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                                *



 夢すらも見ぬ深い眠りの奥底に、澄んだ響きが入り込んできた。突然意識に飛び込んできたその音に、全ての感覚が集中する。暁の鐘の音が、彼の眠りを破ったのだ。今日は、レウカディアの戴冠式だった。
(そうだ……ここは、クライン……)
 瞼を上げることも億劫で、サライは目を閉じたままふと考えた。
(ゾフィアでも、イェラントの海を行く船の上でもない。あの波の音、船腹に打ち寄せる波の音が聞こえないから。ジャニュアでもない。乾いた風の音が聞こえないから。そしてメビウスでもない。窓に打ち付ける雪の音が聞こえないから……)
 目を開けると、明るいとも暗いともつかぬ暁闇が部屋に満ちていた。サライがクラインに帰還して、すでに七日が経っている。カーティスを出るまで住んでいた兵舎や将軍の宿舎を使うわけにもいかなかったので、戻ってきてからこちらはずっとバーネットの好意でアトともどもローレイン伯爵邸に起居していた。
 暖かな寝床の中で腕をそっと横に伸ばす。何にも触れることはなく、ただ冷えたシーツの感触だけが腕を取り巻いた。鐘の音が鳴り止んだ今、鳥の鳴き声だけがかすかに聞こえてくる。急な寂寥が、サライの胸を冷たくさせた。
 最後にサライを見つめた、傷つけられ、その中に深い瞋恚を秘めた緑の瞳。
「アイン……」
 サライは顔を両手で覆った。
 もう二度と、あの日々に戻ることはないのだ――。
 カーティスで貴婦人や貴人たちときらびやかな夜を過ごすことはこれから幾度となくあろうとも、眠る場所にすら事欠いて森の中で野宿をしたり、旅籠で旅人たちと賑やかな一時の交流をしたり――そしてこれが一番サライの胸を痛めたことであったけれども――アインデッドやアルドゥインたちと、ゆくあてのない冒険にも似たあの旅を再び繰り返すことは――無いのだ。
(私はまた、独りだ……)
 メビウスからクラインに戻る旅の中、そしてカーティスに戻ってからも、何度その思いに胸をつかれたことだろう。実際にはアトがずっと彼に付き添っていたし、懐かしい人々にも会った。それなのに、九年間暮らし慣れてきたカーティスであったのに、まるで初めて訪れた人のように落ち着かない。
(求められて戻ってきたというのに、まるで私の居場所じゃないみたいだ)
 旅のあいだのどんな場所よりもずっと快適で素晴らしい場所のはずなのに、ここではないどこかを求めている。レウカディアは朝見後にわざわざ個人謁見の時間をもうけてサライが戻ってきたことを喜んでくれた。それなのに、どうしても心からそれに応える気になれない。
 自分がそんな気持ちを抱いていることは誰にも明かさぬようにサライはひたすらに押し隠し、彼の帰還を喜ぶバーネットには笑顔で接し、アトにすら自分が落ち込んでいるなどということは明かさず、表面上は明るく振舞っていた。
 今のサライには何の肩書も無い。しかしレウカディアの恩赦によって、再び貴族に列せられ、伯爵の位を与えられていた。レウカディアのたっての希望もあったので、昨日の成人式にも列席したし、今日の戴冠式にも列席しなければならないので、どんなに気が重くてもそろそろ起きなければならなかった。
 しかし不安定な身分であることは間違いない。まだはっきりと示されてはいないが、この戴冠式が済んでから恐らく新たな官職か地位が与えられるのだろう。だが、それがいかなるものであるのか、サライにとっても気になるところであった。
 朝食をとるため階下に降りてゆく。ほぼ同時にルデュラン家の面々が食堂に会した。家長であるローレイン伯ワルターが上座に着き、その左右にバーネットとフレデグントが座り、バーネットの隣にサライが座った。
「おはようございます、ワルター卿」
 頭を下げると、ワルターは会釈を返した。
「おはよう、サライ殿。昨夜はよくおやすみになれなかったのかな。顔色がすぐれぬようだが」
 サライは小さく首を振った。
「何やらこう……緊張いたしまして」
