前へ  次へ


                                *



 弟のファンよりはだいぶ現実的であったランは鋭く弟をたしなめた。こういうときはお互いの感情抜きで応対できるランは、まあ多少ましなほうであったかもしれない。
「感心している場合ではないぞファン。急襲に皆混乱している」
「だが兄上、ラトキアの小僧一人に何ができるというのだ」
 ファンが言い返す。そうは言いながらも、二人は二手に分かれて指揮をとるべく飛び出していった。
「ラトキア公子ナーディル! エトルリア第一公子ランはここにいるぞ! 出てこい!」
 彼は愛用の剣を振りかざして叫んだ。
 ナーディルと背格好の似ているシェハラザードは、そう装うまでもなくナーディルだと思い込まれていた。それが彼女の狙いでもあった。ナーディルとは違い、彼女は兵法など習ってはおらぬ。その不利を、ナハソールとフェリス伯が補い、助ける。
「左翼、第二大隊くずれました!」
「我が軍不利!」
 伝えられる伝令は、すべてこちらの不利を伝えるものばかりである。シェハラザードは首を振った。
「だめだわ……やはり……五千だけでは」
「シェハラザード殿下、殿下がそのような弱気では士気にかかわります!」
 フェリス伯ハイラードが叫ぶように言った。しかし、ヴァイオレットの瞳を少女らしい涙でうるませた彼女の顔を見て、ふと言葉を詰まらせた。
(この方は、公女なのだ……まだ、成人してもおらぬ――。昨日父を失い、本来ならば守られる側であるのに、こうして戦おうとしている……ただの少女にすぎないのだ……)
「フェリス伯」
 ハイラードの物思いは、思いつめたようなシェハラザードの言葉でさえぎられた。
「わたくしが出ます。補佐を……お願いいたします」
「しかし、姫様!」
「父上もなさっていたことです。ナーディルができないはずがありません。それに、いざとなればわたくしの首級をもって皆を救ってください」
「シェハラザード様……そのような……」
 しかし彼女は頑固にハイラードを見上げた。そして、折れたのは彼だった。
「おおせのままに。殿下」
 シェハラザードはにっこりと笑い、馬に飛び乗った。
「ゆくぞ! 目指すはランの首のみ!」
「はいッ!」
 シェハラザードとフェリス伯、そして旗本隊の数十名が一斉に前線に飛び込んでいった。細い腕ながら、シェハラザードは重い長剣を男勝りに振るって戦った。まるで父の霊が彼女に乗り移り、守ってくれているかのように、彼女は戦うことができた。
(日頃鍛えておいてよかったわ……まさかこんな時に実戦になるなんて思ってもいなかったけれど……今は何としてもナーディルを無事に逃げさせなければ……)
 自分が時間稼ぎになればいいとシェハラザードは考えていた。ナーディルさえ無事ならばどこかエトルリアの手の及ばないところでナーディルを大公にできると思っていた。父のツェペシュは、もともと公女三人の命よりもナーディル一人を重く見ていた。
(ここで死んでも父上は怒りはしないわ。ナーディルのためだもの)
 シェハラザードは覚悟を決めた。
「ラトキア公子、ナーディルはいずこ!」
 そのとき、聞き慣れない男の声がナーディルの名を呼ぶのが聞こえた。かぶとに赤いふさ飾りを付けて、さらには鎧を銀に塗った――しかしこれはエトルリアでは一般的だったが――ごつごつととげのついた鎧をつけた男が剣を振り回していた。
 その男がランなのだと直感的に悟った。
「私はここだ!」
 シェハラザードは叫んだ。万一顔で替え玉と判ってしまっては元も子もない。彼女は兜の面頬をしっかりと引き下ろし、馬首をそちらに向けた。ランは急襲を受けたときと同じくらい面食らった。
 彼と対峙しているのは本当に子供としか言えない体つきの少年だった。それでも鎧一式を身に付けているのは、いたいけとしか言いようがなかった。
「お前がラトキア公子か」
「否! 公子にあらず。我は第二代ラトキア大公ナーディル!」
 思うよりも先に言葉が出てきた。
 今、自分はシェハラザードではなく、ナーディルとしてここにいるのだとシェハラザードは強く感じた。かすれた彼女の声は、声変わりの途中の少年の声に聞こえたのが幸いとも思えた。百戦錬磨のエトルリア公子と渡り合って、勝つ自信は全くといっていいほどなかったが、不思議と死への恐怖は感じられなかった。
「ラトキア大公、か。そのようなもの今日のうちになくなるのだ。ラトキア公国の名とともにな!」
 ランが吠えた。巻き込まれまいとまわりからざっと人がいなくなり、その中心に二人が向き合った。
 激しい一撃が繰り出され、咄嗟にシェハラザードはその剣を受けた。
 奇跡とも思えたが、しびれた腕では第二の攻撃までは受け流すことはできなかった。
「あっ」
 シェハラザードの剣が弾き飛ばされた。
「その命、もらった!」
