすれ違いましたけれど――お話の途中でしたでしょうか。お邪魔をいたしましたでしょうか」
「話はもう終わりましたよ、ルクリーシア」
 くっくっと笑いながらユナはアルドゥインが手をつけずに置いていった銀杯を取り上げ、中身を窓からその下の池にあけた。とたんにそこに泳いでいた色とりどりの魚は腹を見せて浮き上がった。
「あのような剛の者でも命は惜しかろう。もとより命をとろうとは思っておらぬこと。充分脅しをかけておいたゆえ、あの男も少しは考えるであろう」
「お義母様――いったい、何をなさっておいででしたの?」
 いくぶん恐れるようにルクリーシアは首を傾げた。
「あなたは何も気にすることなどないのですよ、ルクリーシア。それよりも私があなたのためにドレスを作らせていたのは覚えておいでね? それが出来上がったのであなたを呼んだのを、先程まですっかり忘れていたわ」
 皇后はさっきよりもよほど優しい笑顔で息子の嫁を見た。そして、聞こえるか聞こえないかくらいの呟きを口の中に漏らした。
「あの女の娘よりも、パリスこそメビウス皇帝にふさわしい。この私が、いずれお前を皇后にしてあげますからね」

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