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     女たちよ武器を取れ
     今こそ戦いのとき
     男たちはあてにならぬ
     自らの身は自らで
     守り通さねば
         ――ネラティウス
          「女の戦争」より




     第二楽章 ラトキア哀讃歌(二)




 アクティバルが入城したとき、ジェナでは丁度エトルリア軍がシャームへの進撃を始めていた。
(エトルリアが攻めてくる――)
(大公閣下は……騎士団は……どうなったのだ……)
(ラトキアはどうなるのだ?)
 沈みかけた船から鼠が逃げていくように、市内から避難していくものも日に日に増えていった。郊外に親戚や知人をもたぬ市民は家に籠もり、市内は死んだようにひっそりとしてしまっていた。
 その知らせを持ってきた伝令兵よりもわずかに早く、アクティバルが大公逝去、の知らせを持ってきていた。アクティバルはまず三公女と公子、それからグリュンに大公の死を伝えた。
「父上が――」
 エスハザードは気を失って倒れたが、ナーディルは真っ青になりながらも気丈に立っていた。ドニヤザードとシェハラザードは、言葉もなく顔を見合わせた。
「では、今この瞬間からナーディルは二代大公です」
 シェハラザードが弟の肩を支えつつ、言った。
「僕が……大公に?」
「当たり前だわ。父が亡くなったのなら貴方が次の大公よ」
 姉弟がそんな会話を交わしていると、戦場からの早馬が広間に駆け込んできた。
「申し上げます! わが軍はエトルリアに大敗を喫しました! 現在エトルリアは首都に向かって進軍中であります!」
「そんな……」
「なんですって!」
 シェハラザードよりも先に、ドニヤザードが叫んだ。大敗、ということは彼女の恋人であるマギードは無事で済むはずがない。
「それでは……それでは、騎士団は……」
「一部は敗走し、一部は武装解除され、ジェナに留め置かれています。そのための要員としてジェナに千狼隊三千を残しているとのことです」
「ああ……なんてこと……」
 ドニヤザードはふらりとよろめいて、そばにいた小姓に支えられた。そのまま気を失いかけている彼女を抱えるようにして小姓たちが退出していった。
「あと、どれくらいでシャームの市門に到達するかわかるか?」
 ナーディルは青ざめながらも冷静に尋ねた。アクティバルは唇を噛み、うなだれている。誰かが指揮をとらねばならないというのに、次の大公ともあろう者が取り乱していてはどうしようもない。その点ではナーディルは現実的だった。
「あと半日ほどで――遅くとも一日で」
「それまでに援軍は頼めないか。それとも、諸侯から……でもそれでは間に合わないな……」
「今やシャームには黒騎士団五千のみが」
 シェハラザードは血がにじむほど、その端正な唇を噛んだ。
「ナーディル」
「何ですか? シェハル姉様」
「アクティバルと逃げなさい。ここは諦めて、どこか遠くへ落ちのびるのよ。シャームまで敵が来てしまい、黒騎士団以外の騎士団がすべて敗れてしまった以上……勝つ見込みなどないわ」
「そんな……シェハル姉様は?」
 シェハラザードは一瞬答えをためらったが、毅然と前を見据えて言った。
「わたくしと貴方の体格はほとんど同じでしょう。わたくしが身代わりになります。できるだけ貧しい格好をしていくのよ。いいこと? 今ならまだ誰にも見とがめられずにシャームを抜けられるわ」
「なら、僕が戦います!」
「わかって、ナーディル。あなたはただ一人の世継ぎの公子。冷静に考えればこの状況で勝つことなど無理だわ」
「たしかに、そうだけれど……。でも姉上、それがラトキアの運命だというのなら僕は殉じたいんです」
 ナーディルは毅然と言い切った。それはまさに獅子公の血を継いだ者と確信させる、強い意思を秘めた眼差しだった。わずかに語気を和らげて、言い聞かせるようにシェハラザードは続けた。
「たぶん、ここは落ちるでしょう。あなたもわかっているように。そうなれば真っ先に処刑されるのは大公の血筋。わたくしや姉様たちは女だから、助かるかもしれない。でも世継ぎの公子であるあなたは見逃されるはずもない。そうだったら、あなたはエトルリアの手の届かぬところに落ち延び、時期を見計らって再び立てばよいのよ。みすみすラトキア大公家の血を滅ぼすわけにはいかないわ。それに父上の最後の命令でもあるのよ」
「……」
 ナーディルはしばらくうつむいていたが、すぐに顔を上げた。
「姉上、どうぞご無事で。姉上の心は忘れません。いつの日か必ず、ラトキアを再興してみせます」
 シェハラザードは微笑み、すでに自分よりも背が高くなった弟を見つめた。
「それでこそ、我がラトキア大公家の公子よ」
 支度というものはほとんどなく、わずかな路銀だけを持ってナーディルはアクティバルとともに裏門から逃れていった。何度も振り返りながらしかし、全速力で馬を駆って去っていくナーディルの姿はすぐに小さくなっていった。
 シェハラザードはすぐに自室に入っていった。侍女に手伝わせてドレスを脱ぎ捨て、ナーディルの部屋から持ってこさせた彼の服を身につけ、純白の鎧をまとった。上からマントをつけ、黒騎士団の主だった者たちが集っている広間に戻る。
「姫様……」