 銀色の切っ先が眼前に迫ってきた。シェハラザードはその時、間近に死を感じた。美しい死の天使が純白の翼を広げ、彼女を包んだ。
 兜が叩き落された瞬間、銀色の髪が宙を舞った。
 ランは己の目を疑った。
 兜の下から現れたのは、少年ではなく少女の顔であった。頭に受けた衝撃のために気を失って、鞍から滑り落ちたその体を、見守りつつも戦っていたフェリス伯が走り寄ってきて抱きとめた。
「シェハラザード様!」
「公女……か!」
 たしかに、ぱっと見ただけではわからないが、その顔は少女のものだった。ナーディルの替え玉であると彼が気づくまでに多少の空白の時間があった。周りにむらがっていたエトルリア兵たちも、凍りついたように動かなかった。
 はっと気がついて、シェハラザードは自分が今どうなっているのか一瞬理解できなかった。すでにそばにいるのはフェリス伯だけで、二人のまわりをエトルリア兵たちが取り囲んでいる。
「くっ……」
「殿下、ごめん!」
 フェリス伯は、やにわにシェハラザードの純白のマントを剥ぐように取り、大きく振った。それは万国共通の印、降伏の印だった
「フェリス伯! 主命に背く気か!」
 シェハラザードは噛み付くように言った。しかしそれを意に介さず、彼はマントを打ち振った。
「ご辛抱を……今はただ、ご辛抱を。姫様であればよもや殺されることはございますまい。あとは全て、このハイラードが引き受け申し上げれば、なにとぞ今は……」
 言いながら、ハイラードは自分の頬を伝う熱いものが涙だと気づいた。そしてこの時、ラトキア軍はエトルリアに降伏したのであった。
「兄上、全軍戦闘を停止した。ラトキア兵はすべて武装解除させてそこに集めてある」
「おおご苦労」
「ふん、これがツェペシュの息子か……いや? それにしては……」
 ファンが近づいてきて、シェハラザードの顔を覗き込んだ。
「正にその通りだ。こやつは替え玉よ。第三公女シェハラザード……」
 ランはぎらぎらとした目でシェハラザードの顔を見た。シェハラザードはフェリス伯の馬の上で、彼に抱きとめられた姿勢のまま取り押さえられていたが、それでも毅然とその目を受け止めた。ファンのほうにも、一瞬の沈黙があった。
「何ということだ……たった十八の小娘一人で我が軍を迎え撃とうとしたとは、大した娘を持ったものだな。ツェペシュめが」
 ファンは憎々しげに言い捨てると、馬を走らせた。市街戦から数テル経った後、エトルリアの国旗がシャーム城のラトキアの傍に取って代わった。しかし意気揚々と入城したランとファンの上機嫌はそう長くは続かなかった。
 既に捕らえられたシェハラザードと、閉じこもっていた部屋から引きずり出されたエスハザードとドニヤザードの三人の公女は、後ろ手に縛り上げられ、二人の足元に跪かされていた。
「これがラトキア一の美女の顔か」
 ランがエスハザードの顎を乱暴に掴み、引き寄せた。彼女は汚らわしそうに目をそらし、きっと唇を噛んでいた。しばらくして、どんなに探しても城内にナーディルを発見することができないことに気づき、二人は青ざめた。真相を知っているのはシェハラザードだけのようであった。ランは少女の体を乱暴に揺さぶり、ナーディルの居所を喋らせようとした。
「……ここにはいない」
 シェハラザードはそう言って、冷たく乾いた笑い声を上げた。それがランの心を逆撫でした。
「この女狐!」
 彼女は殴り倒され、床に倒れた。その拍子に口の中を切ったのか、うっすらと笑う口許に血が流れ出していた。それでも紫の瞳は炎のように真っ直ぐに敵を見据え、ランに戦慄を覚えさせた。
「ナーディルを何処に隠した」
「あのようなひ弱な者、この国を治めるに足らずと思うて切り伏せたわ。いくら探しても無駄なことよ」
 頬にかかった銀髪を、顔を上げて振り払い、シェハラザードは凄絶な笑みを浮かべた。少年のような髪になり、捕らえられてもなお毅然とした公女の姿は、エトルリア側にも畏怖の念をわき起こさせるものがあった。
 ナーディルをはじめ、宰相グリュンもいないことを詰問したが、シェハラザードはただ斬ったと言うばかりでそれ以上答えようとはしなかった。何度聞いても、それ以外の答えを出さないシェハラザードに、とうとうランが根負けした。
「そうか……それほどまでに言うのならば、真実なのだろう」
 エスハザードとドニヤザードはその間、妹を心配そうに見つめ、時折顔を見合わせていたが、ファンに命じられた兵たちが二人を引っ立てて行ってしまった。
「姉君をどうする気だ」
「捕虜としてエトルリアに連れ帰らせてもらう。無論きさまもだ」
 シェハラザードは二人の姉が連れ去られた方向をしばらく見ていたが、やがて疲れたように瞳を伏せた。
「好きにするがいい。負けたのは我らだ。……しかし忘れるな。わたくしたちはラトキア公国の公女だ」


前へ  次へ
inserted by FC2 system