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     ヤナスの導きによりそなた
     神聖な尊き青い血をひく者
     クラインの礎
     クラインの要
     ここに聖帝のあかしを見せ
     今よりクラインを統べんと
     いざ誓いませ
     いざ祈りませ
          ――クライン詠歌集
              皇帝の章より




     第二楽章 レウカディアの戴冠




 太陽が昇る。
 サライアの駆る金色の馬車がサライアの海と呼ばれる青い空を輝かす。
 誰もが朝を待ち望む。たとえ夜にはそこが、悪魔の跋扈する地獄さながらの場所であろうと、阿鼻叫喚の戦場であろうと、朝日のもと傷つき泣きはれた顔を見合わすとも、朝は必ず彼らを訪れる。
 希望を持たせ、生きる意志に火を点けてゆく。
 そして――
 そこにも、朝が訪れようとしていた。
 クライン帝国首都、カーティス。その華麗な宮殿――カーティス城。素材も装飾も華やかに、様々な時代の様々な建築様式によって建てられているにもかかわらず、調和と美とを人はそこに見いだすだろう。
 レウカディアはいつもよりたっぷり一テルは早く目を覚ました。侍女たちが起こしに来たためというよりは、色々な物思いと緊張のために彼女の睡眠がきわめて浅く、ほとんど眠っていなかったためである。
 いつもだったら小姓や侍女たちもまだ起き出してはいない、本当に夜明け前の時間に彼女は目を覚ましたのだった。まだ春は浅く、冬の名残をとどめる空は心なしか灰色がかっているが、それを凶兆という愚か者はいなかった。
 時は恐らく朝のサライアの刻あたりだろう。目覚めの予定には早いので、女官たちもまだ彼女を起こしには来ない。
 立ち上がり、夜着のままバルコニーに出る。夜明け前の空は青いけれどもほのかな赤みを帯びはじめた不思議な色合いを持っており、レウカディアは幻影と夢を司る、彼女の名の由来ともなった夢幻神レウカディーンの織りなしたその目にもあやな、そして一刻としてそのままの姿をとどめてはくれぬ空の芸術を眺めていた。
 その下には美しい中原の宝石、彼女のものであるカーティスの街並みがある。そこには彼女を女帝として戴く、彼女の臣民たちが暮らしている。レウカディアはもうすぐおのれのものとなる街を眺め渡した。
 異例の革命によって、レウカディアはナカーリアの月にアレクサンデルから帝位を禅譲されたのであったが、彼女が成人式をまだ済ませていなかったことと、場合が場合であったために正式な戴冠式は先延ばしとなっていた。
 昨日、ヤナスの月、銀の三十日に成人式が行われた。そして即位戴冠の儀式は今日、年を改めた一五四四年青獅子の年、ユーリースの月、黒の一日に一日がかり――或いは数日かけて行われる。これによってすべての大権はアレクサンデルの手から彼女へと移り、名実共にレウカディアはクラインの聖帝になるのだった。
(この朝が明ければ、私はとうとうクライン聖帝レウカディア一世となるのだわ)
(二十歳の、新帝に……)
 だが彼女の心を占めているものが喜びと晴れがましさだけなのか、と問われればそれは違った。
 レウカディアは即位戴冠にあたって魔道師たちに名の吉凶を占わせた。クライン皇帝は幼名の他に即位にあたってもう一つの名を与えられることになるのだが、レウカディアは初の女帝であったので、それに関しても色々と問題があったのだ。
「陛下のレウカディア・エルという名はそれだけですでに完成しておられる名でございますゆえ、この上名を付け加えるのは凶相となります。しかし御名をそのままにレウカディア帝と名乗られますのも、あまり吉相とはいえませぬ」
 宮廷魔道士長のナエヴィウスはそう告げた。名を変えることはあまり良くない、と聞いてレウカディアは少し怪訝な顔をした。
「この名は《外に強く、内に悩む》という相を示しております。他国と事を構えることとなれば勝利を収めることは間違いございませんが、内乱やもろもろの問題に悩まされることとなるでしょう。これは名のためと申しますよりも、陛下の星の巡り合わせのためでございましょう」
 おのれの出生のときに、天にはどのようなしるしが現れたか、そしてそれについて占星術師がどのような占いをしたかは、レウカディアも知っていた。
「惑い星が現れて天球に入り、私の星――《鷹の目》を通り過ぎていったという、あれね。あれが問題なの?」
「――と申しますよりも、陛下自身の星が平和よりも騒乱と苦悩の中にあって完成する星であるためです。惑い星が禍つ星であったのか、それとも福の星であったのかも、定かではなき所――影響は、これから後に明らかとなるものでございましょう」
「禍つ星であれば、これを防ぐ方法はございません。それゆえ――お名乗りは御名に数を加えられ、レウカディア一世とされるのが宜しいでしょう。数は吉相――。一はものごとの始めの数。そうすれば福の星の影響をもっとも受けることができ、またたとえ内乱が起ころうとも、神は陛下とともにあられるでしょう」
 そのような事情があって、レウカディアは「レウカディア一世」と名乗ることとなったのである。
(外に強い。これはいいわ。エトルリアの不審な動きもあるし、これから騒乱の時代が起こるだろうということは告げられているから。けれども……)