 その姿に驚いて、グリュンがおずおずと声をかけた。
 シェハラザードは踵を返して剣をとった。長く伸ばした髪を掴み、剣で根元からぷっつりと切ってしまった。そうしてしまうと、シェハラザードは驚くほどナーディルに似ていて、ややほっそりとしているものの遠目からなら充分にごまかせそうだった。
「姫様! 何ということを……」
「いいのよ。髪などすぐに伸びます。でも、このラトキアという国は一度滅ぼされてしまったら、もう二度と独立できないのかもしれないのよ。わたくしの髪とラトキアの、どちらが今最も大切なの。グリュン?」
 少年のような髪になったシェハラザードは、老宰相を振り返って微笑んだ。その時、グリュンは直感のように感じた。
(大公になるべきは、シェハラザード様こそふさわしいのではないか……)
「グリュンも早く逃げなさい。エトルリアの蛮人のこと、貴方のような老人とはいえ容赦はしないでしょうから」
「御意……シェハラザード様」
 グリュンはぐっと何かをこらえるように下唇を噛んだ。
 すでに整列させた黒騎士団が待つ練兵場に出ると、一斉に歓声が湧き起こった。大公ツェペシュ薨去の報せが彼らにも衝撃を与えていたところに、さっそうと現れたシェハラザード公女は、それそのものが救国の乙女のように映ったのである。
「シェハラザード様!」
「ルアー・ラトキア!」
「公女様!」
 シェハラザードは片手を挙げて彼らの鯨波を抑えた。
「私を姫とも、公女とも呼んではならぬ。よいか、皆。今より私はナーディルとしてそなたたちを率いる。姫と呼んだものは容赦なく切り捨てるからそのつもりで覚悟せよ!」
「ルアー!」
 騎士たちの歓声がそれに応える。
「聞け! 今より我らはエトルリアを迎え撃つ! 勝つことはかなわぬかもしれぬ。しかしそれならば、誇り高きラトキア騎士として、最後まで首都を護るべく戦うまで。我と思うものは私に続け!」
 シェハラザードは叫び、馬上の人となった。シャーム市内にエトルリア軍が到達し、市内で戦闘となったときの混乱を考え、彼女は市門を出て五バルの地点で敵を迎え撃つことにした。全面的な補佐は黒騎士団団長ナハソールとフェリス伯ハイラードが務めた。
 グリュンはエスハザードとドニヤザードにも逃げるように勧めたが、エスハザードはシェハラザードが危険を冒してまで出陣したのに、姉の自分だけがおめおめ逃げる訳にもいかない、とそれを断った。
「わたくしはマギードの後を追います。たとえ捕まっても、わたくしなら大丈夫。覚悟はできていますから……」
 ドニヤザードもそう言って断った。グリュンは仕方なく、供の者と二人で少ない荷物を持って市内に走り出ていった。二人の公女は最後まで彼女たちと残ると決めた忠実な侍女たち数人と、肩を寄せ合うようにして部屋に閉じこもった。
 そのころ、エトルリアの公子たちは意気揚々としてシャームへの道を進んでいた。邪魔立てするものはもうシャームにはいないだろうと考えていた。いるのはまだまだ子供の公子と、か弱い三公女たちだけである。昨日のいくさでかなりの兵が負傷し、死んでしまったが、それでも護るもののいないシャームを陥落させるに充分な人数である。
「兄上、これで我々の勝ちは当然だな」
 第二公子、ファンがおだてるように言った。
「当たり前だ。残っているのはあの大公のガキどもだが、あんな奴らに国が護れるわけがなかろう」
 ランはそう言って豪快に笑った。その笑い声で、先払いが振り向くほどだった。
「それにしても。第一公女エスハザードは名にし負う美女だそうだ。何度も妃にというのを断りおって。どのような顔かとくと眺めてやるわ」
 ランは舌なめずりするような顔で呟いた。それを耳聡く聞きつけたファンが相槌を入れる。とはいえこの二人、決して仲の良い兄弟とはいいがたかった。実は腹の底では心底憎みあっているこの兄弟がともに軍を率いることを肯じたということが、そもそもエトルリア軍内では一つの謎になっていた。
「第二公女も姉ほどではないが、極上の美女だと聞いているぞ。第三公女は、まあ、ただの小娘だが、育てばなかなかいけるクチだろうよ。なにせ《ゼーアの三輪の花》だろう。ペルジアのあの不景気な三公女よりはよほど……」
 二人とも、ラトキア攻略の意図の裏には、父大公の命令というのもさることながら、戦利品としての公女の美人姉妹という目当てがあったのだった。それがなければこの、父であるエトルリア大公が可哀相になるくらい仲の悪い二公子がともに出陣するなどということは起こらなかったであろう。
 エトルリア軍がシャーム市まであと数バルの地点に近づいたとき、シェハラザード率いる黒騎士団が鬨の声を上げて襲い掛かってきた。
「突撃! 最後の一騎となろうとも、あきらめるな!」
 わずか十八歳にして、女の身ながら鎧をつけ、采配を振るうシェハラザードの右で、黒騎士団長ナハソールは必死に彼女の補佐をしていた。突然の敵襲に、エトルリア側も混乱していた。たかが幼い公子とたかをくくっていたランとファンは面食らっていた。
「ナーディルとやら、なかなかの切れ者だな。市街戦になる前に我々を食い止めるか、全滅するかをとったわけだ。まあ、十六にしては考えたものだな」
 ファンは唸った。

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