「儀式は今日で終わることだし、我々が心配してもはじまらぬ。あまり肩に力を入れられぬことだ」
 ワルターは暖かい笑みを向けた。朝食の後、ワルターとバーネットは礼装に着替え、フレデグントの方は戴冠式後のパーティーまでは出番が無いのでそれまで留守番ということになった。
 身一つでカーティスを出て、礼装を持っていなかったサライには、バーネットが気を利かせて自分の礼装を貸してくれていた。バーネットのほうが少し背が高かったし体格も良かったのだが、少し詰めれば何とかなった。
「新しいものを用意できなくて申し訳ありません」
 そう言ってバーネットはしきりに謝った。
「そんなに済まながらないでくれないか、バーネット。むしろこちらとしては感謝してもし足りないくらいだ。戻ってきてからこちら、君やワルター卿には何から何までお世話になりっぱなしなんだし」
「いえ、それは私の意思でのことですから、お気になさらずにいてください」
 それだけ言い残すと、精鋭軍隊長のバーネットは市内警備やパレードの護衛などの仕事があるので先に出ていった。もう、馬に乗って動き回っても構わぬほどには回復していたのである。ワルターも議院長という重鎮であるので、早々とカーティス城に出仕していた。それを見送り、サライはぼんやりと考えた。
(バーネットにもクライン人の血が入っているからかな。アインデッドに少し雰囲気が似ているような気がするな。アインデッドの方がもっと線の細い、きれいな顔をしていたけれど……)
 この頃、何かにつけてアインデッドの事ばかり考えている。そのことに気づいて、サライは緩く頭を振った。そろそろ、彼も出かけなければならなかった。


 金獅子宮の謁見の間では、レウカディアと各国使節の会見が行われていた。これはまだ戴冠前の非公式のものであったので、使節らは二言三言、この佳き日への祝いの言葉と儀式を控えた新帝への祝福を述べるのみにとどまった。
 短い祝辞を述べて使節らが退出していくなか、メビウス使節として訪れたリュアミル皇女は、その弟パリス皇子の妃がレウカディアの姉ルクリーシアであり、またメビウスはクラインと最も親交の篤い盟国であることから、一人最後まで広間に残った。今回、ルクリーシアともどもパリス皇子が使節として訪れるか、それとも皇太子リュアミルが行くかで少々の物議を本国ではかもしたものらしいが、ともあれ彼女はそんな様子をかけらも見せはしなかった。
「まずは、おめでとう。今日の祝典をルクリーシアが見られぬことはいかにも惜しいことであるけれども、喜ばしい天の配剤によって私が出席できることは光栄です。ルクリーシアも土産話を楽しみにしていることでしょう」
「恐れ入ります」
 レウカディアは儀礼的ではあったけれども、じゅうぶんに親愛を込めた礼と微笑みを返した。リュアミルは髪をきっちりと結い上げて一つにまとめ、そこに真珠と紅玉を飾った縁無しのボンネットを被せて留めていた。身にまとうものは皇太子の第一礼装。仰々しいわけでもないがさりとて質素でもない、剛毅の国メビウスらしいシンプルなデザインの白いドレスである。
 クラインの流行からいえば少々古いきらいがあったが、彼女にはそれが最も似合い、美しさと威厳とを引き立てるようであった。そのほっそりとした肩には、メビウスの色である緋色のマントがかかっている。
「一別以来ですね、レウカディア」
「はい。リュアミル姉様にお会いしたのは、我が姉上の十五の誕生日――ちょうど七年前とあいなりますもの」
 リュアミルは微笑んだ。
「もうそんなになってしまうのですね。あの頃はあなたも本当に小さかったのに、今やわたくしよりも先に、クラインの女帝となろうとは――ヤナスですら、予想もなさらなかったことでしょうね。それに、美しくなりましたね。ルクリーシアも美しいけれど、あなたも母上にますます似てこられたようだわ。いずれクライン皇帝の夫の座を、中原じゅうの王子たちが狙って争うことでしょうね」
「まあ、嫌ですわ。リュアミル姉様。それはパリス兄様と結婚なさる前、ルクリーシア姉上が言われていたことでございましょう?」