(内に悩まされる……それが気になる。私が若いからだろうか。まだたった二十にしかならぬ、経験もない私が皇帝になるからだろうか……?)
 レウカディアはふと眉を曇らせた。
(父上があまりにも皇帝らしからぬ振る舞いをしたから、私が選ばれた)
 それはつまり、別段アレクサンデルが皇帝を退位するのならば後を継ぐのは誰でも良かったのだ――という、そのことに他ならなかった。この事実はいつでもレウカディアの心を苦い思いで満たした。
(私がクライン皇帝になるべくしてなったのだと認めさせるためにも、私は父上よりも優れた皇帝であることを早く知らしめなければならない。それには私は若すぎ、時間がなさ過ぎる)
(けれどもどのみちこの若さでは摂政を置かざるを得ないだろう。そうすれば私がどんなにいい施政をしても、それは摂政のおかげ、私一人の実力であるとは誰も認めてくれはしないわ)
 レウカディアの心を数日前から悩ませていたのは、そのことと焦りであった。昨日までの政治は実際上はアレクサンデルと廷臣らの手で行われており、彼女自身の手に委ねられる事物はほとんどなかったのだ。そのことも、早く皆に自分を認めさせたい、というレウカディアの焦りを募らせる原因であった。
(問題は誰を摂政に置くか――ということね)
(父上を摂政にすることは私が皇帝となる成り行き上無理だわ。ムラート内大臣は内大臣のままに置いておいたほうがいいだろうし、ローレイン伯は能力、人物共にふさわしいけれども議院長であるから摂政にはできない。選帝侯ならダネイン候、フーリエ候……いいえ、あまり老練な相手では、私の実力を試す場所が無くなってしまう)
(かといって若すぎたり、能力がなさ過ぎても困る)
 レウカディアの思いは朝から千々に乱れていた。
(こんな焦りを感じるのも、私が未熟であるせいだろうか。私があまりに狭量であるせいかしら……)
 彼女はかぶりを振った。
(いいえ。私はできるわ。けっこういい皇帝になれると思う。ただ、今まではその機会がなかっただけ。報告を待つだけで、政治を全て廷臣に任せっきりにしてしまっているせいだわ)
「レウカディア様」
 閉めた窓の向こうからビルビアが呼ぶ声が聞こえた。女官たちの誰も、彼女らの女主人が朝からそのような苦しい物思いを抱いてバルコニーに出ているなどとは想像もしていなかっただろう。
「今、行くわ」
 彼女は部屋に戻り、もう二度と戻ることはないであろう、双子宮の自室に名残を惜しんだ。正式に皇帝に即位すれば生活の拠点は金獅子宮へと移る。そしてこの時が過ぎれば、世界最古の歴史を持つ、発祥時より数えて実に百二十三代目のクライン皇帝の即位戴冠の儀式が始まる。
「湯浴みの用意は」
「できております」
 レウカディアは浴室に入っていった。こんこんと湯の湧き出る浴槽に、かぐわしい花びらをたくさん浮かべた贅沢な湯に腰まで浸かる。何もしなくても女官たちが丁寧に身体を洗ってくれる。彼女たちに身を任せつつ、レウカディアはこれから始まる儀式のことを考えていた。
(三つの試練……父上も経験なさったという……。私に、乗り越えることができるだろうか。女の、私に)
(いいえ、乗り越えてみせるわ。私は、唯一絶対のクライン皇帝になる)
 そんな物思いの間にすっかり身体を清められ、エトルリアの絹で織った浴衣を何度も取り替えて水を吸い取らせる。しかし、いかにクライン皇女、新皇帝といえど、毎日そんな贅沢をするわけではない。儀式の前だから、特別にそうしているだけの話である。
 水分をすっかりぬぐい取ると、女官たちに代わってヤナス神殿からやってきた女祭司と巫女たちが彼女の着る衣装を収めたつづらと、清めに使う香木の葉や器具を収めた箱を抱えて入ってきた。
 女祭司が体のどこにも傷や病の兆しのないことを確かめた後、巫女たちが湯上りの肌 に聖別された香油をくまなく塗りこむ。香油には黒蓮の成分がごく微量ではあるが含まれており、もしも心臓が弱かったりすると、この香気にあてられて死んでしまうともいうが、レウカディアはその言い伝えを知らなかった。いわばすでにこの時点から試練が始まっているとも言える。
 身体中を調べられても、羞恥心すら覚えられないほどに、この儀式は神秘的な雰囲気を醸しだしていた。
「ヤナスの試練を恐れることは何一つとしてありませぬ。殿下は正統なるアルカンドの血筋を受けた世継ぎの皇女であらせられます。真に試練を恐るるべきはその血を欺こうという者のみ。その事をしかと心得られ、心強くあられますように」
「判っています」
 レウカディアは女祭司の言葉に頷いた。香油を塗りおわり、巫女たちが手取り足取り、まっさらの肌着を着せる。浴衣に使ったものと同じ、純白の絹のそれは最高級の絖で織られている。
 儀式が始まる前に幾つかの謁見や会見を控えているため、儀式に向かうための衣装はいまだ身につけず、純白で何の飾りもない、首筋から腕までぴったりと覆うデザインのドレスに、同じ白の手袋を嵌める。
 レウカディアはほっと吐息を漏らした。物思いはいくらもあったが、決して、気がめいっていただとか、そんな理由のため息ではない。ただ、この儀式を経てからの自分を想像して、その責任感に改めて感じ入ったからである。それは、父から帝位を譲られた時感じた重圧よりもさらに重いものだった。
 しかし窓の外をふと眺めて、上げた彼女の顔は毅然としていた。
(私はやれるわ)
「朝よ――。陽が、昇るわ」

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