 鈴を転がすような声で、レウカディアは笑った。たしかに彼女は、宮廷一の美女の誉れ高かった母、故ネイミア皇后の血を濃く受け継いでおり、姉とともに世界でもっとも美しい女性の一人であった。
「しかし少し顔色がすぐれないようですね」
 彼女の顔を覗き込むように、リュアミルが言った。
「ええ――まあ。少し眠れなかったものですから」
「さしもあの父上の血を引くあなたでも、たかぶるなどということがあるのですね」
「まあ、意地悪を仰るのね」
 レウカディアはだいぶほぐれた気持ちで言い、軽くリュアミルを睨んだ。リュアミルは微笑み、しだいにその顔に理解めいたものが浮かんできた。
「このような差し出口、余計なこととは百も承知です。わたくしもあなたより二つの年長でしかない若輩だし、あなたのほうが先に一国を預かる身となるわけだけれども、一つ忠告めいたことをさせてもらってもよいかしら、レウカディア?」
「ええ、ぜひ。リュアミル姉様は――私よりもずっと前から、皇帝とならねばならぬ重責に耐えておいでなのだもの。そのような方の忠告がいちばん欲しいのです」
 レウカディアは少女のように素直に頷いた。
「そうでしょうね。あなたはたったの二十歳で、それでこのクラインの皇帝とならなければならないのですものね。こう言っては失礼かもしれないけれど、レウカディア。あなたは早く皇帝として認められようと、少々焦っているのではないかしら?」
 リュアミルはずばりと言った。心のうちを言い当てられて、レウカディアは目を見開いて一瞬黙りこくってしまった。しかし自分でもそのことを今朝考えていたのであり、彼女は何度も首を縦に振った。
「ええ……ええ。そう仰られたら、そうかもしれないわ」
「やっぱり」
 リュアミルは大人の余裕を見せて笑った。
「わたくしも昔はそうでしたもの」
「リュアミル姉様も?」
 レウカディアはびっくりした。彼女にとってメビウス皇太子リュアミルは、たった二歳しか違わなかったけれども広大な帝国をいずれ治めねばならない立場にある女性として非常に親近感を抱き、また彼女よりもずっと前からその自覚を持って生きてきた大先輩のようなものだった。
 そのリュアミルが、レウカディアと同じような焦りを感じていたのだと聞かされて、彼女は急にほっとしたような、気が抜けたような感覚を味わった。リュアミルは静かな微笑みを浮かべ続けていた。
「あなたのように突然皇帝とならねばならぬような大変な曲折に見舞われたわけではないけれども、わたくしはメビウス皇太子として生まれ、そのように育ってきました。それでも幼いうちから、早く皇太子として認められよう、女と侮られぬようにしようとずいぶん焦ったものですよ。早く大きくなりたい、とね」
「まあ……」
 それは彼女自身も感じていたことだったので、レウカディアはますますびっくりして目をまん丸に見開いた。
「けれども人はいっぺんに年を取ることなどできないのが道理、焦っても仕方のないことですよ。十年経てば十年分の、二十年経てば二十年分の重み――皇帝としての貫禄や国民の信望など、いやでも自然に備わることでしょう。あなたならばしっかりしているし、二年もしないうちに立派な女帝としての立ち居振る舞いも身につくことでしょう」
 聞くうちに――レウカディアの顔にさしていた翳りはあざやかに晴れてゆき、明るい表情が戻ってきていた。
「ありがとうございます。それを聞いて気が楽になりましたわ。ほんとうに、姉様の仰るとおりだわ」
「それは嬉しいこと。それでは――また式ののちに」
「はい」
 レウカディアは朗らかに言った。リュアミルは退出しようとしたが、ふと思い出したように付け加えた。
「それに、レウカディア。クラインには優秀な文官も多いこと。彼らの誰かを補佐として委ねていれば、何も心配することなどないでしょうからね」
 リュアミルは全く善意からそう言ったのだが、その言葉を聞いたとたん、レウカディアの表情から光が消えた。
 小姓が儀式の始まる時間が迫ったことを告げに来、レウカディアは慌ただしく謁見の間を出て行ってしまった。

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